録
人通りも滅多に無い幽谷の山路に、人を呼ぶ声が響く。
おおい、御行の。
然う呼ぶ老爺に、先を行く男は歩を緩めもせず、又、振り返ろうとも為なかった。
故に、老爺は重ねて呼ぶ。
おおい、御行の。
併し、矢張り男は応えようとは為ない。
三度、老爺は声を張る。
「おおい、御行の。無視するんじゃあねえよ。好い加減此方を向きやがれ。儂あお前の脚にゃあ此れ以上合わせられねえぞ」
不貞腐れた様な怒鳴り声に、漸く男は足を止めた。
次いで、繰と振り返る。
「何でェ急に」
「急にじゃあねえよ」
先刻から呼んでるじゃねえかと云われて、男は驚いた様な表情を見せた。
「然うか」
其奴ァ悪かったよ、と殊勝に云われて今度は老爺の方が戸惑う。
「何だ御行の、調子が狂うぜ。お前、今、真実に聞こえて無かったのかよ」
耳でも遠くなったか、或いは何か考え事か、と問われ、男は、莫迦云いやがれ、と応じた。
「考え事に決まってるだろうが」
耳が衰えるにゃァ未だ早ェ、何も彼ンも手前と一緒くたに考えるンじゃねェよ、と悪態を吐くが、老爺の方も慣れた物だ。
「五月蠅えやい」
と軽く応じるに止める。
否、御行の悪態の切れ味に、長年の付き合いから毫しの違和感を覚えたと云うのが正確しい処だろう。
故に、其処で止めて、続きを促す。
「何を其んなに考えて居やがるってえんだよ」
「何を、か」
問われ、男は眉根を寄せる。
「何をと改めて問われると難しいな」
「何でえ其りゃあ」
口を濁す男の答に、老爺は拍子抜けしたと云う表情を見せる。
「お前らしくねえ曖昧な返事じゃねえか」
「五月蠅ェよ」
と今度は男の方が応じる。
「らしくねェてンなら、手前もらしくねェだろうが」
「何の辺がだよ」
「決まってンだろう」
常時の手前なら一仕事終わったら背景を背景をて餓鬼みてェにせがむじゃねェか、と云われ、老爺は、応、と手を打つ。
「なら訊きゃあ教えて呉れんのかよ」
「教えて遣らねェ」
とにべもなく云い切った――
「と云う訳にも、今回許りは行かねェな」
のは振りだけであった。
らしくない事の連続に老爺は暗刳と口を開ける。
「――おいおい御行の、お前真実に何様しやがった。何か拙い物でも食ったのか」
「食い物に中った位じゃァ斯うは成らねェよ」
手前は何様云う了見してやがンだ、と男が詰ると、老爺は、其れじゃあ何か、と応じた。
「むざむざ梅吉を死なせ仕舞ったのが後引いてんのか」
違ェよ、と男は短く否定した。
「善くも悪くも彼の状況からじゃァ他に仕様が無かった」
仕掛けも仕込みも為る暇ァ無かった。だからよ、と男は続ける。
「梅吉が死んだなァ天命だ。大事なのァ其処じゃァねェ」
「じゃあ何なんだよ」
「おい爺ィ」
「何だ」
手前、幽谷響って知ってるか、と男は何心無い様に問い掛けた。
「其れが何でえ」
「好いから答えろよ」
「莫迦に為んじゃあねえ」
と老爺は鼻息荒く応える。
「彼れだろうが、山奥で人が大声出すと其の声真似を為るてえ妖物だろう。違えのか」
「違わねェよ」
いなす様に、男は閑かに云った。
「違わねェが、元々は違ったてェ話だがな」
「違うのか」
「元々はな」
「何様違う」
「幽谷響てェなァ人の声真似を為るだけじゃァねェ」
