三つの季節を跨ぎ越し、そろそろ一年が過ぎようかと云う春の事であった。
 世の人は云う。
 ()して三年子無きは去れ、と。
 元は旧き儒教の言葉とも聞くが、詳しくは知らぬ。
 何であるにしても――
 粒を成さぬは種が悪いか畑が悪いか。
 調べるは(おろ)か、問うも容易(たやす)くは無い。
 (しか)し兎に角、子が出来ぬは夫からの正当な離縁の理由と成り得る。
 町人ならば(また)話も違おうが、(こと)武家に関しては出来ませぬでは済まぬのである。
 血筋を護り、受け継いで行くも武家の勤め。
 現に、自分の前の妻は其れが元で三行半(みくだりはん)を突き付けられたのだと、()う聞いて居る。
 故に、其処から考えれば、自分も()う成るのでは無いかと、()う考えて居た。
 (しか)し――
 嫁いで一年経つか経たぬかの内に食べ物の好みが変わり、炊きたての米が食えなくなり、身の怠さと重さに堪え兼ねて医者に診て貰った所、どうも(はら)胎児(ややこ)が宿った様であると、医者は多恵に()う云った。
 其の報告を抱えて帰った多恵に、亭主は喜びも怒りも戸惑いも()なかった。
 只、()うかと一言だけ云って、話は(おわ)った。
 強いて云えば、其の後に食事の事や掃除の事等を少々尋ねられた程度である。
 其れも別に多恵を気遣ってと云うよりは、己の生活が何様(どう)変わるのか、出来るだけ変わらずに在って呉れれば好いがと、()う云った処から出た物の様であった。
 恐らく関心が無かったのであろう。
 子が出来る様な真似を()て措いて関心が無いも何も在ったものでは無いが、兎に角()うとしか思えぬ対応であった。
 仕方の無い話ではある。
 元依り当人が望んでの婚礼でも無かったのである。
 只、勧められるが(まま)に其の必要も有ろうかと思った末の事であった。
 多恵も其処は分かって居た。
 故に、余り亭主を責める事は出来なかったし、()なかった。
 逆態(はんたい)に、其の報せを聞いての多恵の両親の喜び様は並では無かった。
 出来(でか)した、()()ったと誉めそやし、諸手を挙げて歓待した。
 ()う、先妻の離縁の陰で動いたのは当人と云うよりも此方(こちら)であった。
 地続き縁続きを願っての差し金である。
 善い悪いと云った話では無い。
 唯の惚れた腫れただけでは済まぬ物なのである。
 武家の婚礼と云う物は。
 と云っても、正確(ただ)しくは多恵は武家の子女では無い。
 多恵は遠江国は菊川の出である。
 生まれも育ちも町人であり、余程見初められでもせぬ限り武家に輿入れする様な事など起こり得ぬ筈であった。
 ()う考えると、多恵にも其の子にも()して関心を持たぬ亭主の元に嫁いだ事自体が有り得ぬ話に成る。
 (しか)し、現に多恵は武家の奥方である。
 ()うさせたのが、今の多恵の両親である。
 ()う云っては何だが、多恵の器量は悪くは無い。
 町人の家に育った事もあり、家事全般に出来ぬ事も無い。
 四人の兄と二人の姉を見れば、何方(どちら)かと云うと多産の家系であろう。
 其処に目を付けたのが遠縁の水野家、即ち今の両親であった。
 金を積み、時を掛け、実の両親を口説き落として、多恵は水野多恵と成った。
 ()して――
 多恵は轟家の後添えとして(すぐ)に嫁いだ。
 先妻は水野家の実の娘であったと聞いて居る。
 (しか)し、三年経っても子が出来ず、離縁と相成ったそうである。
 亭主は何も云わなかったそうであるが、四年目に水野家の方から申し出て娘を引き取り、代わりに養女と成った多恵が宛がわれた。
 (さき)の娘が其の後何様(どう)()ているのか(つまび)らかには知らぬ。
 何処(どこ)かに改めて嫁いだのだとだけは聞いた。
 (しか)し其れ以上は聞くに聞けぬ(まま)、今に至る。
 (そもそ)も亭主である轟業右衛門は、水野家にとって其処(まで)()る価値の有る男であったのか、と云う処も正直疑わしい。
