壱
皿屋敷を――
番町の皿屋敷を存じて居ようかと、其の男は云った。
問われた老爺はつるりと顔を撫で、困った様な迷う様な目で男を見詰め返した。
其処には、藪から棒の感の拭えない、行き成りの問いに何様応えた物かと僅かに思案為た様子もあったが、兎に角と其の宙に浮いた詞を繰り返す事に為た様であった。
「皿屋敷、と申されましたかな」
老爺の言葉に是と頷き返し、男は存じて居ようかご老体、と再び尋ねた。
「其の、先達ての青山の――」
然う云い掛けた処で詞を切り、恰も値踏みを為る様に頭の先から畳に座した膝元迄視線を走らせる。
此の老爺、歳の頃が幾つとは定かには見当も付かぬが、其の恰幅、身形の良さ、好々爺然とした顔貌、ちらりと覗く着物の裏地に配われた繍を見るに、何処ぞの大店の隠居か何かであろうと然う当て推量は付く。
人好きのしそうな眼差しと落ち着いた佇まいは、何処と無く人を惹き付け、悩み事や噂話も何心無く打ち明けられそうな、其の様な空気である。
其れならば――
其れならば知らぬと云う事も無かろうと、然う考えての詞に、老爺は閑かに、肯其れは人並み程度にはと、控え目に答えた。不躾な男の視線にも気付いて居ない筈は無かろうに、頓着する風も無く、頬を僅かに綻ばせて斯う続ける。
「旦那様の仰いますのは、牛込御門の内、五番町の青山家の事で御座居ましょう。先達て、当主の播磨様がご乱心召され、一門郎党手ずからお手討ちになされたとの」
「然う、其の皿屋敷である」
男は頷いた。
二人の云う通り、牛込御門内五番町には火付盗賊改方、青山播磨の邸宅が在った。
在ったと云うのは、今はもう無いからである。
否、無いと云って仕舞えば誤りであろうか。
屋敷は在る。
併し、青山家が、其の血筋が、もう無いのである。
仔細を語ればややこしい。
先ず、青山家には高麗焼の十枚揃いの皿が在ったと云う。
高麗焼ではなく姫谷焼とも伝わるし、南京の物とも、又何処の物とも知れぬが拝領の名品であったとも、十枚一揃いで毒消しの神妙不可思議な力が有った物とも伝えられる。
真相は知れぬ。
知れぬが、揃いの家宝とされる皿があった事は慥かな様である。
様であると云うのは――其の皿も最早無い。
無いのだと然う聞くからである。
然うであるから、今更誰が何を如何した所で確かめ様が無い。
確かめ様が無いのではあるが、斯うした噺は其処此処で耳に為る事が出来る。
此の噺の抑もの最初は、青山家の下女、菊である。
江戸の町を荒らして居た悪党、向坂甚内が召し捕られ、磔に処されたのは些か前の話である。
菊は其の向坂甚内の実の娘であり、向坂甚内を召し捕ったのが青山家の者であった事が、菊と青山家が縁を持つ契機であったらしい。
菊自身は父親の事を全く知らぬ儘に育ったとの事である。
知らぬ事で罪に問われるのは余りに憐れである。とは云っても悪党の娘として表向き何も沙汰を下さずには済まぬ。其処で、菊を憐れに感じた青山家に、一生奴として年季の明けぬ奉公に出る事に成ったと、然う聞いて居る。
其の菊が、青山家の家宝である皿の一枚を欠いたのだそうである。
家宝を欠いてはお手討ち無礼討ちは免れぬ。
憐れ菊は青山播磨の手によって一太刀の元に斬り伏せられ、其の亡骸は屋敷の井戸に投げ込まれた――と、此処から先が此の噺の更に不可解な処である。
老爺の云った通り、青山播磨はその後、乱心し、家人郎党皆斬り倒し、町に飛び出した末に破落戸との喧嘩の末、撲り殺されたそうである。
又遺された屋敷の井戸からは、夜な夜な無念の菊が彷徨い出ては皿を数えるそうである。
『一つ』
『二つ』
『三つ』
『四つ』
『五つ』
『六つ』
『七つ』
『八つ』
『九つ』
『噫、一つ足りない』
然う云っては魂消るような悲鳴を遺し、陰々滅々と陰火に焼かれ、又井戸へと消えると云う。
此れが――番町青山屋敷が皿屋敷と呼ばれる由縁である。
扨。
何故に青山播磨は乱心したのか。
何故に菊は迷い出ては皿を数えるのか。
其れに答える者は誰も居ない。
何故ならば――
