壱
四代目に成る扇屋の主人、実吉の複雑な心情を一言で表すのならば――困惑が一番正鵠しかった。
扇屋と云うのは屋号であり、其の商いは代々続く飴屋である。
初代が何の様な思いで舗を開いたのかは知らぬ。
誰に学んだのか、何様して其れを売るに至ったのか、何故に此の様な処に舗を構えて居るのか。然う云った所は何一つ伝わって居らぬ。
只、三代前より何変えるでなく黙々と売り続けて今に至る。
舗を継ぐ事に異論は無かった。
生まれて此の方、其れ以外の生き方を知らぬ儘に育ったのも一因ではあったろう。
併し、小さい頃から学び倣った飴作りを生業と為る事に不満は無く、其れが一番己にも向いているのだろうと、然う、自然と思ったのも慥かである。
只――
真実に継ぐと決めた時には、売れる筈が無いとも思った。
抑も其の商いが、見た目に飾り、味に工夫など有りはしない、何処にでも在る水飴である。
人通りの多い町中ならば目を付け手に取る物好きもちらほらとは居ように、幾ら街道筋とは云え山の中、坂の途中に舗を構え、商いが成り立つとは到底思えなかった。
慥かに目の前を絶えず人は行き交う。
併し、過ぎ行く旅人の多くの目は前に向く。
其の道の途中で、脇の小さな舗に目を止める者は然程多くは無い。
況してや目を引く程の売りなど無い只の琥珀色の水飴である。
強いて云えば世に売られる水飴よりも固めに煮詰めてあり、竹筒に流し込む迄も無く固飴と同様懐紙に包めば粘る事無く持ち歩けるのが特徴とも成ろうか。故に、旅のお伴には為易かろうと、其の位の事は思い付く。
併し、云って仕舞えば其れだけである。
街に出れば見目鮮やかな細工を施された鼈甲飴等幾らでも売られて居る。買って行くならば其方を選ぶのが人情と云うものだろう。
誰が好き好んで飾りの無い、無骨な飴など買い求めようか。
然う思って居た。
併し主人に成って初めて気付いたのだが、飴は思ったより売れた。
飴を作るには餅米が要る。白米が要る。麦が要る。
作り上げるのにも半日以上掛かる。
其の癖、売れても大した儲けには成らぬ。
然うにも関わらず、両親は立派に実吉を育て上げたのだから、少し考えてみれば当たり前とも云えよう。
現に当の実吉も、幸いにして妻を娶り、一女一男を儲け、育てるに足る程の実入りを得て、今に至る。
其の子らも、もう手の掛からぬ齢である。娘は早跡継ぎの入り婿を迎え、息子は遠く親元を離れて酔狂にも刀研ぎの修行に励んで居る。何れにせよ、最早親の責務は殆ど果たしたと云って好い。
云う迄も無く其処に至る迄も然程余裕が有ってのものでは無い。
借財こそ無いものの、財産と呼べるものは舗と僅かな蓄えが精精である。
勿論世の人には、其れすら運が好いと評する向きも有ろうが。
遠江国は佐夜の中山。
東海道の金谷宿と日坂宿の間に当たり、古くから箱根峠、鈴鹿峠と列んで、東海道の三大難所と謳われた其の地に、扇屋は在った。
然う云った悪地形が却って善かったのであろうか。
町中であれば争う商売敵も在ろう。
工夫を凝らさねば売れなどせぬのだろう。
併し此処ならば競うべき相手も無く、荒れた峠越えの路には向かぬ繊細な造形も必要無い。
慥かに甘味を買い求めるは女子供と相場が決まって居るし、此の様な難所を其の様な連中が群れ為し行き交う等と有り得る話では無い。畢竟、流石に飛ぶ様に売れると云う訳には行かぬ。
行かぬが、其れでも一家を十分に支える程度には売れた。
峠を越えた処の一休み、或いは此れ拠り峠を越える一踏ん張り、然う云った意味合いで買い求めたのであろうか。
