後
渺と風の吹き抜ける音に、はたと我に返った。
一瞬、此処が何処であるのかが分からず、戸惑う。
耳を澄まし、緩く頸を巡らせる。
途端――
「起きたぞ」
「おお、起きたな」
ざわざわと、ざわめきが広がった。
思わず息を呑む。
聞き覚えのある声では無い。
村には此の様な声の者は無かった筈である。
では誰か。
此処に集まって居るのは誰なのか。
否、其の前に。
此処は一体何処なのか。
尽きず溢れる問は発せられぬ為耳に届かず、故に答える者も在る筈は無い。
状況が呑み込めず、胡乱な頭で只々、黙して様子を窺う。
「不可んな」
「矢張り不可んか」
「駄目か」
「駄目だな」
「幽谷響でなくてはな」
「幽谷響でなくてはの」
「悔しやな」
「ヤレ口悔しや」
「行かぬか」
「上手くは行かぬな」
此処は何処か、今は何時か、此れは誰か、話して居るのは何か。
分からぬ事許りで頭が一杯に成る。
何を考えれば好いのかも分からぬ上に、考えも纏まらぬ。
事に依ると、今話して居るのは自分の事では無いのかも知れぬと、現実離れした思いすら浮かぶ。
声共は続く。
「好かろう」
「まあ好かろう」
「幽谷響を」
「然うよ件の幽谷響を」
喚び出す役には立とうてなぁ、立とうてよぅ、と含み笑う。
「逃がさぬぞ」
「逃がしてなる物か」
――おい、小童。
「お前には餌に成って貰うぞ」
不意に、明白に己に向けられた言葉に、巳之助は身を震わせるしか無かった。
村は幾年前かに舞い戻った様であった。
彼方此方で火が焚かれ、大人達は声を上げて名を呼ぶ。
呼ぶ名は一つである。
巳之助。
巳之助。
巳之助――
云う迄も無い。
巳之助が、行方不明になったのである。
誰もが六年前の事を思い出した。
彼の悲劇の再来では無いかと考えた。
慥かな事は云えぬが然うとしか思えなかった。
違う処と云えば、前回は村中の子が消えた、と云う事位であろう。
併し、契機も理由も解らぬ出来事である。
違いが在った所で何の不思議が有ろうか。
故に、大人達は宛ても無く呼ばうしか手立てが無い。
然う為て、夜を徹しての捜索隊が編まれようと為て居た。
其の喧噪は、村外れの梅吉の荒ら家迄も届いては居た。
居たが――
此方は此方で、其れ所では無かった。
巳之助が姿を消したと知れる幾分か前の事である。
新三郎は、ふと目を覚ました。
何が有った訳ではない、と思う。
併し、何やら不穏な気配を感じたのである。
緩々と頭を起こし、辺りを窺う。
墨を流した様な漆黒の闇である。
見える物など無い様に思えた。
然う斯う為る内に、闇にも徐々に目は慣れる。
薄模糊、囲炉裏と箪笥と竈の陰が浮かぶ。
否、其れだけでは無かった。
寝む前には無かった筈の、矮さな陰が囲炉裏の向こうに在る。
びくりと新三郎の身が震える。
若しや山の物の怪かと背筋に冷や汗が伝う。
其の盛り上がった陰は、小刻みに震えている様であった。
拙い。
新三郎の脳裏に最悪の事態が思い浮かぶ。
慥か、其の場所に身を横たえて居たのは桐彦では無かったか。
則ち。
一度物の怪に攫われた身。今再び取り戻さんと襲い来たか。
新三郎は勇を奮って立ち上がった。
途端、ごそりと陰が動いた。
お止しなせェ、と、低い声が告げた。
な、と新三郎は息を呑む。
併し、其の声は淡々と続ける。
「慥かに桐彦殿の様子は怪訝しい。怪訝しいが、声を上げるにゃァ及ばねェ」
お寄りなせェと云われて、新三郎は其の陰に躙り寄った。
然う為て初めて解った。
其の陰は、震える桐彦と、其の枕元に寄り添う梅吉らであった。
桐彦の目は見開かれ、熱に浮かされた様であった。
「毫し前から斯うなんで」
と男は云った。
「譫言みてェに何か云っても居やがる。聞いて御覧になりやすかい」
勧められ、桐彦の口元に耳を寄せると、成程、桐彦は細々と矮さな声で呟いて居る。