此の噺に関わる者は皆死に絶えて仕舞って居るからである。
従って、残された者が出来るのは、推量だけである。
或る者は斯う云った。
青山播磨は家宝を、家名を重んじる、古き為人であったのだと。
其の為、菊が家宝である十枚揃いの皿の一枚を割って仕舞ったのを見咎め、奥方が厳しく責めるのを、其れでは手緩いと皿一枚の代わりに菊の中指を切り落とし、手討ちに致すと一室に閉じ込めたのだと。
併し、菊は縄付きの儘に部屋を抜け出し、裏の古井戸に身を投げたのだと。
――然うだと為るならば、如何にも恩知らずと云えよう。
割れば手討ちの家宝を、態とならずとも損なえば然う成るは道理。
高が皿一枚の為に手討ちにされた無念は有ろうとも、悪党の係累となれば罪に問われる処を奉公の口を利いて呉れた大恩有る家に、恨み、祟り、化けて出るは筋が違おう。
否、抑も下女風情が家宝に直接触れる機会が有ったと為るには無理もある。
従って、或る者は斯う云った。
皿を割ったのは奥方であると。
併し其れを隠す為に割れた皿を井戸に放り込み、一枚足りぬ箱を菊に運ばせた後に態々数え直させ、菊が一枚失くしたのであろうと責め立てたのだと。
其の責めに耐えかね、又己が無実を訴えんが為に井戸に身を投げたのだと。
――然うだと為るならば、恨むべきは播磨の奥方であろう。
身に覚えの無い責め苦の元が奥方である事にも気付かぬほど愚かだったと云うことはあるまい。
否、然うであったとしてもである。
最期に身を投げたが皿の眠る井戸と同じであるならば、皿の数えが九枚で止まって了うのも道理に適わぬ。訴えるべきは足らぬ事では無く、此処に十枚目が在ると云う事であろう。
従って、或る者は斯う云った。
播磨は稀代の好色者であったのだと。
其れ故に、奥方が在り乍らも菊に色目を使ったのだと。
併し一向に靡こうとせぬ菊に業を煮やし、態と家宝の皿を一枚隠し、其れを菊の所為であると罪を被せ、思いの儘にしようと為たのだと。
其処を奥方に見咎められ、後には退けず、家宝を損なうは手討ちが定めと斬り伏せ、井戸に投げ込んだのだと。
否々、播磨には妻は無かったと云う者も居る。
只、青山播磨は菊に惚れて居たのだと。
併し、心に決めた相手でも居たのだろう一向に応じぬ菊に可愛さ余って憎さ百倍、家宝の皿を一枚隠し、其れを菊の所為と責め殺してしまったのだと。
故に迷い出た菊の霊に怖れ慄き、正気を失い、終には此の所業に至ったのだと。
――然うだと為るならば、菊が恨むべきは青山播磨であろう。
皿を数えて何に成る。
青山家潰えた後にまで迷い出て何と為る。
従って或る者は斯う云った。
青山播磨と菊は想い合う仲であったのだと。
併し青山播磨に見合いの話が持ち上がり、二心有りやと疑った菊が、割れば手討ちの家宝を打ち割り、粗相と偽り皿と我が身の何方を選ぶかと試したのだと。
播磨は端は家宝と雖人の命に代えられようか、況してや菊ならばと笑って赦そうと為たのだが、菊が態と皿を割り己を試そうと為たのだと知り、偽りならぬ己の想いを疑われた無念に焦がされて自棄になり、菊を斬り捨て、家人を斬り倒し、町に暴れ出たのだと。
――然うだと為るならば、菊が迷い出るは筋違いであろう。
井戸に浮かび出て何に成る。
疑った己の浅はかさを恨み、未練を抱くにしても、皿を数えて何と為る。
従って或る者は斯う云った。
菊は親の仇を討たんと、拝領の皿を割ったのだと。
割れば手討ちは知りつつも、己が親の無念を晴らさんと家宝を損ない、敢えて播磨の手に掛かったのだと。
然う為て死して尚、青山家に祟り、終には播磨の正気を奪い、青山の血筋を絶やさんと企んだのだと。
――然うだと為るならば、其れは逆恨みであろう。
如何に父親と雖、悪党である。
悪党の子も悪党、逆恨みだろうが何だろうが化けて出ると云えば然うかも知れぬが、ならば余計に恨みがましく皿を数える意味は無かろう。
挙げ句、皿など関わり無いと云う者迄在る。
仔細は知らねども、菊が膳に針を紛れ込ませたのだと。
