録
御行は何様した、と老爺は連れに問い掛けた。東海道を日坂宿から江戸へと向かい乍らの事である。
「彼奴も仕事は終わったんじゃねえのかよう」
知らないよゥと連れの若い女は応じた。
「好いじゃないサ、放って置いても死にゃしないよゥ」
何んな状況からでもどうせ周り全部を煙に巻いて上手く切り抜けて来るに違い無いじゃないよ、と悪態を吐く女に、老爺は然うじゃねえよと頸を振った。
「然う云う心配を為て居るんじゃねえ」
「じゃあ何サ」
問われて老爺は天を見上げた。
日は未だ中天に在り、暑さの盛りはそろそろに見えた。
老爺は頭を巡らして日陰を探すと、身軽に其処にするりと潜り込み、石に腰を落ち着けた。
東海道は旅人も多く、目の前を幾人もの老若男女が通り過ぎる。
其の中で老爺は一息吐くと、懐から飴を一欠け取り出して口に放り込んだ。
素朴な甘味が口の中に広がる。
追って来た女が背負って居た葛籠を下ろしたのを見て、老爺は飴を一つ勧めた。
「アラ、此奴は気が利いてるねェ」
有難く戴くよゥと云って、女も口に放り込む。
然して暫く、沈黙が流れた。
「――其れでサ」
「何でえ」
「何でえじゃ無いよゥ」
忘れたのかい、と女は呆れた様に云った。
「彼奴の心配を為て居るんじゃなきゃ、所在を気に掛ける理由って何なのサ」
「応、其れだな」
「何だい、確乎しとくれよ、其の齢で惚ける様じゃ面倒見切れないよゥ」
「別に面倒を見て呉れ等と頼んじゃ居らんわ」
然う老爺は気分を害した様に云ったが、女は当たり前じゃないサと応じた。
「惚けちまったら面倒を見て呉れも何も有りゃしないし、面倒を見て遣った所で分かりゃしないし、感謝も為や為ないだろうに」
だから未だ分かりそうな内に云って措くんじゃないよ、と女が云うと、老爺は更に気分を害した風に苦々しげな表情を作った。
「お前の云い草も段々彼奴に似て来たなあ」
好くねえぜ、嫁の貰い手がねえよ、と云うと女は、止しとくれよ、と眉を顰めた。
「嫁の何のって云うのは未だ好いサ。でも彼奴に似て来たってのは勘弁しとくれよゥ」
桑原桑原と唱える女に、老爺は意趣返しが出来たと許りに笑みを浮かべた。
「其れでサ」
と、話を切り替えようと女は再度同じ言葉を繰り返した。
「だから、彼奴の所在を知りたがる理由って何なのサ」
「其れだがよ」
聞きてえ事が有るんだよ、と老爺は云った。
「聞きたい事ねェ」
女は頸を傾げる。
「彼奴の受け売りじゃ無いけど、事の背景知ったって何様為ようも無いじゃないサ。第一、今回の仕掛けは単純明快でアンタだって噛んじゃ居るんだから、疾うに知ってる筈じゃないよ」
「然うさな」
と云って老爺は顎を撫でた。
「飴買い幽霊、彼れあ全部お前だしなあ」
「然うサ」
噴と自慢気に女は鼻息を吐いた。
「亡き女の霊が一文銭を持って飴を買いに来たって其りゃ構わないサ。妾が知らないだけで、然う云う事は其処彼処で起きてるのかも知れないよ。でも一文銭が、飴が、盛土や棺桶を擦り抜けて勝手に出入りされちゃァ此の世は大変サね」
泥棒だって遣りたい放題に成っ仕舞う、と女は笑った。
「最後に掘り返した時だって、予め空気穴を通して措いた棺桶の中に赤ん坊と飴玉と一緒に閉じ籠もって埋めて、其処をさも導かれた様に見付けて見せただけの事。アンタの手引きも有っての物種サ」
ま、扇屋のお内儀と久延寺の和尚様だけ騙くらかして、藤原の夫妻に見付からない様に為る方に余っ程気ィ遣ったけどね、ほら、妾と喜代は幾ら何でも顔が違うからねェと女が云い、儂あ余り何も為てねえよと老爺は応じた。