新三郎が更に耳を澄ますと、其れは漸く聞き取れた。
聞こえる。
聞こえる。
聞こえる。
聞こえる。
笛だ。
笛だ。
笛だ
笛だ。
笛が聞こえる。
笛が聞こえる。
笛が聞こえる。
笛が聞こえる。
「――笛」
と、新三郎は呟いた。
「聞こえまするか」
「聞こえぬな」
梅吉が即答した。
「併し、桐彦には聞こえると」
「何様やら然うらしい」
「此れは若しや――」
「肯」
と、梅吉も頷く。
「聞こえぬ笛の音。六年前を彷彿とさせるな」
「其れでは――」
又も山の物の怪が、と新三郎が云い掛けた其の時、荒ら家の戸が激しく音を立てた。
外からは梅吉を呼ばう声。
「何様した」
短く梅吉が応えると、戸を押し開けて二つ程の陰が転がり込んだ。
口早に事態を告げられ、梅吉は幾度か頷く。
「矢張り然うか」
梅吉の表情は強張って居た。
「俺も然うでは無いかと思って居る」
其れでは、と云う村人に梅吉は閑かに頷いた。
「俺も向こうも笛を使う者同士。出来る限りの事は遣って見よう。村の者は夜明け迄は村で待て」
云って、梅吉は新三郎の方に向き直った。
「毫し出て参る。桐彦殿の面倒はお任せする」
「承知仕った」
新三郎が頷くと同時に梅吉は村人と共に家を後にし、其の後ろを影の様に男が追った。
気付くと、桐彦の譫言は毫し変化して居た。
呼んで居る。
呼んで居る。
呼んで居る。
呼んで居る。
行ってはならぬ。
行ってはならぬ。
行ってはならぬ。
行ってはならぬ。
「行けばどうなる」
と新三郎は思わず尋ねて居た。はたと譫言が止まる。
稍有って。
「行けば――」
山に呑まれる。
然う云って、桐彦は肩を震わせた。
「来たか」
「来たな」
「来たぞ」
ざわめきが広がり、巳之助は事態が動き始めたと知った。
「待ちかねたぞ幽谷響」
「喧しいわ」
応える声は巳之助の知って居る物の様で、又何処か違う様でもあった。
「久し振りだと云うのに御挨拶だな、兄弟」
「何の用だ」
蹴りつける様な物云いだが、云われた方は憤るでも無く含み笑った。
「何、近く迄来たからな、挨拶だ」
「村の子を攫っといてか」
「分かり易かったろうが」
「何がだ」
「忘れたとは云わせないぞ、幽谷響、否――」
梅吉。
呼ばれて、梅吉は苦々しげな声音で応えた。
「目的は何だ」
「何と云われてもな」
知って居るか、梅吉、と声は続けた。
「天狗の大親分が死んだ」
「然うらしいな」
其れが何様した。
「今更天狗の隠し金を返せとでも云いに来たのか」
生憎だが何も残っとらんぞ、と梅吉が告げると、声は面白くも無さそうに、然うか、と応えた。
虚を突かれ、梅吉は次の句を失う。
「――何だ、其れでは無いのか」
「其れであって欲しいのか」
「否、抑も彼れは天狗から餞別に貰った物。引き渡す義理も無いわ」
費い果たして居るから渡せもせぬがな、と云うと、声は調子も変えずに、嘘か真実かは知らぬし詮索もせぬが、其の様な事は何方でも好い、と応えた。
「――其れでは、何故に此処に現れた」
「理由は二つ在るが、目的は一つだな」
意味の判じかねる答に、梅吉は押し黙って続きを促す。
「何、知れた事――」
声が云い掛けた其の時、人垣の後ろが騒がしく成った。
「何事だ」
荒々しく声が問うと、稚児でさあ、と誰かが答えた。
「幽谷響の後をついて来た様で」
噴、と荒く息を吐き、声は続けた。
「笛も使わずに大した物だな」
「知るか」
騒がしい声が徐々に近付き、巳之助の横に何か軽い物が落ちる振動があった。
「村の子か」
「然うだな」
いと、と云う。と梅吉は答えた。
噴、と声は再び荒く息を吐いた。
「目的は他でも無い、其れだ」
「何れだ」
「梅吉」
儂らの仲間に戻れ。
と、声は告げた。
「戻って手を貸せ。お前が居れば、子は攫い放題だ。天狗の隠し金なぞ物の数では無い稼ぎに成る。大親分が死んで方々に散った仲間も、代わりが直に補充る」
