吾を――(たばか)って居るのかと京都東町奉行、菅沼(すがぬま)定喜(さだよし)は思案()て居た。
 天明を越えて元号が寛政と改まり、白河樂翁侯が江戸にて政柄を執って拠り、此処、京の町も先頃の大捕物を最後(しまい)に、往事に比べて平穏な日が続いていた。従って昨今定喜の心中を悩ませる物も然程(さほど)多くはない。
 今(すこ)し待てば季節は春である。
 未だ(ようや)く梅が綻んだ時候(ころ)ではあるが、もう一月(ひとつき)とせぬ内に知恩院の桜も見頃と成ろう。()う成れば、浮かれた町人共が夜っ引いて夜桜見物に繰り出し、挙げ句に喧嘩だ何だと揉め事を起こすは必定。(しか)し其れとて、然程(さほど)目角(めくじら)を立てる程の事もなく、厳重に注意の上、放免と()る。只其れだけの事である。
 其の(ほか)に問題が有るとすれば、此の所火付けが後を絶たぬ位の事だ。(いず)れも小火(ぼや)騒ぎで収まって居り、倖い人にも物にも大きな被害は出て居らぬ。居らぬが、不穏である事に違いは無い。
 火事と喧嘩は江戸の華と云うが、京の都に於いては其れは通らぬ。
 江戸の町は火事が多い。町全体が塵々(ごみごみ)として、纏まりが無く、密然(みっしり)と詰まり、其の上空気が乾燥(かわ)いて居る。だから一度火が付けば止められぬ。(あっ)と云う間に燃え広がる。其れを華よと(うそぶ)くが江戸っ子気質(かたぎ)と云う訳である。
 喧嘩とて同じ事である。江戸は雑多な人が、物が、集まり、(たか)る。()う成れば其処此処で揉め事が起こるは火を見るよりも明らかである。隣に棲まう人が何者か知れぬ。其の持ち物が何か知れぬ。其の肚の底が何様(どう)とも知れぬ。()うなれば誰も彼も信用出来まい。信用出来なければ――少しの疑い、差し障り、行き違い、其れを肚に呑めず、(なぐ)り合いにも成ろう。
 要するに、町は人なのだと、定喜は(おも)って居る。
 江戸は――
 棲まう人に纏まりが無く、潤いが無く、隙間が無い。
 だから町にも纏まりが無く、潤いが無く、隙間が無い。
 棲まう人に火が付き易く、周りにも燃え広がり易い。
 だから町にも火が付き易く、燃え広がり易いのだ。
 京の都は()うではない。
 (ふる)くから丁重(きちん)整理(ととの)えられた町である。
 人と成りも互いに能く知れて居る。
 皆温和(おとな)しく、上品で、整調(ととの)っている。
 だから京では、悪い物は他所(よそ)から這入(はい)って来る物と、定喜は考えて居る。
 喧嘩とて()うである。
 陽気が人の中へと這入り込んで、気を掻き立てる。
 春に喧嘩が多いのは、其の所為(せい)である。
 従って、火付けも、()うである。
 火の無い所に煙は立たぬと云うが、同様に、火種の無い所に火は無い。
 詰まり、誰かが外から火種を持ち込まねば、火は付かぬのである。
 京の町を人と喩えるならば。
 喧嘩を人の心火に拠って(さか)る物と喩えるならば。
 春の陽気が人に這入り込み、心に火を付けると喩えるならば。
 京の町に今(さか)る付け火の火種は――矢張り、京の外拠り持ち込まれたのであろう。
 其処(まで)考えて、定喜は調べ書きを()る手が止まって居た事に(ようや)く気付いた。
 何故此の様な事を考えるに至ったのか。
 其の子細(わけ)が目の前に在った。
 一巻(ひとまき)の書面の様に積まれた其れを、定喜は見るともなしに眺める。
 己が目の前で書かせた物であるのに、丸で知らぬ内に中身が掏り替えられた物であるかの様な、妙な心持ちがする。其れも此れも、書かれた中身が余りに思惑とは違う為である。
 定喜は息を吐いた。
 (たばか)られて居るとは思えぬ。
 其れが定喜の偽らざる心中であった。
 (しか)し、(たばか)って居るとしか考えられぬ。
 何方(どちら)が正しいのか、定喜には判じ兼ねた。
