貳
懐かしい声――が聞こえた気がして振り返った先に其の男は居た。
人混みの向こうに見えた、見覚えの有る面差し。
片足を引き摺る様に為て歩く後ろ姿。
思わず後を追おうと為て、途端、焦りからか足が縺れた。
どどうと横倒しに倒れ、隣に居た同僚が、何遣って居るんだと笑った。
否、彼の、と言い訳半ばに立ち上がろうと為た其の時、目の前がふと翳った。
何様為されましたか、大丈夫ですか、と覗き込む其の顔は、今し方自分が追おうと為た其れであった。
後ろで派手な音がした物ですから、思わず、と云う其の声にも、何処か聞き覚えがある気がする。
ヤ、此れは此れは春梅屋の坊ちゃんじゃないですかい、と呆けて居る内に同僚が声を掛けた。
坊ちゃんは足がお悪いんで御座居ますから、斯う云った仕事は此方にお任せを。
ホレ、手前もサッサと立ちやがれ。
云うなり、脇に手を差し入れられ、乱暴に引き上げられる。
其の刹那、腰を屈めて居た、春梅屋の坊ちゃんと呼ばれた其の男の左耳の後ろに見えたのは、矢張り見覚え有る痣であった。
思わぬ事の連続で呆けた頭の儘考えを纏められずに居る内に、大丈夫でしたか、と改めて問われ、何とか頸だけは前に折れた。
気を遣って下さって居るんだ、お前からも御礼を云わねぇか、と同僚に小突かれ、急かされる様に、有り難う御座居ますともう一度頭を下げる。
否、大事無いなら好いのです、其れでは、と笑顔で踵を返し、矢張り片足を引き摺る様に為て、其の男は去って行った。
其れを、黙って見送る。
何遣ってるんでぇ、と同僚が肩を叩く。
今の人は、と云い掛けると、何だ、春梅屋の坊ちゃんかい、と返された。
桐彦と云ってな、二番番頭の養子だとかって話だがよ、峻とした色男だろう。
然うだな、と頷き返す。
桐彦。
では違うのだろうか。
容姿に見覚え、声に聞き覚えは有る物の、其れは自分の知る者の名ではない。
其の様な考えに耽って居ると、併しお前に其んな趣味が有ったたぁ知らなかったぜ、と同僚は茶化す様に続けた。
何だって、と聞き返すと、同僚は戯けた調子で、お前に男の尻を追っ掛け回す趣味が有ったたぁ知らなかったって云ったんだよ、と云う。
其処で、有らぬ誤解をされて居ると気付いた。
違う、昔会った事が有る気がして、と云い掛けた処で、逆効果だと分かった。
此れでは使い古された、只の出来の悪い口説き文句と変わらぬ。
分かったので、此れ以上同じ話を為るのは止めた。
止めたのだが、結局は、此奴の手を借りる事に成った。
最初は笑い、次いで訝しがり、最後には心配もされたが、其れでも正装を貸して呉れた事だけは、感謝為て居る。
春梅屋の桐彦を連れて、近江屋の新三郎は飛騨高山へと街道を歩いて居た。
新三郎の訪郷の誘いに、桐彦は決して好い返事は為なかった。
自分の育った場所は此処であり、自分の両親は此の二人だと、瞭然と然う云った。
其れでも、今、斯う為て同じ道を歩いて居るのは、其の両親たっての勧めも有っての事である。
桐彦が然う云って呉れるのは嬉しい。併し、自分の出自を知らぬ儘に居る依りは、一度なりとも目に為て措いた方が好かろう。其の方が心も落ち着こう。若しか為ると向こうの親も一目会いたいやも知れぬ。親として、其の気持ちは分からぬ事では無い。此方に帰って来て呉れると云うのならば猶更の事、安心して送り出せる。違ったなら違ったで其れも又一興。物見遊山も兼ねて一度行って見ては何様か。
然う云われて迄、桐彦も強く断る理由は無かった。