佐夜の中山は小夜の中山とも云う、昼猶暗い、木々草花の鬱葱と繁る山路である。
谷に挟まれた堤の様な、余りに細い路であるから狭谷と呼んだのが名の由来とも伝えられる。
街道筋であるから人通りは其れ成に有る。併し其れも決して多いとは云えず旅人は各々ぽつりぽつりと薄暗い峠を越える事に成る。旅路を共に為る道連れが無ければ、路銀は己自身で管理する依り他は無く、又、遠路を辿る都合から、其の懐には或る程度の蓄えは忍ばせて有るものである。
其の極僅かな一部ならば、飴に遣って仕舞っても勿体無くは無いと、皆考えたのかも知れぬ。
然う、道行く者の多くは、懐に寡く無い金子を抱えて居たのである。
従って――
逆態に云えば、其れを狙って佐夜の中山には賊が出た。
此処を根城に為る獰悪な者は無かったが、襲われる者も度々居た。
顔を隠し、段平をちらつかせ、金子を脅し取るだけならばまだ善い方である。
性質の悪い奴になると問答無用で袈裟懸けに切って捨てられる。其の上で懐を探られる。事に依ると其の儘山野に打ち棄てられ、山犬に荒らされ、死体すら見つからぬ事すら有る。
斯く云う実吉の一人娘のいしも、幾年か前に此処中山峠で賊に襲われて命を落として居るのである。
入り婿を迎え、祝言を挙げ、程無く胎に児が宿った其の頃の事だった。
中山峠の頂に久延寺と云う山寺が在る。
然程大きな寺では無い。
街道の難所に在る為、便も悪い。
併し斯う見えて、大和国の大盧舎那仏で有名な彼の行基大僧正の開基と伝えられる、由緒正しき寺である。
其の詳らかなる処の書き付けは度重なる戦火で失われて久しいが、然う伝える由来有ってか、祀られた観世音菩薩様も霊験灼かと聞く。
時代は下るが、徳川家康公も、会津上杉攻めの為東海道を東へと走る其の途中、当時の掛川城主であった山内一豊に境内にて茶亭を建て接待されたとされる、大層な歴史の有る寺でもあるのだ。其の際に水を汲んだと云われる御上井戸も、最早水は涸れ、形だけと成っては居るものの今尚残って居る。
其の久延寺を――
或る日、扇屋を発ち、峠麓の菊川の里へ麦と米のお代を支払いに出向いたいしは、ふと思い出しでも為たのであろう。
成れば一つ、安産祈願でも為て措こうかと、斯う考えでも為たのであろう。
噂にならば賊が出ると何度も聞いては居たものの、当のいしが此れ迄一度も出会した事が無かったのが却って好くなかったものと見える。
稚い頃から慣れ親しんで居たと云う油断も有ったろう。
兎に角、いしは菊川へ向かう前に独りで久延寺へと脚を向けた――様であった。
様であったと云うのは、久延寺の住職が未だ暗い時分に参拝するいしらしき姿を見掛けては居たからである。
併し其の後の足取りは布都と途絶える。
然う為て、中々戻らぬいしの身を案じて居た扇屋の面々に伝えられたのは、下った菊川の里では無く反対に登った処に在る、巨きな丸石に凭れる様にして事切れて居た、いしの無惨な有様であった。
大きく目立ちかけていた腹は真一文字に掻っ捌かれ、懐に有ったであろう胴巻は失われて居た。
物盗りの犯行と見て間違いは無さそうであった。
扇屋は悲しみに沈んだ。
併し何時までも然うとだけ云っては居られなかった。
支払い用の金子を入れた胴巻が奪われたと云う事は、扇屋は大きな借財を抱えたと云う事である。此の儘に為て措いては一族が路頭に迷い、舗も畳まねばならなく成る。
幸い、長い付き合いである菊川の仕入れ先は支払いを待っては呉れた。一家も身を惜しまずに働いた。
併し斯う云った話は、誰云うと無く広まるものである。
