甲高い口笛――に似た音が、夜の闇と(つんざ)いて響いた。
 夜に口笛を吹いてはならぬと人は云う。
 曰く、蛇が出る。
 曰く、盗人(ぬすっと)が来る。
 曰く、人(さら)いが現れる。
 莫迦莫迦しい、と巳之助は思って居た。
 蛇が出ると云うは、笛の音で蛇を操る術が有るから。
 盗人(ぬすっと)が来ると云うは、人の見えぬ暗がりでは口笛が仲間の符牒であったから。
 人攫いが現れると云うは、夜中に口笛を吹くのが人買いを呼ぶ為の合図であったから。
 ――らしい。
 莫迦莫迦しい。
 莫迦莫迦しい事この上無い。
 ()し蛇が出るのが真実(ほんとう)であるならば、昼間でもおちおち笛を吹いても居られまい。恐ろしい蛇を寄せて仕舞うのだから。
 ()盗人(ぬすっと)が来るのが真実(ほんとう)であるならば、盗人は早く別の目立たぬ符牒に変えるべきである。人家の傍で吹けば態々(わざわざ)其処に居ると教えて居る様な物なのだから。
 ()し人攫いが現れるのが真実(ほんとう)であるならば、逆態(はんたい)にもっと伝わり易い合図を用いるべきである。直ぐ近くに人買いが居るとは限らず、一晩中吹いても届かぬかも知れぬのだから。
 夜中に口笛など吹いて居ると何か好い事でもあったに違いないと邪推され、懐を狙って悪心を持つ者が寄るからだと云う者も在る。
 (しか)し其れでは、なけなしの金銭(かね)を使い果たした(ばか)りの酔っ払いとも区別は付くまい。
 機嫌の好さそうな笛上手に襲い掛かった処で空振り続きと成る事とて想像に難くない。
 挙げ句、只口笛を吹くのが五月蠅いから、近所迷惑を戒めるための方便だと云う者(まで)居る。
 (しか)し方便に()ては余りに中身が(かたよ)って居よう。恐らくは頻度は高く無いにしても、何かしら好く無い物を呼び寄せた事が(かつ)てあったのであろう。逆態(はんたい)に吹いても吹いても何も呼び寄せないのであれば戒めとして成り立つまい。
 ()う考えると、夜中に口笛を吹いてはならぬと云う(そもそ)もの話自体が然程(さほど)信用の措ける物では無いかのでは無いかと、(よわい)六つ(ばか)りにして巳之助は結論付けて居た。
 (ごく)最近(まで)はの話である。
 巳之助は飛騨高山の奥地に在る小さな村の生まれである。
 生まれて以来(このかた)村を出た事は無い。
 村の外の事は聞いた話でしか知らぬ。
 変わり映えもせぬ山村の中だけが巳之助の世界である。
 だからこそ、聞くも珍しく耳新しい外の話を好んだ。
 余所(よそ)から来た者を尊敬し、外界(そと)を知る者を慕った。
 故に、巳之助にとって最も敬意を払って居たのは、村の長老でも、親でも無く、村外れに棲む或る男であった。
 男は、名を梅吉と云った。
 梅吉は巳之助が生まれたのと同じ頃に棲み着いた男であった。
 何を生業(なりわい)()て居た者かは定かには知れぬ、素性も分からぬ、常に手触りの悪い襤褸(ぼろ)(まと)った奇妙な男である。
 誰の世話になるでなく、村外れの(あば)()孤然(ぽつん)と独り棲んで居る。
 梅吉が村に初めて現れたのは、村の子らが姿を消した例の奇妙な事件の、其の翌年の事であった。
 其の年は、二年続いた厳しい飢饉も明け、山には(ようや)く緑の息吹が戻って来て居た。
 其れが――(かえ)って好く無かった。
 新芽の芽吹く季節に成ると、丸で此れ迄の溜まった鬱憤を晴らすかの様に、獣共が騒ぎ始めた。機を逃してはならぬと盛んに連れ合いを求め、睦み合い、仔を成した。
 鹿や狐と云った(からだ)(おお)きなものは未だ好い。一度に産む仔の数も(たか)が知れる。
 問題は、逆態(はんたい)平時(いつも)は取るに足らぬ存在である筈の鼠であった。
 鼠は其の名の通り鼠算式に仔を(つく)り、産み、()える。