とは云え跛足の桐彦に江戸から飛騨高山迄は結構な難行である。
而も、新三郎の云う故郷とは、其の更に山奥に在る。
更に桐彦は江戸を離れる事自体が、初回である。
旅支度は番頭夫妻が丁重と調えて呉れたとは云え、道行きの労は思った以上であった。
併し幾日か掛けて二人は、何様にか斯様にか新三郎と其の甥、余一の生まれ育った奥山の目の前に迄辿り着いて居た。
二人の目指す新三郎の古里は山深くの寒村であった。
山間を切り拓いて、漸く猫の額程の土地を耕地と為て居る。
村の側を流れる細い谷川は、其の実、山から逆さ落としに流れ込む急流である。
故に、日常的に田畑に水を採る事すら儘ならぬ。否、其れ所か、春先の雪解け、長雨の梅雨や秋雨の時期に氾濫でも起こせば、其の僅か許りの耕地や必死で育てた作物迄も容赦無く押し流されるのが常であった。
其れを避ける為に、村では川に幾つもの堰を設けて居た。
大水の頃には、其の水流に乗って、枯葉の積もって出来た栄養豊富な赤土も山奥から流されて来る。
其処へ差して敢えて川を堰き止め、流れ下る勢いを殺し、狙った場所で耕地を潅水させる。同じ川から溢れた水でも、予測も統制も出来ぬ激流では無く、土地を浅く潤す灌水と成す事で其の肥沃な土を村に呼び込む益流と為る事が、此の村での土地耕作の工夫であった。
併し、云う迄も無く、其れでも村の者全員の口を糊するには、況して育ち盛りの稚児らを十全に養うには、到底足らぬのである。
其の為、村の多くの者は土地を耕す傍ら、山野に出る事を生業と為る、所謂山の民として暮らして居た。
野草や木の実、茸、獣。
其れらは村にとって貴重な食糧であった。
併し、然う為て何様にか斯様にか食い繋いでも猶、村は常に貧困に喘いで居た。
気候の機嫌が悪く、不作の年、飢饉の年等は、山に籠っても
碌
に食い物など手に入らず、幼い者、年老いた者、弱い者から順に息絶えた。
村の半数が命を落とした事も一度や二度では無い。
其れでも山に齧り付くように為て、丸で山から離れる事自体が死を意味するかの様に、彼らは生きて居た。
死した者は凡て、村から毫し離れた山間に埋められた。
村の中に墓所は無い。
近場に亡骸を葬れば、其れを掘り返して喰らおうと獣が寄る。
然う成ると、今度は村の他の住人が危ない。
飢饉の年等は猶更である。
故に山中に葬る。
其れは、山に暮らす者の知恵であった。
否、実情を云えば其れだけでは無い。
山に棲み、山に生かされる者は、孰れ山に還るのだ。
然う為て大地を沃やし、草木を育て、獣を生かす。
其の循環の中に、人も在る。
山に葬られた者が、巡り巡って後の者の糧と成る。
糧を得た者は新たな児を成し、孰れは山に葬られる。
無限に続く螺旋である。
――其の輪に取り込まれるのは、村から外れた者すらも例外ではなかった。
村の東方には小高い丘が在る。
旧くから村から出た罪人の処刑場であったと伝えられて居る。
村で大きな罪を犯した者は此の丘で首を落とされ、首は其の儘此処に埋葬された、との事である。
其の為、此の丘は誰呼ぶとなく、首が塚と呼ばれて居た。
首を埋葬したが故に、首が塚。
翻って云えば、其の名の通り、此処に葬られたのは首だけである。
では、其の胴は何処へ行ったのか。
云う迄も無い。
他の骸と同様に、山中に葬られたのである。
山に生きる者は皆助け合うが不文律。
縦令共同体から弾き出された者であろうとも、素っ首を落とし、犯した罪を贖えば、山は再び其れを受け容れる。
罪の証として首だけは別に埋められるが、然う為さえ為れば山は凡てに平等である。