孕み女を撫で斬り、金子を奪う凶悪な賊が出たのだと知れば、其の峠は避けるが吉、通るにしても長居は無用であるとは稚児でも容易く知れる。
故に――
悪しき事は重なるの喩え通り、佐夜の中山を越える人足は其れを境に滅限と少なく成った。
行く者来る者も、娘を亡くした扇屋に気を遣ってか、悪縁結ぶを嫌ってか、将亦単に少しでも速く抜けたいと思うものか、飴屋の方には目も呉れず足早に過ぎ去る様に成った。
逆態に娘を亡くした家族に同情してか、予め備え措きたいと思ってか、或いは只の興味本位からか、詳しい処を聴きたいと脚を止める者も幾らかは在ったが――
差し引き売り上げは大幅に落ち込んだ。
元拠り只でさえ薄暗く、鬼魅の悪い峠である。成る丈速く抜けたいと思うのが人情。優雅に弁当等を広げて居れば、賊のみならず魑魅魍魎にすらも、丸で襲って呉れと云わん許りである。
其れ故に、足を止める事無く囓る事の出来る飴は元々都合が好かったのだろう。
又、賊に襲われ道を踏み外しても、いざと云う時の非常食としても重宝したのかも知れぬ。
其の理屈は分からぬでは無い。
其れに沿うならば、売れる道理も頷けぬでは無い。
翻って云えば、危険の程が或る程度を越えると――
人通り其の物が落ちるのは致し方なく、其れに引き摺られて売り上げが落ちるのも想像出来た事であった。
最初の年の売り上げは例年の一割を切った。
次の年も同じ位であった。
三年目にして漸く三割程迄回復の兆しが見えた。
併し、牛の歩みの如き伸びでは扇屋の屋台骨を支えるのは到底無理な話であった。
今以て全盛期の六割から七割が好い処である。
借財は辛うじて増えも減りもせず、只利子だけは嵩んだ。
此の儘では近い内に扇屋を閉めねばならぬ様に成るのは火を見るより明らかであった。
と云うのに――
此の繁盛振りは一体何様為たのかと、実吉は肚の裡で頸を傾げた。
今も、舗の前には門前市を成す勢いである。
妻のりつは喜んで繰々と働いて居る。
元々が働き者で喋り好きな性質なのである。飴屋などと云う客商売に嫁いだのは、其の向き不向きが有っての物でもある。
其処へ差しての此の客入りである。張り切らない訳が無い。
而も――
其の客層が、平時には殆ど見ぬ若い婦が多いと成れば猶更である。
売り口上よりも世間話が多い様にも見えるが、其れが又客を呼ぶのだろうと思えば文句も出ない。
一方実吉はと云うと、奥で只管に飴を拵えて居た。
時折、ちらりちらりと表に目を遣りは為るものの、作り手が回らぬと云うのを云い訳に一切出ようとはしない。
元来口下手で、妻を娶った今でも女と話すには吃りが出る程なのである。向き不向きを云うならば、妥当な役回りと云えよう。
実吉は一旦飴を煮詰める手を止め、表に幾度目か分からぬ視線を送った。
りつは又新しい客に呼び止められた様であった。
幽霊飴――
其の様な詞が実吉の耳に届いた。
扇屋の元からの商い物では無い。
正鵠しくは扇屋の商い物は其の様な名では無い。
併し、古くから売り続けた扇屋の飴を然う呼んで、買い求めに来る者が増えた。
否、増えたどころの話では無い。
今の客の殆どは、其の名を称えて訪れる者許りである。
誰が然う呼び、又誰が曰くを付けたのかは知れぬ。
知れぬが、どうも此の扇屋の幽霊飴を食べると、乳の出が好く成るのだそうである。故に子育て飴と呼ぶ者も在る。
実吉は幼い頃から今の今迄、其の様な話は聞いた事が無かった。
抑も其の様な売り文句を扇屋が唱えた事も無い。
無いのだが、何時しか然う云った話が広まり、幼き子を持つ母親や其の朋輩が我先にと押し寄せる様に成った。