琴の音、笛の調、人の声。大凡人の立てる、山奥で聞こえる筈のねェ、怪しげな物音。其れらが全部――
「幽谷響の仕業よ」
だから、人の声を真似るてェ話が在るだけだ、と男は云う。
「然うなのか」
「宇津保物語てェ旧ィ本が在ってな、此奴にゃァ斯う云う話が出て来る。山奥で誰かが琴を鳴らして遊んで居やがる。此りゃァ天狗の仕業に違ェねェってな」
「天狗じゃねえか」
「其ン丈じゃァねェよ」
最後迄能く聴きやがれ、と男は続ける。
「香堂浮橋に擬える訳じゃねェがよ」
手前、源氏物語てなァ知ってるかよ、と問われ、老爺は、応、と返す。
「読んだ事あねえがよ、名前位は知ってるぜ」
昔の艶物語だろう、と云われ、男は小さく息を吐いた。
「別に其れで構わねェがよ、其の最後の章、夢浮橋にゃァな、浮舟てェ女が連れ去られたなァ天狗や木霊みてェな怪しい奴が、欺いて連れ去ったんだろうてな具合に坊主が推量為る場面が出て来る。木霊てェなァ云う迄もねェが山の樹の精霊だ。山ン中で人が大声を出すと此奴が真似を為るてェ訳で、声が響くなァ谺するてェンだよ。此れこそ幽谷響だろうが」
「然うだな」
「昔ァ幽谷響と木霊と天狗を纏めて、一緒くたに為てたンだよ。だから山ン中で怪しげな音を立てンなァ、天狗でも木霊でも幽谷響でもあった」
成程な、と老爺は頷いた。
「お前の云いたい事あ解ったぜ。」
山ン中で妙な音立てて人攫うのが天狗や幽谷響の仕業だってえんだな、違うか、と確認為る様に老爺が問うと、男は、違わねェよ、と云った。
「違わねェが、元々は違ったてェ話だ」
「又、違うのかよ」
「元々は、だ」
男は、手前、天狗てェ字を書いて見ろ、と面白くも無さそうに云った。
「ああん、其りゃあ、天の狗だろうが」
「然うよ」
「其れが何様したよ」
「何様したて」
手前解らねェか。
「解らねえな」
「手前の云った事、能ッく考えて見ねェ」
何で天の狗が、山ン中で変な音、立ててやがるんだよ、と男が云うと、老爺は成程と手を打った。
「何でだ」
「だから、元々が違ェんだよ」
と男は同じ言葉を繰り返した。
「天狗てェなァ元を質しゃァ天翔る綺羅星だ。記紀に依りゃァ、綺羅星が墜ちて来る最中に立てる唸り声、吠え声を天狗の声てェ名で呼んだのが最初よ。で、墜ちた後ァ吠える獣、詰まる処が狐か狗みてェな姿をして居ると考えた」
「だがよ御行の」
と老爺は首を捻り乍ら口を挟む。
「儂あ詳しかあねえが、烏天狗も大天狗も、狗の姿なんぞしちゃあ居ねえだろう」
「其処よ」
「何処だ」
「云ったろうが、天狗と幽谷響が一緒くたにされ仕舞ったってよ。天狗てェなァ山ン中で法螺貝吹くわ錫杖鳴らすわ、然う云う奇妙な音立てる修験者、山伏の喩えでもあるンだぜ。と成りゃァ天狗は人型に決まっ仕舞う。じゃァ、残った幽谷響を狗に擬えるしかねェじゃァねェか」
噫然うか、と老爺は頷いた。
「だから絵草紙なんぞじゃあ幽谷響てえと狗か猿みてえな格好で画かれんのか」
「然うよ」
漸く解ったか、と男は素っ気無く云う。
「――否、些と待て、御行の」
老爺は思わずもう一度頷き掛けた処で、慌てた様子で顔を上げた。
「お前、一体何の話を為てやがる」
「何のって、決まってるじゃァねェか」