自身の裡に抱き、長い時を掛けて、荒ぶり猛る咎人の魂をも慰め癒やす。
村の者は然う為て、山に寄り添い、山と伴に生きて来たのである。
新三郎はちらりと後ろを歩く桐彦を一瞥した。
宿を取り、休み乍らとは云え、徒歩での旅も数日に成る。
江戸を離れた事の無い桐彦には想像も出来ぬ苦行であったろう。
現に息を整え乍ら歩く其の姿を見ると、心なしか顔も青白く、悴れて来た様に見える。
併し、桐彦は長い旅路にも愚痴一つ云わずついて来て居た。
今も額から流れる汗を手拭いに吸わせ乍ら、足取りも稍重くなって居乍ら、猶黙って歩いて居る。
其の姿に、此れも山に棲む者の血の為せる業なのかも知れぬと、新三郎は独り考えた。
山に暮らす者は無駄な口は叩かぬ。
一度斯うと決めたら後は只黙々と仕事を遣り遂げる。
其れが山の男である。
――否、勝手に然うと決め込むのも好く無かろうと新三郎は頭を振った。
慥かに見れば見る程、桐彦は新三郎の甥の余一の面影に相似なのである。
併し当人にも憶えの無い事を彼れや此れやと云われるのも気分の好い物ではあるまい。
扠、と新三郎は歩調を緩めた。
連れ出した手前、時折斯う為て調子を見ねば無責任と云う物。
数刻措いての様子見に、新三郎はさりげなく桐彦に並んだ。
流石の長旅に疲れの色を隠せぬ桐彦は、其れに気付くのに毫し遅れた。
「――あの」
何か、と問い掛ける桐彦に、新三郎は努めて明るい調子で応じた。
「否、何、そろそろ疲れては居らぬかと気に掛かってな」
「お気遣い有り難う御座居ます」
稍細い息乍ら、思ったよりも落ち着いた声音で桐彦は礼を云った。
「初めての旅路に御座居ますれば、疲れて居らぬと云えば嘘に成りましょう」
併し、と云って桐彦はぐるりと首を巡らした。
「初めてであるからこそ何もかもが物珍しく、一つ一つが新鮮で、私の胸の内に何か訴え掛けて来る様な心持ちが致します。江戸に居ては見る事も知る事も無かったであろう此の景色も、斯う為て目の当たりに致しますと得も云われぬ心地で、疲れも何処かへと消えて行きまする」
其れに、と桐彦は微かに眉根を寄せて続けた。
「気の所為か、此の景色に見覚えが有る様な、其の様な心持ちも致します故」
「其れは――」
真実か、と新三郎が問うと、桐彦は困った様な、戸惑う様な表情を見せた。
「定かには分かりませぬ」
併し、時折浮かぶ懐かしい様な思いのする景色は、今見ている此れに近しい様に感じまする。
然う云う桐彦に、新三郎は重ねて訊ねた。
「憶えて――居らぬのか」
肯と桐彦は頷いた。
「何も、憶えて居らぬのか」
何一つ憶えて居りませぬと桐彦は頷いた。
「真実に全然憶えて居らぬのか」
残念乍らと桐彦は三度頷いた。
「此の空も此の山も此の川も、全く憶えが御座居ませぬ。見れば何かを思い出すやも知れぬと少々期待して居りましたのは私も同じに御座居ます。けれど、期待通りには行かぬ様にて」
「なれば――」
なれば、何故に我が故郷を離れたのかも分からぬのだな、と思わず新三郎は云った。
「何様云う事で御座居ますか」
然う云って、桐彦は眉根を寄せた。
「私は人買い依り春梅屋に引き取られたと聞いて居りまする。であれば、私は、具に事情は分かりませぬが、大方已むに已まれぬ事情で人買いに売られた物であろうと思って居りました。ですが――」
其れは違うので御座居ますかと、桐彦は訊ねた。
「分からぬのだ」
と、新三郎は答えた。
「何があったのかは、分からぬのだ」