「其れが目的か」
「然うよ。其の為の人質よ」
其れは、よもや断るまいな、と暗に告げて居た。
梅吉は小さく息を吐いた。
「巳之助といとの安否を確かめさせて呉れ」
「怪し気な動きはするなよ」
「此れだけ囲まれて何が出来る」
吐き捨てる様に云って、ずいと巳之助の上に影が覆い被さった。
「巳之助、無事か」
小さく頷くと、梅吉は安堵した様であった。
「いとも怪我は無い様だな」
怖がらせて済まなかった、と謝ると、梅吉はごそごそと袂を探る様な音を立て、其れから、そっと何かを巳之助といとの胸元に忍ばせた。
「もう毫しだけ我慢して呉れ」
然う、小さく云うと、梅吉はずいと立ち上がった。
「先程の応えだが」
――断る。
短く、梅吉は云った。
ざわりと波紋が広がる。
「梅吉、儂は耳が悪くなったか」
今、断ると云った様に聞こえたが。
「然う聞こえ無かったんなら、其れこそ耳が悪くなった証拠だ。もう一度瞭然と云うぞ。お前達の仲間には戻らぬ」
「ほう」
ぎり、と歯軋りの音がした。
「覚悟は出来て居るんだろうな。お前の後ろの稚児も無事じゃ済まんぞ」
「其方こそ、覚悟は為て来て居るんだろうな。俺は――」
俺は幽谷響だぞ。
云うなり、ぴいいいいいいいと耳を劈く音がした。
途端、どおっと闇が溢れ出した。
悲鳴が、山鳴りが、怒号が、地響きが、其の場を埋め尽くした。
何が、何が、何が、何が起きて居るのか。
分からない、分からない、分からない、分からない儘に何かに呑み込まれた様であった。
何処か遠くでどおんと雷の落ちた様な音がして、巳之助は気を失った。
翌朝、夜を徹して梅吉と巳之助、そしていとの帰りを待って居た村人の元に、いとが未だ意識朧気な巳之助の手を引いて、振々と山から戻った。
巳之助は其れから三日三晩、昏々と眠り続けた。
村人たちは目を覚ました巳之助の回復を待って、いとと巳之助を揃えて実況検分を行ったが、分かった事は僅かだった。
いとに案内させた山奥の現場は大地が踏み荒らされて居る許りで何があったのかは能く分からず、巳之助の話を纏めると、梅吉は幽谷響で、遣って来た天狗の手下達に、大親分亡き後仲間に戻れと迫られたが其れを断った、其の後、山に何もかもが呑み込まれたと云う事であった。
慥かに其の現場には、巨きな耳の猿とも犬ともつかぬ不可思議な生き物の死骸が残されて居り、然して――
梅吉は二度と戻らなかった。
故に、此の村を襲った怪異は――
村人が、害獣を追い払い福を齎す山の使い、瑞獣を饗さず、其の罪を児らにて購った物語は――
語られる内に入り交じり、入れ替わり、斯う成った。
山奥の小さな村の事である。
続く飢饉に襲われ、鼠の害に怯えて居た此の村に、或る時、接ぎだらけの装いの一人の笛吹き男が現れた。
男は笛の不可思議な力を以って鼠を退治して遣ろうと語り、村人は其れに応じた。
男は約定に従い鼠を追い払ったが、村人は当然の報酬を支払う所か掌を返した。
其の後の晩、笛吹き男は罰を与えんと妖物の力を振るい、大人には聞こえぬ笛を吹き鳴らし、稚児のみを山奥へと連れ去った。
僅か一人二人の稚児のみが帰ったが、其れらは跛足であったとも、盲や聾唖であったとも伝えられる。子らの話に依ると、皆は山に呑み込まれたのだと云う事であった。
笛吹き男の正体は、山の神の使い、或いは幽谷響であったとも云う。
巳之助といとを伴った実況検分と前後して、新三郎と桐彦も村を離れた。
新三郎の江戸へ帰る足取りは重かった。
其れも仕方の無い話である。
桐彦の故郷では無いかと意気込んで連れ帰ったは好い物の、剣もほろろに突き帰され、挙げ句、桐彦は笛が聞こえると譫言を言って数日寝付いて仕舞ったのだ。
其れでも、回復した桐彦が過ぎし日の事を思い出せたのならばまだ好い。