天狗と幽谷響ってェなァ同じ物で在り乍ら別物で、怪しげな物音で人を拐かす物だってェ話だよ、と男は閑かに云った。
「否、だから其れが何様云う」
「幽谷響てェなァ梅吉だ。天狗は――」
手前も知ってる筈だぜ、と云われて老爺は眉根を寄せ、些か険しい表情で応えた。
「お前、真逆、天狗の松蔵の事を云ってんじゃねえだろうな」
「中々察しが好いじゃァねェか」
其の真逆だ、と男は応えた。
「幽谷響の梅吉てェ奴ァ、天狗の松蔵の義兄弟よ」
「何だとう」
頓狂な声を上げる老爺に、男は、元はだ元は、と宥める様に云った。
「大人にゃァ聞こえねェが、稚児にゃァ聞こえる音の笛。此奴が梅吉の作で、梅吉の仕掛けよ」
然う云って男は、懐から矮さな木の塊を取り出した。
「其りゃあお前」
「見覚えが有るだろう」
此間使った許りだからな、と男が笑うと、老爺は小さく頷いた。
「梅吉に譲って貰ったは好いが、時々調子を診て遣るから持って来いとも云われててな。久方振りに来て見たら此の一件だ」
「――お前も運がねえな」
呆れた様に云う老爺に、云ってろ、と男は短く吐き捨てた。
「好いンだよ、ンな事ァ」
話を戻すぜ、と男が云うと、老爺も、応、と頷いた。
「梅吉の奴ァ此の笛を使って稚児を傀儡みてェに為る手管で方々から拐かし、売り払って居たンだよ」
と男が云うと、じゃあ何か、と老爺は目を剥いた。
「六年前の、彼の村から稚児が皆消え仕舞ったてえのは」
「何の事ァねェ、梅吉自身の仕業だ」
云われて、老爺は、何て事、と息を吐いた。
「だがよ、其んなに上手え事行く物かよ」
「何様云う意味でェ」
「何様云う意味も何も有るかよ」
方々で其んな事繰り返してやがったら何処かから露呈仕舞わねえのか、と老爺は続けた。
「第一、鼠や狗を操る位なら呑み込んでも好いがよ、笛一つで其んなに易々と人間の餓鬼い操れる物かよ」
「ンな訳ァねェだろう」
と、男は淡然と云った。
「其りゃァ手前の云った通り、笛一つで出来る事ァ嵩が知れらァ。精々眠って無防備な処に付け込んで誘い出す位が関の山だぜ」
「でも其れじゃあ足りねえだろう」
「其れで充分なンだよ」
云ったろうが、天狗と幽谷響は同じだってよ、と男は言葉を継ぐ。
「一旦山ン中にでも連れ出し仕舞やァ此方の物だ。後ァ薬でも嗅がせて、暗示でも聞かせて、数日掛けて真ッ白に為仕舞えば好い。然う為りゃァ足も付かねェし、扱いも楽だ」
「てえ事あ何か。梅吉の奴あ――」
「然うよ」
天狗の松蔵率いる盗賊共にとっちゃァ、欠く事の出来ねェ大事な一員よ。大親分と義兄弟でも不満が出ねェ程のな、と男は大きく頷いた。
老爺は深く溜め息を吐く。
「――其れが、何の気紛れか無事に足抜け為た挙げ句、悪びれもせずに何も知らねえ村人に慕われて暮らしてたてえなあ、梅吉ってえ奴あ何て太え野郎だ」
「其りゃァ些と違う」
「何が違う」
「梅吉の奴が彼の村に住んだなァ、罪滅ぼしだ。鼠を追ッ払い、天狗の餞別を切り崩して村を支えてたのよ、奴ァ」
大事な一員と思われてたとしても、其奴の方も喜んで力貸してたたァ限らねェ。
「元依り性質の悪ィ奴じゃァねェンだよ」
と、男は云った。
「悪党の天狗に足抜けを赦された許りか餞別迄貰ったなァ其処の人柄だ」
「天狗の目にも涙か」
「其ンな様な物だ」