 数多の(ちい)さな(からだ)は軒先、床下、壁の中、梁の上と何処へでも潜り込み、其処(そこ)彼処(かしこ)に身を(ひそ)め、隠した食糧迄も掘り返しては食い荒した。追おうにも其の身は(ちい)さ過ぎ、潰そうにも身の(こな)しは機敏過ぎ、除こうにも数が多過ぎた。
 十全な手立てを持たぬ村は新たな危機に直面した。
 其処に現れたのが、梅吉であった。
 梅吉は鼠の害に悩む村人に、報酬を貰えるのならば此の村を荒らす鼠を退治して見せよう、と持ち掛けた。
 選択の余地(など)無かった。
 (いや)、依り正鵠(ただ)しくは、皆の胸の裡を一年前の事が(よぎ)ったのであった。
 村を訪れた山の使いを疎み、遠ざけ、触れぬ様に()た。
 故に村は児らを失った。
 なれば、此度(こたび)(おとな)い者、容れる外、採るべき手立は無かった。
 村人は受け容れ、(しか)し先ずは鼠を追い払うのが先だと条件を付け、梅吉は(しか)らばと懐から小さな笛を取り出した。
 其れは聞いた事の無い音色の笛であった。
 甲高く響く様であり、低く轟く様でもあった。
 虫の(さえず)りの様であり、獣の唸りの様でもあった。
 旋律など無く、只思うが(まま)、有るが(まま)渦練(うね)る様な節回しであった。
 梅吉が村の端から練り歩き始めると奇妙な事が起こった。
 笛の音が響くやいなや、家々から、田畑から、(くさむら)から、地を埋め尽くす程の鼠の大群が、丸で何かに追い立てられる様に流れ出し、洪水と成って押し寄せたのだ。
 先を争う様に()て集まった鼠共が道を(ひた)走るのを、村の者共は恐る恐る家の中から眺めた。
 ()()て其の(まま)、梅吉の笛に導かれる様に鼠共は皆、川へと其の身を沈めたのであった。
 村から鼠の害は消え失せた。
 神妙不可思議な業を、村の者共は褒めそやした。
 (しか)し、次に気に成るのは報酬である。山奥の小さな村に大金など無い、村の存亡を考えれば出来るだけの事は()たいが出来る事にも限りが有る。
 口々に()う云う村人に、梅吉は(しず)かに()う云った。
 村に棲まわせて貰いたいと。
 村人達は戸惑った。
 元依り余所(よそ)者に寛容で無い山奥の寒村である。
 縦令(たとえ)村の救い主であったとしても、其処は中々には動かぬ。
 ()してや不可思議な(わざ)を持つ男である。
 村に受け容れて仕舞って好い物か何様(どう)か、判断に迷う処である。
 とは云っても、下手に断って機嫌を損ねても後が怖い。
 故に、妥協案として、梅吉は村外れの(あば)()を与えられた。
 功績を考えれば此れは余りに無体な仕打ちである。
 (しか)し、梅吉は唯々諾々と其れに従った。
 ()して其れ以降も、村の者は何かあると梅吉を頼る様に成った。
 梅吉も頼まれれば力を、知恵を、時に何処から用立てたのか、金銭(かね)を貸した。
 村の者は返礼に作物を、獲物を、時に秘蔵の甘味や酒(まで)も付け届けた。
 ()()て、紆余曲折は有り(なが)らも、村の一員と、梅吉は受け入れられたのである。

 其の日、巳之助が梅吉の家を訪れたのは、憶えた(ばか)りの口笛を吹き(なが)らの事であった。
 唇を(すぼ)め、勢い好く息を吐き、微かにひゅるりひゅるりと音をさせ、巳之助は梅吉の家を訪ねた。
 戸口に立ち、引き戸に手を掛け、ぐっと腹に力を入れて戸を滑らせる。
 其の途端、何の具合か、唇からぴいと高い音が出た。
「誰だ」
 と、奥から誰何(すいか)の声が響いた。
 思いも掛けぬ反応に、巳之助は身をびくりと震わせ、思わず口籠もった。
 (しか)し其の次の瞬間、声音は和らぎ、何だ、と梅吉は続けた。
「巳之助か」
「――梅さん、遊びに来たよ」
 もう何度も来て居る勝手知ったる梅吉の家だ。