蓋を開けて見れば、桐彦は昔を思い出す事は疎か、譫言を云って居た間の事すらも憶えては居なかった。
其れでは一体何の為に江戸を離れ、足を伸ばしたのか知れた物では無い。
故に新三郎は桐彦に合せる顔も無く、只、俯いてとぼとぼと道を辿るより他無かった。
其の様子に、桐彦は新三郎こそを案じた。
新三郎の善意は疑い様も無く明白である。
故に、気落ちするのも無理からぬ話。
併し――
「新三郎殿」
と、桐彦は先行く背中に声を掛けた。
所が、聞こえ無かったのか、新三郎の足は止まらぬ。
「新三郎殿」
桐彦は毫し声を大きくした。
だが、新三郎の背中はふらりふらりと揺れて進む。
桐彦は三度目に、声を張り上げた。
「新三郎殿」
びくりと新三郎は身を震わせ、漸く気付いた様に立ち止まった。
「と、桐彦殿」
恐る恐ると云った風に振り返る。
「何様か致しましたかな」
もしや足が速すぎましたかな、と新三郎は顔を歪めた。
「面目次第も御座居ませぬ。某は道案内も満足に出来ぬ虚け者にて――」
「違いまする」
と、桐彦は瞭然と云った。
「な、なれば、何か他に粗相でも――」
「其れも違いまする」
「なれば、なれば――」
「新三郎殿」
好くない方へ好くない方へと考えの転がって行く新三郎を、桐彦は力強く呼び止めた。
「然うでは御座居ませぬ」
「其れでは――」
「私は、新三郎殿に礼を申さねばなりませぬ」
「れ、礼を――」
「此の様に心を砕いて頂き感謝の言葉も御座居ませぬ。忝く存じまする」
然う云って、桐彦は深々と頭を下げた。
桐彦にして見れば、元依り何かを期待しての帰郷では無い。
然うだと云うのに、新三郎に此れ程気落ちされては寝覚めも悪い。
新三郎は暫し驚然とした顔をして居たが、直に慌てた様に桐彦の両肩に手を掛けた。
「や、やめて、顔を上げて下され。某は勝手に動き回った挙げ句に此の有様。頭を下げねばならぬのは此方の方。何の御役にも立てず、面目無く存じまする」
「否、其の心遣いが有り難く存じまする」
と桐彦は頭を下げた儘に応えた。
「出立前にも申しました通り、私は江戸を故郷と、香堂浮橋を家と、今の両親を実の親と思って居りまする。故に新三郎殿が気を遣われる必要は全く御座居ませぬ」
「然うは云っても此れ程遠出迄させて措いて」
「構いませぬ。江戸を離れた事の無い身。愉しい道行きで御座居ました」
新三郎は、併し、併しと続ける。
もう好いのだ。
当人が然う云って居ると云うのに、此の男は何たる善人か。
思わず、桐彦の顔に、毫し眉根を寄せた笑顔が浮かぶ。
「然う、一つ残念であると云えば――」
「な、何で御座ろうか」
挽回の機会と許りに食い付く新三郎に、桐彦は続ける。
「新三郎殿が叔父では無かったと云う事で御座居ましょうか」
虚を突かれて新三郎は洞然と口を開ける。
其処に隙かさず桐彦は重ねる。
「私には兄弟が居りませぬ。頼れる、優しい兄が居ればと昔から常々思って居りました」
故に、不躾な願いで御座居まするが、と前置きを為て、桐彦は斯う口に為る。
「此れも何かの御縁。新三郎殿を兄と呼ばせて頂いても」
「否、其れは――」
咄嗟に否定の言葉を口にしようと為た新三郎であったが、桐彦の浮かべた哀し気な顔に思い止まる。
「矢張り、無理な御願いで――」
「左様な事は無い」
悩む間も無く決然と新三郎は応えた。
此れ程迄己を慕って呉れる男を無碍になど出来よう筈が無かった。
「至らぬ男だが、某で好ければ――」
「肯」
宜敷く御願い致しまする、と桐彦はもう一度頭を下げた。
「此方こそ、宜敷く御願い致す」
と、新三郎も頭を下げる。
斯う為て、先程迄とは一転、二人は足取りも軽く肩を組み、街道を江戸へと向かって歩いて行った。
桐彦の耳には、もう、笛の音は聞こえ無かった。
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