参
空屋敷と――
青山亡き後の空屋敷と呼ばれる其の御屋敷で、続く人死に。其れが凡て吉田家に縁る者とは存知ませなんだと、老爺は応えた。
「疑う訳では御座居ませぬが、其れは実に御座居ますか」
「実である」
然う、男は肯いて云った。
「初めに死んだのは千代と云う女である」
此れは小姓組番番士である花井家の娘であるのだと云うと、老爺は真逆と憚る様に呟いた。
「其れは彼の花井家で御座居ますか」
「然う其の花井だ」
既に察して居ようと、男は肯いた。
「此の花井の繋累、千代と云う娘は何様やら、小姓組番番頭吉田家が一男、義虎殿と恋仲であったのでは無いかと云う話なのだ」
否、恋仲と云える程深い仲であったのかは当人同士しか知り得ぬ事であろうが、兎に角、吉田義虎とは稚い頃より伴に育った仲であり、年頃に成っても付き合いが続いて居たのだから、少なくとも互いに憎からず思い合って居たのは間違いの無い処であろう。行々は夫婦に成るに違いないと、周りは然う思って居たのである。
「其れが――死んだ」
空屋敷での事である。
「旧き馴染みの仲を引き裂く血生臭き一件。而も吉田家縁となれば、此れは何やら因縁を感じずには居れまい」
「左様で御座居ますな」
然う、閑かに老爺も応じた。
「次はな、大番が番士、大嶋源左衛門重之と云う男であった」
小姓組番と大番では格も勤めも違う。傍目には吉田家のとの繋がりも見え難かろう。併し――
「此の大嶋源左衛門、又も吉田義虎殿の御幼少の砌よりの無二の友。同じ道場に通い、剣の腕を伴に磨いたと云う深き仲である」
此れも死んだ。
「空屋敷で、で御座居ますか」
「左様」
源左衛門は義虎殿と竹馬の友であったのだから、千代とも勿論知り合いであったのだと男は続けた。
「源左衛門が千代を、義虎殿を肚の底で何様思って居たのかは知れぬが、亡き千代を思い二人で幾夜も飲み交わしたと聞いて居る。或る日の其の帰り道で――」
大嶋源左衛門は死んだのだ。
「義虎殿は、彼の日家迄送って行けば良かったと大いに嘆かれた」
恐らくは独りで空屋敷に出向いたのであろう。
千代の無念か、遺恨か、確とは分からぬ其れを晴らそうとでも思ったのやも知れぬ。
或いは千代に呼ばれでもしたか。
然う為て――
皿屋敷の怪に遭って、死んだ。
身の回りで立て続けに二人喪った義虎殿は居ても立っても居れぬと、夜毎見廻りに出る様に為った。
「三人目は年老いた老婆である」
名をよしと云った。
「此れは、吉田家に長く仕えた女であり又、義虎殿の乳母でもあった」
見廻りに出る義虎殿を案じたのであろう。
「もう義虎殿も佳い齢である。小姓組番番士として磨いた剣の腕もある。其処に年老いた嫗が一人付き添った処で、邪魔にこそ成れ、助けには成らぬ事は百も承知。其れでも――」
負うた子は何時迄経っても心配であったのだろうと、男は云った。
「其れが仇に成ったとは皮肉な話である」
当人にも告げず見廻りに出た義虎殿の其の背を追ったよしは此れ又何様云った訳か皿屋敷の怪に遭い、義虎殿が空屋敷を訪れた時には――
「既に井戸の傍で事切れて居たと云う」
此れで三人と、男は云った。
「悉くが吉田家に、殊吉田義虎殿に縁ある者ばかりであろう。故に斯う考えるのも然程的外れとは云えまい。皿屋敷の怪は、吉田に仇為すもの。其の大本は吉田家か、或いは義虎殿に恨みを呑む者ではないかと」
成程と老爺は頷いた。
「慥かに然うやも知れませぬな」
「界隈でもちらほらと然う云った噂も聞く様に為った」
勿論、相手は小姓組番番頭たる吉田家、表立って然う口に為る者は無い。
而も渦中の人物たる吉田義虎其の人が、変わらずに堂々と仕えを続けて居ると為れば、徒に騒ぎ立てる方こそ思慮が足りぬとの謗りを受けても仕方の無い向きさえ有る。
「義虎殿は仕えを続けて居るので御座居ますか」
「続けて居る」
此の様な時だからと云って、否、此の様な時だからこそ、勤めに穴を開けるわけには行かぬのだと、然う申して居られたと、男は答えた。
「確乎した御人なので御座居ますね」
「気丈な御方なのだ」
昔から然うなのだと、男は続けた。
「幼い頃から何事も突き詰めて丁重と為て居なければ気の済まぬ御方であったのだ。他人にも御自分にも厳しく仕付けて来られた。十にも満たぬ頃から吾を捕まえては彼や此やと納得される迄質問攻めにされた事を、今でも思い出す」
