後
莫迦莫迦しい、と轟業右衛門は鼻で笑った。
遠江国は佐夜の中山に、夜泣石と呼ばれる石が在る。
石と云っても矮さな何処にでも在る様な物では無く、巨きな丸石である。松の根元に在る事と、其の一部に刃物で欠いた様な傷が在るのが目印に成ると云われて居る。
夜泣と云うには来歴がある。
佐夜の中山は東海道の三大難所の一つと云われる。
東海道は天下の五街道の一つ。
故に旅人も多く、又、其の旅人を狙った賊も出た。
扨、或る日の事、近くに住むいしと云う身重の婦が独り、佐夜の中山の頂上に在る久延寺へと、夜も明けぬ山道を急いで居た。
いしは臨月が近く、由緒正しき久延寺の観音様へ安産祈願を志したのである。
其れならば昼間にでも行けば好いと人は云うであろう。勿論然う為た所で咎める者等居はしない。其れはいしも分かっては居た。併し、いし自身が其れを是とは為なかった。臨月間近とは云え、仕事もせずに只参詣に行く事が憚られたのである。翻って云えば、何かの序でに寄る位ならば許されようと、然う考えたのである。
いしの懐には、稼業の仕入れの代金が有った。
詰りいしは、商いの支払いを為る序でにと久延寺へ足を向けたのであった。
無事安産祈願を済ませ、次に支払いを済ませるべく麓の菊川の里へと急いで居たいしは、道端の松の根元の丸石の処で不意に陣痛に襲われた。
他に縋る者も無い刻限の事。丸石に背を預けて額に汗して苦しんで居ると、其処に一人の男が通り掛かった。
男は蒼白い顔で苦しむいしを見付けて何事かと近付いては来たのだが、ふと、いしの懐から覗く胴巻に気付くと、魔が差したのであろうか、やおら刀を抜き放ち、腹を掻っ捌いて胴巻を奪い、雲を霞と逃げ去った。
一方残されたいしは、偶々刀の切っ先が丸石に当たって断ち割られずに済んだ事もあり、辛うじて息を繋いでは居たが、此の儘では数刻と無く息絶えるのは逃れようが無い様であった。薄れゆく意識の中、腹の子を護ろうとでも思ったのであろうか、いしは有らん限りの力で丸石にしがみつき、然して其の儘息を引き取った。
其れ以来、無念の霊が乗り移った丸石は夜に成ると泣くのだと云う。
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ――と。
其の様な事が有る筈が無い。
石が泣かぬは殊更改めて云う迄も無い事である。
況してや啾々と、或いは哭々と泣くのならば未だ分からなくも無い。
併し、母親が居ておぎゃあおぎゃあと泣くのでは訳が分からぬ。
挙げ句、割かれた腹から生まれ落ちた子が居ると迄語る者も在るのだから、荒唐無稽にも程がある。
夜泣石の泣き声に気付いた近くの者が赤子を拾い育てる事に成った等とも云われるが、其れこそ重ねて有り得ぬ話である。
医術の心得の有る者でも、妊婦の腹を開いて生きた嬰児を取り出すは至難である。
況して不埒者に割かれた腹から等と云うのは見た事も聞いた事も無い。
其処へ来て、夜泣き、人を呼ばう、石に憑いた母の霊である。
有り得た話では無いように思える。
人は死ねば其れ迄である。
業右衛門とて死んだ事は無いのであるから、真実に然うかと問われても慥かな事は云えぬ。
併し、死した者が何かを為出かす等と云う事は考えられぬのである。
若し然うであるならば、刀振りを生業と為る業右衛門の周りには凶事が絶えぬ筈である。
其れが無いのであるから――
矢張り死ねば其れ迄なのであろうと、業右衛門は思って居た。
転と業右衛門は辺りを見回した。
刻限は寅の刻に差し掛かろうかとして居た。
何も業右衛門は伊達や酔狂で夜泣石を嘲笑ったのでは無い。
只、目の端に丸石が目に止まったが故に、思い出したに過ぎぬ。
場所は云う迄も無く佐夜の中山。
今日も今日とて躰の火照りに堪え兼ねて、宿を走り出たのは幾ら許り前の事であったろうか。
気付けば難所と謂われる峠をも踏み越えようと為て居る処であった。
