肆
私には――全然解りませんと吉次は困った様に云った。
先日、京都東町奉行所からの遣いと云う男が現れ、吉次の出自から生活について事細かに聞き出した挙げ句、お主の兄は天狗攫いに遭ったものと認める。就いては此れ以上の詮索は無用。との書き付けが手元に残されたのである。
慥かに此れだけでは何が何やら全然であろう。
「一体何が起きて居たのです」
京拠り届いた瓦版を手に、吉次は其れを齎した目の前の男に訊ねた。
ところが御行姿の其の男は、詞の通りでと粗雑に云った。
併し、詞の通りと云われても困るのである。
第一掛けられた詞其の物が能く分からない。
「其の瓦版に書いてある通りで御座居やすよ」
云われて、瓦版に目を落とす。
先ず目に付くのは、半年の詮議を終えて終々件の弟殺しの裁きが下ったとの見出し。弟殺し喜助は死罪の所、罪一等を減じて遠島。近々舟で京から大坂へと廻され、其の後に島へと送られると云う。罪を減じられた理由は、表向きには長年共に暮らした弟を死なせたは余程已むに已まれぬ事情が有った物と考え、其れを酌んだそうである。
次は京で続いて居た火付けは信州奥山の天狗の仕業であると云う噂に就いて。真偽の程は知れぬが、京の町で天狗祓いの呪が流行った途端にぱたりと無くなったと云うのだから、若しかすると本当かも知れぬと記されている。信州の天狗は鯖を嫌う。其の為、天狗を遠ざけ、又天狗攫いに遭った子を取り返すには、鯖食ったと唱えるのが好いと云う。此の呪が京の町にも広まったのだとか。お蔭で鯖が飛ぶ様に売れたとも有る。
其の隣に小さく、弟殺しの件も天狗が拘わって居るとの談話も載っている。喜助が殺めたのは天狗の子であるから罪一等を減じられたのだと云う話も有ると。
天狗尽くしの最後は信州の大悪党、天狗の松蔵の裁きが近々下るとの話だった。此方は詮議に一年程掛かって居る。併し、事の大きさ、松蔵と云う男の持つ影響力を鑑みると其れも又仕方の無いことではあるまいか。
其の外には特に目を引く様な話もなく、矢張り訳が分からぬとしか云い様が無い。
否、抑も――
「私と兄の話は一体何様なったのです」
何様も成りや致しやせんよと男は答えた。
「旦那も顛末ァお聞きになったんで御座居やしょう」
慥かに聞いた。
奉行所からの遣いの者に思わず此れは何の取り調べでしょうかと訊ねた時に、当事者なのだからと概要は教えて貰えた。
併し――
彼の様な話を信じろと云うのか。
曰く、私は天狗攫いに遭ったのだ。
天狗は私の代わりに我が子を兄に預けたのだ。
兄は其の天狗の子を殺めたのだ。
従って死罪でなく遠島の沙汰となったのだ。
然う成っているのだ。
其れを信じろと。
証拠も無いのに。
勿論、話して呉れた同心も与太話だと笑って居た。
但し然う云った話が京の町に広まっているのも事実。
となれば喜助は、京の外拠り妖物を引き入れた禍の手であり、這入り込んだ妖物の息の根を止めた救いの手。
京の民の安寧の為にも、死罪ではなく遠島に為るが好かろうと奉行が考えたのだと。
然う云われても、吉次は只困るだけである。
吉次が聞きたかったのは其の様な話ではないのである。
要は、自分が誰なのか、自分は吉次で良いのか、自分は京で死んでは居らぬのか、其処が明瞭しない事には正常に生きて行けぬ。
京で死んだのが天狗の子であるなどという与太話では、吉次が吉次で在るには程足りぬ。
全く以て足りて居らぬのである。
だから――
「御行、教えて戴けぬか」
私は真実に生きて居るのか。
やれやれと目の前の男は難儀そうに息を吐いた。
「旦那も見かけに拠らず強情で御座居やすね。仕方有りやせんや、旦那にゃァ此れを差し上げやしょう」
其の言葉と共に目の前に突き出された襤褸布を思わず受け取る。
広げる迄も無く目に付いたのは赤黒く変色した汚れである。点々と布に塗り付いて居る。其の汚れには何とは無しに見憶えが有る様な気もする。
吉次は首を傾げて改めて布を検分した。
続いて吉次の目を奪ったのは、其の布の下地である。其の柄にも又見憶えが有った。
