二人目と云う言葉が妙に付いて回る縁であった。
 藤原さち――旧姓で云う処の水野さちは、()う思わずには居られ無かった。
 さちにとっては二人目となる夫、藤原清永は宮大工である。
 藤原の姓は大本を辿れば貴族か武家にでも行き着くのかも知れぬが、今と成っては其れも定かでは無く、又、探る意味も無い。現況(いま)の藤原家に措いて少なくとも三男である清永は、両親からは余り目も手も掛けられずに育ち、其の結果、権勢からは程遠い(しごと)に就いて居る。
 藤原家の長男、次男迄は流石に違う。(こと)、長男は腰に長物(ながもの)を提げ、城に勤めに出て居るし、藤原家の名を絶やしては成らぬと立派な嫁を娶り、子(まで)()して居る。次男も其れに負けじと勤めに励む日々である。
 (しか)し、其れは飽く(まで)其の程度なのである。
 (かつ)ての隆盛等は、最早無いも同然である。
 現に三男坊は咎められる事も無く市井(しせい)に下って居る。
 ならば――
 調べても仕方があるまい。
 とは云っても、現況(いま)は過去の延長線上に在るのである。
 此れ(ばか)りは変えようにも変えられぬ。
 慥かに調べても仕方は無いが、調べなくとも逃れられぬ物なのである。
 水野家は、藤原家の上役(うわやく)に当たる。
 長い付き合いなのだと聞く。
 其れ故にか、上役と云っても両親同士は壁など無い、気の置けぬ仲であったらしく、さちは(いとけな)い頃から藤原家の三兄弟と(じゃ)れ合って育った。
 生真面目で融通の利かぬ、其れで居て根の優しい実の兄の様な長男と、
 調子が良く軽妙で、喧嘩()る事も一番多かったが一番気の合った友の様な次男と、
 手先が器用で神経の細かい、気が弱く護って遣らねばならぬ弟の様な三男と。
 其の中で、真逆(まさか)末っ子の清永と結ばれる事に成ろうとは思いも()なかったが。
 さちの最初の夫は、轟業右衛門と云った。
 何様(どう)云った男なのか、(つまび)らかには知らぬ。
 婚儀より随分前から両親が噂だけは()て居た。
 剣の腕を見込まれて取り立てられたのだとか。
 一足飛びに徒士(かち)の位を与えられたのだとか。
 今一番の出世頭と目されて居るのだとか。
 其れが己に何様(どう)関係するのか、其の時は分からなかった。
 (しか)し、(しばら)くして否応なく知る事に成った。
 慣れぬ厚化粧と煌びやかな衣装に身を固めさせられ、初めて連れて行かれた高価(たか)そうな料亭の離れにて、何様(どう)口説き落としたのかは知らぬが業右衛門に引き合わされ、挨拶も其処其処に二人きりにされて、(ああ)()う云う事なのだと其処で察した。
 武家の娘に(いな)やは無かった。
 嫁に()くのだと藤原家の三兄弟に告げると、反応は三様(なが)ら似た物であった。
 既に連れ合いを迎えて居た長男は、堅物らしく御目出度う御座居ますと頭を下げた。
 幾多(あまた)の浮き名を流して居た次男は、()のさちがねえ、いや目出度いじゃないかと茶化す様に笑った。
 引っ込み思案で寡黙な三男は、俯き気味の小さな声で御目出度うとだけ云って顔を背けた。
 其れから輿入れ迄は(あれ)(あれ)よと云う間に過ぎ、気付けば婚礼の前日に成って居た。
 さちは自分の行く末について其れ程深く考えて来た訳でも無かったが、此の様な事に成るとは全くの考えの外で、未だ夢でも見て居るかの様な定まらぬ心持ちで居た。
 此の水野の御屋敷も今宵限りかと、最後に庭でも見て措こうかと、濡縁(ぬれえん)に足を進めたさちは、庭に(うずくま)る陰に目を留めた。驚きも恐れも無かった。只、何とは無しに()うでは無いかと思って居た自分が居た事に、さちは(すこ)しだけ笑みが漏れた。
「清永――」
 呼び声に、陰は顔を上げた。
 紛う事無く藤原家の三男坊であった。
