笛の音――が気が付けば常時(いつも)微かに響いて居た。
 (いや)真実(ほんとう)に笛が鳴って居た訳では無いのだろう。
 所詮(しょせん)は只、其の様な気が()たに過ぎぬのだと思う。
 現に、折に触れて此の笛の音は何処からだろうかと周りの者に訊ねてみても、其の(たび)に誰もが(いぶか)しげに顔を(しか)めたのだから、詰まり他の者には聞こえて居なかった、と云う事なのであろう。
 人よりも耳敏(みみざと)いと聞く犬猫にすら聞こえて居ない様子であった(ところ)を見ると、格別に己の耳が優れて居る、と云う訳でも無さそうに思えた。
 (しか)し、鳴って居ると思ったのだ。
 聞こえて居ると、()う思ったのだ。
 余りに度々(たびたび)笛の音について訊ねるものだから、耳鳴りでは無いか、何かの病では無いかと、医者に掛かる事を勧める者もあった。
 考えてもみれば当たり前の話であった。
 昼と無く夜と無く、独りで居ても人混みに居ても、自室に居ても往来(おもて)に居ても、一切合切関わり無く聞こえる笛の音など、通常、在ろう筈も無い。
 (しか)し、医者に掛かっても効果は無かった。
 鍼灸按摩の治療を受けた事もあったが、此れも又意味が無かった。
 心配した両親の勧めで薬も食事も加持も祈祷も湯治も鰯の頭も、兎に角思い付く限りの事を試してみたが、()れ一つとして役には立たなかった。
 手に詰まり案に困って疲れ果てた様子の親に、笛の音と云うが、()の様な音か、高いか、低いか、曲は、節は、旋律はと逆態(はんたい)に問われて、はたと答に詰まった。
 甲高く鳴った様な気も()たし、低く轟いた様な気も()た。
 聞き覚えのある調子の様な気も()たし、抑揚の(など)無い単音の様な気も()た。
 説明()よう、再現()よう、と藻掻(もが)く程に、まるで霧の中に霞む様に茫と曖昧に溶け消えて行く。
 手繰り寄せようと()れば()る程に、其れは却って遠離(とおざか)る。
 ()()る内に、真実(ほんとう)に聞こえて居たのかすら怪しく思えて来る始末だった。
 ――故に仕舞いには、只、其の様な気が()ただけであろうと、()う、結論付ける事に()た。
 聞こえては、居たのだけれど。
 何処かに(いざな)う様に。
 誰かを呼んで居る様に。

 思い返してみても、何時(いつ)頃から此の笛の音が聞こえ始めたのか定かでは無い。
 (いや)、聞こえて居る様な気が()て居るだけなのだから、()う表現するのも可笑(おか)しいのかも知れぬ。知れぬが、幼い頃から気が付けば笛の音は永時(ずっと)鳴って居た様な気が()る。
 笛の音と共に育った様な気が()るのである。
 少なくとも六年前、此の(みせ)に奉公に出た時分には、既に聞こえて居たと思う。
 (いや)()う表現するのも又少々怪訝(おか)しな事なのかも知れぬ。
 一口に云って仕舞えば、憶えて居ないのだ。
 奉公に出る前が何様(どう)であったのか。
 普通に考えれば、憶えて居らぬ筈は無い。
 物心つかぬ二つ三つでは無いのである。
 奉公に出る時分となれば十や其処らは回る。
 笛の音が聞こえて居たか何様(どう)かの憶え程度、在って(しか)るべきである。
 (しか)し、憶えて居らぬものは憶えて居らぬのである。
 故に問われても、(さて)と首を傾げる事しか出来ぬ。

 ()れは何時(いつ)の頃であったろうか。
 己は養子であるのだと、()う耳に()た事がある。
 奉公に出る頃に貰われたのだと云う話である。
 両親は瞭然(はっきり)()うとは口に()なかったが、他の奉公人が噂して居るのを漏れ聞いた処に依ると、何様(どう)やら()う云う事の様であった。
 だからと云って、ヤレ裏切られたの、(たばか)られただのと云った思いは抱かなかった。
 噂して居た奉公人を問い詰めも()なかったし、両親を問い(ただ)しも()なかった。
 成る程、()う云う事であったかと、独り得心しただけである。
 貰われたのであれば、(みせ)や近所に結び付いての笛の音の思い出一つ無いのも頷ける。