目ェ掛けて可愛がって居た様だぜ、松蔵も、他の仲間もな、と男は云う。
「思い詰めた梅吉が足抜け為るてェ持ち出した時も、憎さ百倍といきり立つ周りを抑えて送り出したなァ当の松蔵だ。親分が是と云うンじゃァ否哉はねェ」
勿論、好くは思わねェ奴も居ただろうがな、と云う男に、老爺も、だろうな、と頷いた。
「抑もを云やァ人攫いだって必ずしも悪ィ事じゃァねェんだぜ」
「おい待て、其ん訳が有るかよ」
望みもせずに親と離れ離れに引き剥がされる事の、何処が好い事だってえんだよ、と流石に老爺は反駁する。
併し――
「好い事たァ云わねェが、他に仕様もねェ事だって有るンだよ」
能ッく考えても見ねェ、と男は続けた。
「幾年も続いた飢饉の中、食い物も碌にねェ。家にゃァ腹ァ空かせた餓鬼が転々だ。と成りゃァ――」
其処じゃァ遠からず間引きが始まるぜ、と男は低い声で云った。
「然う成りゃァ、其れこそ此の世の地獄だ」
親が手ずから我が子を殺すてェなァ悲惨の一言しかねェ。
だから――
「だから拐かしたてえのかよ」
「然うだ」
と男は応えた。
「然う為て、運が好けりゃァ皆生き存える。子は親に殺される事無く、親は子を殺す事無くだ。親の方も薄々解っちゃァ居るが、本気で追い掛けやしねェ。只、本気で探す振り位は為るがな」
「振りか」
「まァ中にゃァ本気で探してた奴も居たンだろうが、少なくとも余一の両親は然うじゃァ無かったンだろうぜ」
「余一てえと、新三郎の甥か」
「然うよ」
と、男は頷いた。
「攫われた手前の子かも知れねェ奴が帰って来たってェのに有難迷惑みてェな反応してたがな、其奴ァ然う云う事だ」
梅吉の奴ァ上手ェ事、方便遣った物だぜ、と男は呟く。
「何様云う意味でえ」
問われて男は、何様も斯様も有るかよ、と応じた。
「新三郎と余一の二人に、親は自分の罪を直視したく無かったてェ云ったなァ嘘じゃァねェ。但し、其の罪てェのが、山の使いを蔑ろに為たンじゃァ無く、子が人攫いに攫われたのを知りつつ其の儘に為たてェ事な訳だがな。まァ勿論其の罪を生み出す契機ン成った手前の人攫いてェ罪も、梅吉の奴ァ分かってたからこそ二人の面倒見ィ買って出た訳で――」
人が善いなァ好いが、難儀な野郎だぜ。
「おい、御行の」
「あァン」
老爺は些か不服そうに眉根を寄せた。
「人が善いてえんならよ、人買いらしく吝々せず金銭位払って遣ったら何様だったんでえ」
人助けを嘯くんなら、余計に人様の物を掠め取るんじゃ無く対価を払うべきだったんじゃねえのか、と老爺が云うと、男は、見当違いには呆れる、と許りに首を振った。
「然う為たら何様成る」
「何様ってお前、其りゃあ」
「餓鬼の一人二人じゃァ飢饉を乗り切れる程の代金にゃァ成らねェぞ。挙げ句親元に残るなァ、我が命惜しさに端金で我が子を売り払ったてェ罪だけだ。だったら――」
いっそ理不尽に子を奪われたてェ不幸に酔わせて遣った方が幾らか優しいてェ事にゃァ成らねェか、と、然う云われて、老爺もううむと唸る。
「其りゃ、一理あるかも知れねえがよ」
「まァ云いてェ事ァ分かるぜ」
此りゃァ所詮盗人の理屈だ、と男は顔の前で手を振った。
「何も万人を説き伏せようたァ思ってねェよ」
――兎に角。
「梅吉は途中で堪えかねて足抜けを為たンだ」
