肆
一考為て見るに、恐らく自分は人の手先、指先が好きなのだろうと云う結論に落ち着いた。
繰々と器用に、細やかに、軽やかに、時に大胆に踊る指先ならば、何時迄でも見て居られる自信があった。
其れは幼い頃から然うであり、
何の奉公先でも然うであった。
生まれてから何が気に入らぬのか泣いて斗り居た我が子を持て余し、泣こうが喚こうが知らぬと耳を塞いで溜まった家事に手を出した母の手元を興味深げに見詰めて漸く泣き止んだと云うのだから筋金入りである。
掃除を為て居ても、洗濯を為て居ても、飯炊きを為て居ても、食器磨きを為て居ても、繕い物を為て居ても、常に朋輩の手元が気になった。
幸い要領は好い方で、一度教われば大抵の仕事は熟せた上、手が止まって居ると幾度も注意されて猶、何の朋輩よりも仕上げるのは迅速く、正確しく、丁寧だった。其の御蔭で奉公を罷免になると云う事は無かったが――何様為ても気が付けば手が止まり、飽きる事無く凝と作業を為る其の手元を見詰めて居る事が多かった。
毫し変わった性質ではあったのだろう。
併し、然うかと云って朋輩や主人から嫌われたり疎まれて居た等と云う事は無かった。
寧ろ可愛がられて居たと云って好い。
勤め先にも恵まれたのであろう。
特に好んだのは、細工を付ける手付きであった。
丸で南蛮渡りの手品か何かの様に、面白くも何ともない只の材料が手元で息を吹き込まれて行く様は、心を捕らえて放さなかった。
だから、なのだろう。
細工物を仕上げる細く嫋やかな指先に見惚れ、平時気付けば其の指先を目で追う様に成り、目当ての指が見当たらなければ探して仕舞う様に成り、然して何時しか其の指の主が居なければ落ち着かぬ程に焦がれる様に成ったのは。
然う為て見て居る内に、毫しずつ色々な物が見える様に成って居た。
ふとした時に見せる何処と無く思い悩む陰の有る様子。
全てを忘れて細工に打ち込む真剣な眼差し。
上手く仕上がった時の稚児の様な無垢な笑顔――
気付かぬ間に夢中に成って居る自分が居た。
最初は自分でも能く分かって居なかった様に思う。
此れ迄と同じく、手先指先に見惚れて居るに過ぎないと理由も無く思い込んで疑わなかった。
然うだと云うのに、朋輩から見れば、毫し許り違って居たらしかった。
平時彼の男を見て居る様だけれども、お前さん真逆、惚の字かえ。
然う揶揄われた。
名をとみと云う、肥った女中であった。
奉公も長く、付き合いも長い、凝と手先を見詰める自分の癖も能く知って居る筈の女であった。
違う、と其の時は瞭然と答えた。
然うかえ、其れにしちゃあ能く見て居る様だけれどと、とみは食い下がった。
何にも無い様には思えないよう、彼れは。
只、細工物を為る手付きが一番好いものだから、と応じた。
だから思わず見て仕舞うだけの事。
知って居るでしょうに、私の癖は。
だからだようと、とみは更に云った。
お前さんの癖は能く御存知よ、其れでも今度のは一寸違いそうだから態々斯う為て訊いて居るのさ。
違うと云われて、頸を傾げた。
然うだろうか。
何処か違うのだろうか。
其の様には思って居なかったのだが。
自覚は無い儘に黙り込むと、とみは、まあいいさね、と笑った。
無理に何様斯様為ようって云うんじゃ無いんだから、只の婆のお節介さ。
唯ね――
気付いて遣らなきゃアンタ自身にも可哀想だと思ってねえ。
然う云われても能く分からなかった。
だから、一つだけ尋ねた。
何様して此れ迄と違うと、然う思うのか、と。
とみは驚いた様な呆れた様な表情を作った。
何様してって其りゃあ、アンタが別に細工物を遣って居る訳でも無い時迄彼奴を探して居るからさ。
そんな平時探してなんて――
探してるよ、だってアンタ、見つけた時に其りゃ嬉しそうに笑うんだもの。間違い無いね、彼りゃあ懸想為る娘の顔だよ。
――併し、其の不確かな想いは其れと知る事も、告げる事も叶わぬ儘、一方的に断ち切られて仕舞った。
此の儘行けば次の番頭間違い無しと云われて居た其の男は、或る日、不意に御店を罷めた。
主も引き留めたのだが男の決意は固く、又縛り付けて無理に残す訳にも行かず、仕方無しに認めたのだと云う。
番頭として外で着る正装用にと羽織を注文した矢先の出来事であった。
御店は火が消えた様であった。
無責任だ、勝手だと怒る声よりも、何故だ、何があったと惜しむ声の方が大きかった事が、男の人望を顕して居た。
然う為て、男が居なく成って初めて、想いを自覚したのだから、毫し遅かったのだろう。
其れ迄も腕の好い職人が何かの都合で罷めた事はあった。
