参
甲高い口笛――に似た音が、夜の闇と劈いて響いた。
夜に口笛を吹いてはならぬと人は云う。
曰く、蛇が出る。
曰く、盗人が来る。
曰く、人攫いが現れる。
莫迦莫迦しい、と巳之助は思って居た。
蛇が出ると云うは、笛の音で蛇を操る術が有るから。
盗人が来ると云うは、人の見えぬ暗がりでは口笛が仲間の符牒であったから。
人攫いが現れると云うは、夜中に口笛を吹くのが人買いを呼ぶ為の合図であったから。
――らしい。
莫迦莫迦しい。
莫迦莫迦しい事この上無い。
若し蛇が出るのが真実であるならば、昼間でもおちおち笛を吹いても居られまい。恐ろしい蛇を寄せて仕舞うのだから。
若し盗人が来るのが真実であるならば、盗人は早く別の目立たぬ符牒に変えるべきである。人家の傍で吹けば態々其処に居ると教えて居る様な物なのだから。
若し人攫いが現れるのが真実であるならば、逆態にもっと伝わり易い合図を用いるべきである。直ぐ近くに人買いが居るとは限らず、一晩中吹いても届かぬかも知れぬのだから。
夜中に口笛など吹いて居ると何か好い事でもあったに違いないと邪推され、懐を狙って悪心を持つ者が寄るからだと云う者も在る。
併し其れでは、なけなしの金銭を使い果たした許りの酔っ払いとも区別は付くまい。
機嫌の好さそうな笛上手に襲い掛かった処で空振り続きと成る事とて想像に難くない。
挙げ句、只口笛を吹くのが五月蠅いから、近所迷惑を戒めるための方便だと云う者迄居る。
併し方便に為ては余りに中身が偏って居よう。恐らくは頻度は高く無いにしても、何かしら好く無い物を呼び寄せた事が嘗てあったのであろう。逆態に吹いても吹いても何も呼び寄せないのであれば戒めとして成り立つまい。
然う考えると、夜中に口笛を吹いてはならぬと云う抑もの話自体が然程信用の措ける物では無いかのでは無いかと、齢六つ許りにして巳之助は結論付けて居た。
極最近迄はの話である。
巳之助は飛騨高山の奥地に在る小さな村の生まれである。
生まれて以来村を出た事は無い。
村の外の事は聞いた話でしか知らぬ。
変わり映えもせぬ山村の中だけが巳之助の世界である。
だからこそ、聞くも珍しく耳新しい外の話を好んだ。
余所から来た者を尊敬し、外界を知る者を慕った。
故に、巳之助にとって最も敬意を払って居たのは、村の長老でも、親でも無く、村外れに棲む或る男であった。
男は、名を梅吉と云った。
梅吉は巳之助が生まれたのと同じ頃に棲み着いた男であった。
何を生業に為て居た者かは定かには知れぬ、素性も分からぬ、常に手触りの悪い襤褸を纏った奇妙な男である。
誰の世話になるでなく、村外れの荒ら家に孤然と独り棲んで居る。
梅吉が村に初めて現れたのは、村の子らが姿を消した例の奇妙な事件の、其の翌年の事であった。
其の年は、二年続いた厳しい飢饉も明け、山には漸く緑の息吹が戻って来て居た。
其れが――却って好く無かった。
新芽の芽吹く季節に成ると、丸で此れ迄の溜まった鬱憤を晴らすかの様に、獣共が騒ぎ始めた。機を逃してはならぬと盛んに連れ合いを求め、睦み合い、仔を成した。
鹿や狐と云った躯の巨きなものは未だ好い。一度に産む仔の数も嵩が知れる。
問題は、逆態に平時は取るに足らぬ存在である筈の鼠であった。
鼠は其の名の通り鼠算式に仔を為り、産み、殖える。
数多の矮さな躯は軒先、床下、壁の中、梁の上と何処へでも潜り込み、其処彼処に身を秘め、隠した食糧迄も掘り返しては食い荒した。追おうにも其の身は矮さ過ぎ、潰そうにも身の熟しは機敏過ぎ、除こうにも数が多過ぎた。
十全な手立てを持たぬ村は新たな危機に直面した。
其処に現れたのが、梅吉であった。
梅吉は鼠の害に悩む村人に、報酬を貰えるのならば此の村を荒らす鼠を退治して見せよう、と持ち掛けた。
選択の余地等無かった。
否、依り正鵠しくは、皆の胸の裡を一年前の事が過ったのであった。
村を訪れた山の使いを疎み、遠ざけ、触れぬ様に為た。
故に村は児らを失った。
なれば、此度の訪い者、容れる外、採るべき手立は無かった。
村人は受け容れ、併し先ずは鼠を追い払うのが先だと条件を付け、梅吉は然らばと懐から小さな笛を取り出した。
其れは聞いた事の無い音色の笛であった。
甲高く響く様であり、低く轟く様でもあった。
虫の囀りの様であり、獣の唸りの様でもあった。
旋律など無く、只思うが儘、有るが儘に渦練る様な節回しであった。