然う云って男は少しだけ淋しげに笑った。
其処を行くと――
「千代は――」
一転、ぽつりと、男は畳に視線を落として溢した。
「少しばかり違って居た」
だからこそ良かったので御座居ましょうと、老爺は応じた。
「同じ様な為人では却って息が詰まりまする。夫婦は正反対の方が好いと、昔から申すでは御座居ませぬか」
「然うかも知れぬ」
千代は――
「千代は、其れは気立ての好い娘だったのだ」
左様で御座居ますかと、老爺は閑かに頷いた。
「身内贔屓の欲目も有ろうが、其れでも、好く育って呉れたのだ。義虎殿とも一揃いに設えたかの様であった。将来も思い描くが楽しみであった。慥かに少しばかり変わった子ではあったが、其れでも――」
なあご老体と、然う、男は呼び掛けた。
「千代は、生まれついて一つ欠けて居たのだ」
「何がで御座居ますか」
「指だ」
「指で御座居ますか」
「然うだ、右の小指が一つ、生れつき欠けて居たのだ」
其れを揶揄う心無い者も在ったと、男は苦々しげに云った。
「五体満足に生んで遣れなんだ事を悔いた。謝りもした。併し其れでも千代は、他人を妬むでなく、親を恨むでなく、只在るが儘に伸び伸びと生きて居た。心優しく育って来た。吉田の御屋敷で養って居た猫にも、必ず自分の椀や皿から一切れ二切れ分け与えて遣る程に情け深い娘であった。故に猫も懐いた。普段は誰にも見向きをせず、下手に手を出そうものなら容赦なく引っ掻く様な荒くれも、食事時には千代の傍へと寄り、温柔しく座って待って居たものだった」
否、猫だけでは無いと、男は少し唇を噛み締める様に顎を引いた。
「吉田の御屋敷では、上から下まで千代を厭う者は無かった」
其れなのに何故と、男は声を詰まらせた。
「千代はな――」
千代は――
「常時斯う云って居た」
妾は欠けて居る事を辛いと思った事はありませぬ。
欠けて居るからこそ好いのです。
足りぬ位が丁度好いのです。
若し凡てが揃って居りましたら。
若し其れが当たり前だと思って居りましたら。
決して満たされる事はありますまい。
一つが在ってももう一つ。
二つが在っても未だ一つ。
三つが在っても更に一つ。
在れば在る程、次を次をと求めて仕舞いましょう。
満ち足りると思うからこそ、満たされぬのです。
満ち足りぬが当然と思えばこそ、満たされるのです。
此の焼き魚も、一つ丸ごとが妾の物と思うからこそ、骨の一本までも舐らねば、皮の切れ端までも囓らねば気が済まなく成るのです。
妾だけの物では無いと思えばこそ此の身の一片とて惜しくなく、猫も妾も伴に満足出来るのです。
腹を満たすのが当たり前と思うからこそ、魚が一枚で足りなければ二枚、三枚と重なるのです。
満たされずとも糊するに十分と思えばこそ、此の一枚で何の不満が有りましょうか。
「然う云って笑って居たのだ」
なあご老体と、再び男は老爺を呼んだ。
「何故に千代は死なねばならなかったのだろうな」
誰の恨みを買うでも無く。
誰の妬みを貰うでも無く。
只、吉田家に勤めて居たと云うだけで。
只、皿屋敷の怪に魅入られたと云うだけで。
「其の――」
皿屋敷の怪に引かれたと云う三人は――
慥かに青山の空屋敷、其の庭の井戸端で死んで居たので御座居ますかと、老爺は尋ねた。
「左様」
男は緩々と顔を上げた。
「其の様に聞いて居る」
「成程、然う成りますれば、裏に何の様な因縁が在るのやら此の老骨には知れませぬが――」
此処は傳通院殿にお願いするより他御座居ますまいなと、老爺は閑かに云った。
「傳通院殿と云えば」
「左様、小石川の、で御座居ます」
「住職連察殿が、力に為って頂けようか」
「扨、其れは定かには申せませぬが」
お頼りするには他には御座居ませぬかと思いますると、老爺は云った。
「小石川傳通院、無量山傳通院寿経寺と云えば、開山為されたは酉蓮社了誉聖冏上人。又の名を三日月上人とも繊月上人とも呼ばれる尊い御方。此の了誉上人の逸話、ご存知御座居ませぬか」
「知らぬ」
聞いた事も無い。一体何の様な逸話が有ると云うのかと問う男に、老爺は背筋を伸ばし向き直った。
「其れならばお聞かせ致しましょう」
了誉上人は嘗て、怨み祟る女性の怪を鎮めた事が有るので御座居ますと、老爺は云った。
時は遡る事、永保から寛治の頃。
後三年の役と呼ばれた戦があった。
陸奥守と成った八幡太郎義家公が、奥州が清原氏の内乱を平らげんと、配下十万騎と伴に攻め下ったのである。