其の中に格別のお気に入りが無かった訳でも無い。
併し、慥かに今回許りは違って居た。
嘗て無い、丸で胸に洞然と巨きな穴が空いた様な心持ちであった。
悲しい、寂しい、切ない等と云った言葉では迚も云い表せなかった。
此れ迄とは全く違った理由で仕事にも身が入らず、何を為て居ても常時上の空であった。
今は何処に居るのだろうか、何を為て居るのだろうか、息災であるだろうかと、男の事許りが気に掛かった。
然う為て、もう男が此処には戻っては来ぬのだと思い至るに付け、冷たい風がびゅうびゅうと胸の穴を通り抜ける様な心持ちに成った。
其の風は何時止むとも知れぬ強い風であった。
年嵩のとみは、矢張りとも云わず、只々気遣って呉れた。
然して、辛い思いを為る位ならいっそ勤めを変えてはどうかと勧めて呉れた。
自分を思い遣っての其の言葉に、最初は思わず反発した。
此の店を措いて男との接点は無いのだ。
詰り、御店を離れれば、若し仮に男が戻った時にも、もう其れを知る術も、又会う術も無くなると云う事である。
翻って云えば、其れを呑んで仕舞えば、男が真実に二度と此の御店に帰っては来ぬのだと認めて仕舞う事に成る。
諦めて仕舞うと云う事に成る。
言葉には成らねども然う、察しての事だった。
併し、最初の興奮が去り、落ち着いて暫く考えた末、とみの言葉に従う事に為た。
思えば有り難い言葉であった。
何も世の男は独りだけでは無いのである。
此れも好い経験であったと笑える日も何時か来よう。
切り替える為にも、周りの環境を変える事は決して悪くは無い。
然う云うと、とみは然う思ってくれるかえと感慨深げに云った。
何、お前さんなら直に好い男が見付かるよ、と云ってとみは、じゃあ此れを餞別代わりにと一枚の羽織を取り出した。
此れはね彼奴の為に注文した羽織だよと、勿体振ってとみは云った。
でも出来上がる前に居なく成っちまったし、他の誰かに遣るにも験が悪いし、貰った方も気分が悪い。かと云って無駄に為るのも勿体無い。其処で、屋号を抜いて、仕立てを女物に直して、お前さんに呉れて遣ろうって事に成ったんだよう。
其の分の余計な金子は、とみが出して呉れたに違い無かった。
直ぐには忘れられないとは思うけどね、気を落とすんじゃ無いよと、然う云ってとみはぎゅうと抱き締めた。
二人で零々と涙を流し、斯う為て、喜代は飴職人の弥兵衛への想いを断ち切り、みなと屋の奉公を終えたのだった。
其の様な事が在った所為だったのだろう。
次の奉公先である宮大工の棟梁の下で惹かれる男が現れた時、今度こそは出遅れてはならぬと勇気を振り絞ったのは。
幾ら素気無く袖にされても諦めず声を掛け続けたのは。
其れが一年、二年続き、漸く振り向いて貰えた時、喜代は嬉し涙に濡れた。
次の想い人は、其の名を藤原清永と云った。
併し、其の仕合わせも長くは続かなかった。
清永へ、故郷から早く戻るようにとの矢の様な催促。
修行も一段落付き、清永も仕方無しに重い腰を上げた。
必ず、直ぐに迎えに戻ると約束を為て、清永は京を発った。
残された喜代の心中は思い量って余り有る。
只でさえ恋しき男と離れ離れに成れば、待つは一日千秋の思いであろう。
其処へ差して、思い起こされるのは弥兵衛の事。
今更焦がれたり等はせぬが、嘗ての想い人が不意に居なく成って仕舞った事と現況とが重なり心は千々に乱れた。
清永は帰って来ぬのでは無いか。
自分に何も告げずに居なく成って仕舞うのでは無いか。
有り得ぬとは分かって居る積りでも、もう居ても立っても居られなかった。
然うは云っても清永の故郷等訪ねようにも宛てが無い。大村藩とだけ聞いては居たが、余りに遠く、余りに広い。
逸る気を無理に宥め乍ら半年程が過ぎた頃、奉公先の棟梁の下に仕事の依頼が舞い込んだ。
遠江国は久延寺の普請であり、然う云った依頼は能くある事だった。
唯一つ違って居たのは、何故か只管に棟梁が其の仕事先を喜代に明かそうとは為なかった事である。
普段通りに仕事先と期間とを告げて措けば何様と云う事も無かった筈が、其の態度で喜代は敏と来た。
此の仕事先に清永も居るに違い無い。
棟梁は、自分が傷付かぬ様、先回りして話を聞く積りに違い無い。
然うと察すれば動きは速かった。
宮大工の一行を何食わぬ顔で送り出し、其の陰で支度した旅装束に身を固め、最近は仕舞いっ放しだった羽織を纏った喜代は其の後を密かに追った。
道程は生半では無かった。
長旅は只でさえ命懸けである。
京から久延寺までは七十里程もある。
歩き通すだけでも並の者には難しい相談である。