手前の感性の方が真当だと、然う云われたが、老爺は其方にも素直には頷けぬ風であった。
「好いンだよ、其処ァ」
上手ェ事廻ってたンだ、無理矢理全部引っ繰り返す事ァねェよ、と男が云い、老爺も其れには頷いた。
「だから梅吉を最後にゃ幽谷響に仕立て上げて遣ったのか」
「然うよ」
村の餓鬼と引き替えに梅吉の遺体が出仕舞ったら、又村に要らぬ罪を背負わせる事に成る。其れは梅吉も望む処じゃァ無かったろうからな。
「巨きな獣の死骸てェなァ梅吉が天狗に貰った餞別の内、処分為切れ無かった物の一つだ。外つ国渡りの獣の毛皮だそうだぜ」
彼りゃァ目立ち過ぎて買い手も付かねェ、だから遺残ってたンだ、と男が云うと、老爺も、成程な、と頷いた。
「お前が彼んな物、一体何処から仕入れたのかと思いきや、然う云う事かよ」
併し、其れに為ても御行の、と老爺は首を傾げる。
「何で彼様も淡然と話あ落ち着い仕舞ったんだよ」
何様云う意味でェ、と男が問い掛けると、老爺は、だって然うじゃあねえか、と返す。
「梅吉が嘗て天狗の大親分に従って居た妖物の幽谷響で、大親分が死んだからってんで其の元手下の妖物共に請われて仲間に戻るの戻らねえのと揉めた挙げ句交渉は破談、幽谷響の力で相手を山に呑み込んだは好いが当の梅吉も相討って死骸を晒す羽目に成った。なんてえ話――」
然う易々と信じられる話でもねえ様に思うがよ、と老爺は続ける。
「抑も天狗の手下共は何様見ても人様で妖物じゃあねえし、山に呑まれた所か梅吉が笛で呼んだ山犬に食い殺されたが正確しい処だ。巳之助や、いとが見逃されたなあ、梅吉が二人の懐に仕込んどいた、襲うなの匂い袋のお蔭に過ぎねえ。挙げ句、梅吉自身は弾みで撃ち殺された上に山犬に食い荒らされて目の前に屍を晒して居た。其んな事あ後片付けを遣らされた儂とて能く分かっとる。況してや其の時、其の場に餓鬼が二人居たろう。其れが――」
何様して彼様成るんでえ、と云う老爺に、男は、仕方がねンだよ、と応じた。
「手前は気付いて無かったンだろうがな――」
巳之助は盲で、いとは聾だ。だから、いとは口も利けねェ、と、事も無げに男は云った。
「何だとう」
と、老爺は驚きと共に応じる。
だが、男は平然と言葉を続ける。
「何処で何が起きたか。いとにゃァ案内出来るが説明出来ねェ。巳之助にゃァ説明出来るが案内出来ねェし見えても居ねェ。だが何が起きたか知ろうてェ事なら、其の二つを組み合わせるより他、為様がねェだろう」
目が見えねェ分だけ耳が好かった、其の所為で村の餓鬼ン中でも巳之助だけが先駆けて誘い出され仕舞ったってェ、此りゃァ梅吉にも、賊共にも想定外だったろうぜ、と男は云った。
「其れで、彼様か」
「其ンで、斯様だ」
老爺は、然うかよ、と唸った。
其れじゃあ、幾ら荒唐無稽でも信じるより仕方が無いな、と納得為た様であった。
「併し、其れに為ても――」
沁々と老爺は然う口に為る。
「哀れよなあ」
「何がだ」
「何がって、梅吉よ」
云って、老爺は小さく息を吐く。
「其りゃあ嘗ては大悪党、天狗の松蔵の義兄弟だったのかも知れねえ。笛使って稚児に暗示をかけちゃあ攫って売り払っちゃ居たのかも知れねえ。其れでも其の罪を悔いて、罪を滅ぼそうてえ了見で足抜けし、村外れに棲み着き、挙げ句、自分の身い護る為の匂い袋迄餓鬼に呉れて遣って、自分で呼んだ山犬に食い殺されて。屍とて妖物として葬っても悼んでも貰えねえんじゃあなあ」
