壱
笛の音――が気が付けば常時微かに響いて居た。
否、真実に笛が鳴って居た訳では無いのだろう。
所詮は只、其の様な気が為たに過ぎぬのだと思う。
現に、折に触れて此の笛の音は何処からだろうかと周りの者に訊ねてみても、其の度に誰もが訝しげに顔を顰めたのだから、詰まり他の者には聞こえて居なかった、と云う事なのであろう。
人よりも耳敏いと聞く犬猫にすら聞こえて居ない様子であった処を見ると、格別に己の耳が優れて居る、と云う訳でも無さそうに思えた。
併し、鳴って居ると思ったのだ。
聞こえて居ると、然う思ったのだ。
余りに度々笛の音について訊ねるものだから、耳鳴りでは無いか、何かの病では無いかと、医者に掛かる事を勧める者もあった。
考えてもみれば当たり前の話であった。
昼と無く夜と無く、独りで居ても人混みに居ても、自室に居ても往来に居ても、一切合切関わり無く聞こえる笛の音など、通常、在ろう筈も無い。
併し、医者に掛かっても効果は無かった。
鍼灸按摩の治療を受けた事もあったが、此れも又意味が無かった。
心配した両親の勧めで薬も食事も加持も祈祷も湯治も鰯の頭も、兎に角思い付く限りの事を試してみたが、何れ一つとして役には立たなかった。
手に詰まり案に困って疲れ果てた様子の親に、笛の音と云うが、何の様な音か、高いか、低いか、曲は、節は、旋律はと逆態に問われて、はたと答に詰まった。
甲高く鳴った様な気も為たし、低く轟いた様な気も為た。
聞き覚えのある調子の様な気も為たし、抑揚の等無い単音の様な気も為た。
説明為よう、再現為よう、と藻掻く程に、まるで霧の中に霞む様に茫と曖昧に溶け消えて行く。
手繰り寄せようと為れば為る程に、其れは却って遠離る。
然う為る内に、真実に聞こえて居たのかすら怪しく思えて来る始末だった。
――故に仕舞いには、只、其の様な気が為ただけであろうと、然う、結論付ける事に為た。
聞こえては、居たのだけれど。
何処かに誘う様に。
誰かを呼んで居る様に。
思い返してみても、何時頃から此の笛の音が聞こえ始めたのか定かでは無い。
否、聞こえて居る様な気が為て居るだけなのだから、然う表現するのも可笑しいのかも知れぬ。知れぬが、幼い頃から気が付けば笛の音は永時鳴って居た様な気が為る。
笛の音と共に育った様な気が為るのである。
少なくとも六年前、此の舗に奉公に出た時分には、既に聞こえて居たと思う。
否、然う表現するのも又少々怪訝しな事なのかも知れぬ。
一口に云って仕舞えば、憶えて居ないのだ。
奉公に出る前が何様であったのか。
普通に考えれば、憶えて居らぬ筈は無い。
物心つかぬ二つ三つでは無いのである。
奉公に出る時分となれば十や其処らは回る。
笛の音が聞こえて居たか何様かの憶え程度、在って然るべきである。
併し、憶えて居らぬものは憶えて居らぬのである。
故に問われても、扠と首を傾げる事しか出来ぬ。
彼れは何時の頃であったろうか。
己は養子であるのだと、然う耳に為た事がある。
奉公に出る頃に貰われたのだと云う話である。
両親は瞭然と然うとは口に為なかったが、他の奉公人が噂して居るのを漏れ聞いた処に依ると、何様やら然う云う事の様であった。
だからと云って、ヤレ裏切られたの、謀られただのと云った思いは抱かなかった。
噂して居た奉公人を問い詰めも為なかったし、両親を問い質しも為なかった。
成る程、然う云う事であったかと、独り得心しただけである。
貰われたのであれば、舗や近所に結び付いての笛の音の思い出一つ無いのも頷ける。
否、確かな処は分からぬ。