人の波が絶えぬのだから、持ち帰った飴に少なくとも然う云った効能は実際に有ったのだろうとは思う。
作って居る当の実吉とて知らぬ事では、あったのだが。
幽霊飴と呼ばれる様に成ったのには仔細がある。
買いに来た――そうなのである。
他でも無い――幽霊が。
売ったのは有ろう事か当の実吉である。
勿論其の時は、幽霊である等とは知る由も無かったのである。
今でも真実に幽霊であったのかと問われれば確かめる術はない。
併し、幽霊と思しき奇妙な客が訪れたのは、間違いの無い話であった。
其れはもう半月程前の或る晩の事であった。
不意に、雨戸を叩く音がした。
其れは余りに微かな音であったので、実吉も初めは気の所為であろうと聞き流す処であった。
外は見る迄も無く疾うに夜。店仕舞いをした扇屋の中では、妻は奥で繕い物に精を出し、実吉と娘婿の二人が翌日の仕込みを仕上げて居る所であった。
其の様な刻限に来客など有ろう筈が無い。
然う実吉が考えたのは責められるべきでは無い。
併し――
再び、雨戸が鳴った。
風で小石でも飛んだか或いは枝でも当たったか。
何れにせよ、娘のいしが身罷って依り只でさえ人通りは落ち込んで居る。況してや此の様な刻に出歩く者が居るとは到底思えぬ。
然う考えて、実吉が頸を振ったのと同時だった。
三度、雨戸が鳴った。
「――親父殿」
娘婿の弥兵衛が実吉を呼んだ。
「親父殿、今、何ぞ音が致しませなんだか」
む、と実吉は声に成らない声で応えた。別に其処に何かの意味を籠めた積りは無かったのだが、併し弥兵衛は同意と取ったらしかった。
「何やら表の方からした様子。なれば、流石に此の刻限なれど客でありましょうか」
然う、続ける。
「よもや妖怪変化の類ではありますまいに、はてさて、何様思われますかな、親父殿」
親父殿と、此の一風変わった京男は実吉を然う呼んだ。
或る日扇屋に現れた弥兵衛は其の当時、宛も無く只浮々と東海道を旅する風来坊であった。
飴を買い求め過ぎ行くだけの者と思って居た其の一人に突然弟子に為て呉れと頼み込まれて実吉は驚いたが、弥兵衛の飴作りの知識と技術の確かさには更に驚いた。
旅人には云うに云われぬ事情を抱えた者も少なくない。
其れを知っていたのに加えて実吉は口が達者では無かった。
従って、深くは追求しなかった。
只、雇って措いて損は無いのは明らかであったが故に、弥兵衛は扇屋に住み込みで働く様に成った。
一年、二年が過ぎ、偶の手慰みに弥兵衛が作った飾り飴が評判に成り、其れを目当てに訪れる者もちらほらと出る様に成った頃には、誰が尋ねた訳でも無しにぽつりぽつりと弥兵衛は其の生い立ちを語る様に成っていた。
元を辿れば此の弥兵衛、京のみなと屋と云う飴屋の職人であったそうである。
みなと屋は扇屋とは較べるべくもない、名の知れた大きな店である。
飾り細工に精緻な色付け絵付けを施した、食べるのも躊躇われる様な絢爛豪華な飴細工はみなと屋の名物。其の技を受け継ぎ、次の親方間違い無しとの声すらあった弥兵衛は、何を考えたか立派なみなと屋の職を捨て、周りの惜しむ声に目も呉れず放浪の旅に出た挙げ句、田舎の質素な扇屋に流れ着いた。
余り人の過去を詮索する様な性質ではない実吉は、其の理由を問い質した事は無い。
只、晩酌を為乍ら一度だけ、弥兵衛はぽつりと漏らした事がある。
みなと屋の飴は確かに絢爛豪華だが、其れが気に入らなかったのだと。