 今でこそ参勤交代の露払いとして其処其処の(ろく)を食んでは居るが、元は他に身寄りの無い一介の素浪人である。
 (しか)し、剣の腕だけは滅法(めっぽう)立った。
 元々何を()て居たのかは誰も知らぬ。
 只、現藩主との縁は其の参勤交代と剣の腕であった。
 一年置きに江戸と国許(くにもと)とを往復する参勤交代。其れは遠国(おんごく)であればある程藩の財政を逼迫した。
 徳川(とくせん)将軍家からは、従来の大名行列では国勢、人民を疲弊させるが故に相応に減らすべしとの通達もあり、(むし)ろ節減を求められは()たものの、出来る事にも限りがある。
 従って、遠国の大名は国許を発つ時には鳴り物入りで発ち、途中の人員は成る丈減らし、江戸に入る直前に口入屋(くちいれや)を介して中間(ちゅうげん)折助(おりすけ)(やっこ)として雇う様に()て居た。其の方が行列の旅費を賄うよりも(やす)くついたからである。
 ()()て雇われた中に業右衛門は居た。
 目立たぬ男であった。
 中間と云うのは(なり)のみ武家の様ではあるが、元は百姓の次男、三男、でなければ食い詰め浪人や素性の知れぬ流れ者の寄せ集まりであり、忠義や誇り等と云った物は無い。故に雇い主の名だけを笠に着て無闇に暴れる者も少なくなかった。
 其の中に居て業右衛門は、中間同士で博打に興じて居る時も、酒を呑んで居る時も、喧嘩を()て居る時も、只遠巻きに見て居るだけで加わろうとはしなかった。呼ばれても詰まらなさそうな顔で頸を横に振った。
 業右衛門が矢面に出たのは一度だけである。
 中間は武士と町人の狭間(はざま)に位置するが故に中間(ちゅうげん)と云う。
 其の為、最下級の武士である足軽からも蔑まれて居た。
 ()して、足軽の中にも性質(たち)の悪い者も在る。
 酒に呑まれれば、云わずとも好い事を態々(わざわざ)口に()る者も居る。
 中間は己よりも下の者と()う考えて居るのだから、居丈高に絡んで来る事もある。
 其の時も然様(そう)であった。
 禄を食む己達とは違う、只の雇われ雑兵が大きな顔をするのが気に入らぬ。与えられた褒美も我らが有意義に使って遣ろうでは無いかと()う云って、輪から外れて居た業右衛門の懐に手を差し入れた足軽を、業右衛門は立ち上がり(ざま)、黙って逆さに斬り伏せた。
 場は途端に色めき立った。
 (しか)し業右衛門は落ち着いたもので、冷ややかな眼差しを注ぎ(なが)ら、此れが禄を受けた足軽の遣る事かと(しず)かに問うた。
 黙れ黙れと気勢を上げる足軽連中に、業右衛門は、同じ主君に仕える身なれども遣る方無しと呟くと、白刃を閃かせ瞬く間に三人の足軽を斬って捨てた。
 ()して――
 ()だ遣るかと、再び(しず)かに問うた。
 此れで、其の場は収まった。
 足軽共は仲間の身体を抱えて這々(ほうほう)(てい)で逃げ出し、中間共は歓声を上げた。
 呑めと酒を勧める者も在った。
 肩を抱き褒め称える者も在った。
 後々、()の様な沙汰が下るかは知れなかったが、兎に角、足軽連中に絡まれる事はもう無いものと思えた。先を恐れる者も在ったし、心配する者も在った。又其れも当然ではあったろう。
 (しか)し、報せを受けた主君からは逆態(はんたい)に其の腕を買われた。
 其れ所か中間にして措くには惜しいと、徒士(かち)に取り立てられた。
 徒士(かち)とは足軽よりも上の正式な武士であり、身寄りも後ろ盾も無い一介の浪人に対しては破格の扱いであった。
 ()()て轟業右衛門は其の腕と共に名が知られる様に成り、主君の国許に屋敷を構える事を許されたのである。
 此の様に業右衛門は、罪を咎められる所か瞬く間に出世()て仕舞ったのだから、何か其処には裏が有るのでは無いかと考える者も在った。若しや主君の隠し(だね)か、否々(いやいや)もっと高貴な出自なのでは無いか、()う云った声も在った。単に、形式張って剣の道を忘れ掛けて居る武士の中に新風を吹き込みたかっただけかも知れぬと唱える者も在ったが、(いず)れにしても――
