肆
荒屋敷の――
火付盗賊改方、青山家凋落の後の、手入れなどされぬ荒屋敷の検分の話が、吉田義虎の父、義成の元に齎されたのは、もう十日程も前の事であった。
青山家無き後の荒屋敷に、亡魂が出ると云う。
夜な夜な井戸より立ち返っては、皿を数えると云う。
其れを聞いた者は其の儘狂い死ぬと迄云う。
嘘か真かは知らぬが、お上が召し上げるには然う云った噺が有っては不都合。依って――
縁の有る吉田家にて検分致せと、然う云う話であった。
其れを聞いた最初、義虎は詰まらぬ話だと然う思った。
抑も吉田の家が番町の屋敷を離れてより、疾うに暦が幾度も還って居る。今更其の様な仕事を仰せ付かる筋など無い様にすら思う。
併し、他に適任も無かったのであろう。
元よりお上の命、従わぬなどと云う道は端から無い。
其処で――
吉田家が当主、小姓組番番頭吉田義成は、同番士にして遠縁に該る花井玄蕃に、其れを投げた。
玄蕃は古くから吉田家に仕える者である。
歳の頃は惣領義成とは然して変わらぬ。
併し――
何処か欠けて居ると、義虎は思っていた。
父程の歳の玄蕃を見るに付け、其の思いは強くなった。
花井玄蕃は迚も小心な男であった。
栗鼠か野兎の様に、せめて閑かででもあれば見掛だけは堂々とも振る舞えて居るが、本の小さな事にも簡単に動じて地金を剥き出しにし、直に目の前の事しか見えなく成る。其の結果、小心が一周回ってやけに大胆な事を為出かしたりも為る。
然う云った性質の男であった。
常時何処か浮ついて居り、臀が定まる、腰が落ち着く、肚が据わると云った事が無い。
だから――
何か大切な物が欠けて居るのだろうと、義虎は思って居た。
其の様な男に父は何故お上からの命を預けたのか、義虎には皆目見当が付かなかった。
一人娘を亡くした玄蕃自身が我こそはと名乗り出たのやも知れぬとは思うが、其れでも独りに任せる事が出来る程の男だとは到底思えなかった。
案の定、荷を持て余した玄蕃は思案に暮れ、宛も無く浮々と町中を彷徨い歩いた挙げ句、目を廻して茶屋に担ぎ込まれた。
其れが昨日の事である。
思うに、斯様な男に解決出来るとは父も思っては居ないのだろう。
只、表向きなりとも誰かに任せぬ訳には行かず、最も居なくとも困らぬ男に其れを割り振ったに過ぎぬのだろう。
お上が表立って動かぬのと同じ理由で、吉田家も表立っては動きたく無いのだろう。
だから――
玄蕃に役を与えたは意味の無い事であったのだろうと、義虎は思った。
役を為さぬのだから。
然う為て只徒に時が過ぎるのを待つ事にしたのだろう。
噂が風化する迄。
然うとしか思えぬのである。
其の程度の男なのである。
花井玄蕃は。
だから親子程も歳が離れて居ながら、義虎は何か必要事が無い限り、此の小心な何処か足りぬ男を、出来るだけ視界に入れぬ様に為て来た。
其れは義虎なりの世渡りの術であった。
自分でも何故かは分からぬ。
何時からかも見当が付かぬ。
併し――
気になるのだ。
気に障るのだ。
気に入らぬのだ。
足りて居らぬのが。
其れを埋めずに流すのが。
見て見ぬ振りをして過ごすのが。
少なくとも物心付く頃には然うであった。
何事も丁重と整って居なければ気が済まなかった。
何物も足りて居ない事があれば気が休まらなかった。
変わった子ではあったのだろう。
何処の世に、与えられたお手玉を割いて中の小豆を大きさ毎に選り分けては詰め直す二歳が居ようか。
何処の世に、外郎売の長き売り言葉を一息に凡て憶え切れぬと哭き喚く三歳が居ようか。
何処の世に、自らが食した焼き魚の小骨や鰭を揃えて元通りに並べ、一本でも足りぬと見つけるまで膳を下げさせぬ四歳が居ようか。
例を挙げれば暇も無い。
併し、育つ内に然う云った性質は少しずつ鳴りを潜めた。
其れは失ったのでも、損なったのでも、無くしたのでも無い。
只、学んだのだ。
世の者共は決して自分の様に何も彼もを突き詰めたりはせぬのだと云う事を。
初めは快く何でも答えて呉れた相手も、度を過ぎれば邪険にするのだと云う事を。
だから、抑える様に為たのだ。
例えば義虎は幼き頃に斯う尋ねた事がある。
如何して風は吹くのかと。