「御行、広げて見ても宜しいのですか」
「構いやせん。差し上げた物で御座居やすから」
云われて、広げて見て明確と分かった。
此れは父が昔着ていた着物である。
家を出る時に兄が着て居た事も憶えている。
其の珍しい飛白模様が気に入って譲って欲しいと思ったものだった。
仕立ての確乎した物であったのだろう、今にして見ても僅かな綻びがある位である。
併し――
斯う為て見ると然う云った細部よりも気になるのは、畳んだ時から見えて居た襟元から胸、腹を染め上げる赤黒い汚れである。
「――若しや、此れは」
「お察しの通り京拠りお持ちした物で御座居やす。ですが考え違えをなすってはいけやせんぜ。内証の話で御座居やすが、此奴ァ殺された男が着て居た物で」
成程、汚れているのも道理。此れは血であったか。
其の様な物を能く手に入れる事が出来たものよと呆れたように息を吐いてから、吉次ははたと気が付いた。
男は考え違いをしてはいけないと云った。
内証の話だと云った。
殺された男が着ていた物だと。
殺された男。
名は吉次。
殺した男の名が喜助。
となると此れは――
「此れは殺した兄の、喜助の物ではないのですか」
「此奴ァ旦那の兄上の着て居た物で御座居やす」
男は然う云い切った。
併し、其れは怪訝しい。
詞通りならば慥かに此れは兄の着物であるのだろう。
但し兄は下手人であり、殺された男ではない筈である。
「御行、私を揶揄って居られるのですか」
「揶揄ってなど居りやせん。御気分を害されやしたんなら謝りやすが、奴は至って真剣で御座居やす」
男は然う云って、旦那も信州のお出なら天狗攫いを御存知で御座居やしょうと続けた。
吉次が頷くと、男は其れなら話が早ェと応える。
「天狗に攫われた奴の中でも運の好い奴ァ暫くして正常に帰って来る事も有るが、運が無けりゃァ体を病んで居たり気が触れてたりする事も御座居やす。帰って直ぐに精を吸い取られた様に弱って死ん仕舞ったなんてェ話も有る。然う云った話も、寝物語に聞いた事は御座居やしょう」
慥かに然う云うことも有ると聞いたことは有った。
「実は此の話を輪を掛けて面倒臭ェ事にして居るなァ天狗の子だ。天狗は偶に人の子と手前の子を取り替えたり為仕舞うんで。取り替える理由てなァ、手前の子が気が触れて居るだとか体が弱いとか然う云う物だそうで御座居やすよ」
吉次は其れも奉行所の役人から聞いたと大きく頷く。
だから京の町で死んだ肺病病みの吉次は天狗の子だと云うのでしょう、其れは同心から聞いたのですと吉次が云うと男は其処が違うんでと云った。
「好いですかい、旦那の兄上ァ天狗攫いに遭った。天狗は手前の子を其の兄上と一緒に行かせた。此処までは合ってるんで御座居やすが――」
京都の町で死んだのが兄上の方で御座居やす。
「其れは――」
其れは怪訝しい。
「怪訝しいですかい」
「怪訝しくない筈が無いでしょう」
第一、京の町で死んだのが吉次、殺したのが喜助である。
死んだの喜助であったなら、まるで逆様に成ってしまう。
「逆様なので御座居やす」
然う事も無げに男は云った。
其れは京都町奉行が間違えていると云う事ですかと吉次が訊ねると、男は勘違えも仕方のねェ事でと応えた。
「最前云った通り、天狗攫いに遭った奴ァ、物の怪に精を吸われ仕舞って、何か病んで居たり気が触れて居たりした体で帰って来る事が御座居やす。旦那の兄上も然うだったんで」
「然うとは」
「旦那と兄上は二人ッ限りの兄弟で命からがら村から逃げ出したので御座居やしょう。其の時に何と云われたか、旦那も憶えているそうじゃ御座居やせんか」
勿論憶えて居る。
私には兄の云うことを聞いて能く能く尽くす様にと。
兄には二人きりの兄弟なのだから弟を能く守る様にと――
「其れで御座居やすよ」
男は喜助を真っ直ぐに見詰めた。