 轟業右衛門は今一番の出世頭かも知れぬと、()う目されて居たのであった。
 其の様な不確かな立ち位置ではあったが、其処に食い付いたのが水野家であった。
 (かつ)ては其れ成の栄華を築いていたらしい水野家も今は最早其の面影も無く、藁にも縋る思いで何とか取り入ろうと画策()た様であった。
 ()う云った思惑等は多恵には、何ら関係の無い話であったが。

 轟家に嫁いでより、多恵が仕合わせであったかと問われると答えるのは難しい。
 少なくとも子が出来る(まで)の一年(ばか)りは、決して仕合わせだけであったとは云えまい。
 己の望んだ婚礼では無かったとは云え、暮らし向きの然程(さほど)良くなかった家族へ義両親から与えられた望外の金子(きんす)を見れば多少の事には目を(つむ)り口を閉ざし、只呑み込むより他無かった。故に其処に関しては仕方無いと割り切りも()た。
 武家に輿入れを()たからには跡継ぎを産まねばならぬ。其れを義両親が期待して居るのは分かり切った事であったし、養子縁組を呑んだ以上は此方(こちら)も呑まねばならぬ事は云わずとも明らかであった。故に子を責付(せっつ)かれるのにも()えた。
 落魄(おちぶ)れ掛けて居るとは云え(いま)許多(そこら)の町人よりは財の有る水野家。主君に拾われて後、参勤交代には欠かさず随伴され、近頃徒士組頭に抜擢された主人、業右衛門。扶持や援助は充分以上に有り、暮らしは(むし)ろ大変好かったと云って好い。受胎が知れてからは特に()うで、見舞金等も合わせれば余る向きさえあった。
 出産も近く成り、勤めで家を空けがちで他に頼るべき者の無い業右衛門の屋敷や、縁の薄い水野の御屋敷等では無く、出来る事ならば実の両親の元で産みたいと云う多恵の申し出に義両親は反対するどころか是非()()ろ、其の為には援助も惜しまぬ、其の代わり無事に子を産めと諸手を挙げて賛成()た。御蔭で多恵は菊川の実家に戻り、足りぬ物は無いか、作りの好い布団や産屋は要らぬかと産前の不安定な時期に下にも置かぬ丁重な扱いを受ける事が出来た。
 其の辺りを(すべ)勘案(かんあん)()れば、悪い事ばかりでは無かったと云う位は許されよう。

 
 大きく風向きが変わったのは、業右衛門が都合五度目の参勤交代に随伴してからであった。
 業右衛門には(すこ)(ばか)り変わった癖が有った。
 (いや)、癖と云うのは正鵠(ただ)しくは無い。癖と云うのは、何様(どう)にも左右の釣り合いが悪くて歩く時に右肩が下がるだとか、左頬の痘痕(あばた)を手持ち無沙汰になると触って仕舞うだとか、考えが足りずに妙に人を苛立たせる口利きを()て仕舞うだとか、兎に角其の元と成る何かが在って初めて表に現れる、謂わば後付けの物であろう。(しか)し業右衛門の其れは違う。(ただ)、何故か()う云う造作(つくり)で生まれて仕舞ったとのだしか云い様が無い。
 幼い頃から()うであったのだから、何様(どう)やら生来の物であったのだろうと思われる。
 理由など分からぬ。
 原因など知れぬ。
 只何故か(からだ)が火照るのだ。
 其れは決まって寅の刻の辺りの事であった。
 経験上、夏も冬も、季節の関わりは無い様だと学んで居た。
 指趾(ゆび)の先から丸で火でも灯ったかの様にじりじりと熱くなり、気が付けば腕に、腿に広がって居り、背筋迄届いて仕舞ってはもう堪えられぬ。其の熱に脳髄を炙られる様な心持ちで布団を撥ね除けると、喩え冬の最中であろうとも、降り(しき)る雪の中にさえ飛び出さずには居れなかった。
 (じっ)と寝て居ても駄目なのだ。
 水を被っても変わらぬのだ。
 只、動き回って熱を散じて居れば其の内に収まるのだと、何時(いつ)からか学んだ。
 故に()()無く夜中に駆け回る癖が付いた。