 今一度、調べ書きに()を落とす。
 其処に書かれて居るのは、目蓋を覆わんばかりの陰惨なる事件の次第(あらまし)である。
 同胞(はらから)殺し。
 下手人は、喜助と云う三十ばかりの男。
 京都の町外れ、北の端の掘っ建て小屋の様な所で寝起きしていた、賤しき身分。西陣の織場にて空引(そらびき)を生業とし、日一日を暮らして居た、其の様な男が、何を血迷ってか、共に暮らして居た病身の弟、吉次の喉笛を掻き斬り、殺害せしめた。
 此の近々稀に見る兇悪な仕業に、京の町は震え上がった。
 喜助と吉次の兄弟は信州の生まれ。流行病(はやりやまい)に冒された両親の元から二人()りで命からがら逃げ出し、此の京に流れ着いたのだと云う。
 信州から京までは、普通に考えたのでは子ども二人の足だけで辿り着ける道程(みちのり)ではない。
 信州より中山道を通り草津迄。
 東海道に乗って草津より京迄。
 七十里程はあろうか。
 其れを態々(わざわざ)歩き通したのだ。
 ――()()(まで)、京に兇事を持ち込んだのだと、定喜は苦々しい思いで調べ書きを見詰めた。
 江戸からではないにしても、京の外所(そと)からである。
 (こと)、信州は江戸と京の間に在る。
 妙な因果を感じずには居られない。
 其れにしても――
 信州かと定喜は胸の(うち)で呟いた。
 真実(ほんとう)は、信州でさえなければ、()うも気に()る必要は無いのである。
 信州であったからこそ、気に()ねばならぬと思うのである。
 気に()って仕方が無いのである。
 定喜は独り、(ううん)と唸って腰を上げた。
 長い間座って居た所為(せい)か、(しり)が僅かに痛む。
 外の空気でも吸おうかと畳を横切り、襖に手を掛ける。
 たんと小気味良い音が響き、生温い部屋の中の空気と、肌寒い外気とが混じり合う。
 ()うに刻限は戌である。濡縁(ぬれえん)に出て見れば、屋敷の塀の上に幾つも星が瞬いて居る。
 もう床に就くか、或いは茶でも貰おうかと思案()(なが)ら庭へと視線を下ろすと。
 其処に白い物が(うずくま)って居た。
 心の蔵が跳ねる。
 何者か――と誰何(すいか)の声を上げるより早く、夜分に恐れ入りやすと低い声が制した。
(やつがれ)は到底怪しくねェとは申しやせんが、只の札撒き御行で御座居やす。菅沼定喜様で御座居やすね」
 取り乱し掛けた定喜の気は、札撒き御行と聞いて僅かに落ち着いた。
 呑み掛けた息も、一つ置いて、緩々(ゆるゆる)と吐けた。
 ()()(つい)でに、怒気が湧いた。
 乞食風情が無礼者。如何(いか)()て此の庭に這入(はい)り込んだ――と声を荒げるより先に、突然(いきなり)に押し掛けて申し訳御座居やせんと男は云った。
「御手討ち無礼討ちになさりたいお気持ちは能く分かりやすが、是非とも名奉行と名高き菅沼定喜様の御耳に入れたき儀が御座居やす。又、御困りの事に就いて御手助けも出来るかと存知やす。何卒、御聞き届け賜りたく」
 ()う云って、男は(おもて)を上げた。
 油断のならぬ面構えと定喜は見た。
 慥かに装束(なり)は何処にでも居る札撒き御行。(しか)し、()が違う。
 此方(こちら)の腹の底まで見通す様な鋭い眼光が闇夜に(らん)と輝く。
 負けじと力を入れて睨み返す。
「――天狗」
 な――
 なにを。
「天狗で御座居やしょう」
 と男は云った。
「何を申して居る」
 不意に投げられた思い掛けぬ言葉に定喜は再び気が乱れる己を感じた。
「天狗とは何の事か」
 御(とぼ)けにならなくても宜しいんで御座居やすよと男は応えた。
彼方(あちら)此方(こちら)と宿を変え、明日をも知れぬ根無し草。()(やつがれ)でさえ定喜様の御噂は耳にして居りやす。京都東町奉行に()って直ぐの大捕物。天下の大悪党、天狗の松蔵を召し捕られたと、江戸の方でも評判に成って居りやしたぜ」