梅吉が村の端から練り歩き始めると奇妙な事が起こった。
笛の音が響くやいなや、家々から、田畑から、叢から、地を埋め尽くす程の鼠の大群が、丸で何かに追い立てられる様に流れ出し、洪水と成って押し寄せたのだ。
先を争う様に為て集まった鼠共が道を直走るのを、村の者共は恐る恐る家の中から眺めた。
然う為て其の儘、梅吉の笛に導かれる様に鼠共は皆、川へと其の身を沈めたのであった。
村から鼠の害は消え失せた。
神妙不可思議な業を、村の者共は褒めそやした。
併し、次に気に成るのは報酬である。山奥の小さな村に大金など無い、村の存亡を考えれば出来るだけの事は為たいが出来る事にも限りが有る。
口々に然う云う村人に、梅吉は閑かに斯う云った。
村に棲まわせて貰いたいと。
村人達は戸惑った。
元依り余所者に寛容で無い山奥の寒村である。
縦令村の救い主であったとしても、其処は中々には動かぬ。
況してや不可思議な業を持つ男である。
村に受け容れて仕舞って好い物か何様か、判断に迷う処である。
とは云っても、下手に断って機嫌を損ねても後が怖い。
故に、妥協案として、梅吉は村外れの荒ら家を与えられた。
功績を考えれば此れは余りに無体な仕打ちである。
併し、梅吉は唯々諾々と其れに従った。
然して其れ以降も、村の者は何かあると梅吉を頼る様に成った。
梅吉も頼まれれば力を、知恵を、時に何処から用立てたのか、金銭を貸した。
村の者は返礼に作物を、獲物を、時に秘蔵の甘味や酒迄も付け届けた。
斯う為て、紆余曲折は有り乍らも、村の一員と、梅吉は受け入れられたのである。
其の日、巳之助が梅吉の家を訪れたのは、憶えた許りの口笛を吹き乍らの事であった。
唇を窄め、勢い好く息を吐き、微かにひゅるりひゅるりと音をさせ、巳之助は梅吉の家を訪ねた。
戸口に立ち、引き戸に手を掛け、ぐっと腹に力を入れて戸を滑らせる。
其の途端、何の具合か、唇からぴいと高い音が出た。
「誰だ」
と、奥から誰何の声が響いた。
思いも掛けぬ反応に、巳之助は身をびくりと震わせ、思わず口籠もった。
併し其の次の瞬間、声音は和らぎ、何だ、と梅吉は続けた。
「巳之助か」
「――梅さん、遊びに来たよ」
もう何度も来て居る勝手知ったる梅吉の家だ。
巳之助は無遠慮に上り框に腰を掛けた。
「又外の話を為てお呉れよ」
「為て遣っても好いが、巳之助」
と、梅吉は座りを改めた様で、ごそりと重い音がした。
「お前、今、口笛を吹いて居たかい」
肯、と巳之助は頷いた。
「稽古為て居たんだよ、今、毫しだけ上手く行った処さ」
「然うかい」
梅吉は毫し思案する様に言葉を切り、次いで、慥か此の村では、と続けた。
「歌い踊るを禁じる辻が在ったろう」
肯、と巳之助はもう一度頷いた。
其の辻の話は、生まれてからもう何度も聞いて居る。
謂われは奇妙な話だとは思う。
禁じた理由も、理解出来ぬではない。
併し、何故其れを守り続けねばならぬのかと、巳之助は疑問に思って居た。
だから、然う云った。
外の世界を知る梅吉ならば、同意して呉れると思った。
笑い飛ばして呉れる物と、信じて疑わなかった。
だが梅吉は低い声で、巳之助、親御殿の云う事は聞かねばならんよ、と云った。
「何様して」
と巳之助は食い付いた。
嘗て哀しい出来事があったのは分かる。
其れを悼む気持ちも分からぬでは無い。
併し歌い踊るを禁じた処で何も成らぬではないか。
禁じれば居なくなった子らが戻るとでも云うのか。
其の様な筈は無い。
然う云うと梅吉は、仰る通り、と心の底から頷いた様子であった。
「成程、歌い踊るを禁じた処で過ぎた物は戻らぬ。居なくなった子は帰らぬ。併し――」
子の失せるを防ぐ事は出来るのだと、梅吉は云った。
然う為て語ったが、夜に口笛を吹くが呼ぶ魔の話である。
巳之助にしても何度も聞いた話で、物珍しくも何とも無い話であった。
併し、巳之助が然う云うと梅吉は、違う、と瞭然と云った。
「巳之助や」
幽谷響を――
「幽谷響を知って居るか」
と、梅吉は云った。
勿論、と巳之助は頷いた。
幽谷響とは、山奥で大声を出すと、其れを相似其の儘叫び返すと云う妖物であろう。
長く年を経て旧びた樹木の霊が叫び返すが故に木霊とも云う。
故に声が響き返る事を谺すると云う。
然う其れよ、と梅吉は応えた。
好いか、大声や歌や笛太鼓の音を響かせるは、然う云った妖物を呼ぶのだ。