「喜代の父を装って顔を出したは好いがよ、飴屋の内儀のりつが寺への案内も、赤子の泣き声を聞きつけて見付けんのも、勝手に遣って呉れたんだ。誘導する手間も省けて好都合だったぜ」
老爺が然う云うと、女は、ふうんと感心した様に息を吐いた。
「運が好かったってのも有るんだろうけどサ、まァ母親ってのは凄い物だねェ」
「儂も然う思ったぜ」
其れで、と女は更に続けた。
「主立った仕掛けは此れで全部じゃないかい、じゃァ、後は何が有るって云うのサ」
「色々有るわい」
老爺は、今更になって思うんだがよ、と天を見上げた。
「彼の赤ん坊、一体何処の誰なんでえ」
真逆お前の子供なんてえ事あ云わねえよなあ、と問われて女は惑然とした顔を為たかと思うと、弾かれた様に笑い出した。
「其ンな訳が無いじゃないのサ。第一、だったら旦那は誰だって云うンだい」
「然うさな、御行の辺りか」
「止しとくれよゥ、笑い死ンじまうよゥ」
――此方も其奴ァ勘弁願いたいぜ、と背後から低い声がした。
「其ンな阿婆擦と夫婦なんざ、願い下げだ」
「応、来たか御行の」
「待たせたな」
ぬうと、一人の男が後ろの藪から現れた。
白木綿の行者包みに白装束。首から偈箱を提げた其の男は、丸で白い影の様に老爺の隣に音も無く立った。
「お前、何処に行ってやがったんでえ」
「教えて遣る義理は特にはねェんだが、依頼人の処だ」
総て了ったてェんで報告にな、と男は云った。
「然うよ、其処も知りてえ所よ、此の抑もの依頼の筋あ、一体何処だったんでえ」
「何だァ、又質問攻めか」
「悪いかよ」
「悪かねェがよ」
何度も云ってるだろうが、と云い掛けた男を老爺は手で制した。
「其の件はもうやった」
「誰とだよ」
「其処の山猫廻しとだよ。て、お前何て顔してやがる」
云われて、女は堰を切ったように食って掛かった。
「――一寸一寸御行の。何サお前さん、遅れて来たと思ったらご挨拶じゃないかい。云うに事欠いて第一声で阿婆擦って罵るってェのは何様の積りサ。好いかい、此方だってお前さんみたいな口先八丁手八丁の薄汚れた根無し草の様な宿六なんて願い下げだよゥ」
「止せよ」
と、閑かに男は云った。
「何サ」
「其ンなに眉を逆立ててちゃァ、折角の綺麗な顔が台無しだぜ」
併し女は大人しく成る所か、一層燃え上がった。
「莫迦におしでないよ、初心な生娘じゃ無いンだ、其ンな言葉に誤魔化される物かい」
「――然う云う所だよ」
「何がサ」
「たった今、手前で云ったじゃねェか、擦れっ枯らしだってよ」
阿婆擦の何処が違うんでえ、と男が混ぜっ返すと、女は漸く唸って黙り込んだ。
「で、何処から聞きてェ」
「何だ、やけに素直じゃねえか」
老爺が云うと、どうせ断ったって手前が執拗く訊くンじゃねェか、止めたって好いんだぜと男は蹴り付ける様に云った。
「其方が面倒がねェ」
「否、教えて貰いてえな」
抑もの話の発端は何なんでえと問われて、男は然うだなと視線を地に落とした。
「逆態に訊くがよ、今回の流れが何様成ってンのかは、手前、分かってンだろうな」
「応よ」
と老爺は応じた。
「先ずは彼れだろう、轟業右衛門の仕官」
其処に目を付けた水野家が我が子を嫁がせたは好い物の、子が出来ずに離縁だな、と老爺は二つ続けて指折った。
「水野家は後添いの多恵を用意為て、離縁された方を藤原家の三男、清永に」
「清永は京の情婦を捨てて、水野の娘と祝言」
「然うと知らずに京から追って来た例の娘、喜代は、長旅が祟って彼の世行き」