何様やら、歳が近い所為か、梅吉に我が身を重ねて見て居る処も有る様であった。
「莫迦云うねェ」
だが、蹴り付ける様に男は然う云う。
「手前で云った通り、梅吉の奴ァ元々悪党だぜ、改心為たからてンで人並みに扱って貰おうてェなァ、其りゃァ余りに虫が好すぎるンじゃァねェか」
村ン中に一人二人でも悼んで呉れる奴が居りゃァ御の字だと思えよ、と云われ老爺は、其りゃあ然うだがよ、と其れでも承服為かねると云った表情を為て居た。
「何だァ手前」
男は更に嘲笑う様に云った。
「一度足ィ突っ込んだら死ぬ迄抜けられねェ、抜けた心算でも追い縋って来ンのが此の渡世、てェなァ承知の上だった筈だぜ」
今更人並みの生き方に未練が出て来たかよ、小悪党の癖によ、と云われ、老爺は小さく息を吐いた。
「分かっとるわ」
足所か頸までどっぷりと浸かって逃げられや為ない事は自分で能く分かって居た。
どうせ遠からず碌な死に方を為ないのだ。
「――云」
おい、些と待て御行の、と老爺は又首を傾げる。
「結局の処、何で常時は渋るお前が今回に限って背景を話しとかなきゃあならねえと思ったのか、其処ん処が未だ皆目分からねえぞ」
「然うだろうな」
と、淡然と男は云った。
「だがよ」
手前、気付かねェか、と問われ、老爺は、何にだ、と問い返す。
「梅吉の奴だ」
彼れ、何様思う。
「何でえ何でえ。哀れな奴だてえ儂の評を、お前が気に入らねえなあ分かるがよ」
「然うじゃァねェよ」
然う云う事を云って居るンじゃァねェ、と男は頭を振った。
「梅吉の野郎、彼奴ァ――」
何故死んだ、と男に問われ、老爺は眉を顰めた。
「御行の、お前何が云いてえ」
「能く考えて見ろ」
と、男は云う。
「真実に、彼奴ァ手前の分の匂い袋も用意せず、手前で呼んだ山犬に食い殺されるてェ間抜け晒すと思うか」
「いとが、思い掛けねえ餓鬼が一人、居たろうが」
其れで一つ減ったんじゃあねえのか、と云い返されたが、男は閑かに応えた。
「其れでも一人だ。匂い袋の備えを一つ二つ、余分に持って居る位が寧ろ普通だろう」
其れが無いてェなァ有り得ねェたァ云わねェが、考え難ィな。
「だがよ、彼んだけ食い荒らされてたんだ、他に何か有るたあ思えねえよ」
「おい、老い耄れ」
「何だ」
手前、自分で云っといて忘れたかよ、と男は吐き捨てる様に云った。
「梅吉の奴ァ、短筒で撃ち殺されたてェなァ、手前でも云った事だろうが」
「――応、其りゃ云ったがよ」
と老爺は応じる。
「まあ短筒てえ詞出した憶えはねえがな。兎も角、何方が致命傷だったか知らねえが、山犬に止め刺されたてえなあ間違いねえ処だろうよ。何だ、其れが何か問題有んのか」
「手前、怪訝しいたァ思わねェか」
「何がだ」
「其の短筒よ」
手前、見たのかよ、と問い掛けられ、老爺は、ああん、と首を傾げた。
「だから、手前、賊や山犬の死骸を片付ける間に、其ンな短筒を見掛けたかって云ってンだよ」
否、短筒其の物で無くても好いぜ、他に弾の痕なり、食い込んだ山犬の死骸なり、然う云う物が一つでも在ったかよ、と重ねて問われ、老爺は漸く目を見開いた。