と、新三郎は繰り返した。
「只、人買いに売っただけであれば、態々古里に連れ帰ったり等せぬ。親に売られたと云うは仕合わせな記憶ではあるまい。故に桐彦殿が憶えて居らぬのならば、敢えて掘り返すは迷惑でしか無いことは云う迄も無い。併し、其処を曲げて帰郷を誘ったのには理由がある」
「理由とは」
「話す」
話さねば不義理と云う事にも成ろう、と新三郎は応じた。
「只、許されよ、某が知るのも聞いた話だけなのだ」
「構いませぬ」
聞かせて下さいませ、と桐彦は真っ直ぐに新三郎を見詰め、新三郎は重い口を開いた。
嘗て一度、村が真実に存亡の危機に陥った事があった。
其の前の年は何時にも無い程の凶作であった。
其の上、此の年も水無月の半ば頃にして猶寒風が吹き荒れ、飢饉が続く事は想像に難くなかった。
木々は新緑が芽吹く所か立ち枯れ始め、草花も花を咲かす所か細い茎を僅か許り持ち上げるのが精一杯の有様であった。
村は暗い空気に覆われて居た。
弱い者から次々と倒れ、村を棄てて逃げる者すらも在った。
併し村が無く成り掛けたのは、続く飢饉の為に村人が死に絶えた、或いは悉く逃げ去った、と云うのではない。
契機は、村に奇妙な男が現れた事であった様である。
其れは斑模様に接ぎを当てた奇矯な装いの小男であった。
接ぎと云っても、見窄らしい姿であった訳では無い。
寧ろ其の生地は上等の物の繋ぎ合わせであり、寒村に似合わぬ煌びやかな装いと云えた。
継ぎ接ぎに見えるのは繕いでは無く、いっそ滑稽にすら見える様に敢えて造作った物であった。
何処からとも無く村外れの橋を渡って現れた其の男は、何を云うでなく、何を唄うでなく、何を語るでなく、其の手にした日の光に煌めく笛を吹き鳴らし、只々愉しげに村中を練り歩いた。
不可思議で、其れで居て不気味な光景であった。
山奥の寒村には似付かわしくない派手な装い。
飢饉に怯える村人とは対照的な軽やかで愉快げな演奏。
其の小男を前に、村の者は皆、戸を閉ざし、窓を閉ざし、見ぬよう、聞かぬように関わりを避けた。
諸手を挙げて迎えようと為なかったのは未だ理解る。
余所者を容易には容れぬ山奥の集落。
況して訪れた者が怪しく見えれば、歓待など在ろう筈が無い。
併し、生きるか死ぬかの瀬戸際に在り、術を選ぶ余裕の無い村人が、誰一人として此の只独りで現れた小男を襲おうとも、追い払おうとすらも為なかったのは不可解な話と云って好かった。
身形を見る限り寡なくない財がありそうなのに、である。
人の神経を逆撫で為る程愉し気に笛の演奏を遣って居るのに、である。
人手を集めて力任せに襲い掛かれば一溜りも無さそうであったのに、である。
村人は皆、家の中から精々不審気な視線を送るのみで、触らぬ神に祟り無しと許りに男が立ち去るのを只見送った。
其れからの事である。
村に奇妙な噂が流れた。
稚児達が云うのである。
笛の音が聞こえると。
何処からともなく。
昼と無く夜と無く。
追おうとすれば遠離り。
気付けば又近付いて居るのだと。
併し、大人達には云う様な笛など聞こえなかった。
故に、親達は放って措いた。
仕方の無い話であろう。
其れ所では無かったのである。
明日をも知れぬ身で、聞こえもせぬ笛の音など、正面には関わって居られまい。
然う為て幾日かが過ぎた水無月の末頃の或る日の事である。
其の晩は珍しく風がぱたりと止み、冴え冴えと月影煌めく夜であった。
遠くの山奥依り獣の遠吠えが聞こえそうな、逆態に家の中で針を落としても何処迄も響いて仕舞いそうな、静寂かな夜であった。