 (いや)、確かな処は分からぬ。
 己は実子であり、只の噂なのかも知れぬし、真実(ほんとう)に養子であるのかも知れぬ。
 (しか)し、何方(どちら)であるにしても証拠(あかし)は無い。
 其処を無理に明らかにしようと()ても仕方が無い。
 両親は大層好く()て呉れた。
 食う寝る暮らすに何一つ不自由は無かった。
 読み書き手習い、算盤(そろばん)に作法と、多くの事を教えて呉れた。
 お蔭で勤めでも困る事無く可愛がられて居る。
 奉公先は、薫物(たきもの)(あきな)う香堂浮橋(うきはし)と云った。
 己の両親は、浮橋の二番番頭と其の連れ合いである。
 従って、此処が奉公先と成ったのすらも、両親の縁なのである。
 其処に文句など、有ろう筈も無かった。
 もう其れだけで、充分に仕合わせであった。

「御免下され」
 と表から声が()た。
春梅(はるうめ)屋と云うのは此方(こちら)で御座居ますか」
(はい)、左様で御座居ます」
 いらっしゃいませと、頭を下げた。
 香堂浮橋を春梅屋と呼んで訪ねて来る客は後を絶たない。
 其れも其の筈、浮橋は春梅香(しゅんばいこう)と銘打った匂い袋で、此の江戸の町で名が売れて居るのだ。
 春梅香は其の名の通り梅の香の匂い袋ではあるが、其処らに在る物とは(すこ)し違う。
 其の春一番の梅を何処よりも早く手に入れ、匂い袋に仕立て上げる。
 買い求めれば一足早く春の香りを楽しむ事が出来る。
 此れが、浮橋の春梅香である。
 其の粋が江戸の町人の心を打ったのであろうか。
 兎も角、春梅屋(はるうめや)の名を訪ねて来る者が求めて居る物は、大抵決まって居る。
「春梅香をお求めで御座居ますか」
 ()う訊ね(なが)ら顔を上げ、客の様子を(あらた)めた。
 見れば己より幾ら(ばか)りか年嵩(としかさ)の男であった。
 身形(みなり)を見れば為人(ひととなり)が知れる物と教わって来た通り、失礼に成らぬ程度に爪先から頭の天辺まで品定めを()る。
 (しっか)りとした厚手の羽織、墨染めの鼻緒を(あしら)った桐の雪駄は品が良さそうではある物の、余り着慣れて居ない物の様に見える。現に、其の表情は着物に似付かわしく無く何処か落ち着かず、気忙(きぜわ)しげに辺りに目を配って居る。(しか)し、召し物の仕立ての良さは本物である。従って、浮橋へ行くと成って借り受けた物であろうと察せられた。
 繰り返すが、浮橋は薫物(たきもの)屋である。
 匂い袋であれば町人にも手に取り易い。(しか)し、練り香や香木となれば公家貴族の嗜みとも成る。自然、表に並んだ品を手に取る(まで)ならまだしも、店先依り暖簾(のれん)を潜ると成れば其の敷居は高くも感じられよう。
 其の為の借り物の正装であろうかと、見当が付いた。
 (しか)し、翻って云えば、其の様な物を借り受ける筋のある者なのだから、其処らの人足とは又格が違おう。
 ()れば、何処かの大店(おおだな)の奉公人、(しか)然程(さほど)地位の高く無い者であろうか。
 と、其処まで推量(あたり)を付けた処で、おや、と内心首を捻った。
 ()うであると()るならば一つ噛み合わぬ事がある。
 男は春梅屋(はるうめや)の屋号を唱えて訪ねて来たのであるから、春梅香を求めて居る物と勝手に決めつけて居た。(しか)し、果たして其れは真実(ほんとう)であろうか。
 先の通り、匂い袋たる春梅香は町人にも手の届く店先の品。
 其れを求めるならば、正装は必要無い筈である。
 (しか)し、此の男の身形(みなり)を見るに、其れでは済まぬ用件と見える。
 ()う成ると、今度は用が皆目見当が付かぬ。
 (いや)、付かぬ(ばか)りでは無い。
 成る程、浮橋を()く知らぬ者ならば、春梅香を求めるのでなくとも通りの良い春梅屋(はるうめや)の屋号を頼りに訪ねる事もあるだろう。
 (しか)し、()うであるならば此の男、()く知らぬ(みせ)態々(わざわざ)正装を()(まで)訪れ、敷居を跨いだと云う事になる。
 其れは全く道理が通らぬ。
