貳
更屋敷は――
吉田大膳亮様が屋移り為された後に真更と成った其の更屋敷の地は、真実に斯様に血生臭い土地とお思いかと、男は改めて尋ねた。
「ヤレ、先程も申しました通り口性無い町人共の噂噺に過ぎませぬ」
毛程も真実の事が在るとは思いませぬが、お気を悪くなされたので御座居ましたら、平にご容赦下さいませと老爺は深く頭を下げた。
「否、然う云う意味では無い」
然う云って男は顔の前で手を振って見せた。
「何せ童児でも知って居る様な間違いも含まれて居るのだ、町人が面白がって話す事に一々目角を立てては居れぬ。抑も――」
遡って云えば、吉田御殿に天樹院様がお住まいであったと云う処から間違って居るのだ。其の先など今更改めて云う迄も無い。
「ご老体も知って居よう。姫路城主で在らせられた本多忠刻公と死別なさった後、天樹院様が移られたのは吉田御殿では無く竹橋御殿なのだ。竹橋は五番町より艮に離れて居よう。其の後に飯田御殿に移られたのは間違っては居らぬ。居らぬが――」
吉田屋敷とは何の縁も無いのである。
「左様に存じます」
然う老爺も応じた。
「何故に天樹院様と、番町が吉田屋敷とを結び付けたのかは存じませぬが、所詮は町人の戯れ遊び。真面に取り合っては莫迦らしゅう御座居ましょう」
然う云って老爺は斯う続ける。
「天樹院様の一件でも、青山家の騒動でも、亡魂が迷い出たと云う其の古井戸、此れも真実に在るのか何様か怪しい物で御座居ます」
「否――」
在る。
在るのだ。
古井戸は。
「旦那様、今、何と」
古井戸は慥かに在ると申したのだ。
然う云われて老爺は小さく息を呑んだ。
「――其れは若しや、矢張り亡魂が出ると斯う、仰るので御座居ますか」
併し男は頸を横に振った。
出ぬ。
亡魂は出ぬのだが、古井戸は在るのだ。
ご老体、と男は下から睨め上げる様にして云った。
「お聴き下さるか」
「何なりと」
「内密に願えるか」
「云う迄も無きこと」
「五番町に未だ吉田屋敷が在った時分――屋敷には一人の下女が居たのだ」
名を、おせん、と云った。
然う、男は語り始めた。
おせんは、番町に並ぶ者なしと云われる程の器量良であった。
明るく気立ても良く、朝から晩迄繰々と能く働き、勤めに手を抜くと云う事も無く、手先も器用で料理や繕いも得手として居り、嫁ぎ先など、選べと並べられた釣書だけで諸手に余ろうかと云う程であった。否、釣書など無い町人や通り縋りの岡惚れも合わせれば、能く門前に市を為さなかったと云っても好い程だった。
然う、翻って云えば、其れ程言い寄る男は多かったにも関わらず、おせんは誰にも是とは云わなかったのだ。
妾には未だ早う御座居ますと当人は笑って頸を横に振って居たが、恐らく心に決めた男でも居たのであろう。
吉田の勤めを続けて居るのだから、屋敷の中の誰かではあるまいか。否々、誰かでは無い、吉田の当主、大膳亮様、其の人では無いか。誰語るとも無く、其の様な噂も立って居た。
併し其れは道ならぬ、叶わぬ想いであった。
番町吉田家と云えば小姓組番が番頭。
小姓組番は江戸の警護役である五番方の中でも、書院番と合わせて両番と呼ばれる、他の三番よりも格上の番方である。其の頭とも成れば、連合いも生半な格の家では務まらぬ。
縦令、当人同士が良くとも周りが其れを赦さぬ。
斯様な噂が立てば、真実が何様であれ噂だけでも問題であると、口を出す親類も出る。
然う成れば、事が起こるより先に早々身を固めて仕舞えと考える者も出る。
小姓組番番頭と縁続きに成れるのならば此れは好機と捉える者も出る。
然う斯う云う思惑が絡み合い、初めは小さな漣だった物が、何時しか当人達でも到底動かせない程の巨きな浪と成って吉田の家を呑み込んだ。
大膳亮が何様思っていたのかは分からぬ。
只、逆らうに逆らえぬ事は悟って居たのであろう。
様々な柵の中、大膳亮は其の申し出を承けた。
其れは家の為、家名の為、己の為でもあったろうし、おせんの為でも、あったのだろう。
此処で断れば、矢張りと周りは思う。