飴は本来、女子供の楽しみとなるべき甘味の筈である。稚児のなけなしの小遣いでも買い求める事が出来、素朴な味わいに一時の安らぎを得る事が出来る、然う云った類の物の筈である。だと云うのに、職人が小手先の技術だけを競い合い、食べ物と云うより置き物にすら近く成り果て、あまつ大枚を叩ける金持ちのお大尽や止事無き方々しか手に出来ぬ飴に一体何の価値が有ろうか、と弥兵衛は吐き捨てる様に云った。
其れで厭に成ってみなと屋を辞めたのだと。
幸い貯えは有り、其れを抱えて宛所なく旅を為て居る途中で扇屋の前を通り掛かり、其の飾りの無い単純さと、旅人を直に支える為の売り方に心打たれ、弟子入りを志願したのだと弥兵衛は続けた。
京には想う女等無かったのかと、りつが軽口を叩き、弥兵衛は余所からは知りませぬが、此方からは然う云った者は特には、と困った様に笑った。
然う云った、培われた確かな技術と知識に真面目な働き振り、其の裏の何処と無く陰の有る様子が女心を擽ったのか、実吉とりつの娘、いしが何呉れと無く世話を焼く様に成り、住み込みで働く様に成って数年で、弥兵衛は扇屋の入り婿と成った。
然う為た矢先の事であった。
いしが賊に襲われて命を落としたのは。
扇屋は哀しみに暮れた。
併し其の中で、真っ先に立ち上がったのは、弥兵衛であった。
未だ若いのだから全てを忘れて遣り直したら何様かと云った周りの声にも耳を貸さず、いしの愛した扇屋を潰してはならぬと喪が明けぬ内から働き出し、未だに実吉を親父殿と敬意を込めて呼び、一心に勤めに励んで居る。
其れが何れ程救いに成ったのか知れない。
口には出さなかったが、実吉もりつも密かに弥兵衛には感謝して居た。
其の娘婿の言葉に、実吉は、む、と頷いた。
扇屋の主人は実吉であり、弥兵衛は何事につけても実吉を立てる様に為て居る。
従って、此処で実吉が断を下さねば状況は動かぬのである。
決めあぐねている内に、今一度、雨戸が鳴った。
「………………」
実吉は無言で立ち上がり、店先に向かうと心張り棒を外した。
然う為て、がらがらと雨戸を開けると、差し込む冱々とした青白い月明かりの下、髪を散々に縺れ乱した顔色の悪い女が一人、ぽつんと立って居た。
「……ど、何方かな」
吃り乍らも実吉は然う尋ねた。
其れに女は答えようともせず、すっと実吉の目の前に手を差し出した。
――飴を下さい。
微かな声が聞こえた。
――此れで買えるだけで構いませぬ、飴を。
――飴を下さい。
見れば女は未だ若い様だった。
いしと然うは違うまいと見当がついた。
突き出された手の平には、一文銭が一枚だけ乗って居た。
幾ら扇屋の飴が廉いとは云え、一文で買えるのは精精ひと片、ふた片である。
況してや此の夜中、態々売って遣らねばならぬ筋も無い。
併し――
女の声が余りに悲しそうな、か細いものであったので――
実吉は黙って奥から飴を取って来ると、一文分以上を渡して遣った。
女は有難う御座居ますと頭を下げ、閑かに立ち去った。
其の翌晩も、其の又翌晩も、女は現れた。
然う為て一文銭と引き替えに飴を押し戴いては帰って行った。
夜中に、何処の誰とも知れぬ女が一人で現れ、一文分だけの飴を買って行く。
不可解な、不可思議な話であったが――実吉は深く問う事はしなかった。
然う斯う為る内に六日が過ぎた。
七日目の晩、女は其れ迄と同じ様に扇屋に現れた。
併し、其の晩は少し違って居た。
実吉が雨戸を開け、何も云わずに既に用意して措いた飴を手渡そうとすると、女は困った様に眉根を寄せた。
然う為て、か細い声で斯う云った。
――此れ迄の大恩、最早感謝の言葉も尽くせませぬ。