義家公は其の道行きの中途にて、或る長者の屋敷に足を止めたと云う。長者は義家公の軍勢に驚きは為たものの、一行を三日三晩手厚く遇した。
其処で英気を養い、無事奥州を平らげた後、悠々と元来た道を引き返した義家公一行は、再び同じ長者の元を訪れ、往時にも増しての歓待を受けた。
併し義家公は、此処で却って身震いの為る思いを為たと云う。
此の長者は、此の度平定した奥州清原氏に勝るとも劣らぬ豪族である。従って此の儘に為て措いては、後々別の火種と成るのではないかと。
斯う考えた義家公は、礼を告げて出立した後密かに引き返し、長者の屋敷に火を放ち、郎党と伴に攻め滅ぼして仕舞ったのだ。
此の長者には朝日と云う娘が居た。
朝日は隠し穴より乳母と伴に難を逃れ、常陸国が下岩瀬へと落ち延びたと云う。
然う為て辛くも命を拾った朝日であったが、其の身の裡に燻る無念は消える事無く燃え続け、遂には齢十八の春に、父や母の御霊を慰め、又家を再興せんと奮い立った。併し女手一つで何が出来ようか。神仏の加護でも無くば、家の再興など夢のまた夢。然う考えた朝日は、成就を得んと百箇日の祈願を志した。
身を清め、白装束に身を包み、化粧を施しては誓願を続ける事百箇日。其の満願の日。此れ迄と同じ様に春日神社の境内の池の畔に立つ松に日頃大切にしていた八稜の鏡を掛け、化粧を施そうと為た朝日であったが、ふとした弾みに鏡を取り落とした。慌てて拾おうと手を伸ばした朝日は、其の儘足を滑らせて深みに嵌まり、然う為て二度と浮かび上がる事は無かったと云う。
其の後、池には夜毎妖気が漂い、怪しげな光が差すと共に女の亡魂が彷徨い出ては周りの人々を悩ませる様に成った。村人は朝日姫の怨霊だと云って恐れ、池に近寄る者も無くなった。池は長く手も触れられぬ儘に残された。
然うは云っても池は境内に在る神聖な物。近寄らずに措くには何かと不都合も有り、又、貴重な水源でもある。困り果てた村人は、瓜連が常福寺の了誉上人に弔いを依頼し――
「了誉上人の読経の後、池の底より一疋の亀が鏡を背負って浮かび上がり、爾来、其の女性の怪が現れる事は無かったと、然う云う話に御座居ます」
此れ依り其の池は鏡ヶ池と呼ばれて居りますと云って、老爺はひたりと男を見据えた。
「如何で御座居ますかな」
「如何と云われるが――」
男は少し戸惑う様子であった。
「其れは慥かに女性の怨念を、傳通院殿が鎮めたのであろう。古く、又至極奇怪な話ではあるが、由来の有る事も能く分かった。併し――」
其れと此れとが何様関わるのかと、男は尋ねた。
「分かりませぬか」
「分からぬ」
「サテ」
然う云って、老爺はつるりと顎を撫でた。
「吉田様の源流は常陸国の吉田に御座居ましょう」
「左様、然う聞いて居る」
「八幡太郎義家公を守護為された八幡神を奉るは他でもありませぬ、常陸国が吉田神社に御座居ます」
何とと、男は声を上げた。
「其れは実か」
「実に御座居ます」
「吾の憶えが正確しければ、京の石清水八幡宮で元服為されて依り、八幡太郎と称されたのでは無かったか」
博識恐れ入りまして御座居ますと、老爺は面を伏せた。
「慥かに旦那様の仰る通りに御座居ます。能く能く物を存じて居られる旦那様に斯様な事を申し上げまするは此の老いた身にはが荷が勝ちましょうが――」
殊、後三年の役に関しては違うので御座居ますと、老爺は云った。
「今でこそ倭建命を合祀されて居り、其方を主神と致して居りますが故、其の元も忘れられて久しくは御座居ますが、吉田神社本来の祭神は名神吉田神。合わせて八幡神様に御座居ます。御神体は軍扇。此れは、後三年の役の折、八幡太郎義家公の奉納為された物に御座居ます」
「詰りご老体、義家公の奥州平定は八幡神、其れも殊吉田神社の加護を得て行われた物であると」
「左様に御座居ます。加えて其の道行きの長者殺しも又、然う云う事に成るので御座居ます」
其れを解脱得度させたが傳通院殿。乃ち――
「片や吉田の加護を得て滅ぼされ、片や死して後吉田に仇為さんとし、縁は違えど共に吉田。なれば然う云った怨みを呑んで死んだ女性の怪を鎮めるには」
傳通院殿を措いて此れ以上の適任は居りますまいと、老爺は結んだ。
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