冷と夜風が頬を撫で、吐息と共に吐き出された業右衛門の体内の熱を吸い取って行った。
毫し許り気が落ち着いて、業右衛門は緩々と其の大石に近付いた。
成程、慥かに松の根元に転がる其の丸石には刀傷らしき欠けた痕が在った。
此れこそが件の夜泣石に相違在るまいと、傷を撫で乍ら小さく頷く。
すらりと腰の物を抜き放ち、月光に煌めく白刃を閑かに宛がってみた。
特に意味など無い。
只、自然と出来た傷では無さそうであるから、試してみたに過ぎぬ。
抑も合わせて見た処で何も分かろう筈が無い。
雨風に晒されれば刻まれた刀傷とて薄れよう。
不意に――
ひいっと息を呑む声が為た。
見れば、人通りなど無い筈の山道で、目を円く見開き、怯え切った風の一人の男が、業右衛門から毫し離れた処に立って居た。と、見る間に愕々と震え出し、腰を抜かしたのか平坦と座り込んだ。
其れも仕方の無い事ではあったろう。
何せ、段平を抜き放った大男に山道で出会したのだ。賊か何かと思われるのも当然である。否、悪心が有ろうと無かろうと、恐ろしい物に出会したと思うは当たり前の事であろう。
「お、お助け下され」
と、男は消えそうな声で云った。
「わ、私は旅の者に御座居ます。す、直ぐに立ち去りまする。誰にも云いませぬ。銭ならば全て差し上げまする。で、ですから、何卒、い、命だけは――」
男は震える手を袂に差し込み、幾度も失敗し乍ら、やっとの思いで胴巻を取り出すと、業右衛門の目の前に放り出した。
「こ、此れが私の全財産に御座居ます、此れで、何卒、何卒――」
云い乍ら、摺々と後退る。
然して男はわっと叫んで立ち上がり、道を外れて藪の中へと飛び込んだ。
其の後は、がさがさがさがさと下生えを掻き分ける音だけが瞬く間に小さくなって行った。
業右衛門は何も云わず茫然と其れを見送った。
賊と間違われたのも仕方無い。
其れを訂正為ようにも聞く耳など持たなかったであろう。
何より、勝手に勘違いしたのは向こうである。
目の前に転がる胴巻とて、自分が要求した訳でも無い。
噴と息を吐くと、業右衛門は閑かに歩みを進め、胴巻を拾い上げた。
元々血筋では無い業右衛門に武家の誇りなど無い。
否、寧ろ業右衛門にとって武家と賊は、扶持を貰って人を斬るか、人を斬ってから金銭を奪うか程度の差異でしか無い。
故に、目の前に放り出された胴巻を捨て置く位ならば、己の懐に入れる方が余程自然な成り行きであった。
業右衛門は既に我が物と決めた胴巻の括った紐を解くと、中身を改めた。
男が只の旅の者と云った通り、其の路銀に充てる積りであったのだろう、少なくは無い額が其処には収められて居た。業右衛門はほうと感心した様な声を漏らした。
通行手形は別に為て居たのであろうか、然う云った身元の知れる物は無かったが、胴巻の中には銭の他に、懐紙に包まれた一つの小さな塊が入って居た。
何かと頸を捻り乍ら開いて見ると、中から出て来たのは琥珀色の珠であった。
月明かりに透かし、然うは云っても、何様やら宝玉の類では無さそうだと考えた業右衛門は、薄く笑った。
成程、此れは飴の様であった。
佐夜の中山に於いては、売られる飴が有名である。
其の程度の事は業右衛門とて知って居る。
買った事は無いのだが。
此れが件の其れか。
其処迄考えた所で――
業右衛門の腹が鳴った。
宿を飛び出してから駆け通しであった事を、今更乍ら思い出す。
業右衛門は手に取った琥珀色の塊を口の中に放り込んだ。
甘味が心地好く広がった。
其の多幸感に身を任せ、業右衛門は四半刻程憇もうかと夜泣石に背を預け、瞳を閉じた。
気付けば寝入って仕舞って居たらしく、一刻程して、業右衛門は胃の腑を締め上げられる様な不快感で目を醒ました。
原因の分からぬ強烈な不調。
腹を踏みつけられでも為たかの様な有様であった。
知らず、喉を駆け上がる物が口を衝いて逆流した。
其れでも止まぬ悪心と嘔吐。ぴくぴくと引き攣る腹。
嘗て幼い頃に鳩尾を強か突き上げられた時の事を思い出した。