「二人ッ限りの兄弟で、弟を守るようにとの両親の遺言だ。命に代えても守らにゃァと兄上は幼心に思ったろう。ところが、天狗に攫われるてェ如何為様もねェ事に捲き込まれ仕舞った。只でさえ天狗攫いに遭った奴ァ危ねェ。其処に加えて両親との約束も守れねェと成っ仕舞ったら此奴ァ 保たねェ。其れで――」
兄上の御心は壊れ仕舞ったんで御座居やす。
「心が、壊れたのですか」
「然様で。心って奴ァ目に見えやせん。ですから壊れても判然とは分からねェ事も多いんで御座居やす。喜助は守らなきゃならねェ弟が目の前に居ねェって現実を受け入れられなくて――」
手前を当の弟だと信じ込ん仕舞ったんで御座居やすよと男は云った。
「其れを哀れに思ったのか、其れとも何か別の理由かは知りやせんが、天狗は手前の子を、吉次に成っ仕舞った喜助の為に、喜助自身に成り代わって働くようにと預けたんで」
だから――
「だから京の吉次は肺病病みで、兄の喜助はその弟の為に汗水垂らして不平不満の一つも無く働き続けたと、斯う云うのですか」
「其の通りで」
まァ、肺病の方は知れやせんがね。
「知れない、と云うのは」
吉次が問うと、男は、詞通りで、と面白くもなさそうに云った。
「慥かに物の怪に攫われ、精を吸われたのかも知れねェ。ですがね、抑もの話、旦那と兄上が村を逃げ出したなァ、流行病に罹った両親に逃されての事で御座居やしょう。其れならば、兄上も罹って居たとして、何も怪訝しくは御座居やせんぜ」
云われて、吉次は成程と頷いた。御行の話は一々尤もである。
「其ンな身寄りのねェ二人だ、何方が兄で弟だか、真実の処なんざ、京の町の誰一人として気付く筈もねェ」
「其れでは――」
其れでは何故。
「喜助は吉次を殺したのです」
吉次の為に働くのが喜助であるのならば、吉次を殺して仕舞ったのでは筋が通らない。
其れでは全く理に合わぬ。
「其れが――」
天狗の子が天狗の子である由縁でさァと男は幾分か悲しげに云った。
「喜助であるところの吉次は治癒る見込みの無ェ肺病病みだった。だから何時も天狗の子であるところの喜助に、世話を掛けて済まねェ、一人働かせて済まねェと 溢して居たそうで。其れを喜助は励まし励まし暮らして居たてェ話ですぜ。所が或る日―― 終に積もりに積もった鬱憤が爆発した」
「喜助が耐えられなくなったのですか」
「違いやす」
男は閑かに首を横に振った。
「先に堪えきれなくなったのは吉次の方で御座居やす。吉次は此の治癒る見込みの無ェ肺病を抱えて何時までも辛い思いをし、兄にも辛い思いをさせる位ならいっそ命を絶って仕舞えと思っ仕舞ったんで」
何と――
「何と云うことを」
「普通なら其れに手を貸すなんて事ァしねェ。ですがね、人の世の理は天狗には通じねェ。喜助は吉次を助ける為に居たんで御座居やす。其の喜助に、吉次が命を絶ちたいから手を貸して呉れと云う。だから、喜助は――」
只云われるが儘に手を貸したんで御座居やすよ。
然う云われて吉次は詞が出なかった。
如何云う風に受け止めたら好いのかすら分からなかった。
何とも云い難い思いだけが体中で渦巻いていた。
ずしんと胃の底に重い物を呑み込んだ様であった。
其の重しに引かれて喉に蓋がされて仕舞った様であった。
男の言が正しいのだとすると、一体誰を咎めることが出来ようか。
何が悪かったと云うことが出来ようか。
病んだのは兄の所為ではない。
だからと云って必ずしも天狗の所為でもあるまい。
兄は人に迷惑を掛けたく無かったが故に自ら命を絶とうと為た。
天狗は其の意を汲んで、兄を手に掛けた。
此れは罪なのか。
お互いがお互いを思い合い、其の結末が。
外に行き着く先が無かった――のかも知れぬのに。
「然う云う訳で御座居やすから」
閑かに、低い声色で、男は吉次に云う。
「旦那は間違いなく生きて居りやす。京で死んだ吉次こそが旦那の兄上で。其れから――」
旦那の兄上は最期の時まで心の底から旦那を案じて居りやしたんで。其れこそ、心を壊してしまう程にと男は結んだ。
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