況してや女一人。
道には掏摸が出る、賊が出る、獣が出る。
危険を挙げれば枚挙に暇も無い。
其れ等を全て無事掻い潜る等絵空事にしか思えぬ。
併し、喜代は辿り着いた。
焦がれた一念が其れを可能に為た。
勿論着いた頃には着物も顔も汚れがこびり付き、杖も裾も襤褸襤褸で、今にも倒れそうな有様であった。
其れでも、喜代は目的の久延寺迄たった独りで見事遣り果せたのである。
然う為て門を潜った喜代は、偶々其処で掃除を為て居た女に目を留めた。
美しい女だった。
着て居る物こそ上等とは云えぬものの、意志の強そうな凛とした眼差し、微かに憂いや悩みの陰を宿しつつも健気に働く立ち居振る舞い、其の何も彼もが只の町人とは生まれからして違うのだと、然う暗に告げて居た。
負けて居ると思った。
薄汚れた装束で女の前に立つのに羞恥を覚えた。
喜代は気後れに消え入らん許りに細く成りそうな声に力を込めた。
「――申し、此方に藤原清永と云う方は居られませぬか」
私は京より参りました喜代と申します、清永様にお取り次ぎをお願い出来ませぬか、然う云うと女は、驚いた様な、困った様な、何とも複雑な表情を見せた。
事を察した棟梁の計らいで空けて貰った久延寺の本堂にて、三人は向き合った。
一人は、京より清永を追って来た女、喜代。
一人は、清永の妻と成った女、さち。
然して一人は、藤原清永其の人。
最初に口火を切ったのは、喜代であった。
「お久しゅう御座居ます、清永様」
「う、うむ」
と清永は唸る様に応えた。丸で都合の悪い所を見咎められた稚児の様な態であった。
清永にして見れば、喜代の下に慥かに自分の事を忘れて呉れと手紙を書いて居る。其れがよもや手に渡って居ないとは想像だにせぬ事ではあるが、だからこそ、此の場に現れた喜代の真意が気に掛かった。
清永自身は、手前勝手な事を云って居る事は充分承知して居る。従って、喜代が不服を唱え、或いは仔細を知らんと為るのは、当然の事と思って居た。併し、其処から先が読めぬのである。説明した所で呑み込んで呉れるとは限らぬ。裏切り者と詰り、悪罵られる位ならば未だ好い方であり、何が何でも呑めぬとされれば如何為れば好いのか、清永には思いも付かなかった。
途方に暮れた清永に対し、真っ直ぐに背筋を伸ばした喜代は、視線を傍らに座る女に向け、問い掛けた。
「其れで清永様、ご紹介戴けませぬか、此方は――」
「藤原清永の妻、さちと申します」
喜代と清永の仲は只ならぬ物と察したらしく、深々と頭を下げるさちの表情は硬かった。
牽制では無い。
只、此処で己の罪を誤魔化してはならぬと、然う思ったのである。
謐と本堂は静まり返った。
互いの吐息すら聞き取れよう程の静寂。
重い沈黙が其の場を埋めた。
誰も口を開かぬ儘に時が過ぎ、然して、不意に破られた。
「左様で御座居ますか」
又も喜代であった。
「申し遅れました。当方、京にて清永様が細工物を学んで居られた折に煮炊きの世話等させて戴いて居りました、喜代と申しまする。此の度は――」
御婚礼御目出度う御座居まする、と喜代は深々と頭を下げた。
明白に強がりであった。
真実は泣いて縋りたかった。
責め詰り、平手の一つでも呉れて遣りたかった。
溜まりに溜まった思いの丈を全て打付けて仕舞いたかった。
併し、然うは出来なかった。
只でさえ見捨てられて惨めな身である。
其の上に更なる醜態を晒す事は、余りに堪え難い事であった。
喜代は指先が白くなる程に拳を握り締めた。
抑も己が惚れた男は、何も考えずに此の様な事を為出かす男ではない。
能く能く深い事情が有るに違い無い。
なれば其処を問い詰めても、清永を困らせるだけで何も変わらぬ。
其れならば――
いっそ決然と別れを告げ、祝福して去るのが好い。
然う考えた。
其れは京女の意地であった。
「私が此方に御邪魔致しましたのは、単なる私用に御座居ます。其の途中、偶々清永様のお勤めが此方と伺い、少し足を伸ばしたに過ぎませぬ。久方ぶりに御目に掛かれて嬉しゅう御座居ますが、明日にはもう発たねばならぬ身、お仕事の手をお止めしては心苦しゅう御座居ます故、此れにて」
末永くお仕合わせにと云い、喜代は今一度深々と頭を下げた。
然して、流石に精も根も尽き果てたのであろうか、翌朝、喜代は目を醒まさなかった。
宿代わりにと勧められた久延寺の宿坊の布団の中で冷たく成って居るのを、寺の小坊主が見付け、住職と棟梁と清永とに知らせた。
清永は泣き、済まなかったと何度も謝り、喜代は懇ろに久延寺へと葬られた。
|
|
|