己は実子であり、只の噂なのかも知れぬし、真実に養子であるのかも知れぬ。
併し、何方であるにしても証拠は無い。
其処を無理に明らかにしようと為ても仕方が無い。
両親は大層好く為て呉れた。
食う寝る暮らすに何一つ不自由は無かった。
読み書き手習い、算盤に作法と、多くの事を教えて呉れた。
お蔭で勤めでも困る事無く可愛がられて居る。
奉公先は、薫物を商う香堂浮橋と云った。
己の両親は、浮橋の二番番頭と其の連れ合いである。
従って、此処が奉公先と成ったのすらも、両親の縁なのである。
其処に文句など、有ろう筈も無かった。
もう其れだけで、充分に仕合わせであった。
「御免下され」
と表から声が為た。
「春梅屋と云うのは此方で御座居ますか」
「諾、左様で御座居ます」
いらっしゃいませと、頭を下げた。
香堂浮橋を春梅屋と呼んで訪ねて来る客は後を絶たない。
其れも其の筈、浮橋は春梅香と銘打った匂い袋で、此の江戸の町で名が売れて居るのだ。
春梅香は其の名の通り梅の香の匂い袋ではあるが、其処らに在る物とは毫し違う。
其の春一番の梅を何処よりも早く手に入れ、匂い袋に仕立て上げる。
買い求めれば一足早く春の香りを楽しむ事が出来る。
此れが、浮橋の春梅香である。
其の粋が江戸の町人の心を打ったのであろうか。
兎も角、春梅屋の名を訪ねて来る者が求めて居る物は、大抵決まって居る。
「春梅香をお求めで御座居ますか」
然う訊ね乍ら顔を上げ、客の様子を検めた。
見れば己より幾ら許りか年嵩の男であった。
身形を見れば為人が知れる物と教わって来た通り、失礼に成らぬ程度に爪先から頭の天辺まで品定めを為る。
確りとした厚手の羽織、墨染めの鼻緒を配った桐の雪駄は品が良さそうではある物の、余り着慣れて居ない物の様に見える。現に、其の表情は着物に似付かわしく無く何処か落ち着かず、気忙しげに辺りに目を配って居る。併し、召し物の仕立ての良さは本物である。従って、浮橋へ行くと成って借り受けた物であろうと察せられた。
繰り返すが、浮橋は薫物屋である。
匂い袋であれば町人にも手に取り易い。併し、練り香や香木となれば公家貴族の嗜みとも成る。自然、表に並んだ品を手に取る迄ならまだしも、店先依り暖簾を潜ると成れば其の敷居は高くも感じられよう。
其の為の借り物の正装であろうかと、見当が付いた。
併し、翻って云えば、其の様な物を借り受ける筋のある者なのだから、其処らの人足とは又格が違おう。
為れば、何処かの大店の奉公人、而も然程地位の高く無い者であろうか。
と、其処まで推量を付けた処で、おや、と内心首を捻った。
然うであると為るならば一つ噛み合わぬ事がある。
男は春梅屋の屋号を唱えて訪ねて来たのであるから、春梅香を求めて居る物と勝手に決めつけて居た。併し、果たして其れは真実であろうか。
先の通り、匂い袋たる春梅香は町人にも手の届く店先の品。
其れを求めるならば、正装は必要無い筈である。
併し、此の男の身形を見るに、其れでは済まぬ用件と見える。
然う成ると、今度は用が皆目見当が付かぬ。
否、付かぬ許りでは無い。
成る程、浮橋を能く知らぬ者ならば、春梅香を求めるのでなくとも通りの良い春梅屋の屋号を頼りに訪ねる事もあるだろう。
併し、然うであるならば此の男、能く知らぬ舗を態々正装を為て迄訪れ、敷居を跨いだと云う事になる。
其れは全く道理が通らぬ。
上の者を呼ぶべきかと内心思案為て居ると、男は何かを振り払う様に頭を振った。
「某は近江屋に勤める新三郎と申す」
近江屋とは、界隈では少し名の知れた材木問屋である。