然う成れば、おせんが邪魔であると考える者も出よう。
居なく成ればと、然う企む者も出るやも知れぬ。
其れを避ける為に、敢えて承けた様にも思う。
殊に乗り気であった澁川の伯母が、おせんを嫌って居た事も一因と成ったろう。此処で下手に触って障り在るよりはと然う思ったのではあるまいか。
若しか為ると此処で要らぬ抵抗をせずに措けばおせんをずっと手元に置けるやもと、然う云う考えも、有ったのかも知れぬ。
否、世の推量は全て的外れで、此れ迄は偶々好い相手が居なかっただけなのかも知れぬし、巡り合った相手を気に入っただけなのかも知れぬ。
真実の処は知れぬ。
知れぬが、大膳亮は勧めに従って嫁を娶り、おせんは下女として変わらず吉田家に勤めた。
嫁いだ奥方も、噂を知ってか知らずか、表向きはおせんを他の下女と分け隔て無く扱っている様ではあった。
――或る時迄は。
或る日の朝餉の刻、夫婦の膳を据え、下がろうとしたおせんに、不意に奥方が斯う声を掛けた。
此の膳は誰が盛ったのかと。
何心無い風に、奥方は然う尋ねた。
妾で御座居ますとおせんが答えると、奥方は更に、今の答に相違無いな、他の者は手を触れて居らぬなと重ねて尋ねた。
左様に御座居ます、何か手落ちが御座居ましたでしょうかと、おせんが平伏した所で、奥方は見る間に激高した。
見よや此の椀。
其方が盛ったと、他の者は手も触れぬと然う申したな。
其れならば此れも其方の仕業であろう。
語るに落ちるとは此の事よ。
大方、吾が気に入らなんだのだろう。
妬んだのだろう。
僻んだのだろう。
猜んだのだろう。
知って居る。
知って居るぞ。
だから――
だから此の様な事をしたのだろうと、然う叩き付ける様に云った。
おせんは平伏した儘に、何の事やら存じませぬが、粗相が在りましたならば平にご容赦下さいませと更に頭を下げた。額が畳に着いた。
その上に、奥方は飯盛りの椀を放り投げた。
未だ湯気を立てる熱い飯を頭に被り、其れでもおせんは一言も上げなかった。
其れが更に奥方の感情を逆撫でした。
――吾が知らぬと思うてか。
然う奥方は声を荒げた。
勿論知った上で、知らぬ振りをして情けを掛けたと分からぬか。
同じ女子なればと然う思い措いたを察せぬか。
其の恩を斯うして仇で返すか。
もう我慢が為らぬ。
其方の勤めも此れ迄と知れ。
直に荷を纏め屋敷を出よ。
――お言葉では御座居ますがと、おせんは額衝いた儘、閑かに答えた。
妾は此の吉田家に仕えて居りまする。
奥方様に措かれましては慥かに当家の、妾が仕えるべきお方に御座居ますが、妾の進退を決しますのは奥方様には御座居ませぬ。
勿論、妾に明白な落ち度でも御座居ましたならば返す言葉も御座居ません。
黙って勤めも罷めましょう。
併し仔細分からぬ儘の罷免とも相成りますれば、如何にも受け容れがたく存じまする。
賤しき身分の此の身なれば奥方様に問い質すは不遜とも成りましょうが、曲げてお願い申し上げます。
妾に何か至らぬ処が御座居ましたならば、何卒お教え頂けませぬか。
然う云っておせんはきっと顔を上げた。
其の眼差しを奥方は真っ直ぐに見詰め返した。
能く云う、と奥方は低い声音で応えた。
云わねば分からぬ振りを為るか。
然う為て迄吾を欺こうと為るか。
其れならば此の場で瞭然とさせようではないか。
今其方の目の前に有る椀の底を見るが良い。
然う云われておせんは畳の上に転がった椀に視線を転じた。
其の視界の端に、何やら光る物が有った。
自然と目は其処に吸い寄せられた。
椀から飛び出したのであろう其れを、おせんはそっと抓み上げた。
分かったであろうと、奥方は勝ち誇った様に云った。
其方、其れを何と心得る。
――針に御座居ますと、おせんは云った。言葉の尻が僅かに震えた。
然うであろうと、奥方は応じた。
大方岡惚れの心得違い、吾を余所者が我が物顔で入り込んでと厭い――
此れは何かの間違いで御座居ますとおせんは顔を伏せたが、何が間違いかと、奥方は金切り声を上げた。