 巳之助は無遠慮に上り(かまち)に腰を掛けた。
「又外の話を()てお呉れよ」
()()っても好いが、巳之助」
 と、梅吉は座りを改めた様で、ごそりと重い音がした。
「お前、今、口笛を吹いて居たかい」
 (うん)、と巳之助は頷いた。
「稽古()て居たんだよ、今、(すこ)しだけ上手く行った処さ」
()うかい」
 梅吉は(すこ)し思案する様に言葉を切り、次いで、(たし)か此の村では、と続けた。
「歌い踊るを禁じる辻が在ったろう」
 (うん)、と巳之助はもう一度頷いた。
 其の辻の話は、生まれてからもう何度も聞いて居る。
 謂われは奇妙な話だとは思う。
 禁じた理由も、理解出来ぬではない。
 (しか)し、何故其れを守り続けねばならぬのかと、巳之助は疑問に思って居た。
 だから、()う云った。
 外の世界を知る梅吉ならば、同意して呉れると思った。
 笑い飛ばして呉れる物と、信じて疑わなかった。
 だが梅吉は低い声で、巳之助、親御殿の云う事は聞かねばならんよ、と云った。
何様(どう)して」
 と巳之助は食い付いた。
 (かつ)て哀しい出来事があったのは分かる。
 其れを悼む気持ちも分からぬでは無い。
 (しか)し歌い踊るを禁じた処で何も成らぬではないか。
 禁じれば居なくなった子らが戻るとでも云うのか。
 其の様な筈は無い。
 ()う云うと梅吉は、仰る通り、と心の底から頷いた様子であった。
成程(なるほど)、歌い踊るを禁じた処で過ぎた物は戻らぬ。居なくなった子は帰らぬ。(しか)し――」
 子の失せるを防ぐ事は出来るのだと、梅吉は云った。
 ()()て語ったが、夜に口笛を吹くが呼ぶ魔の話である。
 巳之助にしても何度も聞いた話で、物珍しくも何とも無い話であった。
 (しか)し、巳之助が()う云うと梅吉は、違う、と瞭然(はっきり)と云った。
「巳之助や」
 幽谷響(やまびこ)を――
幽谷響(やまびこ)を知って居るか」
 と、梅吉は云った。
 勿論(もちろん)、と巳之助は頷いた。
 幽谷響(やまびこ)とは、山奥で大声を出すと、其れを相似(そっくり)其の(まま)叫び返すと云う妖物(ばけもの)であろう。
 長く年を経て(ふる)びた樹木の(せい)が叫び返すが故に木霊(こだま)とも云う。
 故に声が響き返る事を(こだま)すると云う。
 ()う其れよ、と梅吉は応えた。
 好いか、大声や歌や笛太鼓の音を響かせるは、()う云った妖物(ばけもの)を呼ぶのだ。
 だから、他に音の無い夜に口笛を響かせるのは好く無いのだ。
 其処に己が居る事を妖物(ばけもの)に知らせて仕舞うのだから。
 好く無い物が忍び寄るのだから。
 真逆(まさか)、と巳之助は息を呑んだ。
 幽谷響(やまびこ)が、木霊(こだま)が、真実(ほんとう)にやって来るのか。
 呼び寄せて仕舞うのか。
 ()うだ、と梅吉は重々しく頷いた。
「其の様な妖物が真実(ほんとう)に――」
 居りやすよ、と今度は梅吉では無い声が低く響いた。
 びくりと巳之助の体が震えた。
 今の今迄気付かなかったが、梅吉の家には得体の知れぬ先客が居たらしい。
 驚愕と恐怖とで喉を塞がれた巳之助が拍々(ぱくぱく)と意味も無く口を開け閉め()て居ると、其の声は更に続けた。
幽谷響(やまびこ)は、木霊(こだま)は、真実(ほんとう)に居りやすよ」
 居るのか。
 好く無い物は。
 声を投げ返す様な妖物(ばけもの)は。
「其れは(ちい)と違いやす」
 幽谷響(やまびこ)てェのは山に棲み、(いぬ)か猿の様な姿をした、人真似を()る妖物で御座居やすよ、と、其の声は云った。