其れを奥方が見咎め、青山家に仇為そうとする悪心有る者、処断すべしと播磨に進言し、依って手討ちと相成ったのだと。
――其れこそ、訳が分からぬ。
元を正せば播磨が菊に懸想をし、罪を被せて云い成りにしようとしたのやも知れぬし、奥方が陥れようとしたのやも知れぬし、真実に青山家に仇為そうとしたのやも知れぬ。知れぬが、其れならば、皿は何処から現れたのか。何処へ行って仕舞ったのか。
此の様に何れも此れも何処か筋が通らぬ。
通らぬが、其れでも仕様が無いのである。
皆――死に絶えて仕舞って居るのだから。
だから、慥かなのは、恐らく青山家には家宝とされる十枚揃いの皿が在り、其の一つを欠いたが為に菊と云う下女がお手討ちに遭い、ご乱心召された青山播磨が家人郎党を斬り殺して出奔、撲り殺されたと云う事。
そして、番町の青山屋敷は今は皿屋敷と呼ばれ、夜な夜な裏庭の井戸より長い髪を振り乱した、痩せた菊の亡魂がめらめらと陰火と伴に立ち還り、皿を数えては、終いまで数え切れずに陰火に身を焦がし、恨めしげな悲鳴と伴に又消えるらしいと云う事。
此の二つだけである。
「其の――皿屋敷が如何致しましたかな」
老爺が然う尋ねると、男は否と口籠もり、視線を下に落とした。
今更乍ら、何を何様話せば良いのかと迷いが生まれた様子であった。
其の姿を見て、老爺は少しだけ思案する様に顎を撫で、それから、僅かに居住まいを正して旦那様と閑かに呼び掛けた。
「手前は旦那様が如何なお方なのか存じませぬ」
抑も数刻前に偶々御手助け致しただけの只の通り縋りに御座居ますよ、と老爺は云った。
「只、旦那様が此の茶屋の前で目を回してお倒れになられました其の場に居合わせたもので御座居ますから、其の御様子が余りに徒事では無さそうで御座居ましたから、斯うして何かお力になれる事も有るやも知れぬと僭越ながらお話しをお聞き致して居ります次第。若し旦那様が云うに云われぬ事情が有ると仰せなので御座居ましたら、無理に聞き出そうとは思いませぬ。手前も温和しく帰るだけに御座居ます」
どうかお気になさいませぬようと、然う云われて男は否と首を横に振った。
「然う云った事ではない」
云うに云われぬ事情などは無い。
否、無いと云い切って仕舞えば語弊も有ろうが、口籠った仔細は其処には無い。
「只――」
少し――
云い難いだけなのだ。
男は改めて周囲を見回した。
僅か六畳ばかりの狭い一部屋であった。
中央に敷かれた薄い布団の上に身を起こしている己と、其の枕元に坐す老爺。
目を醒まして未だ一刻と経たぬが、己の背に負う明り取りから差す日より、倒れてから然程時は過ぎていない物と察せられる。起きて直に、此処は茶屋の二階であると、目の前の老爺から聞かされた。成る程、耳に届く喧噪は平時より一段低い。
二方を土壁に囲われ、左右を障子と襖に挟まれた小さな部屋であった。
恐らくは偶に控えに使うだけの物であり、抑もが客用ではないのだろう。隅には屏風が一架立てて有り、其の手前には盆や湯呑みの備えが幾らか積まれているが、他には何も無い伽藍とした部屋である。微かな埃と黴の臭いに不意に噎せそうに成り、慌てて口元を覆い顔を伏せる。宛がわれた薄い煎餅蒲団が僅かにひんやりと湿気て居る辺りからも、然程使われては居ない事が窺われる。能く能く日干しにされた物ではないのだろう。
否、贅沢は云えまい。
寧ろ茶屋の前で目を回した所を、厄介者とせずに斯うして介抱して貰えて居るのだから、感謝しても好い位である。
然う云った薄暗い部屋に、二人。
「ご老体――」
然う、顔を起こし男は云った。
「吾は其の皿屋敷の検分を、仰せつかったのだ」
「――其れは其れは」
大変な大役で御座居ますねと、老爺は応じた。
「此の老骨の聞き及びます処では、青山家は家督を没収、お屋敷もお上がお召し上げになられるとか。然為れば――」
旦那様は公儀のお役人様で御座居ましたかと、老爺は背筋を正して畏まる。
否、と男は頸を横に振った。
「吾は奉行所の者でも無ければ公儀密偵でも何でも無い。只の縁有るだけの男である」