「一方、業右衛門の方も夜泣石の祟りに遭って彼の世行き」
「遺された多恵は心労祟って死産」
「其んな中、喜代が墓の下で子を産んだ様に見せ掛けて赤ん坊を拾い上げ」
「藤原の夫婦を後見人、多恵を乳母に迎えて赤ん坊は寺預かりと――」
指折り数えて、此んな処で好いかい、と老爺が問い掛けると、男は間違っちゃ居ねェなとだけ応じた。
「間違っちゃ居ねえんなら、後は何なんでえ」
「間違っちゃ居ねェが、足りても居ねェ」
「何が足りねえ」
「決まってるだろうが」
話の最初はいしだと、男は云った。
「いしってなあ、何でえ」
夜泣石か、と老爺が問うと、男は面白くも無さそうに、違ェよ、と応じた。
「耄碌したかよ爺ィ、居ただろうが、飴屋の娘で、峠で賊に斬り殺された奴がよ」
男が然う云うと、老爺はぴしゃりと膝を打った。
「居たなあ、其んな奴が」
其れが何様したんでえ、と老爺が重ねて問うと、男は分からねェか、と溜め息を吐く。
「賊に斬り殺された孕み女が憑いた夜泣石。其奴に憑り殺されたなァ誰だったよ」
「莫迦云うねえ、轟業右衛門だろうが――ああん、お前真逆」
「其の真逆よ」
いしを殺したのは業右衛門だと、男は云った。
「待て待て御行の、儂あ全然考えも為なかったがよ、今回の一件てなあ、実は仇討ちだったってえのかよ」
其れも有る、と閑かに男は云った。
「今回はな、一つの筋書きに三つの依頼が複雑に絡み付いて居やがンだよ」
「てえ事は何だ、業右衛門が死んだなあ偶々でも夜泣石の不可思議な祟りでも無く、お前の仕掛けの内だったってえのか」
「然うよ」
と男は素っ気なく云った。
「仇討ちてなァ規則に従って武家の間だけで行われる作法だ。町人が斬られた処で、仇討ちは認められねェ。殺られたが尊属なら未だしもいしにゃァ子もねェ。其の上轟業右衛門は尋常じゃねェ手練れだ、下手に手を出しゃァ返り討ち。なれば如何為る」
「如何為るてえ、毒でも盛るかよ」
「能く分かったな」
盛って遣ったのよ、毒をよ、と男は声を潜めて云った。
「仕込みは件の飴だ。琥珀色の飴の中に蜂蜜を混ぜ込んでも大抵は気付かれねェ」
「蜂蜜てなあ何様云う事でえ」
「知らねェかよ、云うだろうが、生まれたての赤ン坊に蜂蜜を食わせちゃならねェてよ」
「噫、云うなあ」
「彼りゃァ極稀に蜂蜜に天然の毒が混じって居てよ、赤ン坊は弱ェから特にいけねェてな話だ。只、成人でも悪けりゃ一刻程で転っと逝くぜ。特製の奴なら猶更だ」
「おい、脅かすな御行の」
「脅かそうと思って云ってるンじゃねェよ、只の事実だ」
毒が火に弱いてェのが救いだな、と男は云った。
「でなけりゃ、下手すりゃ使った此方迄三途の川を渡っちまう処だぜ」
「物騒な話だな」
「相手が相手だけに、其の位為なけりゃ難しかったろうからな」
で、其の依頼の主は誰でえ、と老爺が問うと、仇討ちってェんだから身内に決まってるだろうが、と男は答えた。
「身内なあ――旦那か」
「違う」
彼奴ァ妻が大切に為て居た店を潰さねェ事の方に執心為て居やがったしな、と男は続けた。
「父親か母親か」
「何方も違う」
第一如何遣って下手人を知るンでェと云われて老爺は、然うだなと頷いた。
「じゃあ後は誰か居たかよ、身内」
「居るぜ」
弟がな、と、男は云った。
「弟なあ――居たかよ」
「居たが、居ねェ」
「何様云うこったよ」
「疾うに家を出て刀研ぎの修行を為て居るンだよ、大和国でな」
研屋源五郎て知ってるか、と男が問うと、老爺は応と返した。