 さちが顔を出さねば、否、出した処で気付かねば、此の気の弱い男は如何(どう)()て居たのだろうかと云う考えが頭を掠めた。
 (しか)し、此方(こちら)から声を掛けた以上、もう考えても仕方の無い事である。
 常時(いつも)()うであった。
 清永は何か云いたい事が有っても自分からは云わぬ。
 只黙って居る。
 其れに、さちが気付いて問うて初めて、表に現れる。
 此の歳に成っても()うなのかと、変わらぬ事に奇妙な安堵を覚え(なが)ら、さちは口を開いた。
「嫁入り前の娘の元へ忍んで来るとは不届きじゃな」
 揶揄(からか)いの色を含んで投げられた言葉に、清永は(うん)とも(すん)とも応えずに(じっ)とさちの顔を見詰めた。其処には何も映って居らぬ様で、さちは(すこ)し気圧された。
 弟風情が生意気な、と思ったのやも知れぬ。さちは虚勢を張る様に語気を強めた。
(われ)は轟様の元へ輿入れする身、斯様(かよう)な事は今後有るまじきと知るが良い」
 瞳を合わせてぴしゃりと云ったが、清永の方には臆する気配は無かった。
 其れは常時(いつも)気弱な清永には珍しい事であった。
 故に、云ったさちの方が狼狽(うろた)えた。
 (しか)し、悟られてはならぬ。
 ぐっと(まなじり)に力を込め、さちは黙って清永を睨み付けた。
 ――京に
 京に行く事に成りましたと、ぽつりと清永は云った。
「京に、じゃと」
(はい)
 と清永は頷いた。
 宮大工に成ろうと思って居りますと、清永は続けた。
 昔から器用な手先を活かした(しごと)を為たいと思って居た事。
 縁あって京の宮大工の棟梁の元で学べる伝手が出来た事。
 二人の兄の力添えもあって、(ようや)く両親を説得した事。
 もう明日には京に向かって発つ事。
 其れ等を清永は訥々と語った。
「故に、最後の挨拶に参りました」
 ()う、清永は云った。
「京に、()くのか」
()きまする」
 吾を置いてお前一人で行くのかと、口を衝いて出掛けた。
 其処でさちは、はたと気付いた。
 何の根拠も無く、清永はずっと自分の後をついて来るものだと思い込んで居た。
 何が在ろうとも、清永だけは自分と離れずに居るものだと信じ込んで居た。
 (しか)し――
 何時(いつ)(まで)も変わらぬ(まま)では居られぬのだ。
 胸のざわつきの理由が解った。
 清永が最早自分の知る清永では無いのだと、何処(どこ)かで()う感じて居たからである。
 未だ子供なのは自分の方か。
 頬がかっと熱くなった。
()けば良い」
 熱を其の(まま)吐き出す様にさちは()う口に()て居た。
何処(どこ)へなりとも勝手に()けば良い」
 口に()た言葉は止まらなかった。
「吾にも話さず勝手に決めたのだ、好きに()れば良い。知らぬ。知った事か。常時(いつも)吾の後ろを付いて来て居た重荷が減るのだ、(むし)ろ清々するわ。京で苛められて泣いて帰ってももう知らぬぞ。お前など――」
 お前など何処へなりともさっさと行って仕舞え。
 ()う捨て台詞を遺し、さちは足音高く自室へ駆け戻り、襖をぴしゃりと閉めた。
 清永は其れから暫くは庭に佇んでいた様であったが、二度と襖は開かぬと悟ったのか、ことりと何かを置いて、黙って帰って行った。
 翌朝、女中が濡縁に置かれた木彫りの観音像を見つけ、さちに御注進に上がったが――
「処分して措くから其処に置いておいて頂戴」
 との一言があり、其れ以降、其の観音像を見掛けた者は無かった。

 京に旅立った清永が両親に呼び戻されたのは其の三年後の事であった。
 初めは清永も中々(うん)とは云わなかったが、京での細工物の修行も一段落した時に度重なる催促に遂に折れた。
 ()()て荷物を纏め、遠路遙々戻って来た清永を待って居たのは、縁談であった。
 ()して三年子無きは去れと、世の人は云う。