 松蔵――と、定喜は口の中で誰にも聞こえぬ程の声で繰り返した。
 松蔵とは天狗の二つ名を持つ、何十人もの手下を持つ大悪党である。江戸と京都を繋ぐ街道筋に現れては金品を奪う。殺しも厭わぬ悪逆な手口は其の名と共に知れ渡って居た。
 其れを捕らえたのが、京都東町奉行に就いて間も無い頃の此の菅沼定喜であった。
 ()の一件は定喜一人の手柄と云う訳では無い。
 無いと云う事を定喜も判然(はっきり)と口に()て居るし、他の者も()う考えて居よう。
 (しか)し、其の一件で定喜の名が世に知れ渡った事も慥かである。
 定喜は権力欲(よく)の強い男である。
 今は京都町奉行という遠国(おんごく)奉行(ぶぎょう)に収まって居るが、行く行くはお膝元へ、江戸の町奉行へ上り詰めんと考えて居る。
 慥かに京都町奉行も大役ではある。
 (しか)し江戸町奉行は又別格である。
 京都町奉行は千五百石。江戸町奉行は三千石。役高だけでも倍違う。
 其の分多忙で役中に過労で命を落とす者も有ると聞く。
 仮令(たとい)()うであっても、江戸町奉行は定喜を惹き付けてならない(しごと)なのである。
 何時(いつ)かは将軍様のお膝元へ。
 権力の中枢(なか)へ。
 其の為には、京都東町奉行と成って直ぐの捕り物、天狗の松蔵は好い弾みと成った。
 此の調子で功を上げ、五年か、十年か、勤め上げればと定喜は思って居る。
 江戸へ上がるのも決して夢物語ではないのだ。
 (かえ)って云えば、五年か、十年か、大きな失敗(しくじり)は赦されぬ。
 些細な案件とて、慎重に事を運ばねばならぬのである。
 ()う例えば――
「定喜様」
 何であるかと定喜は応えた。
 (いや)、応えた積もりであったが、声に成ったか如何(どう)か。
「天狗の――」
 天狗の(おと)(だね)は居りやせんぜと男は(しず)かに云った。
「な――」
 何を云って居るのかと口に仕掛けた言葉が宙に浮く。
 息が喉に絡まって言葉にならぬ。
 渇く喉を何とか()ようと無理に唾を飲み込む。
 ごくりと(のど)が鳴る。
 湿(しめ)して声を出そうとした定喜を制して――
「先の弟殺しの下手人、喜助と云いやしたか。(あれ)は天狗の落し胤じゃねェと、()う申して居るんで」
 其れを疑っておいでなので御座居やしょうと確かめる様に男は云った。
「慥かに疑われても仕方のねェ話で御座居やすよ。世に聞こえた大悪党、天狗の松蔵てなァ信州の生まれだ。其奴(そいつ)筆頭(かしら)に幾人か捕まえたは好いが、総員(すべて)じゃねェ。()()()て居る内に今度は弟殺してェ目も醒める一大事(でえじ)。其の下手人が又、信州の出と来りゃァ関係を疑うのも道理てェ(もん)で御座居やしょう」
 加えて()の噂だと男は続ける。
「天狗は()うに京の町に、手引き役として己の落し胤を潜ませて居るてェのは(すこ)し目端の利く稚児(がき)でも聞き齧る(くれえ)だ。定喜様は其れが喜助ではないかと。実の弟を手に掛けた鬼の所業は天狗の血の為す処と。()うお疑いなので御座居やしょう。()うでもなければ只の弟殺し、五月(いつつき)も詮議に時間(とき)を掛ける謂われはねェ。違いやすか」
 違うと云い掛けて、止まる。
 言い逃れを()ようと思えば言葉だけは幾らでも有った。
 喜助と吉次は信州から京までの七十里程を共に歩き抜いたと云う、並一通りでない結び付きが有った筈の二人である。
 其れをして(なお)、殺さねばならぬとは何様(どう)云った事情(わけ)があったのか。
 又、弟の吉次は肺病病みであったとも聞く。其の為に町中へは住居(すまい)を構える事が出来ず、已む無く北の端に棲み着いたと云う。
 其の吉次を喜助は大層大事にして居ったと云うのが、周りの評判である。
 独りで働き、弱音を吐くでなく、陰口を叩くでなく、唯只管(ひたすら)に看病を()て居たと云う話は誰からと無く聞くことが出来た。