併し、浮橋との繋がりは特には無い筈である。
少なくとも己は知らぬ。
故に余計に用件が分からなくなった。
其の様な戸惑い等気に懸ける様子も無く、新三郎と名乗った男は、桐彦殿であるな、と確認為る様に云った。
「左様に御座居ますが」
何とか絞り出す様に為て答えると、男は半ば安堵した様に、半ば却って緊張した様に、不躾乍ら、と続けた。
「ご両親にお会い致しとう御座居まする。お取り次ぎをお願い頂けませぬか」
尚、混乱した。
浮橋の店舗は落ち着かぬ空気に包まれて居た。
材木問屋の近江屋から新三郎と名乗る男が正装にて訪れ、二番番頭を名指しで面会を求めたのである。
此の時点では全く用件が分からぬ。
使用人達は、ヤレ何か為抉ったか、特殊な商談か、否、只の個人的な用件かと口々に噂し合った。挙げ句、よもや縁談では無いかと云う話迄出たが、答は誰一人知り様が無かった。
桐彦も又、落ち着いては居られなかった。
其れも仕方の無い事ではあろう。
他でも無い己の両親が、今面会為て居るのだ。
而も己が仲介した縁もある。
他人事では無い。
況して、己の縁談では無いかと云った噂も出る様であれば、猶更である。
勿論、昼間の仕事が有る故に、表立って桐彦に何事かと問う者は無い。
無いが、通り様に軽く声を掛ける者、裏で声を潜める者、凝と一挙手一投足に目を配る者と、己が注目の的と成って居る事は容易に察せられる。
故に、表に居ても何とも据わりの悪い思いが常に付き纏う。
桐彦には如何為ようも無い事ではあるのだが。
客が無いのを検めて、深く溜め息を吐く。
昼餉を言訳に早めに抜けさせて貰おうかと思案した処で、そっと袖が引かれた。
見れば、桐彦よりも稚い、さねと云う小間使いの奉公人が後ろに立って居た。
何事かと問い返すより先に、さねは桐彦の耳元に口を寄せ、お父様とお母様がお呼びですと小さく告げた。
自ら動くより先に事態は動き出した様で、さねに分かったと頷き返した桐彦は、好奇の目を背中に感じ乍ら舗の奥へと足を向けた。
「お呼びで御座居ましょうか」
襖の前で声を掛けると、内より、桐彦か入れ、と呼び入れられた。
一礼して、引き開く。
奥座敷には、桐彦の両親と新三郎と名乗った男の三人が待って居た。
「其処を閉めよ」
然う云う父の言葉に、黙って後ろ手に襖を閉ざす。
付き従う様について来て居たさねとの間に壁が出来る。
桐彦は畳に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「何の御用で御座居ましょうか」
問うと、両親は如何にも云い難そうに顔を顰めた。
併し、呼び出した以上、何も無しに済ます事等出来ぬ話である。
母は目を伏せ、父はううむと唸った。
「何時かは此の様な日が来るのでは無いかと思って居ったのだ」
と、然う、父は切り出した。
「好いか、心して聴け」
桐彦、お主は――
「お主は、我らの実の子では無いのだ」
「其れは――」
云い掛けた桐彦に、母は屹と顔を上げ、遮る様に声を振り絞った。
「否、其方は妾の可愛い息子。縦令血の繋がりが無かろうとも、此の愛情には一片の曇りとて有りませぬ。其れだけは、疑うて下さるな」
然うとも、と父も吠える様に応じた。
「お主は我らの愛しい息子には違いないのだぞ。誰が何と云おうと、此れだけは終生変わらぬ。変わらぬのだ」
思って居たより大仰な話に成って居り、桐彦は却って狼狽した。
「あの、其れは――」
「何だ、桐彦」
「遠慮無く此の母に申してみよ」
「否、云い難ければ父に申せ」