親も児も皆、肩を抱き合い、身を寄せ合い、僅かな暖を分かち合った。
然う為る中、何処の家の児も、誰も彼もが声を潜めて斯う云った。
今晩は、普段依りも笛の音が聞こえる、と。
併し、繰り返すが、親には聞こえぬ。
故に大人達は稚児を強く抱き、斯う応えた。
其れは遠くの山から聞こえる幽谷響かも知れぬ。
聞けば障る。
耳を貸せば呼ばれる。
心を傾ければ連れて行かれる。
だから――
布団を覆って、眠って仕舞いなさい。
稚児達は素直に頷き、怯えた様に身を竦め、逃れる様に耳を覆い、其れでも、一様に斯う念った。
幽谷響の調べとは、何と耳を惹き付けて止まず、何と深く刻み込まれ、何と魂魄を揺さ振る物か、と。
然う為て親も児も微睡みの淵に沈んで行った。
夜が明けて、目を覚ました大人達が目にしたのは、既に蛻の殻と成った寝床と、空虚とした村落であった。
親と伴に眠って居た筈の児らは一人として残って居なかった。
奇妙な事に村が荒らされた気配は無かった。
獣が出た訳では無い。
野盗が押し入った訳でも無い。
人買いが訪れ連れ出した訳でも無い。
只、稚児達だけが居なかった。
親達は半狂乱に成り、西へ東へと探し回ったが、児らの行方は杳として知れなかった。
呼べど叫べど其の声に応える者は無かった。
村で只一人、偶々厠に起きて外を見たと云う老婆は斯う云った。
児らは何かに連れられる様に戸口の前を通り、首が塚の方へと歩いて行き、其の儘山に呑まれたか、消え失せた様に戻って来なかったと。
誰とも無く斯う口に為る者が在った。
児らは真実に幽谷響の笛の音に連れ去られたのでは無いかと。
村に現れた奇妙な男は山の使い、幽谷響では無かったかと。
児らにだけ聞こえて居た笛の音は山の神の笛では無かったかと。
山の神の使いを饗さず、見て見ぬ振りを為て、山の念を裏切ったが故に、児らは居なく成ったのでは無いかと。
然う為て、児らが歩き去ったとされる辻では、児らを悼み、連れ去った笛を避け、歌い踊り奏でるが禁じられる様に成った。
其れが、六年程前の話である。
新三郎が此の難を逃れたのは全くの偶然であった。
当時、齢が既に十を廻って居たが故に、丁稚奉公に出て居たが為に過ぎぬ。
もう僅か二つ三つも稚ければ、新三郎も共に村から姿を消して居たのやも知れぬのである。
現に其れ程の違いで甥の余一は、行方知れずに成って居るのである。
新三郎が其れを知ったのも、然う成って幾年か過ぎての事であった。
江戸の奉公先より飛騨高山迄は先にも云った通りかなりの道程である。
藪入りに帰ろうとて然う易々と出来る物では無い。
故に知らぬ儘に数年が過ぎ、知った頃には今更如何為ようも無くなって居た。
聞いた限りでは、何が起きたのやら全く分からぬのである。
奇妙な装いの小男が出たと云うが、真実に其の男に連れ去られたのかからして定かで無い。
縦しんば然うであったにしても、では何様遣ってと成ると答えに詰まる。
押し込み強盗の様に力尽くで、と云う様子でも無いのである。
残された家々の様子を見るに、児らは自ら進んで家を出て居る。
少なくとも其処に不審な形跡は無い。
――と、聞いて居る。
其の聞いた話を信ずるならば。
児らが自ら村を出たのならば。
其処には何らかの理由が在る筈なのである。
何とは、分からぬのではあるが。
「故にな――」
真実に何があったのか、誰にも分からぬのだ、と新三郎は三度繰り返した。
様々な事を云う者が在った。