抑も能く考えて見られよご老体、と男は続ける。
「亡魂騒ぎの検分に奉行所や公儀の者を遣えようか。其の様な怪しげな噺を真面に取り合ったとなれば、世の笑い種ともなろう」
併し、召し上げるに当り、捨てては措けぬのも又道理であろう。
「其れで、表向きには無い、内々の命を承ったのである」
内々の、と老爺は息を呑んだ。
「旦那様、其れは、手前に話しても好い事なので御座居ましょうかな」
好くは無い。
全く以て好くは無いのだが。
此れ以上独りで抱えて居ても埒が明かぬのである。
独りでは行き詰まって二進も三進も行かなく成って仕舞ったのである。
故に、打ち明ける決心を為たのである。
為ざるを得なかったのである。
「ご老体を見込んでである」
声を潜めて男は云った。
「出会った許りで此の様な話を為ても面食らわれるであろう事は解る。併し、其処を曲げてお頼み申す」
ご老体を頼りに出来る、又、口も堅いと信を置いての事である、と云われて老爺は深く息を吐いた。
「此れは此れは、見込まれましたな」
承知致しました、と老爺は頷く。
「手前も覚悟を決めましょう。此処で聞いた話は決して口外致しませぬ。又、旦那さまの話せる範囲、都合の許す範囲で宜敷う御座居ます。手前にお聞かせ願えますかな」
「心遣い感謝致す」
男も大きく頷き返す。
「勿論、吾の答えられる範囲であれば、何なりと答えよう」
其れでは、先ずは、と老爺は口を開いた。
「旦那様は公儀の御役人で無ければ一体如何成る縁にて検分を承る事と成ったのか、其処からお話し頂けますまいか。旦那様は、何処の何様云う御方なので」
老爺が然う尋ねると、男は言葉を切り、唇を湿らせて、徐に口を開いた。
「ご老体、直参旗本青山家、番町の其の前には一体何が在ったかご存知か」
「サテ」
世事には疎い積りは御座居ませぬ此の身、間違うて居りましたらご容赦下さいませと老爺は答えた。
「家光公のご時世、五番町には小姓組番頭に在らせられました吉田大膳亮様のお屋敷が在り、世の者共には吉田屋敷と呼び慣わされていたと聞いて居ります。其の吉田様が赤坂へ屋敷移りになられました後、更地に成りました其の地は天樹院様に寄進されたとか。其の後に天樹院様も飯田町へとお越しになり、其の地は直参旗本青山様へと賜られたと聞き及んで居ります」
「是、其れが世に流布して居る噺であろう」
然う云って男は独り頷いた。
「其れならばご老体、天樹院様の吉田御殿の噺も――存じて居ような」
問われて、老爺は居住まいを正した。
「飽く迄噺としてで御座居ます」
吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で、と云う物で御座居ましょうと老爺は続けた。
「真実か何様かは存じませぬが、豊臣秀頼公、本多忠刻公と二度夫と死に別れた婦盛り天樹院様は、吉田御殿に移られた後、夜な夜な男を引き摺り込んでは弄び、事が外に漏れぬようにと殺めては古井戸に打ち捨てたと、然う云う口性無い町人の、只の噂噺に御座居ます」
「其処迄詳しいのであれば、勿論其の末も、存じて居よう」
更に水を向けられ、老爺は肯と答えた。
「如何に口を塞いでも何処からか斯う云ったことは知られずには措きませぬ。終には吉田御殿の前を通る男は無くなって仕舞い、天樹院様は為方無く御殿の表役花井壱岐と云う侍をお囲いに成ったと聞いて居ります。併し、其の花井が又天樹院様お側の侍女竹尾と人目を忍ぶ仲と成りましたが為に、此れに気付くや否や悋気に駆られた天樹院様は先ず竹尾を捕らえ、此の顔で壱岐を誑かしおったかと焼火箸で竹尾の顔を無茶苦茶に致した上、花井壱岐共々薙刀で斬り殺し、件の古井戸に投げ込んだものと――」
其の後、古井戸より亡魂が立ち返り、心を改めた天樹院様はふっつりと色狂いをお止めになられたと聞き及んで居りますと老爺は云った。
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