其れは――
「知って居りまする」
二人は息を呑んだ。
隠し果せて居る心算であったらしい。
桐彦は安堵の息を吐いた。
両親にして見れば重大な告白であったのかも知れぬが、桐彦にしてみればかねがねの噂の真偽が明らかになった以上の意味を持たぬ。
両親の情愛を僅かなりとも疑った事等、一度も無い。
ならば其れで好いのだ。
「其れでは真逆お主は十より以前の事を憶えて居るのか」
「憶えては居りませぬ」
桐彦は頸を横に振った。
奉公に出るより前の事を憶えて居ないのは、何も笛の音に限った話では無いのである。
何処で生まれ、誰に育てられ、何様な経緯で奉公に出る事に成ったのか、然う云った事は一つとして憶えが無い。
最初の定かな記憶は、両親に此れから此処で働くのだと告げられた処である。
其れ以前の事は思い出そうにも思い出せぬ。
否、正確しくは、全く憶えて居ない訳でも無い。
ふとした折に、不意に脳裏に何かが浮かぶ事がある。
其れは青々とした叢であったり、生い茂る木々であったり、涼やかな谷川であったり、見霽かす山々であったりした。
――併し、近場には其の様な景色は臨めなさそうに思えた。
又、何処か懐かしい其の風景の中に、誰かの顔が思い起こされる事もあった。
優しげに、楽しげに、愛おしげに、其の顔は己に笑い掛けた。
――併し、其れらは何故か己の能く知る両親の物では無かった。
思い出す度に、何故か嬉しい様な、寂しい様な、何とも云えず胸が締め付けられる様な思いが為た。
両親に幾度か尋ねてみた事もある。
此の時折蘇る、憶えの無い風景は、面影は、一体何なのであろうかと。
併し然う問うと、両親は決まって、困った様な、辛い様な表情で黙り込んで仕舞うのであった。
であるから、或る時から訊ねるのを止めた。
両親を困らせたい訳では無かったのだから。
養子と云う噂を耳にしてからは猶更だった。
要は両親に引き取られる以前の記憶なのだろうと察したからだ。
然う為て居る内に、徐々に思い浮かぶ事自体が少なくなった。
近頃は思い出されても薄漠然として昔程鮮やかでは無くなった。
併し、其れで好いのだと思った。
思い出せぬのであれば思い出す必要の無い物なのであろうと、然う考えた。
其れでも、笛の音だけは、何時迄も聞こえて居たのだけれど。
「若、若しや其れでは」
人買いの事を憶えて居るのか、と掠れた声で父は問うた。
「其れは――」
否、待て。
今何と云った。
其の問いが思わず口をついて出た。
「今、何と仰せられましたか」
人買い。
然う云ったか。
己は、買われたのか。
此の家に。
父は為抉ったと云う顔をした。
「話して下さいませ」
聴かずには居られなかった。
養子と云う噂は在った。
併し、人買いとは。
父は深く深く溜め息を吐いた。
「話す」
否、話さざるを得まいよ、と天を仰いで然う云った。
「抑も、今、此の場にお主を呼んだのは他でも無い、其の話なのだ」
此の様な切り出し方を為る心算では無かったのだがな、と云った父の表情は嘗て無い程に苦々しげであった。
「彼の人買いが現れたのは、丁度我が子を亡くした許りの頃の事であったのよ」
奇妙な男であった。
見上げん許りの長身。手入れの十分とは云えぬ荒れた禿頭。光を失ったか瞑った儘の目蓋。荒縄で背中に括り付けた琵琶。襤褸襤褸に擦り切れた袈裟。片手には折れそうに撓る杖。足下には千切れそうな草鞋。
只見れば流しの琵琶法師だが、其の背丈も相俟って凄まじい威圧感である。
其れが、或る日、香堂浮橋の裏手に現れた。