「聞いた事あるな。慥か恩知村の名研ぎ師だろう」
「然うだ。いしの弟の音八は其の弟子筋に当たる」
師匠の教えの御蔭か滅法腕は好いそうだぜ、と男は続けた。
「何せ、其の名前を聞きつけて、他国の轟業右衛門が刀の研ぎ直しを頼んだ位だからな」
いしから奪った胴巻にゃ支払いの金銭がたっぷり入って居たンだ、有意義に遣おうと思っても不思議はねェよ、と男は吐き捨てる様に云った。
「其処から足が付いたのか」
「運が好いのか悪いのか知らねェが、其の胴巻は弟の音八が買って送った物だったんだそうだ。で、丸石に当たって欠けた刀の研ぎ直してェ処で、見覚えの有る物を支払いに出したから、音八は何と無く怪訝しいと思った。其処へ差して両親からの姉の訃報だ。直ぐに敏と来たンだろうぜ」
「天網恢々か、悪い事あ出来ねえな」
「小悪党が今更何云ってやがる」
「五月蠅えよ」
然う云う意味じゃあねえと老爺が云い、分かってるよと男も応じる。
「其れでの此の依頼だ」
「其れでの夜泣石か」
然うだと男は答えた。
「正面に渡り合っちゃァ勝てやしねェ。搦め手で行くしかねェだろう」
其れに、外傷が残らねェ殺し方ァ選んだなァもう一つ理由が有る、と男は言葉を継いだ。
「外傷が無けりゃァ夜泣石に魂魄を抜かれちまったてェので話も着くが、斯うでも為なけりゃァ業右衛門殺しの下手人捜し迄始まっちまう」
然う成ったら成ったで亦厄介だからな、此れで一つ、と男が云うと、成程なあと、老爺は息を吐き出した。
「併し御行の、毒入りの飴てえ其んな物、如何遣って食わせたんだよ」
行き摺りの奴が勧めた所で食いや為ねえだろうし、抑も如何遣って近付いたんだよ、と老爺は重ねて問う。
「話しゃァ少々長く成るが、簡単に云やァ胴巻の底に仕込んで目の前に投げて遣ったンだよ」
「おいおい、釣り堀の魚じゃあるめえし、其んな餌に食い付くかよ」
「其処は賭けと云やァ賭けだったが、分は悪くねェ賭けだったぜ。何せ――」
轟業右衛門は元を質しゃァ根っからの賊だったからな、と男は云った。
「賊だとう」
と老爺は頓狂な声を上げた。
「慥かに今の主に拾われる迄の来歴は知れねえてえ話だったがよ、賊だったのかよ」
「賊も賊、天狗の松蔵の手下の一人よ、元はな」
奪った戦利品を手前の物に為るのに躊躇いはねェと踏んでたぜ、と男が云うと老爺は、天狗の松蔵なあ、と腕組みを為た。
「其れで何だ、親分の松蔵を失って流れ流れた末が彼処だったてえのか」
「徒士組頭だってェ其れだけ見りゃァ立派でもあるがよ、彼奴ァ途でもねェ野郎だぜ」
手前も聞いたんじゃねェのか、彼の野郎の癖をよ、と問われて老爺は小さく頷き返した。
「夜中に自分の身の裡から沸いてくる熱を散らす為に駆け回り、暴れ回るてえ奴だな」
「然うよ、其りゃァ賊を遣ってた頃からの癖だ。其ンな奴が女を手に入れたら遣りそうな事位、思い付かねェか」
「何だよ」
「云う迄もねェ。殴る、蹴る、絞める、傷ぶる、縛る、罵る、その上で犯す」
「遣ってたのか」
遣ってたンだよ、と男は頷いた。
「賊の間は襲った女を、妻が居る間は妻を、参勤交代の途上は道々拐かしてだ。一年置きで、場所が転々として居やがったから誰も中々気付かなかったが、疑って見りゃァいっそ明白だった。だから、音八は気付いた」
其れで下手人と確信したんだよ、と男は繋いだ。
「じゃあ、水野家の娘も、後添いの娘も、其んな酷え目に遭わされて居たてえのかよ」
「然う云う事だな」
だから其れが二つ目よ、と男は云った。