――其の上で、此の様な厚かましいお願いを申し上げるのは大層心苦しゅう御座居ますが、其処を曲げてお願い致します。
――わたくしめにはもうお銭が御座居ませぬ。
――其れ故、此れにて飴を売っては頂けませぬか。
然う云って差し出したのは、一着の羽織であった。
実吉は驚いたが、元拠り此の様な夜更に一文銭一枚を持って独りで飴を買いに来る女である。何か事情有りなのは云わずとも知れた。故に、全てを呑み込んで黙って頷き、差し出された羽織を受け取る。
其れと引き替えに用意して措いた飴を渡した処で、実吉ははたと気付いた。
「ちょ、ちょっと待っておくんねぇ」
羽織の一着が一文どころの筈が無い。正確しくは、今渡した程度の飴で釣り合う筈が無い。
実吉は慌てて舗の奥へと引き返す。妻のりつを呼び、羽織を押しつけると売り物の飴を片手に余る程取って表へと顔を向ける。所が――
女は疾うに姿を消して居た。
「……お前さん、此れは何様為たんだね」
奥からひょいと顔を覗かせて、りつが然う尋ねる。
「ど、何様為たって、お前、い、今何処かの娘っ子が、お、お代代わりに」
「お代代わりにって、其んな筈は無いじゃ無いのさ」
「無いって、い、云われても、ほ、真実にだな」
呆れたねぇ、とりつは溜息を吐く様に云った。
「お前さんは知らないのかい。羽織って云うのは男の礼装じゃないさ」
「も、勿論知っちゃ居るがな、そ、其れが何か」
「何かじゃ無いよぅ。其んな礼装なんて物、二本差しの御方なら兎も角、町人じゃぁ大店の番頭位しか格式が高すぎて着ることも許されないじゃないさ」
「………………」
「況してや、此れは女物だよぅ、此んな物、おいそれと世に出回る物じゃないよぅ」
お前さんの然う云う大らかな処も好いて添ったのではあるけれど、と、りつは黙り込む実吉に続けた。
「此奴は見世先にでも吊って、其の来歴を知る人の目に留まる様にでも為た方が好いんじゃ無いかい」
其の翌日、りつの云う通りに見世先に羽織を干して見た。
流石に中々見ない物ともあって、道行く人の中に矢張り目を止める者も在ったが、其の由来迄を知る者は出ない儘、徒に時だけが過ぎた。
日も落ち、そろそろ閉めようかと実吉が考え始めた其の時、一人の老爺が転がる様に舗に飛び込んできた。
「いらっしゃいませぇ」
と、りつは何時もの様に声を掛ける。
併し老爺は其れに目も呉れず、泡を食った様な有様で見世先の羽織を指さした。
「あ、彼れは――」
彼の羽織は――
「一体何処で手に入れた物であろうか」
「はいはい、先ずは落ち着いて下さいませ」
りつは老爺を座らせると、奥から水を一杯椀に汲んで持って来た。
「彼れは私の主人が飴のお代にと受け取った物で御座居ますよ。旦那様は彼の羽織をご存知なので」
差し出された椀を忝いと受け取って水を一息に飲み干した老爺は、此処で漸く余裕が出て来た様であった。
「私は京より参った松吉と申す。彼の羽織は、私の一人娘の物に間違いない」
老爺は然う瞭然と云った。
「私の娘は――名は喜代と云う。先日迄、宮大工の棟梁の元へ奉公に上がっていたのだが、一月程前より行方が知れぬのだ」
「其れは心配で御座居ますね」
然う、りつは応じた。
「其の理由なり、何か手掛かりは御座居ませぬか」
「聞く処に依ると、其処に彫刻を学びに来て居た壮い男と深い仲だったのでは無いかと、然う云う話であった。どうも其の男も、半年程前に京を離れて居る」
「仲を反対を為されたので御座居ますか」
「其の様な事はせぬ」
惚れた男と添い遂げるのならば、其れが余程の悪縁でも無い限り当人に任せるのが好かろう、と老爺は云った。