 旧くは儒教の言葉だとも云うが詳しくは知らぬ。
 知らぬが、子を成さぬは離縁の正当な理由と成る。
 町人下人なら兎も角、武家とも成れば()う云う物なのである。
 清永の連れ合いとして立てられたのは、有ろう事か、()う云う理由(わけ)で轟家から離縁されたさちであった。
 轟家が、業右衛門が何かを云った訳では無い。
 さちから申し出た訳でも無い。
 只、世継ぎを成す事で轟家と切れぬ縁を繋ぎ、本家を立て直さんと狙った水野家の気廻しであった。
 水野家には、轟家に嫁がせるべき次の矢も用意してあった。
 (しか)し、問題はさちである。
 子が出来ぬで離縁されたとなれば外聞も悪い。
 勿論次の貰い手など在ろう筈も無い。
 ()うかと云って家に囲って措く訳にも行かぬ。
 其の苦肉の策が此れであった。
 藤原家は水野家の配下に在る。
 故に、上役からの婚儀の申し入れに(いや)は無い。
 (そもそ)も藤原家には既に跡継ぎが在り、さちの婿にと乞われたのも冷や飯食らいの三男坊である。宮大工に成る(なぞ)と云って家を出た息子に子が出来ようが出来まいが大した問題には成らぬ。(いや)(むし)ろ此れで上役に多少なりとも恩を売れるならば、結び付きを強く出来るのならば、家としては其れも望む所であったろう。
 ()う云う訳で、本人達の預かり知らぬ処で話は(ほとん)ど決まって居た。
 決まって居たが、噛み付いたのはさちであった。
 珍しく親に逆らい、頑として聞き入れようとは()なかった。
 宥めても脅しても(すか)してもさちの意思は変わらず、互いの主張は平行線であった。
 此の(まま)では埒が明かぬと互いに思い、なればと次に選んだ手も互いに同じであった。
 ()くして、さちは清永と実に三年以上の時を隔てて再会した。
 お久しゅう御座居ますと、水野家の離れにて、清永は()う切り出した。
「さち殿は息災にあらせられましたか」
「――病んでは居らぬ」
 ()う、さちは応えた。
「只、生まれついての不具が(あら)わに成っただけの事よ」
「其の様には(おっしゃ)いますな」
 (たしな)める様な清永の物云いに、さちは刹那に激昂した。
「何を云うか、其方(そち)も知って居ろう、吾は其れが理由で離縁されたのだぞ。女として出来損ないと云われ、()うして突き返され、おめおめと生き恥を晒して居るのだ。此れ程の――」
 此れ程の屈辱が在ろうかと、さちは()う叫んだ。
其方(そち)も憐れよな、水野が藤原の上役であるが故に此の様な不具を宛がわれ、(いなや)も云えぬか。断って好いのだぞ、此の様な縁談。誰にとっても益には成らぬ故。其方(そち)が断り難いならば、其の様な事を云える立場には無かろうとも此方(こちら)から断りを入れて遣ろう程に。其れで好いか」
「未だ断ると決まった訳ではありませぬ」
 決然(きっぱり)と清永はさちを見据えて云った。
 其れは三年会わぬ間に京で鍛えられ、自信を付けて一回り大きく成った男の目であった。
 さちは(かぶり)を振って其の視線から逃れようと()た。
 (しか)し、清永は膝を進め、さちの手を握り視線を外さず続けた。
「さち殿の最も辛い時に京に逃げて居た己が云えた義理ではありませぬが、もう逃げませぬ」
 真っ直ぐに自分を見詰める清永の目に堪え兼ねて、さちは顔を伏せた。
「逃げた、とは」
「己は逃げたのです。さち殿が轟家に嫁ぐと聞いて、堪え切れずに」
 苦々しげに清永は()う云った。
「勝手な思い込みであったのです。さち殿は何時迄も傍に居るものと勘違いを為て居りました。其れが心得違いに過ぎぬと思い知らされ、かと云って逆らう事も、心から祝福する事も出来ず、小心な己は京に逃げたのです」
「細工物を学びに行ったのでは無かったのか」