「轟業右衛門の後添い、多恵は己一人ならば堪えねばならねェと覚悟した。だがな、胎に宿った我が子だけは、己が護らねばならぬと、思ったんだろうぜ」
「父親の暴力からか」
「然うだな」
「母親としてか」
「偉ェもんだな」
「――待てよ御行の」
死産してるじゃねえかよ、と老爺は声を上げた。
「護れてねえじゃねえか」
「莫迦云うねェ」
生きてたら結局は轟家に縛られるじゃねェかと男は応じた。
「慥かに業右衛門さえ居なけりゃァ直接的な暴力は避けられるだろうぜ、だがよ、轟家に居る限り、水野家の出世の道具として使われる将来ァ想像に難くねェだろうが」
「だからって死産になっちまったら本末転倒じゃねえか」
「誰が本当に死産だったって云ったンだよ」
「――ああん」
御行の、其りゃあ何様云う事でえ、と老爺は眉根を寄せた。
男は仕方ねェなと溜息を吐いて、好いか、と言葉を切った。
「轟多恵の子が死産だったてェなァ、離れに閉じ籠もって居た本人が云って居るだけで、誰も遺骸を確認してねェだろうが。寧ろ気が触れたてェ触れ込みで離れから赤子あやす様な声が為て居たてェのを誤魔化しちゃ居るが、其処ァ素直に考えりゃァ逆だろう」
てェより此方が密と産婆を呼んで然う仕組んでンだから、生きてンだよ、と男は投げ遣りに云った。
「大体、能く考えても見ねェ、赤ン坊を亡くした母親と、母親の亡い赤ン坊とが、然う都合好く行き会うかよ。だったら――」
其りゃァ端から一揃いだったンだよと、男は云った。
「其りゃ何だ、御行の。詰り、喜代の墓から其処の山猫廻しと一緒に出て来た赤ん坊は、乳母についた轟多恵が産んだ実の子だったてえ事かよ」
「然う云う事よ」
喜代の子でもなけりゃァ、間違ってもいしの子でもねェよと男は笑った。
「抑も清永が喜代の腹に気付かずに埋めたのも道理だ。其処にゃァ子は無かったンだからな。まァ臨月の腹に真実に気付かねェ様なら宮大工としての細けェ感性もねェよ」
此れで二つ、と男が云うと、老爺は、じゃあ三つ目は何だ、と頸を傾げた。
「態々清永と喜代の子と偽った上で清永とさちを後見人に据えたんだからよ、出来ねえ二人に子が欲しいてか」
「違う」
其りゃァ慥かに狙って遣った事じゃァあるが、丁度好かったから利用しただけで、序でだ、と男は面白くも無さそうに云った。
「じゃあ、久延寺境内の御上井戸か。彼の涸れ井戸を亡魂のお告げで生き返らせたのが其れか」
「其れも違う」
其れこそ偶々だ、と男は云った。
「いしを斬り捨てた業右衛門が返り血を浴びた羽織を何処に捨てたかと考えた時に、涸れ井戸の底じゃねェかと思って下りて見たンだよ。然う為たら案の定だった。で、井戸の底で奇妙な物を見付けた」
「何でえ」
「横穴だ」
横穴なあ、と老爺は眉を顰めた。
「財宝でも隠してあったかよ」
「ならもっと見付け難い様に為とくだろうな」
「じゃあ、別の井戸に水でも引いてたかよ」
「まァ普通は然う考える」
だがな、もう些と考えて見ねェ、と男は云った。
「久延寺てェなァ行基僧正の開基だぜ。行基僧正と云やァ全国廻って治水を手掛けた度偉ェ坊さんだ。其の寺に在って、行基僧正の謂われのねェ井戸てェなァ、不自然じゃァねェか」
「慥かに然うかも知れねえな」
「抑もだ、徳川公にも供したてェ重要な井戸の水源、ひょっと明かして毒でも入れられちゃァ適わねェ。然う成りゃ大元の水源は隠す。隠すが、隠した儘に忘れ去られるてェ事も有り得るンじゃァねェか」
「で、然うだったのかよ」
「応よ」
と男は得意げに答えた。