「無かったな」
「だったら妙だろうが」
「妙だな」
「手下の誰一人持ってねェ短筒を持ってるてェなァ、単純に考えりゃァお頭だ。弾みで取り落として何処かに遣っ仕舞ったのかも知れねェ。梅吉を何とか仕留めるのが精一杯だっただけかも知れねェ。だがよ、手にした短筒を、襲い来る山犬じゃ無く、効率的に梅吉に一発だけ使い、其の懐から梅吉が使って身を護る心算だった匂い袋を奪い取り、其の後、騒ぎが収まってから悠々と逃げ去った野郎が一人、居たとしたら。其奴が今度の指揮を執って居たンだとしたら」
云われて、慄然と老爺は背筋を震わせた。
「だ、だがよ、御行の」
其りゃお前の只の当て推量だろう、と老爺は声の震えも隠せずに云った。
所が男は陰鬱な顔で唸る様に応える。
「当て推量だが、心当たりがねェ訳でもねェ」
海座頭の竹治。
と、男は忌まわし気に其の名を口に為た。
「だ、誰だ、其奴あ」
「天狗の松蔵、幽谷響の梅吉の義理の兄弟よ」
其処が今回の気懸かりだ、と男は呟く様に云った。
「大親分を張ってやがった天狗の松蔵、人の善い幽谷響の梅吉たァ違う、海座頭の竹治、真ン中の此奴が一番厄介な野郎なンだよ」
と、男が云うと、老爺は、些と待てよ、と首を傾げた。
「其んな厄介な野郎なら何故名前が売れてねえ」
儂あ聞いた事がねえぞ、と云う老爺に、其れも無理のねェ話だ、と男は応じた。
「竹治は其の二ツ名、海座頭の通り、海賊よ」
地平に這い蹲ってる爺ィが知らなくても仕方ねェ、と云われ、老爺は苦い顔を為た。
「五月蠅えな、儂あどうせ世事に疎いわ」
抑も海賊が其れ程稼ぎの好い物たあ思わねえぜ、と老爺が云うと、男は、其の通りだ、と頷いた。
「其りゃァ海の上じゃァ追っ手も掛かり難いだろうし、捕まり難いかも知れねェが、海賊が出るてェ噂が流れりゃァ船も通らねェ。通ったとしても充分に備える。況してや、何の海域を何時、何の船が通るか知れねェのに稼ぎなぞ知れやしねェ。板子一枚下は地獄の海原にゃァ陸じゃァねェ危うさと背中合わせだ。詰まる処、
賢
しい奴の為る事たァ云えねェな」
「然うだろうが」
我が意を得たりと笑みを浮かべる老爺に、普通ならな、と男は重く返す。
「普通じゃあねえのか」
「普通だったら厄介たァ云わねェよ」
竹治の本業は掠奪じゃァねェ。
「其れじゃあ何だってえんだよ」
「想像付かねェか。幾ら梅吉が拐かし、松蔵が連れ去ったとしても、売り払う先が無けりゃァ、集めた餓鬼も何にも成らねェじゃァねェか」
「其りゃあ、慥かに然うだ」
「だからよ」
と、男は云う。
「買い手と繋ぎ付け、渡り合い、荷ィ届ける役が要るだろうが」
成程な、と老爺は頷いた。
「併し、其んな安定為た買い手が居るかよ」
特に飢饉の年なんぞによ、其れとも其れが竹治の手腕か、と老爺が云うと、男は、在るぜ、と短く答えた。
「何処にだよ」
「国中が飢饉だろうが、必ず買い手は付く」
何も売り先は、何も国を超えちゃァならねェ掟はねェンだぜ。
「其れじゃあ何か、お前若しかして」
「然うよ」
と男は頷く。
「買い手は外つ国だ」
「其りゃあ、何てえか、最早――」
目端が利くてえ域を超えてやがる、と老爺は呆然と呟いた。