 上の者を呼ぶべきかと内心思案()て居ると、男は何かを振り払う様に(かぶり)を振った。
(それがし)は近江屋に勤める新三郎と申す」
 近江屋とは、界隈では少し名の知れた材木問屋である。
 (しか)し、浮橋との繋がりは特には無い筈である。
 少なくとも己は知らぬ。
 故に余計に用件が分からなくなった。
 其の様な戸惑い等気に懸ける様子も無く、新三郎と名乗った男は、桐彦(きりひこ)殿であるな、と確認()る様に云った。
「左様に御座居ますが」
 何とか絞り出す様に()て答えると、男は半ば安堵した様に、半ば却って緊張した様に、不躾(ぶしつけ)(なが)ら、と続けた。
「ご両親にお会い致しとう御座居まする。お取り次ぎをお願い頂けませぬか」
 尚、混乱した。

 浮橋の店舗(みせ)は落ち着かぬ空気に包まれて居た。
 材木問屋の近江屋から新三郎と名乗る男が正装にて訪れ、二番番頭を名指しで面会を求めたのである。
 此の時点では全く用件が分からぬ。
 使用人達は、ヤレ何か為抉(しくじ)ったか、特殊な商談か、(いや)、只の個人的な用件かと口々に噂し合った。挙げ句、よもや縁談では無いかと云う話(まで)出たが、答は誰一人知り様が無かった。
 桐彦も又、落ち着いては居られなかった。
 其れも仕方の無い事ではあろう。
 他でも無い己の両親が、今面会()て居るのだ。
 (しか)も己が仲介した縁もある。
 他人事(ひとごと)では無い。
 ()して、己の縁談では無いかと云った噂も出る様であれば、猶更(なおさら)である。
 勿論、昼間の仕事が有る故に、表立って桐彦に何事かと問う者は無い。
 無いが、通り(ざま)に軽く声を掛ける者、裏で声を潜める者、(じっ)と一挙手一投足に目を配る者と、(おのれ)が注目の的と成って居る事は容易に察せられる。
 故に、表に居ても何とも据わりの悪い思いが常に付き纏う。
 桐彦には如何為(どうし)ようも無い事ではあるのだが。
 客が無いのを(あらた)めて、深く溜め息を吐く。
 昼餉(ひるげ)言訳(こうじつ)に早めに抜けさせて貰おうかと思案した処で、そっと袖が引かれた。
 見れば、桐彦よりも(おさな)い、さねと云う小間使いの奉公人が後ろに立って居た。
 何事かと問い返すより先に、さねは桐彦の耳元に口を寄せ、お父様とお母様がお呼びですと小さく告げた。
 自ら動くより先に事態は動き出した様で、さねに分かったと頷き返した桐彦は、好奇の目を背中に感じ(なが)(みせ)の奥へと足を向けた。

「お呼びで御座居ましょうか」
 (ふすま)の前で声を掛けると、内より、桐彦か入れ、と呼び入れられた。
 一礼して、引き開く。
 奥座敷には、桐彦の両親と新三郎と名乗った男の三人が待って居た。
「其処を閉めよ」
 ()う云う父の言葉に、黙って後ろ手に襖を閉ざす。
 付き従う様について来て居たさねとの間に壁が出来る。
 桐彦は畳に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「何の御用で御座居ましょうか」
 問うと、両親は如何(いか)にも云い(にく)そうに顔を(しか)めた。
 (しか)し、呼び出した以上、何も無しに済ます事(など)出来ぬ話である。
 母は目を伏せ、父はううむと唸った。
何時(いつ)かは此の様な日が来るのでは無いかと思って居ったのだ」
 と、()う、父は切り出した。
「好いか、心して聴け」
 桐彦、お主は――
「お主は、我らの(ほんとう)の子では無いのだ」
「其れは――」
 云い掛けた桐彦に、母は(きっ)と顔を上げ、遮る様に声を振り絞った。
(いいえ)其方(そなた)(わたし)の可愛い息子。縦令(たとえ)血の繋がりが無かろうとも、此の愛情には一片の曇りとて有りませぬ。其れだけは、(うたご)うて下さるな」
 ()うとも、と父も吠える様に応じた。
「お主は我らの愛しい息子には違いないのだぞ。誰が何と云おうと、此れだけは終生変わらぬ。変わらぬのだ」
 思って居たより大仰な話に成って居り、桐彦は却って狼狽した。
「あの、其れは――」