「横穴の方に逆態に辿って行って見付けたのが、例の古井戸よ。横穴は水を引き出す為じゃァねェ。水を引き入れる為に有ったてェ訳だ」
「成程なあ」
と、感心した様に老爺は云った。
「で、其れも依頼の筋じゃあねえんだな」
「ねェな」
と男は頷いた。
「序でも序で、何の意味も有りゃァしねェよ」
「全く、意味もねえ物の為に彼んだけ仕込んでりゃあ世話ねえな。障子越しに立ったなあ、おい、山猫廻し、彼れも又お前だろ」
問われて女は無言で首肯した。
「彼の夜に上手い事赤ん坊が泣かずに気付かれなかったら御行の、お前、一体如何為る積りだったんでえ」
「何様も斯様もねェよ」
と男は粗雑に応じた。
「其ンな事ァ起こらねェ」
「大した自信じゃねえか」
お前さんは何でもお見通しかようと老爺が茶化すと、男は莫迦云えと応えた。
「彼りゃァ成人にゃ聞こえねェが赤ン坊や動物にゃ聞こえるてェ特殊な笛で叩き起こしたんだよ」
「何だ其りゃあ」
「犬笛てェんだがよ」
然う云って男は袂から小さな木片にしか見えない物を取り出した。
「此奴だ」
「此れが犬笛か」
「吹きゃァ途でもなく高ェ音が出るンだそうだぜ」
聞こえやしねェけどな、と男は云った。
「変わった物が有るんだな」
然う感心した様に云う老爺に、男は呆れた様に嘆息した。
「おい爺ィ、話があらぬ方向に行っちまってるぜ、好いのかよ」
云われて老爺は、噫然うだと我に返った。
「じゃあよう」
三つ目の依頼てなあ、一体何だってんだよう、と老爺が問い掛けると、男は、もう云った筈だぜと稍草臥れた様に応じた。
「云ったてなあ、何でえ」
「言葉通りよ、云ったろうが、小泉弥兵衛は手前の妻が大事に為て居た店を何としても残したかったってな」
「てえ事は何か、三つ目は扇屋を潰さねえ様に何ぞ好い知恵が欲しいてか」
「然うよ」
と、男は大仰に頷いた。
「亡魂が子を育てる為に買い求めに来た子育飴。此奴ァ赤ン坊を抱える若い婦にゃァ験が好いだろうぜ。然う為て毫しでも話題に成りゃァ占めた物だ。元拠り人通りさえ有りゃァ充分以上に売れてた飴だ、噂が人を呼び、人が噂を広め、又其の噂が人を呼ぶ。然う成りゃァ、借財を返し切るのなんざ訳ァねェ筈だ」
見ねェ、見事当たったろうが、と男は笑った。
「其れでも思う所は有ろうてェ事で、仇討ちに琥珀色の飴を使ったなァ、勿論丁度好かったてェのも有るが、まァ一種の意趣返してェ意味も有る。其の辺も全部含めて、音八に報告為て来た処だ」
「然う云う事かよ」
納得したかと男が問うと、応よと老爺は応えた。
「訊きてェ事も済んだかよ」
「然うだな」
と云って老爺は顎を撫でた。
紐解いて見れば、発端は仇討ちであった。
仇を討った結果、其の奥方と子供が解放された。
其の子の生きる道筋を付けるに当たって、飴屋が救われた。
其の裏に峠の夜泣石が在った。
飴買い幽霊が迷い出た。
子育飴が売れた。
一つの筋書きにも見えたが、先の依頼の尾が次の依頼の頭に成り、然う為て三つの依頼が数珠繋がりに一つに成って居たのだ。
ふむ、と老爺は息を吐いた。
「なあ御行の、最後に一つ好いか」
「何でェ」
「夜泣石だがよ」
真実に泣くのかよう、と老爺は問い掛けた。
「爺ィは知らねェ様だから教えて遣るがよ」
石は泣かねェよと男は当たり前の様に云った。
「其んな事あ知っとるわ」
老爺は憤然とする。
「だがよ、夜泣石の噂が在るてえ事あ、其の元に成る何かが在るんじゃねえのかよ」
「然うだな」
と云って男は顔を顰めた。