たった今、其方が申した許りでは無いか。
此の膳は其方が盛り、他の者は手を触れても居らぬと。
其れならば椀に針を仕込み、吾を亡き者にせんと企んだも其方であろう。
針仕事を得手とする其方の事。針を手に入れるも造作無かったのであろう。
併し良いか、最早此れは吾だけの話では無いのだぞ。
吾を亡き者にせんと企むは、引いては吉田家に対する謀反であろう。
幸い斯うして気付いたから好かった様なものの、若し吾が針を呑み、息絶えるようなことがあれば、否、少しでも怪我為ようものならば、吉田家、小姓組は元より吾の親元も黙っては居らぬ。
嫁いだ許りの家での不祥事。事を大きくしとう無いのは吾も同じ。素直に認めれば事も荒立てずに済まそうものを、飽く迄其方が為た事では無いと言い張るのであれば、他に下手人が居るのであろう。然為れば家中より凡てを虱潰しに――
然う云い掛けた所で、おせんは申し訳御座居ませぬと再び頭を下げた。
何故に謝るのかと奥方が問い掛けると。
妾が――
妾が為た事で御座居ますと、おせんは伏した儘に、然う云った。
「――其れは真実に、おせんの仕業だったのですかな」
然う老爺が尋ねると、男は閑かに頸を横に振って、違うと答えた。
「否、違わないのかも知れぬが、恐らく違うのだろう」
ご老体の考えて居られる通りだと思うと、男は付け加えた。
「飯盛りの椀に針を入れた所で其れを気付かずに呑み下すとは思えぬし、飯の中に埋もれて居たであろう針に直に気付くと云うのも然う有り得る話でも無い様に思う。然為れば、針を其の様に目立つ様仕込んだは大方奥方ご自身の仕業であろう。元より何時か追い出して遣ろうと其の機を窺って居たのであろう。其れを察した上で、吉田の家中に要らぬ波風を立てまいと、おせんは丸ごと呑み込んだのだ」
否、若しか為るとおせんの方も好い機会だと斯う考えたのかも知れぬ。
叶わぬ想いを抱いて暮らすよりは、いっそ家を出て仕舞った方がお互いに未練も断ち切れようと。
其処は分からぬ処である。
併し然うは云っても罪を当人が認めたのであるから、何も沙汰を下さぬ訳には行かなんだのだと、男は続けた。
沙汰は追って云い付ける、一先ずは屋敷の一室に閉じ込め置くが良かろうと、然う成ったのだ。
其の部屋から――
「おせんは忽然と姿を消したのだ」
「消えて仕舞われたので」
「大膳亮殿は斯う云われた」
せんは吉田家に仇為そうとした者である。
如何に長い勤めと雖も、主の連合いの膳に針を忍ばせたは無礼討ちは免れぬ。
依って我が手ずから斬り伏せ裏庭の井戸に打ち捨てた。
其の証拠が此れであると――
「指を見せたのだ」
「指で御座居ますか」
「然う指だ」
おせんの指であったのだろうと男は云った。
「其処迄されれば、流石の奥方も其れ以上は追求出来なんだ」
暫くして吉田家は禍事の有った番町より赤坂に屋敷を移し、時を同じくして吉田宿に一人の遊女が現れたと聞く、と男は続けた。
「名を千歳太夫と云い、其の器量は遊女の数多在る吉田宿の中にも較べる者の無い程であったとの事だ。時機と云い、名前と云い、誰もが然うなのでは無いか、と思った。其れ故に――」
誰からとも無く、吉田の千姫様と、然う呼ばれる様に成ったと云う。
「ご老体も知って居よう」
と男は水を向けた。
「遊女の睦言は凡て嘘と云う。座敷の敷居は夢現の境と弁えねばならぬと云う。併し其の中に在る誠実を示す為に遊女は自らの指を切り、愛しい相手に贈ったと」
「左様で御座居ますな」
実に恐ろしきは女の情念とでも申しましょうかと老爺が答えると、男は如何にもと肯いた。
大膳亮殿が密かに逃がそうと為た際に――
「おせんは其れに擬えたのだろうかな」
「女郎に身を落とす覚悟を決め、指だけを遺して行ったので御座居ましょうか」
真実の処は知れませぬがと云う老爺に、男も肯と応えた。
「千歳太夫は片手を常時袖の内に隠して居たと云う。二階から客を招くにも指先を隠して袖を振ったと。其れも噂の元と成ったのであろうな。兎も角、然う云った話であったから、千歳太夫は其の器量の割に身請けを為ようと云う者も少なく、又現れても決して是とは云わなかったそうな。只一人、小姓組番の花井を除いては」