 ()う、癖と云うならば此方(こちら)が適当であろう。
 夜中に駆け回り、転げ回り、暴れ回り、ぐったりと疲れ切る程に熱を発散して、(ようよ)う元に戻る様な生活が何年も続いた。
 其れは主君に拾われてからも同じであったし、先妻や多恵を迎えてからも大きくは変わりはしなかった。
 不都合、不自由、(ある)いは不便と云う事も出来たろう。
 (しか)し、参勤交代の途上に在っては、其れも只無益なだけの物では無かった。
 長き道程(みちのり)を歩き通す其の途次(みちすがら)、先行きの下調べを欠く事は出来ぬ。
 事件は無いか、事故は無いか、疫病は無いか、賊は無いか。
 勿論前(もっ)ての申請依り道を変える事は出来ぬ。
 (しか)し、先々に不都合が無いかの確認を()るのと()ぬのとでは大きな違いが在る。
 先々起こり得る事に構えや備えが出来るのと出来ぬのとでは大きな差が顕れる。
 其処に業右衛門は嵌然(びったり)と収まった。
 徒士組頭と云う職に在りながら、業右衛門は部下を引き連れず独りで夜中に抜け出し、道の先(まで)駆けて行っては確かめ、駆け戻って朝には合流()ると云う仕事を誰に云われるでも無く、夜毎繰り返した。
 其の御蔭で避けられた無用の揉め事も幾らか在り、又、業右衛門は何様(どう)やら独りが好い性質(たち)らしいと思われた所から敢えて口や手を出す者も無く、自然と()う云う物だと皆捉える様に成って居た。
 (そもそ)も夜中に人の倍近くも駆け回ると云うのは――業右衛門にとっては日課に等しく、(むし)()らねば己が(つら)いのだから先見(さきみ)など其の(つい)でと思って居た程度であったが――他の誰にとっても苦行にしか見えぬが故に望んで付き合おうと云う者は無かった。(しか)も業右衛門は云わずと知れた剣の巧者である。故に心配する者とて無く、邪魔を()る位ならばと皆が感謝こそ()れども其処止まりであった事は、責められはすまい。
 其れが、結局(あだ)に成ったのである。
 何があったのかは知れぬ。
 知れぬが――
 業右衛門は死んだ。
 刀傷は無かった。
 (いや)創傷(きず)と呼べる物自体、倒れて出来たと思しき幾らかの擦り傷や打ち身が精精で、何様(どう)して死んだのか皆目見当が付かなかった。
 只、噂だけが在った。
 夜泣石(よなきいし)に呼ばれたのでは無いかと。
 業右衛門の遺骸(なきがら)が見付かったのは、或る大岩の下であった。
 東海道は佐夜の中山に、夜泣石と呼ばれる大岩が在る。
 何でも、(かつ)て此の岩の下で孕み月の女が賊に襲われ、腹を掻っ捌かれて死んだのだそうだ。
 其れ以来、大岩に母子の魂が浸み入ったのか、夜中になると泣くのだと云う。
 おぎゃあ
 おぎゃあ
 おぎゃあ
 おぎゃあ――と。
 真実(ほんとう)何様(どう)かは分からぬが、剣の達人である業右衛門が傷も無く、夜泣石の下で死んで居たのであるから、世の人は()う噂した。石の泣き声で黄泉路へと誘われ、魂魄(たましい)を抜かれて仕舞ったのであろうと。
 ()う考えるより他、仕方が無かったのである。

 思わぬ轟業右衛門の訃報に一番慌てふためいたのは水野家であった。
 出世頭と目されて居たし、事実徒士組頭迄は昇進した。(しか)し此れでは未だ到底充分とは云えぬ。轟家の地位は、盤石とは程遠い吹けば飛ぶ様な位置にしか無い。世継ぎも未だ無い。()うにも関わらず当主の業右衛門が死んで仕舞っては何様(どう)にも成らない。
 水野家は真っ二つに割れた。
 一方は、轟家はもう駄目だと見切り、水野家は別の生き残りの策を講じるべきだと主張した。轟業右衛門は元は素性の知れぬ無頼の徒。なれば手遅れに成らぬ内に、打つ手の有る内に、早々に見限って仕舞うのも一つの手であると声高に唱えた。
 他方は、懐妊した多恵に願いを掛け、何とか轟家の名と役と禄だけでも残すべしと主張した。折角養子を迎えて(まで)用意した手駒を見す見す損なうのも勿体無い。何、産んで仕舞えば何様(どう)とでも成ると()う威勢良く(うそぶ)いた。