 其れにも拘わらず、命を奪ったのには如何(いか)なる背景(うら)が有ったのか。
 其れを確かめねばならぬ。
 或る者は斯う云った。
 喜助は吉次を憎んで居たのだと。
 己の暮らしが楽にならぬのは、此の肺病病みの弟の所為であるとそう思って居たと。
 其の溜まりに溜まった鬱憤が、或る日遂に爆発し、思わず殺して仕舞ったのだと。
 (しか)し他の者は()うも云った。
 其れは何様(どう)考えても有り得ぬと。
 口性(くちさが)ない者が何を云おうと、喜助の()の献身振りを見れば()うは到底云えまいと。
 何かは知れぬ。何かは知れぬが、已むに已まれぬ事情があったに違いないと。
 (しか)し又別の者は()う云った。
 (いや)、恨み憎しみでなくて何であろうかと。
 ()うでなければ血肉を分けた弟を、肺病に病んだか弱き同胞を殺せはしまいと。
 (おの)が手で喉笛を掻き斬るなどという鬼の所業、()ようと思っても中々出来る事ではないと。
 人の口の数だけ話が有り、人の(おもい)の数だけ心が有った。
 だから――
 だから詮議に時間(とき)を掛けねばならぬのだと、()う口に()ることも出来た。
 (しか)し、何を何様(どう)云おうと、見透かされて居ると感じた。
 値踏みを()る様に、定喜は(じっ)と白い男を見詰めた。
 油断ならぬ此の男、一体何を何処まで知って居るのか。
 先程は吾の耳に入れたい儀が有ると、吾の手助けをすると()う云った。
「京の町に天狗の落し胤は居らぬと云ったな」
「其の通りで」
「ならば噂は何とする」
 試す様に定喜は()う問うた。
 慥かに天狗の松蔵を捕らえたのは、京に這入らんと()る其の時であった。
 則ち、京の町に手引きを()る者を既に潜ませて居たと云うのも(あなが)ち噂では済まぬのやも知れぬ。
 其の手引きに松蔵は(おの)が子を使って居たと云う(もっぱ)らの噂なのである。
 云う(まで)も無い事だが――
 噂は噂に過ぎぬ。
 其の位の事は定喜とて解って居る。
 解って居るが。
 嘘と切り捨てる事が出来ぬのだ。
 切り捨てるだけの証拠(あかし)が無いのだ。
 ならば此の男は如何(どう)()る。
「天狗の松蔵の落し胤は居りやせん。居りやせんが――」
 男は声を潜めた。
真実(まこと)の天狗の御子(おこ)なら居りやすぜ」
 な――
 何を云っているのだ此の男は。
正確(ただ)しくは、居りやしたと云うべきなので御座居やしょう。喜助に殺された弟の吉次が――」
 信州が大天狗の子で御座居やすと男は云った。
「信州の方では神隠しを天狗攫いと申しやす。天狗攫いに遭った子は幾月か、或いは幾年かして戻る事も御座居やして、()う云った子は天狗と共に諸国を見物して(まわ)ったと、或いは天狗から色々な事を教えて貰ったと語るものだそうで。加えて、此れと似た様な話ァ西の方にも御座居やす」
 西と云えば上方かと定喜が問うと、()つ国でさァと男は答えた。
(もの)()共は時に思い掛けない事を致しやす。子を攫う物の怪は時に、自分の子を代わりに置いて行ったり()るんで」
「そ、其れは何様(どう)云った理由(わけ)か」
自分(てめぇ)の子の気が触れていた、醜かった、或いは身体が弱かった。だから丈夫で強い人の子が欲しかったと、()う云った次第だそうで」
「身体が、弱かったのか」
 へェと男は小さく頷いた。
 吉次は治癒(なお)る見込みのねェ肺病病みだったので御座居やしょう。
 此奴(こいつ)は――取り替え子で御座居やすと云う男の声は陰々滅々と定喜の耳に届いた。
(ところ)が喜助は弟が入れ替わった事に気付かなかった。(いや)、其れも仕方のねェ話で、取り替え子は最初(はじめ)は元の子と相似(そっくり)同じ姿形をして居るんで御座居やすよ。加えて喜助は弟想いの善人だ。疑おうとも思わなかったので御座居やしょう。(しか)し、まァ、化けの皮てェ奴は段々と剥がれて来るんで」