相手に出た女中が息を呑み、金切り声を上げんとする其の瞬間に、男は人懐こく相好を崩した。
「御免下さいませ」
低く、暖かみのある声であった。
途端、凡ての印象が塗り替えられる。
痘痕も笑窪と云う様に、威圧は愛嬌に、恐怖は憐憫に。
「愚僧は怪しき者には御座居ませぬ。旦那様にお目通り願えませぬか」
無意識に肯と云い掛けた。
求められるが儘に、快く了承し掛けた。
奇妙な事であった。
訪ねて来た者を一々上げる事は叶わぬ。
云う迄も無い事である。
其の様な基本的な事は躾けられて居ない筈が無い。
然うにも関わらずである。
併し、幸か不幸か其れは為されなかった。
其の女中の背後を、浮橋の二番番頭が通り掛かった。
「何事か」
其の声に、女中ははたと我に返った。
途端、己が今何を為ようとしたのかを知り、真っ青になる。
此の儘放って措けば、請われる通りに奥に上げてすら居たやも知れぬ。
其れ程に呆として居たのだ。
今の今迄。
「ば、番頭様」
振り返る女中の背後で、裏口に立った座頭は相手を呼ばれた番頭と変えた様であった。
「突然の訪問、申し訳ありませぬ。愚僧は一つお聞き入れ頂きたい議があって、参った者に御座居まする」
「――願いとは」
僧形の大男に興味を惹かれたのか、将亦不可思議な力に惑わされたか、女中に続いて番頭も、門前払いを食らわせるでなく男に耳を貸した。
「やれ嬉しや。お聞き下さるか、願いと云うのは他でもありませぬ。此の背後に在る者の事に御座居まする」
座頭が身を避けると、其の背後には二人の供が控えて居た。
一人は斑模様に接ぎを当てた装いの小男であった。
接ぎと云っても襤褸を纏って居る訳では無い。寧ろ身形は好い方で、継ぎ接ぎに見えるのも色取り取りの生地を煌びやかに縫い合わせた造作だからである。口元には何やら木片を咥えて居るが、南蛮渡来の煙管か何かであろうか。併し、然う云った垢抜けた装束の割に、此方を伺う様に上目遣いに見上げて来る様は野鼠か何かの様で、大柄で堂々として居る座頭とは対照的であった。
今一人は、未だ歳幼き子どもの様であった。
此方は更に小柄ではあったが、か弱い様子には見えず、纏って居るのが粗末な衣服である為哀れを誘うが、身体は如何にも頑丈そうに見えた。
併し気になるのが、目の焦点が合わず、何とも呆けた様子である事であった。何を考えて居るのかが知れぬ。否、何かを考えると云う事が出来て居る様には見えぬ有様であった。
座頭は大袈裟な身振りで斯う続けた。
「後ろなる此の男は人買いに御座居まする。連れて居るのが其の商品。扠願いと云うのは云う迄も御座居ますまい」
此の御子を買っては頂けますまいか、と座頭は単刀直入に云った。
突然の申し入れに、番頭は大いに戸惑った。
子を一人買って呉れと云われても、然う易々とは肯とは云えぬ。
当たり前の事である。
併し、何やら事情が有るようにも見える。
座頭の様子からも、無碍に断るのが気が引ける。
悩む様子を感じ取ったのか、座頭は、と申しますのも、と言葉を継いだ。
「此の子ども、余所には売るに売れぬ理由がありまする」
「其の理由とは」
「力仕事が出来ませぬ」
はて、と番頭は首を傾げた。
「五体満足の様にも見えるが、如何に」
「左様」
座頭は我が意を得たりと頷いた。
「其処が問題なので御座居まして、併し此の子ども」
跛足に御座居まする、と然う云った。
聞けば、座頭が斯うして人買いと子どもを連れて来たのは、抑も其処が理由らしい。
跛足の男の子等商品に成らぬと人買いが撲って居たのを仲裁に入り、扠引き取りでも為ようかと考えた物の、座頭には持ち合わせも無ければ子を連れ歩く余裕も無い。