「花井とは、件の花井壱岐で御座居ますか」
然う老爺が問うと男は是と答えた。
「花井家は吉田家と縁続きでな、吉田家も腹心の部下と全幅の信頼を寄せて居られた。何の様な由縁有ってかは知らぬが、他の話は取り付く島も無かった千歳太夫も、此の花井家の、当時の当主、壱岐の身請け話には、少し許り違う様に応えた」
「違う様にとは」
「娘をな」
「娘と」
「然うだ。己は身請けされる価値の無い女。併し叶う事ならば己よりも自らの娘。おたけと名付けられた其の子を、養女として育てて貰えないかと、斯う云った」
「花井壱岐殿は呑まれたので」
「呑んだ」
何様かなご老体、と男は其処で座りを改めた。
「天樹院様も元のお名前を千姫と云う。其の天樹院様は、鹿の子の打掛をお召しになられている絵姿が有名であろう。又、吉田宿の遊女は鹿の子絞りの着物を着るが習わし。斯うして――」
吉田屋敷と吉田宿。
天樹院様と千歳太夫。
鹿の子の打掛と鹿の子絞り。
其れ等が混同され、其処に井戸と花井壱岐とおたけが加わり――
「今の『吉田屋敷の天樹院様』の噺が出来上がって居るのだ」
更に云えばと男は続ける。
「皿屋敷の話に出所の知れぬ針や、指切りが出て来るは、元を質せば吉田家の話。因縁の井戸も、始まりは其処に在る。大方語られる内に何時知れず、誰知れず、混じり合って仕舞ったのであろう。扨、此処まで話せば察せられようが、吾は――」
と云い掛けた処で、男は小さく頸を振り、否矢張り止めようと言葉を切った。
「名は名乗らぬが好かろう。吾は公儀より内々に命を受けた其の先の先にこそ在れど、表向きは、名は無い方が都合が好いのだ。後々には名の残らぬ、誰でも無い男。其れで好かろう」
「其れでは旦那様」
と今度は老爺の方が口を開いた。
「旦那様が何処のお方で在るのかは問いませぬ。問いませぬが、一つ教えて頂けませぬか」
「何であろうか」
問い返されて老爺は、恐れながら間違うて居りましたらお許し下さいませと頭を下げた。
「成る程、皿屋敷の怪を真面にお上が相手に出来る筈も無い事、併し捨て置けぬと縁有る旦那様に巡り巡って白羽の矢が立ちました事、其処迄は容易く推し量る事も出来ましょう。併し――」
最早其れでは済まぬのでは御座居ますまいかと、老爺は居住まいを正した。
「抑もの話の発端は吉田屋敷。現況の怪しげな噂は皿屋敷。然うであっても」
既に人死にが出て居りましょう。
番町が皿屋敷には、恨みを遺した亡魂が迷い出る。夜な夜な井戸より立ち返っては、皿を数える。
『一つ』
『二つ』
『三つ』
『四つ』
『五つ』
『六つ』
『七つ』
『八つ』
『九つ』
『噫、一つ足りない』
然う云っては魂消るような悲鳴を遺し、陰々滅々と陰火に焼かれ、又井戸へと消える。
其れを終いまで聞くと――
狂い死ぬ。
然う云われて居る。
真実か何様かは分からぬ。
分からぬが、先達てより既に其の皿屋敷で三件の人死にが、出ているのである。
然うであるのだから――
「然為れば動員くべきは町方、でなければ火付盗賊改方の与力、同心、岡っ引きでは御座居ますまいか」
「左様である」
男は閑かに肯いた。
「事は其処なのだ」
「其処とは」
「最前にも云った通り吉田が移り、青山が亡き後の空屋敷、其の屋敷の因縁、井戸の因縁は、遡れば吉田家に纏わる処に在ろう。併し――」
其れだけでは無く、現況の人死にも悉く吉田家に縁る者達なのだ。
「先達てより続く三方の怪しき死に様。此れ等が中心に吉田家が在るのだから、すわ御家騒動か、将亦吉田家に恨みを飲む者かと、お上は其れも案じて居られるのだ」
小姓組番番頭の不祥事と為れば、然う軽々に表沙汰にも出来まい。
「其れ故に――」
内々に調べよとの命が下されたのであると、男は云った。
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