 何方(どちら)にも言い分が有り、解答(こたえ)は直ぐには出そうに無かった。
 従って、議論の結論は一先ず先送りに()る事に成り、(いず)れにせよ母胎が第一、多恵に無用な負担を掛けては成らぬと箝口令を敷く事に成り、()して其の早馬が菊川の実家へと走った時には、既に遅かった。
 佐夜の中山は菊川の村から目と鼻の先である。
 参勤交代途上の不祥事となれば、人の口の端に上るのは避けられぬ。
 (しか)も妖しげな怪異の仕業と噂されれば猶更である。
 水野家の使いが菊川の里に着いた時には多恵は既に何処からか主人の死を伝え聞いて居り、(おそ)れて居た通り其れが負担と成ったのか床に伏し、水野家の用意した離れで病み付いて仕舞って居た。誰にも会おうとせずに時だけが過ぎ、()して其の(まま)――多恵は子を産んだ。
 死産であったと云う。
 其れが最後の後押しを()て仕舞ったのか、多恵は気が触れて仕舞ったのだと云う噂が立った。其の証の様に、数日の間は多恵の暮らす離れからは死んだ筈の赤子をあやす様な声が引っ切り無しに聞こえて居た。
 水野家は完全に打つ手を失った。
 家を立て直す為にと縁を繋いだ轟業右衛門が逝き、
 頼みの綱と()て居た業右衛門の子が死産となった今、
 主人と我が子を立て続けに亡くした憐れな多恵を責める訳にも行かず、
 只下手に触れぬ様にだけ()て時が過ぎるに任せるしか無かった。
 (しか)し、其の状況も或る日、断然(ぱったり)と変わった。
 離れからの村の者の前に姿を現した多恵は以前と変わり無く、丸で憑き物が落ちたかの様であった。
 ()()て――
 主人と我が子の菩提を弔いますると云って出向いた久延寺にて、飴買い幽霊の話を耳に()た。
 此れこそが御仏(みほとけ)のお導きだったのかも知れぬ。
 墓所に葬られた娘の産んだ子の話を聞くや否や、乳が張った。
 死産であった我が子の代わりに此の子を育てよと云う思し召しかと感じた。
 片や母親の亡き赤子。
 片や子の亡き母親。
 居ても立っても居られず、乳母を()(つも)りは無いかと住職が口に()るより先に(くだん)の藤原清永の家の場所を問うた。
 ()()て、寺男の案内に従って藤原家を訪ねた多恵は、其の屋敷を見るや否や意気込んで戸を叩いた。
()()し、(わたくし)、轟多恵と申しまする。藤原殿が乳母の口を探して居られると伺い、()うして(まか)り越しまして御座居まする。何卒(なにとぞ)何卒(なにとぞ)お目通りを――」
 余りの勢いに寺男が驚いた様に袖を引こうとしたが、多恵は止まらなかった。
(わたくし)の子は天命足らず、此の世に生を()ける事が叶いませなんだ。其れに塞ぎ込んでおりました処、久延寺(さま)にてご紹介を受け、()く参りまして御座居ます。是非とも、藤原殿の御子の御世話をさせて戴けませぬか」
 多恵の呼び掛けに、ぱたぱたと奥から誰かが表に出て来る音が応えた。
肯々(はいはい)、聞こえて居りますよ、轟多恵さんと仰いましたね」
 次いで、がらりと戸が開いた。
「聞けば憐れな身の上、此方(こちら)としても初めての子育てで勝手も分からぬ故、手伝いならば是非お願い致したく――」
 出て来た女の云い掛けた言葉が止まる。
「――おや、轟と云う(なまえ)から真逆(まさか)と思って()ったに、其方(そなた)()しや――」
 菊川の多恵ちゃんかえ、と女は問う。
(かつ)て一度だけ会うた事が在ろう。憶えておいでかえ、(われ)は水野の――」
「――()しや、さち殿」
 と掠れる様な声で多恵も応える。
 何の巡り合わせであろうか、遠縁同士であり、同じ主人に嫁いだ女が二人、思わぬ場所で顔を合わせ、目を(まる)()た。



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