「色ンな(ふる)い書物を集めて見りゃァ()う書いて御座居やす。纏めると、木霊(こだま)てェなァ人を(たばか)り、(あざむ)き、山奥へと連れ去っちまう(もん)だと。其の為に人真似を()るんだと。其りゃァ人の声や言葉(ことのは)だけじゃねェ。時に琴の音、時に笛の調(しらべ)。其れが出来るから、人の声が耳に入りゃァ声真似を()るだけの事。要は山ン中で聞こえる筈のねェ音がすりゃァ、其奴(そいつ)ァ――」
 木霊(こだま)仕業(しわざ)かも知れやせんぜ、と、其の声は告げる。
「遊ぶのも好い。騒ぐのも好い。楽を奏でるも、歌を唄うも、心行く(まで)楽しみゃァ好い。(ただ)し――」
 其処に人間(ひと)以外の(もん)が忍び寄って居るかも知れねェ事ァ、知って措いた方が好い。
 慄然(ぞくり)と其の身が総毛立つ。
 木霊(こだま)は人真似をし、山奥へと連れ去るのか。
 琴の音、笛の調(しらべ)をも真似るのか。
 其れでは――
 其れでは真逆(まさか)――
 幾年か前に此の村を襲ったのは真実(ほんとう)に――
「余り脅かして()るなよ」
 と(しず)かに梅吉の声が制した。
「巳之助は未だ六つなのだ」
 善悪の区別も付かぬ。
「イヤ、此奴(こいつ)(わり)ィ癖で」
 空気が瞬時に緩む。
「悪気ァねェんだ、赦して下せェ、坊ちゃん」
 ()う云われ、巳之助は言葉も無く只頷いた。
 未だ、此の名も知れぬ男に頭から呑まれた様な心持ちではあったが。
 只な、と今度は梅吉が口を開いた。
「昔から云う事にゃ意味が有るんだ」
 (ないがし)ろにしちゃいけないぜ。
 だから――
 だから()んなに(おそ)れる風だったのか、と巳之助は訊ねた。
 梅吉も木霊(こだま)を呼び寄せるのが恐怖(こわ)かったのか。
 好く無い物が来るのを避けたかったのか。
「待て」
 何の――
 何の話だと、梅吉が問い掛けると、だって()うじゃ無いか、と巳之助は応じた。
(おいら)が口笛を吹き(なが)ら此処の戸を開けたら、梅さん、怯えた様な、威嚇する様な声で応えたじゃ無いか」
「――――」
 梅吉は()う云われて(しば)し言葉に詰まり、ヤレヤレと溜め息を吐いた。
「相変わらず耳(ざと)いな」
 ()うだと巳之助は頷いた。
「此れが(おいら)の特技だもの」
 胸を張る巳之助に、梅吉はもう一度溜め息を吐くと、巳之助、と呼び掛けた。
「お前、()し山の方から口笛みたいな音がしたら気を付けろよ」
何様(どう)して」
 びくりと身を震わせて巳之助は問い返した。
 夜に響く音ならとうに気付いて居た。
 山に打付(ぶつ)かる風の音か、誰かが吹き鳴らす笛の調(しらべ)か。
 (いず)れにせよ、幾日か前から夜中になると其んな物が村には聞こえて居た。
 だからこそ、余計に早く口笛を憶えたかったと云うのも有る。
 ()()て口笛を平気で吹き鳴らす者が居るのだから、翌晩も聞こえると云う事は毎晩無事に過ごして居るのだから、だから、自分も吹けて好い筈だと。
「其れが響く夜は――」
 外に出ちゃいけないぜ、と梅吉は云った。
「其れはな、()しかすると」
 幽谷響(やまびこ)が仲間を呼ぶ音かも知れない。
 長いこと彼方此方(あちこち)を渡り歩いて来たから分かる。
 其れは――
 好く無い物だと、梅吉は結んだ。

 だから、巳之助は考えを改めた。
 夜に口笛を吹くと、好く無い物を呼び寄せる。
 例えば其れは幽谷響(やまびこ)であり、木霊(こだま)である。
 呼び寄せられた好く無い物に行き会うと、連れ去られる。
 梅吉が()う云うのだから。
 梅吉が怯えて居るのだから。
 だから、()うなのである。
 ()うに違い無いのである。
 其処に疑いを差し挟む余地は、無かった。
 甲高い口笛に似た音が、夜の闇と(つんざ)いて響いた。
 巳之助は身を縮め、隠れる様に布団を頭から(かぶ)り、息を潜めた。


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