「其れで、騙された事に気付いた喜助が逆上し、吉次に化けた天狗の子を殺したと、()う申すのか」
(さて)、慥かには申せやせんが、当たらずとも遠からずで御座居やしょう。何があったか真相(ほんとう)の処は知れや致しやせんが、相手は癒えぬ肺病を抱えた天狗の子。なれば手に掛けても不思議はねェかと存知やす」
 定喜は(しか)しと反駁した。此の様な話は易々と、(いや)、到底信じる訳には行かぬ。()うであろう。
 (ところ)が男は、証拠(あかし)も御座居やすぜと事も無げに云った。
「天狗は幾ら取り替えた子とは云え、我が子と縁を切るに切れなかったんで御座居やしょう」
 ど――
何様(どう)云う事だ」
「天狗は本物の吉次を帰し、我が子を追って京の町にやって来たんでさァ」
 其れが噂の出所だと男は云い切った。
「な――」
 何と云う奇天烈な。
(やつがれ)が云う証拠(あかし)と云うのが、其処でさァ」
 嘘だと御疑いに成るのなら中山道に有る望月楼てェ旅籠に人をお遣りになれば好いんでと男は続けた。
「吉次てェ、兄を天狗攫いで失くした男が居りやすぜ」
 まァ喜助にして見りゃァ天狗攫いに遭ったのは弟なんで御座居やすが、弟は弟で兄が天狗攫いに遭ったと思って居るんでと男は可笑しそうに笑みを浮かべた。
「其れから、此処の所続いて居る不審火。此奴(こいつ)が天狗の仕業でさァ」
「天狗が我が子の恨みを晴らさんと火を付けたとでも云うか」
 人に仇為さんと()るかと定喜が問うと、男は(しず)かに首を横に振った。
「其れは(ちっ)と違いやす。所詮捨てた子、(いず)(うしな)うと知って居た筈の病んだ身の上。其処(まで)の情は御座居やせん。()してや大天狗、何があったかは凡てお見通しの上で御座居やす。只――」
 火の無い所に煙は立たぬと申しやしょうと男は云った。
「天狗は葉団扇(はうちわ)てェ(もん)を持って居りやす。()れが曲者で、一煽ぎで一里、二煽ぎで百里、三煽ぎで万里を飛ばすなんてェ話もある代物だ。天狗は子を亡くして信州に帰ろうと思ったは好いが、京の町を出られねェんで。だから盲滅法(めくらめっぽう)に駆け回り、悪気はねェんだろうが先々で手に負えねェ風を巻き起こし仕舞(ちま)って居る。只の風なら障りはねェが、葉団扇の起こす風は(けた)(ちげ)ェだ。普段(いつも)なら火種になんて成りやしねェちっぽけな熱を小火(ぼや)に変えるのも訳はねェ」
 だから弟殺しの一件から此方(こちら)、火付けが絶えねェんで。
 ()う男は云うが定喜にとって()れは――()れられぬ。
「京の町は()(よう)な妖しげな物が蔓延(はびこ)る場所ではない」
 塵々(ごみごみ)(よど)んだ江戸とは違う、()しや此の澄んだ京の町を愚弄して居るのかと激し掛けた定喜を男はまァお聞き下せェと制した。
丁重(きちん)とし過ぎて居るのが善くねェんで。袋小路も(よど)みもねェ分悪い物は涌きゃァしねェが、一分の隙もねェ図案てェのに這入り込んだ妖物は目が眩ん仕舞(じま)うんで御座居やすよ」
 昔から籠に隠れて鬼を遣り過ごした、九字を切って邪を祓ったてェ話も御座居やしょうと男は云う。
人間(ひと)の仕業なら定喜様の御仕事で御座居やすが、天狗の仕業なら(やつがれ)の様な者の仕事で。京の町に捕らわれた天狗祓い、任せて戴けやせんか。(やつがれ)の話が嘘でない証拠(あかし)の二ツ目として、数日の内に小火騒ぎを鎮めてご覧に入れやす」
 ()う成れば定喜様の御仕事は唯一ツ、弟殺しだけで御座居やしょう。喜助は――
 嘘を申しては居りやせんぜと男は結んだ。


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