偶々其の場に居た玄蕃は、其れは風神の仕業だと答えた。
続いて義虎は、風神は何処に居るのかと尋ねた。
玄蕃は空の上だと答えた。
如何して見えないのかと、義虎は重ねて尋ねた。
遠過ぎるのだろうと玄蕃は答えた。
何を食べて居るのかと問うと、風や霞をと答えた。
風神は独りで暮らして居るのか、寂しくは無いのか、仲間は居ないのか、如何して空を飛べるのか、地上に降りて来る事は無いのか、凧を高く上げれば引っ掛かったりしないのか、友達には成れないかと、其の辺りまで尋ねた処で、玄蕃は其の様な事を何時迄も仰って居ないで彼方へお出でなさいと、困った様に云って義虎を追い出した。
常時常時斯うであった。
義虎が知りたい事を五つ六つも尋ねると、人は皆困った様に顔を顰め、彼方へお行きなさいと、然う追い返すのだ。
だから、小さい内は――
気に入らぬが、見ない様にした。
満たされぬが、追わぬ様にした。
併し其れは、却って義虎の意を深くしただけの様であった。
満たされぬ思いだけが胸の裡に凝って溜まっていく一方であった。
義虎は、決して欲深な性質では無かった。
寧ろ並の童児に較べれば遥かに弁えて居たと云って好い。
彼が欲しい、此が食べたいと強請る事など殆ど無かった。
只、足りて居ないのが気に入らず、欠けて居るのが気に懸り、満たされないのが気に食わなかっただけなのだ。
だから、誰も己に見える欠落を埋めては呉れぬのだと悟り、己で如何にか為るより他無いのだと学んでからは、勤めて己で熟す様に心掛けた。小姓組番の中でも並べる者とて少ないと云われる剣の腕も、高が其の結果に過ぎぬ。
併し埋まらぬ物は埋まらぬ。
欠けが在っても填められぬ。
穴が在っても詰められぬ。
独りに成れば猶の事である。
只足りぬ物許りが余計に目に付く。
併し満たそうにも手が足りぬ。
――義虎は然うとは思わなかった様であるが、蓋し此の世は詰まらぬ物ばかりなのである。
大抵の事には限が無く、何だけ揃えても終りは無く、数え尽くすと云った事は出来ぬ様に成っている。逆態に、凡てと云う全き処から見れば、常時何かが欠けて居る。其の隙は如何しても埋められぬのだ。
然う為て、吉田義虎は常時何かを欠いて居る様な心持ちを抱えた儘、元服に成った。
「吉田殿」
不意に呼ばれて義虎は顔を上げた。
「熱心に読んで居られるな」
「――川田殿」
義虎を呼んだのは川田吉兵衛貞恒、小姓組番の同僚であった。義虎は緩やかに頭を巡らせ、部屋の中を見廻した。小姓組番の些か持て余し気味の番屋には、今は数える程の者しか居らぬ事を確認し、義虎は今一度川田を見上げた。
「如何為された、漸々見廻りの頃であろうか」
問い掛けると、川田は否々と顔の前で手を振った。
「然う云う訳では無い。只――」
何を読んで居るのかと少し気になっただけである。邪魔立てして申し訳ないと、川田は続けた。
「吉田殿は何を然う熱心に読んで居られるのか」
「否、何と云う事も無い」
然う云って義虎は手元の綴り紙を閉じた。
真実に家に有った物を何の気無しに手に取り、其の儘持って来ただけであるし、今とて目だけは紙面を滑っては居たものの、内容は些とも頭に入っては居なかった。只然う云った仕草を為て措けば、何やら考え事を為て居ても邪魔はされ難いと学んで居ただけの事である。物事を突き詰めて考えるには、其れが都合が好かったのである。
「考え事でも為て居られたのか」
云い乍ら、川田は義虎の目の前にどっかと腰を下ろした。
「然う云った所だ」
其れで川田殿は何の様な御用件かと逆態に水を向けると、川田はううむと唸った。
「其の――だな」
某はと云い掛けて、川田はもう一度ううむと唸った。
「若しか為ると、吉田殿が、気落ちして、思い詰めてでも居られるのでは無いかと、斯う」
如何にも歯切れの悪い物云いではあったが、云わんと為る処は明瞭と通じた。
此の無骨な同僚は、身の周りで立て続けに親しい者を亡くし、其れでも勤めを休まぬ義虎を気遣って居るのだ。
「番は違えど大嶋殿は稽古で剣を交えた事も有る仲。遠くからなれど千代殿もお見掛けした事が有る。其の程度の縁しか無い某であっても、事を思えば胸も痛む。然うであるならば――」