例えば生きるに辛い此の世への鬱屈した思いが噴き出し、其の捌け口として打ち壊しか一揆かを志して行軍を行ったのやも知れぬ。
例えば目の前に蔓延る死への恐怖と棄て難い生への執着に取り憑かれ、半狂乱に成って思わず飛び出したのやも知れぬ。
例えば生きる望みを懸けて飢饉の村を捨て、揃って新天地を目指したのやも知れぬ。
例えば人買いの神妙不可思議な手練手管で連れ出されたのやも知れぬ。
例えば山の神に拐かされたのやも知れぬ。
分からぬのだ。
分からぬのだが、突然に児を失くした親の悲しみだけは、如何為ようも無く残った。
「一体、何があったのであろうかな」
心依り嘆息し乍ら、新三郎は然う云った。
「何があったので御座居ましょうか」
然う、桐彦も応えた。
「憶えて居らぬのであろう」
と新三郎が改めて問うと、憶えて居りませぬと同じ答が返った。
併し――
「併し、想像してみる事しか出来ませぬが、一揆や打ち壊し、或いは何かを革えんと志しての行軍とは考え難く思われまする」
と、桐彦は云った。
「其れは何故に」
然う問う新三郎に、桐彦は思案する様に答えた。
「児らだけで其の様な行動に出る事が先ず有り得ない様に思われまする。又、若し仮に其の様な行動に出たのだとすれば――」
誰か前以て煽動し、先導した者が居る筈に御座居ます、と云う桐彦に、新三郎は成程と頷いた。
「其の様な者は無かった様に思う。少なくとも、聞いた事が無い」
「同じ理由から、新天地を目指したとも考え難く思いまする。其れに、其の様な希望に溢れた旅立ちであるのならば、現況の様に親が嘆き悲しむ云い伝えとは成りますまい」
「旅路の途中で何らかの災いに巻き込まれた、と云った事は考えられぬか。例えば山中に迷い込んだとか、淵に嵌まっただとか」
其れならば物悲しい空気も説明出来よう、と反駁した新三郎に、桐彦は小さく頭を振った。
「寧ろ其れならば、具体的に其の危険を戒める云い伝えと成りましょう。然うで無ければ云い伝える意味がありませぬ」
又も新三郎は成程と唸った。流石に春梅屋の二番番頭の児として丁重と寺子屋に通わせて貰っただけあり、条理が整然と調って居る。
「では、死への恐怖と生への執着で半狂乱と成って飛び出したと云うは如何か」
「飢饉で食う物も無く、這うもやっとであったのにで御座居ますか」
弱り切って居たであろう身体に鞭打って等とは。
「――考え難いか」
「肯」
では残るは人買いに連れ去られたか、山の神に攫われたか。
「山の神は分かりませぬが、人買い、と云うのが一番有り得そうに思えまする。其の、村に現れたと云う奇妙な男、聞けば其の格好は、私を春梅屋に売り渡した小男と似通った物の様で御座居ますれば」
併し、然うは云っても――
と、桐彦は未だ思案為て居る様であった。
「何様遣って其の様な大勢の児らを一度に連れ出したのかが腑に落ちませぬ。又、自ら人買いに児を売ったのであれば、親が嘆き悲しんで児らを探し回ったと云うのとも噛み合いませぬ。然う致しますと――矢張り、案外、山の妖物の仕業なのかも知れませぬ」
其の小男も、真実に人間であったので御座居ましょうか。
桐彦が然う結ぶと同時に、ざあと目の前が開けた。
涼しい風が吹き抜け、汗と共に疲れを吹き飛ばす。
眼下に見えるは目指した古里。
最後の峠を登り切った二人は、思わず足取りも軽く成り乍ら、小さな村への下り坂へと歩を進めた。
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