目の前が暗く成り、ぐらりと揺れる中、夜泣きの大石が二重写しに見えた。
大きく成り、小さく成り、近く成り、遠く成り、丸で息を為て居るかの様であった。
何様したのだ、と業右衛門は自問したが、答など出よう筈も無かった。
足腰の力が抜けて崩れ落ちそうに成り、支えようと伸ばした手が、空を切る。
其の儘、倒と業右衛門は地に伏した。
最早腕にも脚にも力は入らなかった。
見えぬ力で以て押さえ付けられているかの様であった。
肺腑から息が絞り出される。
苦しい。
息が出来ぬ。
此れは――
此れは、生きた儘地に埋められたかの様な。
生きた儘に埋葬されたかの様な。
夜泣石にでも押し潰されて居るかの様な。
伸し掛かられて居るかの様な。
――誰か、と喚ぼうと為たが、声に成らなかった。
意識は瞭然として居る。
其れなのに、躰が応えようとは為なかった。
呼吸が浅く成り、徐々に息苦しさが強く成る。
藻掻く事すら出来ずに横倒しの身と成った業右衛門の耳に何かの声が届いた。
其れは聞かずとも知って居た声で――
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
其れは、もう業右衛門の目には能く見えなかったのではあるが、若しか為ると夜泣石の泣き声であったのかも知れなかった。
――おぎゃあ
斯う為て、轟業右衛門は参勤交代の途上で息絶えた。
夜泣石の怪に引かれたのだと、世の人々は噂し合った。
然うとでも考えねば、
然う云った神妙不可思議な理由が在るとでも捉えねば、
手練れの業右衛門が目立つ創傷も無く斯うも容易く命を奪われるとは、俄には受け容れがたい話であった。
身重であった業右衛門の妻は思わぬ夫の訃報に病み付き、我が子を産み落としは為たものの、死産であったと云う。
時を同じくして、別の一つの噂が流れた。
墓地に葬られた臨月の女が棺桶の中で子を産み、其れを育てる為に飴屋に通っては飴を買い与えていたと云うのである。
嘘か真かは知らぬ。
知らぬが、慥かに掘り返した真新しい墓の中から赤子が見付かった事だけは間違いが無かった。
其の子は、丁度寺の普請に来て居た宮大工の夫婦を後見人とし、行く行くは見付かった寺に引き取られる事に成ったと云う。
――夜半過ぎ、さちは傍らの子の泣く声で目を醒ました。
何様為たのと、声を掛け乍ら身を起こした所で、不意に音も無く月明かりの障子に影が差した。
赤子はより一層泣き噦り、さちは何者かと誰何の声を上げつつ子を確と抱き上げた。
身構えるさちの耳に、細々と陰気な声が届いた。
我が子をお助け戴き有難う御座居ますると、其の声は告げた。
「――そ、然う云うお前さんは若しや」
さちは背筋を卒と冷たい物が走るのを感じた。
其の声はさちの様子に頓着する風も無く、囁く様に続ける。
御礼に一つ好い事をお教え致しまする。久延寺の涸れた御上井戸の水源は、別に御座居まする。寺から毫し離れた山間の、朽ち掛けた古井戸を浚って見て下され。霊験灼かな行基井戸。此方が本来の御上井戸。今も滾々と湧き、飲めば万難万病を祓いまする。櫛を一つ、置いて措きます故、目印に。
然う云うと陰は、噫と嘆息した。
「叶う事ならば今一目我が子にも見えたかったものに」
瞬間、火が付いた様に赤子が泣き声を上げ、さちが視線を落とした其の間に――
宜敷くお願い致しますると声を残し、さちが顔を上げた時には既に其の陰は跡形も無く消え失せて居た。
さちは枕元の小さな木彫りの観音像を握り込み、はらはらと涙した。
翌朝、云われた通りに櫛を探して見ると、慥かに一町程も山に入った処に朽ち掛けた古井戸が在り、縁に櫛が一つ置かれて居た。又泥を浚った古井戸は未だ生きて滾々と水を吐き出して居り、閊えの除かれた古井戸は、由緒正しき御上井戸として見事息を吹き返したのであった。
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