「其れも正鵠(ただ)しくはありまするが、偶々(たまたま)掛かった声に渡りに船と乗ったと云うのがより正確でありましょう。何より、打ち込める物が在った方がさち殿の事を忘れるには都合が好かったもので」
 御蔭で幸か不幸か熱心で筋が好いと能く誉められましたと皮肉な口調で清永は云った。
()()て三年が経ち、何とか仕事も任せて貰える様に成った矢先の此の話、今度こそは逃げませぬ。さち殿を支えさせて下さいませ」
 熱く()う云う清永に、さちは小さく、無理じゃと応じた。
何故(なにゆえ)に――」
其方(そち)には、京に情を交わした(おんな)が居よう」
 其れは女の勘ですら無い、只の当て推量、(いや)、当て付けであった。強いて云えば呼び戻されたのに難色を示したのは想う(ひと)が在ったからでは無いかと思ったからではある。(しか)し大方は、自分では無い誰かと普通の仕合わせを手にするべきだ、(いや)、手にして欲しい、(いや)、どうせ()う成るのだろう、(いや)()うに違い無いと云う複雑な思いの入り混じった物であった。
 気の弱い、優しい此の男は、()()うであるならば其の女を裏切れまい。
 今でこそ吾への同情で思い詰めた様な事を云って居るが、正気に戻れば何方(どちら)を選ぶべきは自ずと知れよう。
 俯き黙り込んだ清永を見て、さちは己の言葉が正鵠を射ていた事に胸中の安堵と鈍い痛みとを覚えて居た。此れ以上の己の醜い所を見せずに済む。同情で清永を縛り付けずに済む。清永は正常(まとも)(あいて)と仕合わせを育む事が出来る。
 ――手紙を
 手紙を書きますると、清永は絞り出す様に云った。
「己の事は忘れて仕合わせに成って欲しいと、手紙を書きまする」
 莫迦者ッとさちは声を荒げた。
「解って居るのか、此れは女の仕事も十全にこなせぬ不具ぞ。(しか)も既に御手付きの年増女。手を出してみたは好いが口に合わぬと下げ渡された食い残し。何を好き好んで其の様な物を引き受けようと()る。()()て一体何に成る。同情は――」
 同情は要らぬと、さちは叫んだ。
「同情ではありませぬ」
 (しず)かに清永は云った。
「慥かに今のさち殿を放っては措けませぬが、己は昔からさち殿を好いて居りました。なれば此の好機、逃す手はありますまい」
 観念して下されと、笑い(なが)ら云う。
 其れは全てを呑み込む事に決めた男の(かお)であった。
「――子は出来ぬやも知れぬぞ」
「さち殿を長く独り占め出来ますな」
「妙な噂も立つやも知れぬ」
「幸い宮大工は流れ者。一所(ひとつところ)に長くは(とど)まりませぬ」
真実(ほんとう)に好いのか」
「望む所」
「後悔するぞ」
「致しませぬ」
 さちは逃げようにも逃げられぬと悟った。
「其れでは――」
 宜敷くお願い致しますると、さちは深々と頭を下げた。

 祝言を挙げ、京の棟梁の紹介で清永が受けた最初の仕事である遠江国、佐夜の中山が久延寺へと急ぎ立ち、其の先で清永は京へと手紙を書き綴った。
 ()()て、清永とさちの新しい生活が始まった。
 久延寺の普請の仕事である。
 細工物の腕を見込まれた清永は主に欄間や手摺の仕事を請け負い(なが)ら、大物の仕事を見て学ぶ。
 さちは宮大工一行の炊き出しや洗濯を他の奥方達と一緒に(こな)(なが)ら、夫の帰りを待つ。
 ()う云った日々の生活に(すこ)しずつ慣れて来た頃、其の女は現れた。
 旅装束に珍しい女物の羽織。
 長い道程(みちのり)を歩いて来たのであろう、薄汚れた姿の女は、久延寺にて偶々(たまたま)掃除を()て居たさちに声を掛けた。
「――()し、此方(こちら)に藤原清永と云う方は居られませぬか」
 私は京より参りました喜代と申します、清永様にお取り次ぎをお願い出来ませぬか。
 さちは、厄介な事に成ったと悟った。


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