「何だ、桐彦」
「遠慮無く此の母に申してみよ」
(いや)、云い難ければ父に申せ」
 其れは――
「知って居りまする」
 二人は息を呑んだ。
 隠し(おお)せて居る心算(つもり)であったらしい。
 桐彦は安堵の息を吐いた。
 両親にして見れば重大な告白であったのかも知れぬが、桐彦にしてみればかねがねの噂の真偽が明らかになった以上の意味を持たぬ。
 両親の情愛を僅かなりとも疑った事等、一度も無い。
 ならば其れで好いのだ。
「其れでは真逆(まさか)お主は十より以前(まえ)の事を憶えて居るのか」
「憶えては居りませぬ」
 桐彦は(くび)を横に振った。
 奉公に出るより前の事を憶えて居ないのは、何も笛の音に限った話では無いのである。
 何処で生まれ、誰に育てられ、何様(どん)経緯(いきさつ)で奉公に出る事に成ったのか、()う云った事は一つとして憶えが無い。
 最初の定かな記憶は、両親に此れから此処で働くのだと告げられた処である。
 其れ以前の事は思い出そうにも思い出せぬ。
 (いや)正確(ただ)しくは、全く憶えて居ない訳でも無い。
 ふとした折に、不意に脳裏に何かが浮かぶ事がある。
 其れは青々とした(くさむら)であったり、生い茂る木々であったり、涼やかな谷川であったり、見霽(みはる)かす山々であったりした。
 ――(しか)し、近場には其の様な景色は臨めなさそうに思えた。
 又、何処か懐かしい其の風景の中に、誰かの顔が思い起こされる事もあった。
 優しげに、楽しげに、愛おしげに、其の顔は己に笑い掛けた。
 ――(しか)し、其れらは何故か己の()く知る両親の物では無かった。
 思い出す度に、何故か嬉しい様な、寂しい様な、何とも云えず胸が締め付けられる様な思いが()た。
 両親に幾度か尋ねてみた事もある。
 此の時折蘇る、憶えの無い風景は、面影は、一体何なのであろうかと。
 (しか)()う問うと、両親は決まって、困った様な、辛い様な表情(かお)で黙り込んで仕舞うのであった。
 であるから、或る時から訊ねるのを止めた。
 両親を困らせたい訳では無かったのだから。
 養子と云う噂を耳にしてからは猶更(なおさら)だった。
 要は両親に引き取られる以前(まえ)の記憶なのだろうと察したからだ。
 ()()て居る内に、徐々に思い浮かぶ事自体が少なくなった。
 近頃は思い出されても薄漠然(うすぼんやり)として昔程鮮やかでは無くなった。
 (しか)し、其れで好いのだと思った。
 思い出せぬのであれば思い出す必要の無い物なのであろうと、()う考えた。
 其れでも、笛の音だけは、何時(いつ)(まで)も聞こえて居たのだけれど。
()()しや其れでは」
 人買いの事を憶えて居るのか、と掠れた声で父は問うた。
「其れは――」
 (いや)、待て。
 今何と云った。
 其の問いが思わず口をついて出た。
「今、何と仰せられましたか」
 人買い。
 ()う云ったか。
 己は、買われたのか。
 此の家に。
 父は為抉(しくじ)ったと云う顔をした。
「話して下さいませ」
 聴かずには居られなかった。
 養子と云う噂は在った。
 (しか)し、人買いとは。
 父は深く深く溜め息を吐いた。
「話す」
 (いや)、話さざるを得まいよ、と天を仰いで()う云った。
(そもそ)も、今、此の場にお主を呼んだのは他でも無い、其の話なのだ」
 此の様な切り出し方を為る心算(つもり)では無かったのだがな、と云った父の表情は(かつ)て無い程に苦々しげであった。
()の人買いが現れたのは、丁度(ちょうど)我が子を亡くした(ばか)りの頃の事であったのよ」

 奇妙な男であった。
 見上げん(ばか)りの長身。手入れの十分とは云えぬ荒れた禿頭。光を失ったか(つむ)った(まま)目蓋(まぶた)。荒縄で背中に括り付けた琵琶。襤褸襤褸(ぼろぼろ)に擦り切れた袈裟。片手には折れそうに(しな)る杖。足下には千切れそうな草鞋(わらじ)
 只見れば流しの琵琶法師だが、其の背丈も相俟(あいま)って凄まじい威圧感である。