「第一、娘が行方を晦ましてから聞き知った位なのだから、反対など為様が無かろう」
「なれば何故に――」
「能くは分からぬ」
然う、老爺は息を吐き出す様に云った。
「男が親元に呼び戻され、其れを待つのが辛くなったのでは無いか、とは思う」
併し、真実の処は分からぬのだ、と老爺は続けた。
「娘が、喜代が其れ程思い詰めて居たのであれば、一言相談でも為て呉れれば好かったのだが」
成程、とりつは応じた。
「然う斯う為る内に手紙が届いた」
「何方からで御座居ますか」
「其の男だ」
名を藤原清永と云った様だと、老爺は続けた。
「悪いとも思ったが他に手掛かりも無く、仕方無しに開いて見た所、己の事は忘れて仕合わせに成って欲しいと書いてあった。其れで――」
何かの手掛かりに成らぬかと、斯うして飛脚の伝を逆様に辿ってやって来たのだと、老爺は云った。
「成程」
其れに為ても、妙な話に成って参りましたと、唸る様に、りつは云った。
「妙とは」
「若し此の羽織を持って来たのが喜代様なので御座居ましたならば、男を追って御出でなので御座居ましたならば、一体何処にお泊まりなので御座居ましょうか」
「旅籠などは、無いのであろうか」
「少し離れれば無い訳でも御座居ませぬが、此の峠には。夜毎飴を買いに訪れる姿は旅装束では無かった様にも聞いて居ります。其れに――」
飴を買いに来るのも仔細が分かりませぬと、りつは云った。
「何と」
「旦那様」
「何であろうか」
「若しお時間を頂けますならば、ご案内致したい場所が御座居ます」
「其れは――」
「久延寺に御座居ます」
峠の頂きに在る寺に御座居ますと、りつは続けた。
「此の近くで何かを知って居るとすれば、お坊様の為の宿坊も在る其処の住職より他に御座居ますまい。若し何も御存知無くとも、御知恵を拝借できるやも知れませぬ」
成程と老爺は頷いた。
「案内をお願いできようか」
「畏まりまして御座居ます」
詳しい話は其の途次と、りつは深々と頭を下げた。
久延寺の境内には人影は無かった。
近隣の菩提寺であるのだから、檀家には事欠かぬ。
併し、賊の出現に依る人足の目減りは此処にも影を落として居る様であった。
勝手知ったるものと許りに中の様子を窺ったりつは、どうも住職は表には居ない様だと見当を付けたらしく、ずんずんと裏手へと回って行く。老爺は慌てて其の後を追った。
角を曲がると墓地が現れる。
其処へ足を踏み入れた瞬間――
微かに何かが聞こえた。
りつの歩みがぴたりと止まった。
再び、何かが聞こえた。
何か、では無い。恐らくは何者かの声。
住職では無い。
もっと幼い。
併し其れを、りつが聞き落とす筈が無い。
其の声に導かれる様に、りつは一つの、真新しい土饅頭の前へ浮々と足を進めた。
嗚呼、間違い無い。
自分が此れを聞き違える筈が無い。
「旦那様」
「な、何であろうか」
追い付いて来た老爺は恐る恐る然う尋ねる。
「今直住職様と出来るだけ人手を集めて頂きたく存じまする」
「な、何故に」
「聞こえませぬか」
りつは鬼気迫る声音で云った。
「此の下に赤子が埋まって居りまする」
其れは二人の子を立派に育て上げた母の貌であった。
久延寺は大騒ぎとなった。
人足を呼び、墓を掘り返してみると、娘の亡骸が生まれて間もない赤ん坊を抱いていた許りか、其の赤ん坊が扇屋の飴を口に含んで居たのだ。然して其の代わりに、娘の手に握らせていた筈の三途の川の渡し賃六文はそっくり無くなって居た。
死して埋葬されて後、墓の中で生まれた我が子を育てる為に娘は幽霊と成って扇屋に現れたものと思われた。