だから、他に音の無い夜に口笛を響かせるのは好く無いのだ。
其処に己が居る事を妖物に知らせて仕舞うのだから。
好く無い物が忍び寄るのだから。
真逆、と巳之助は息を呑んだ。
幽谷響が、木霊が、真実にやって来るのか。
呼び寄せて仕舞うのか。
然うだ、と梅吉は重々しく頷いた。
「其の様な妖物が真実に――」
居りやすよ、と今度は梅吉では無い声が低く響いた。
びくりと巳之助の体が震えた。
今の今迄気付かなかったが、梅吉の家には得体の知れぬ先客が居たらしい。
驚愕と恐怖とで喉を塞がれた巳之助が拍々と意味も無く口を開け閉め為て居ると、其の声は更に続けた。
「幽谷響は、木霊は、真実に居りやすよ」
居るのか。
好く無い物は。
声を投げ返す様な妖物は。
「其れは些と違いやす」
幽谷響てェのは山に棲み、狗か猿の様な姿をした、人真似を為る妖物で御座居やすよ、と、其の声は云った。
「色ンな旧い書物を集めて見りゃァ斯う書いて御座居やす。纏めると、木霊てェなァ人を謀り、欺き、山奥へと連れ去っちまう物だと。其の為に人真似を為るんだと。其りゃァ人の声や言葉だけじゃねェ。時に琴の音、時に笛の調。其れが出来るから、人の声が耳に入りゃァ声真似を為るだけの事。要は山ン中で聞こえる筈のねェ音がすりゃァ、其奴ァ――」
木霊の仕業かも知れやせんぜ、と、其の声は告げる。
「遊ぶのも好い。騒ぐのも好い。楽を奏でるも、歌を唄うも、心行く迄楽しみゃァ好い。但し――」
其処に人間以外の物が忍び寄って居るかも知れねェ事ァ、知って措いた方が好い。
慄然と其の身が総毛立つ。
木霊は人真似をし、山奥へと連れ去るのか。
琴の音、笛の調をも真似るのか。
其れでは――
其れでは真逆――
幾年か前に此の村を襲ったのは真実に――
「余り脅かして遣るなよ」
と閑かに梅吉の声が制した。
「巳之助は未だ六つなのだ」
善悪の区別も付かぬ。
「イヤ、此奴ァ悪ィ癖で」
空気が瞬時に緩む。
「悪気ァねェんだ、赦して下せェ、坊ちゃん」
然う云われ、巳之助は言葉も無く只頷いた。
未だ、此の名も知れぬ男に頭から呑まれた様な心持ちではあったが。
只な、と今度は梅吉が口を開いた。
「昔から云う事にゃ意味が有るんだ」
蔑ろにしちゃいけないぜ。
だから――
だから彼んなに畏れる風だったのか、と巳之助は訊ねた。
梅吉も木霊を呼び寄せるのが恐怖かったのか。
好く無い物が来るのを避けたかったのか。
「待て」
何の――
何の話だと、梅吉が問い掛けると、だって然うじゃ無いか、と巳之助は応じた。
「俺が口笛を吹き乍ら此処の戸を開けたら、梅さん、怯えた様な、威嚇する様な声で応えたじゃ無いか」
「――――」
梅吉は然う云われて暫し言葉に詰まり、ヤレヤレと溜め息を吐いた。
「相変わらず耳敏いな」
然うだと巳之助は頷いた。
「此れが俺の特技だもの」
胸を張る巳之助に、梅吉はもう一度溜め息を吐くと、巳之助、と呼び掛けた。
「お前、若し山の方から口笛みたいな音がしたら気を付けろよ」
「何様して」
びくりと身を震わせて巳之助は問い返した。
夜に響く音ならとうに気付いて居た。
山に打付かる風の音か、誰かが吹き鳴らす笛の調か。
何れにせよ、幾日か前から夜中になると其んな物が村には聞こえて居た。
だからこそ、余計に早く口笛を憶えたかったと云うのも有る。
彼あ為て口笛を平気で吹き鳴らす者が居るのだから、翌晩も聞こえると云う事は毎晩無事に過ごして居るのだから、だから、自分も吹けて好い筈だと。
「其れが響く夜は――」
外に出ちゃいけないぜ、と梅吉は云った。
「其れはな、若しかすると」
幽谷響が仲間を呼ぶ音かも知れない。
長いこと彼方此方を渡り歩いて来たから分かる。
其れは――
好く無い物だと、梅吉は結んだ。
だから、巳之助は考えを改めた。
夜に口笛を吹くと、好く無い物を呼び寄せる。
例えば其れは幽谷響であり、木霊である。
呼び寄せられた好く無い物に行き会うと、連れ去られる。
梅吉が然う云うのだから。
梅吉が怯えて居るのだから。
だから、然うなのである。
然うに違い無いのである。
其処に疑いを差し挟む余地は、無かった。
甲高い口笛に似た音が、夜の闇と劈いて響いた。
巳之助は身を縮め、隠れる様に布団を頭から被り、息を潜めた。
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