仕方無しに、何処か引き取り手を見付ける迄は付き合うから撲るのは止せと口利きを買って出たらしい。
とは云え売るに売れぬ跛足の男の子は矢張り売れぬ。
何軒回っても好い返事は中々貰えぬ。
然う斯う為る内に、此処迄辿り着いたのだと云う。
然う聞いて、番頭は此れも何かの縁かと感じた。
自分はつい先達て、我が子を亡くした許りである。
其処に、斯う為て行く宛ての無い子が迷い込んだ。
此れは引き取って我が子と為すべしと云う仏の巡り合わせかも知れぬ。
番頭は其の縁を試してみようと思い付いた。
「引き取っても構わぬぞ」
と、番頭は然う云った。
「只、此の舗は薫物が商いである。仮に手足が揃って居ても何の得にも成らぬ。寧ろ鼻の利く子が好い」
試みに源氏香をやって見せよ。
座頭と人買いは、其れは好いと応え、然らばと子に目隠しをさせた。
源氏香とは、五種の香り利き遊びである。
五種の香木を各々五つ用意して混ぜ、其の二十五の内から五つ選び出して薫くのである。
然うして、香りの異同を図に示す。
組み合わせに依っては、凡てが同じ香りである事もあれば、凡てが違う香りである事もある。
組の総数は五十二。
各々に源氏物語五十四帖の名が振られて居る。
故に源氏香と云う。
其れを――子は玉然と当てた。
難しさを十分には分からぬ座頭や人買いも驚いたが、誰より番頭が驚いた。
此れは好い拾い物であると手を叩いた。
然う為て、子は相応の代金で浮橋の二番番頭に引き取られる事と成った。
引き取られるに当たって、名が与えられた。
源氏物語五十四帖の内、源氏香に使われぬ名は第一帖桐壺と、第五十四帖夢浮橋。
舗の名は其の夢浮橋から取られて居る。
ならば、桐壺から取るが好かろうと、付いた名が桐彦。
其れが子の名と成った。
爾来、六年の時が過ぎた。
「斯う為てお主は我らが桐彦と成ったのだ」
と云って、父は口を閉ざした。
成程、と桐彦は内心頷いた。
併し、だからと云って何かが変わる訳では無い。
辛い境遇から救い出して呉れた親に対して、感謝こそ有れど、恨みなど無い。
否、待て。
話は其れでは終わらぬ。
ならば、此の男は一体誰だ。
材木問屋、近江屋の新三郎とは何だ。
不意に自分に向けられた怪訝そうな瞳に気付いたのだろう、新三郎と名乗った男は、居住まいを正した。
「先程も名乗りまして御座居ますが、改めて。近江屋の新三郎と申しまする」
然う云って、深々と頭を下げる。
「つかぬ事をお伺い致しますが、桐彦殿の跛は右に御座居ますな」
「肯」
と、桐彦は頷いた。
「又、桐彦殿の左耳の後ろに、痣が御座居ますな」
「左様に御座居ます」
自分では見えぬが、然う云われた事は何度かある。
「桐彦殿は六年より前の記憶が無いので御座居ますな」
「其の通りに御座居ます」
「桐彦殿の御年は十六か其処らで御座居ますな」
「恐らくは」
其れが、一体如何したと云うのか。
更に不審の色が濃くなった視線に、新三郎は、面差しも似て居りまする、と独り頷いた。
「桐彦殿」
「何で御座居ましょうか」
「某は桐彦殿の出自を存じて居るやも知れませぬ」
――何と。
「今、何と」
「某の推量が間違うて居なければ、桐彦殿の真実の名は余一」
某の甥に御座居まする、と新三郎は云った。
「勿論無理にとは申しませぬが、若し桐彦殿が望まれるとあらば、桐彦殿の故郷に御案内致したく存じまする」
然う、新三郎は告げた。
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