 其れが、或る日、香堂浮橋の裏手に現れた。
 相手に出た女中が息を呑み、金切り声を上げんとする其の瞬間に、男は人懐こく相好を崩した。
「御免下さいませ」
 低く、暖かみのある声であった。
 途端、(すべ)ての印象が塗り替えられる。
 痘痕(あばた)笑窪(えくぼ)と云う様に、威圧は愛嬌に、恐怖は憐憫に。
「愚僧は怪しき者には御座居ませぬ。旦那様にお目通り願えませぬか」
 無意識に(はい)と云い掛けた。
 求められるが(まま)に、快く了承し掛けた。
 奇妙な事であった。
 訪ねて来た者を一々上げる事は叶わぬ。
 云う(まで)も無い事である。
 其の様な基本的な事は躾けられて居ない筈が無い。
 ()うにも関わらずである。
 (しか)し、幸か不幸か其れは()されなかった。
 其の女中の背後を、浮橋の二番番頭が通り掛かった。
「何事か」
 其の声に、女中ははたと我に返った。
 途端、己が今何を()ようとしたのかを知り、真っ青になる。
 此の(まま)放って措けば、請われる通りに奥に上げてすら居たやも知れぬ。
 其れ程に(ぼう)として居たのだ。
 今の今(まで)
「ば、番頭様」
 振り返る女中の背後で、裏口に立った座頭は相手を呼ばれた番頭と変えた様であった。
「突然の訪問、申し訳ありませぬ。愚僧は一つお聞き入れ頂きたい議があって、参った者に御座居まする」
「――願いとは」
 僧形の大男に興味を惹かれたのか、将亦(はたまた)不可思議な力に惑わされたか、女中に続いて番頭も、門前払いを食らわせるでなく男に耳を貸した。
「やれ嬉しや。お聞き下さるか、願いと云うのは他でもありませぬ。此の背後に在る者の事に御座居まする」
 座頭が身を()けると、其の背後には二人の(とも)が控えて居た。
 一人は(まだら)模様に()ぎを当てた装いの小男であった。
 ()ぎと云っても襤褸(ぼろ)を纏って居る訳では無い。(むし)身形(みなり)は好い方で、()()ぎに見えるのも色取り取りの生地を煌びやかに縫い合わせた造作(つくり)だからである。口元には何やら木片を咥えて居るが、南蛮渡来の煙管か何かであろうか。(しか)し、()う云った垢抜けた装束の割に、此方(こちら)を伺う様に上目遣いに見上げて来る(さま)は野鼠か何かの様で、大柄で堂々として居る座頭とは対照的であった。
 今一人は、未だ歳幼き子どもの様であった。
 此方(こちら)は更に小柄ではあったが、か弱い様子には見えず、(まと)って居るのが粗末な衣服である(ため)哀れを誘うが、身体は如何(いか)にも頑丈そうに見えた。
 (しか)し気になるのが、目の焦点が合わず、何とも(ほう)けた様子である事であった。何を考えて居るのかが知れぬ。(いや)、何かを考えると云う事が出来て居る様には見えぬ有様(ありさま)であった。
 座頭は大袈裟な身振りで()う続けた。
「後ろなる此の男は人買いに御座居まする。連れて居るのが其の商品。(さて)願いと云うのは云う(まで)も御座居ますまい」
 此の御子を買っては頂けますまいか、と座頭は単刀直入に云った。
 突然の申し入れに、番頭は大いに戸惑った。
 子を一人買って呉れと云われても、()う易々とは(はい)とは云えぬ。
 当たり前の事である。
 (しか)し、何やら事情が有るようにも見える。
 座頭の様子からも、無碍に断るのが気が引ける。
 悩む様子を感じ取ったのか、座頭は、と申しますのも、と言葉を継いだ。
「此の子ども、余所(よそ)には売るに売れぬ理由(わけ)がありまする」
「其の理由(わけ)とは」
「力仕事が出来ませぬ」
 はて、と番頭は首を傾げた。
「五体満足の様にも見えるが、如何(いか)に」
「左様」
 座頭は我が意を得たりと頷いた。
「其処が問題なので御座居まして、(しか)し此の子ども」
 跛足(びっこあし)に御座居まする、と()う云った。

 聞けば、座頭が()うして人買いと子どもを連れて来たのは、(そもそ)も其処が理由らしい。