「元を質しゃァ鳥の鳴き声か、風の音か、でなけりゃ賊に殺されたいしの無念に感じ入って聞こえねェ物迄聞こえちまったか、其ンな処じゃねェか。鷺の仲間に然う云う赤ン坊みてェな鳴き声の奴ァ居るぜ。まァ今回に限って云やァ、駄目押しで山猫廻しに赤ン坊の声色を付けちゃァ貰ったがよ」
傀儡も遣わずに赤ン坊の声色だ、亡魂の扮装だと色々させちまったなァ悪かったな、と男が云うと、女は構やしないよと顔の前で手を振った。
「今回は夜泣石が傀儡みたいな物じゃないかい。其れに声を当てて演じたんだ、山猫廻しとしちゃ充分サね」
其ンな細かい事、云いやしないよ、と女は笑った。
「然う云って呉れンなら有難ェがよ」
又頼むぜと男が云うと、女も満更では無さそうな顔で頷いた。
「じゃあ元は何なのか分からねえのか」
「分からねェし、分かる必要もねェんだよ」
夜泣石は夜泣石だ、其れ以上でも以下でもねェよ、と男は云い、只よ、と斯う付け加えた。
「悲しみだか怨みだか辛みだか知らねェが、夜泣石はもう泣かねェんじゃねェかな」
「何でだよ」
老爺が然う問い掛けると男は、だってよ、と応じた。
「もう泣く必要がねェんだからよ」
無事仇も討てた事だしなァと云って男は漸く、俯いて居た顔を上げた。
「だから此れから又小夜の中山の夜泣石の処で声が為たとしても、其りゃァ悪い物じゃァねェ。子を想い、母を慕い、呼び交わす啼き声に成るンだろうぜ」
夜泣石から夜啼石へ。
母と子がもう離れ離れに成らぬ様。
「妾からも一つ好いかい」
と、女が不意に声を発した。
「扇屋の小泉弥兵衛はサ、何様して連れ合いの仇を討とうとは思わなかったのかねェ」
彼の人ァ、其ンなに情の薄い御仁たァ思わないンだけどねェと女が問うと、男は、何だ其ンな事かと鼻から息を吐いた。
「だからこそよ」
「情に篤い人だから――てェのかい」
然うだと男は大きく頷いた。
「怨みや憎しみが無い訳じゃァねェ。だがよ、一時の感情に流されるよりも、血反吐を吐く思いで扇屋を守る事を優先した。只其れだけの事よ」
「稼業を捨て、流れ者に成った自分の人生を変えて、救い上げて呉れた処だったからかい」
女が然う問うと、男は閑かに頸を横に振った。
「否、然うじゃァねェ。もっと単純な話だ」
「じゃァ何サ」
「分からねェか」
「だから訊いてるんだろうに」
「真実に単純な話だぜ」
「何だい勿体振るねェ、早くお云いよ」
責付かれて、男は仕方ねェなァと息を吐いた。
「手前の妻が愛した場所だったからよ」
然う云うと、女は惑然とした顔をした。
「何だ其の面ァ。流れ流れた弥兵衛が扇屋に入る決意を為たなァ、云ってみりゃァ莫迦莫迦しい理由だぜ」
誰にも云わねェで呉れとも云われたンだがよ、と男は声を潜めた。
「一目惚れだとさ」
「誰が」
「弥兵衛が」
「誰に」
「いしに」
「真実かい」
「真実だ」
ぷっと女は噴き出した。
然して其の儘、腹を抱えて笑い出した。
「――参ったねェ、此奴ァ妾が阿婆擦と呼ばれたって仕方無いサね。初心な佳い男じゃないかい」
然うだろうがとにやりと笑って男も云う。
笑って空を見上げる。
此れから扇屋が何様成るか、其れは誰にも分からぬ事である。
藤原の夫婦が、引き取られた赤子が、轟多恵が、此の先何の様な道を辿るのか。
泣いた者が居る分だけ、皆が仕合わせに成れれば好いが。
――然う祈っとくぜ。
男は心中小さく呟くと、弔う様に
りん
と鈴を鳴らした。
[了]
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