住職の声掛けで押っ取り刀で駆け付けた、墓を誂えた主の藤原清永は、本堂で赤子と引き合わされ、其れを聞いて泣き崩れた。知らなんだ事とは云え、生まれた許りの赤子を墓に埋めて居たのだ、仕方も無かろう。
藤原清永には喜代とは違う妻があった。
と云っても喜代を弄んだ訳では無い。
抑も親元に呼び戻される迄は、自身も其の様な事に成ろうとは思いもしなかったのだ。
併し、已むに已まれぬ事情が有って、呼び戻された後、妻を娶る事に成った。
故に――
喜代に手紙を認めた。
己の事は忘れて仕合わせに成って欲しいと。
都合の好い望みであると分かっては居た。
併し他に為様が無かったのだ。
其れが行き違いに成り、清永の元に現れた喜代は事を悟ると、祝辞を述べ文句一つ云わず閑かに去った。
其の直後に、長旅の疲労と心労が祟ってか、喜代は倒れ、帰らぬ人と成った。
然う為て、久延寺に葬られたのであった。
母の亡い其の赤子の母代わりに成ると真っ先に名乗りを上げたのは、有ろう事か清永の妻、さちであった。
清永の子ならば我が子に同じ。況してや清永を、喜代を奪ったのは己であるのだから、罵られようと蔑まれようと此れだけは譲れぬ、助力は惜しまぬと然う云い張った。
其の心意気が喜代の父の心をも動かしたのか、土の下より生まれた赤子は清永とさちを後見人とし、手が掛からぬ様に成ってからは久延寺預かりと、然う成った。
斯う為て、扇屋の飴は赤子を育てた幽霊飴として名が知られる様に成ったのである。
悪い事では無いのだが、と考えに沈みかけた実吉は、表からの、あらぁ、と云う甲高い声ではたと我に返った。
「多恵ちゃんじゃないかい、何とまぁ久し振りだこと」
りつの能く通る声に引かれる様に為て目を遣ると、慥かに其処に居たのは姪の多恵であった。
「大きく成ってもうちの娘にそっくりねぇ、其れで、今日は何様為たんだい」
お久しゅう御座居ます、叔母様、叔父様と、多恵は僅かに奥を覗きながら頭を下げた。
少しだけ目が合った様な気がして、実吉は自然と手元に視線を落とした。
気付けば危うく飴を焦がす所であった。
其の様な実吉の態度ももう慣れた物なのか、多恵は動じる風も無く話を続ける。
「お恥ずかしい話に御座居ますが、此の度、夫と我が子を亡くし、其の菩提を弔う為に菊川に帰って参りました」
「あらあら、其れは其れは」
お気の毒様ねぇと、りつは眉を顰めた。
「何か力に成れると好いのだけれど」
「其れなので御座居ますが――」
偶々久延寺にて乳母の仕事を紹介為て頂けたので暫くは食うには困らないのでは御座居ますが、落ち着いてからは、此処に置いて頂く訳には参りませんでしょうか、と閑かに多恵は云った。
然うねぇ、と、りつは頸を傾げた様子であった。
「今は人手が幾ら有っても足りない位だから大歓迎なのだけれど、其処は矢っ張り彼の人が決める事だから――お前さん」
りつが呼ぶ。
実吉は視線だけで弥兵衛に後は任せると告げ、のそりと日の光の元に足を踏み出した。
眩しさに目を瞬かせ、りつの隣に立つ壮い婦に焦点を合わせる。
一瞬、いしが帰って来たのかと思った。
頸を振って幻を振り払う。
其れ位に、久し振りに見る従姉妹の多恵はいしにそっくりだった。
「ねぇお前さん、聞いて居たんだろう、多恵ちゃん、雇って上げられないものかねぇ」
然う云うりつに、実吉は戸惑いながらも、気付けば頷き返して居た。
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