吉田殿の心痛は如何許りかと然う思うのだと云われ、義虎は閑かに頭を下げた。
「お心遣い痛み入る」
「否々」
某には何も出来ぬと、川田は俯いた。
「只、話を聴く位の事は出来よう」
だから無理に今直ぐにと云う訳では無いが――
「若し吉田殿が何か悩んで居られるのであれば、何時でも遠慮無く云って頂きたいのだ」
折角斯うして同じ勤めに励んでいるのだからと、然う川田は云った。
忝いと、義虎はもう一度頭を下げた。
「何か有れば、先ずは是非とも川田殿に御相談致そう」
其の時は聴いて頂けるなと云うと、川田は勿論だと胸を叩いた。
「何時でも云うて下されい」
千代殿は吉田殿の許婚であったと聞いて居るが真かと問われ、義虎は閑かに頸を横に振った。
「幼馴染ではあったが、然う云う間柄では無いのだ」
「成る程、左様であったか」
然う云って義虎の顔を凝と見詰めた川田は、如何やら今は大丈夫そうだと感じでも為たのだろう。気落ちなさるなよ、然らば御免と立ち上がった。
背を向け遠離って行く其の後ろ姿を眺め乍ら、義虎はたった今の川田との遣り取りに思いを馳せて居た。
伴に育った幼馴染の花井千代は、少し変わった娘であった。
何かの折に、義虎は己の満たされぬ思いについて千代に打ち明けた事があった。
其の時、千代は至極淡白と斯う云った。
満ち足りて仕舞っては満ち足りませぬ、と。
何様云う意味かと問う義虎に、千代は斯う続けた。
満ち足りるを当たり前と思うて居るから、足りぬと思うのです、と。
此の世には元より満ち足りると云う事は有りませぬ。初めから何かが欠けて居るのです。何かが足りて居らぬのです。併し其れが普通では無いと、全き姿こそが当然であると、然う思うから満ち足りぬのです。余計に足りぬ物が目立つのです。足りる事が出来ぬのです。此の世は、足りぬ儘に足りて居り、満たされぬ儘に満たされて居るのです。
又斯う云う面も在りましょう――
満ち足りて仕舞えば、後は失うしか有りますまい。然う致しますれば、満ち足りて仕舞った其の後に在りますのは、其れを欠いて仕舞う、失して仕舞う不安だけでありましょう。十全に満ち足りたからこそ、却って安定を無くして仕舞うのです。
逆態に、未だ足りて居らねば其れ故の探し求める娯しみが在り、又敢えて一つ欠いてこその思い描く愉しみも在りましょう。手にして仕舞えば、噫何だ此の程度の物かと御思いになるやも知れませぬ。手に入れて仕舞えば、其れは最早其処に在る以上の物には決して成り得ませぬ。何処かが満ち足りぬからこそ、心の裡は却って満たされるのです。
欠けたるを好ましく想い、足らざるを愛おしく想い、満たされぬを慈しむ事こそ、其方様の抱く虚ろな穴を満たして生きる筋道なのではありませぬか。
ほら、皿屋敷の噺もありましょうと、千代は云った。
彼は何故皿を数えると御考えか。
分からぬと義虎は答えた。
化けて出る曰くは知らぬ。知らぬが、何者かに怨みを呑んで居るのであれば、皿を数えても仕方があるまい。怨みは相手に打突けずして如何にする。皿を数える事に何の意味が在ろうか。
意味など無いのでありましょうと、千代は云った。
意味も理由も無しに、只、数えて居るのでありましょう。
無いのかと問うと、千代は肯と答えた。
只皿を数え、足りぬ事を確かめているのでありましょう。詰り、数える事にでは無く、足りぬ事に意味があるのです。足りぬと云う事が肝要なのです。足りぬからこそ化けて出るのです。
若しか為ると、足りぬ事を一番愉しんで居るのは当人なのかも知れませぬ。
満たされぬのが、欠けて居るのが、愉しくて愉しくて、其れを何度でも確かめたくて、だから毎夜化けて出るのかも知れませぬ。
『一つ』
『二つ』
『三つ』
『四つ』
『五つ』
『六つ』
『七つ』
『八つ』
『九つ』
『……あら、一つ足りない』
然う云って千代は笑みを湛えて振り返った。
義虎の心の臓が、知らず大きく跳ねた。
花井玄蕃が吉田義虎の夜廻りに付いて行くと申し出たのは、其の晩の事であった。
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