 跛足(はそく)()の子等商品に成らぬと人買いが(なぐ)って居たのを仲裁に入り、(さて)引き取りでも()ようかと考えた物の、座頭には持ち合わせも無ければ子を連れ歩く余裕も無い。
 仕方無しに、何処か引き取り手を見付ける(まで)は付き合うから(なぐ)るのは止せと口利きを買って出たらしい。
 とは云え売るに売れぬ跛足の()の子は矢張り売れぬ。
 何軒回っても好い返事は中々貰えぬ。
 ()()う為る内に、此処(ここ)迄辿り着いたのだと云う。
 ()う聞いて、番頭は此れも何かの縁かと感じた。
 自分はつい先達(せんだっ)て、我が子を亡くした(ばか)りである。
 其処に、()()て行く宛ての無い子が迷い込んだ。
 此れは引き取って我が子と()すべしと云う仏の巡り合わせかも知れぬ。
 番頭は其の縁を試してみようと思い付いた。
「引き取っても構わぬぞ」
 と、番頭は()う云った。
「只、此の(みせ)薫物(たきもの)が商いである。仮に手足が揃って居ても何の得にも成らぬ。(むし)ろ鼻の利く子が好い」
 試みに源氏香をやって見せよ。
 座頭と人買いは、其れは好いと応え、(しか)らばと子に目隠しをさせた。
 源氏香とは、五種の香り利き遊びである。
 五種の香木を各々(それぞれ)五つ用意して混ぜ、其の二十五の内から五つ選び出して()くのである。
 ()うして、香りの異同を図に示す。
 組み合わせに依っては、凡てが同じ香りである事もあれば、凡てが違う香りである事もある。
 組の総数は五十二。
 各々(それぞれ)に源氏物語五十四帖の名が振られて居る。
 故に源氏香と云う。
 其れを――子は玉然(ぴたり)と当てた。
 難しさを十分には分からぬ座頭や人買いも驚いたが、誰より番頭が驚いた。
 此れは好い拾い物であると手を叩いた。
 ()()て、子は相応の代金で浮橋の二番番頭に引き取られる事と成った。
 引き取られるに当たって、名が与えられた。
 源氏物語五十四帖の内、源氏香に使われぬ名は第一帖桐壺(きりつぼ)と、第五十四帖夢浮橋(ゆめのうきはし)
 (みせ)の名は其の夢浮橋(ゆめのうきはし)から取られて居る。
 ならば、桐壺から取るが好かろうと、付いた名が桐彦(きりひこ)
 其れが子の名と成った。
 爾来、六年の時が過ぎた。

()()てお主は我らが桐彦と成ったのだ」
 と云って、父は口を閉ざした。
 成程、と桐彦は内心頷いた。
 (しか)し、だからと云って何かが変わる訳では無い。
 辛い境遇から救い出して呉れた親に対して、感謝こそ有れど、恨みなど無い。
 (いや)、待て。
 話は其れでは終わらぬ。
 ならば、此の男は一体誰だ。
 材木問屋、近江屋の新三郎とは何だ。
 不意に自分に向けられた怪訝そうな瞳に気付いたのだろう、新三郎と名乗った男は、居住まいを正した。
「先程も名乗りまして御座居ますが、改めて。近江屋の新三郎と申しまする」
 ()う云って、深々と頭を下げる。
「つかぬ事をお伺い致しますが、桐彦殿の(びっこ)は右に御座居ますな」
(はい)
 と、桐彦は頷いた。
「又、桐彦殿の左耳の後ろに、痣が御座居ますな」
「左様に御座居ます」
 自分では見えぬが、()う云われた事は何度かある。
「桐彦殿は六年より前の記憶が無いので御座居ますな」
「其の通りに御座居ます」
「桐彦殿の御年は十六か其処らで御座居ますな」
「恐らくは」
 其れが、一体如何(どう)したと云うのか。
 更に不審の色が濃くなった視線に、新三郎は、面差しも似て居りまする、と独り頷いた。
「桐彦殿」
「何で御座居ましょうか」
(それがし)は桐彦殿の出自を存じて居るやも知れませぬ」
 ――何と。
「今、何と」
(それがし)の推量が間違うて居なければ、桐彦殿の真実(まこと)の名は余一(よいち)
 (それがし)の甥に御座居まする、と新三郎は云った。
勿論(もちろん)無理にとは申しませぬが、()し桐彦殿が望まれるとあらば、桐彦殿の故郷に御案内致したく存じまする」
 ()う、新三郎は告げた。


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