「外つ国に餓鬼を売り、代わりに珍しい品を仕入れる。梅吉が抜け仕舞ったら餓鬼を仕入れるてェ処にゃァ困ったろうが、繋ぎさえ出来仕舞やァ荷は必ずしも餓鬼で無くても構わねェ。天狗の松蔵の盗品も充分以上に価値ァ有るし、外つ国に売りゃァ足は付かねェ。海賊働きは其の序でだ。陸地を離れれば離れる程、追っ手は掛からねェし、救けも来ねェ。何様でェ、安全で安泰な仕事だろうが」
「じゃあ真逆、松蔵が梅吉に餞別に呉れて遣ったてえ獣の毛皮も元を質しゃあ」
「然うよ、其の取引が出所だ」
出来の好い短筒だって然うだろうよ、と男は苦々しげに云った。
「其ンだけ先の見えて居た男だ、方々に散った天狗の手下を集めるてェなァ造作もねェだろうし、梅吉をもう一度仲間に引き入れようと動いたって怪訝しかねェし、山犬に襲われる中冷徹に梅吉を仕留めて生き延びたてェ事だって、不思議はねェ」
「足抜け為たてえ云っても自分の義理の弟だぜ、其んな奴を自分の手でか」
「然うだ」
然う云う奴なんだよ、竹治は、と男は云った。
「其の竹治が何故態々陸に揚がって来やがった」
「決まってるだろうが、時機ィ考えろ。大親分が死んだからよ」
「何でえ、跡目争いか」
「争わねェよ」
争う迄もねェ。
「跡目を継ぎてェ奴ァ他にも居る。跡目に相応しい器も居ない訳じゃァねェ。だが、此奴が出張って来た以上――」
跡目を継げる奴ァ、他に居ねェ、と男は云い切った。
「好いか」
男はひたりと目を老爺に据える。
「此の話にゃァ何一つ証拠がねェ。只、然う考えれば考える程に嵌然来やがる。中身は見えねェ癖に、縁取りは此れ以上はねェ程に瞭然見えてやがる」
だから厄介だてェのよ、と男が云うと、老爺もごくりと唾を呑んだ。
「只の、当て推量なんだな」
「只の当て推量だ」
併し、然う云う男の表情は重かった。
「おい、御行の」
お前らしくねえじゃあねえか、と発破を掛ける様に老爺は云った。
「世を欺き、人を謀り、騙す賺す唆す脅す宥める丸め込む。舌先三寸口八丁で世を渡り歩く小悪党がお前だろう。深刻な顔は似合わねえぞ」
「五月蠅ェな」
似合う似合わねェで生き方選んでねェよ、と応じる男に、老爺は更に云い募る。
「何云ってやがる。常時のお前なら何様遣って騙くらかして遣ろうかてえ不敵な顔為てやがる処じゃあねえか。抹香臭え格好為て居る内に、性根まで染み付い仕舞ったかよ」
其んななあ、儂の知っとるお前じゃあねえわい、何なら儂がいっそ此処で引導を引き渡して遣ろうか、と啖呵を切られた。
「――ほざきやがれ、手前が何知ってるッてンだよ」
男は然う云うが、頬には漸く苦笑いが浮かんで居た。
「噫、らしく無かったなァ認めるぜ。今回は後手後手に廻っ仕舞ったのが毫し堪えたてェのも有る。だが、然うだな」
手前にゃァ今回許りァ背景ァ話して、此れから厄介な野郎が噛むかも知れねェから気ィ付けろてェ云う心算だったが、止めた、と男は云った。
「此れからァ厄介な野郎が噛むかも知れねェから――」
精々念入りに打ち毀して遣ろうぜ。
応よ、然う来なくちゃあな、と笑う老爺に、男は決意を籠めて――
りん
と鈴を鳴らした。
[了]
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