(おのれ)の――云う事が解らぬのかと羽田庄兵衛は年甲斐もなく声を荒げた。
 滅相も御座居ませんお許し下さいませと畳に額ずく妻の前に空の胴巻きを投げ付け、庄兵衛はならばと続ける。
「ならば――何故(なにゆえ)()う成って居るのか其の次第を、己の得心が行く様に(とく)と語ってみよ」
 と云った所で、妻の多恵に真当(まとも)な返答が出来る等とは考えて居なかった。
 庄兵衛の考え通り、多恵は札撒き御行が何様(どう)だとか、(うお)売りが何様(どう)だとか、(かどわ)かしが何様(どう)だとか、火付けが何様(どう)だとか、兎に角愚にも付かぬ、判然(はっきり)とはしないことを口の中で幾つかぶつぶつと云い、御前様は我が子が可愛くないので御座居ますかと逆様(はんたい)に責める様な目を向けた。
 ()うは――
()うは云って居らぬ」
 (そもそ)もが()う云う話ではないのだ。
 (いや)、多恵の云い分を容れて譲ったとしても。
 だからと云って此れは常軌を逸して居よう。
 己は只――
「慥かに()(ほど)高価(たか)い物ではなくとも、要らぬ物は要らぬ、買うべきでない物は買うべきでないと()う云っているだけではないか」
 第一――
「お前が手を付けたのが()の様な金子であるか知らぬ訳でもあるまい」
 ()う云うと多恵は、其れは承知して居りますけれどと不服そうに顔を伏せた。
 庄兵衛には四人の子が有る。
 庄兵衛はもう四十に手が届こうかと云う歳であり、子らは其れには似合わぬ程に皆歳若い。其の為、未だ同じ屋敷に寝起き()て居る。
 加えて老母も共に暮らして居る為、庄兵衛の家は七人の大所帯である。
 京都東町奉行所の同心を勤める庄兵衛の稼ぎは決して悪いとは云えぬ迄も、好いとも到底云えぬ。
 従って七人の食い扶持を(ようや)(まかな)えるが精々(せいぜい)で、表立っての借財は無いが、大きな蓄えも無い。
 ()う云った次第(わけ)から、庄兵衛は人には吝嗇(りんしょく)と迄云われる程の倹約な生活を心掛けて居る。衣類等も自分が役目の為に着る物の外、寝巻しか拵えぬ位である。
 (しか)し、困った事に娶った妻は好い身代の商人の家の娘であった。
 勿論、妻に悪意無い。(いや)、寧ろ夫の貰う扶持米で暮らしを立てて行こうと()る善意は有る。所が、裕福な家に可愛がられて育った癖が何年経っても抜けないのである。
 金の遣い所が解って居ない。金の価値が解って居ない。金を稼ぐと云う事が解って居ない。()うであるから、夫が満足する程手元を引き締めて暮らして行く事が出来ない。金を無駄に浪費(つか)って仕舞っても我が身を省みる事が出来ない。
 平素は格別平和を破る様な事の無い羽田の家に、折々波風が起こるのは、多くは此れが原因であり――
 此の度の揉め事も、外ならぬ此の所為(せい)である。
 庄兵衛の子らは上三人が娘、少し離れた一番下だけが息子である。
 若い若いと云っても、一番上は十三になる。後幾年もすれば何処かの家に嫁いでも怪訝(おか)しくない歳である。次が十と九。此方(こちら)然程(さほど)遠い話ではない。
 親にとって子は何時(いつ)までも子であると云うが、子の方は何時(いつ)までも幼い儘ではないのである。
 ()う、事は、其の婚礼である。
 娘は何時か嫁に遣る物だと解っては居た。
 少なくとも其の積もりであった。
 積もりであったのだが、心構えも備えも出来て居なかった。
 其れを痛感させられた。
 先達(せんだっ)て、酒の席で上役の与力が娘を嫁に遣ったと聞いた。
 上手い伝手が有ったのだと。
 相手が相当な格上であった為、結納返しも生半(なまなか)ではなかったが、()れで御家も安泰だと。
 嬉しそうに酒を飲み(なが)()う云って居た。
 其れで、庄兵衛ははっとさせられた。
 何時(いつ)かは嫁に出すのであるならば、何時(いつ)かは結納の品なり金子なりが多少なりとも入り用なのだと。
 其の為の(たくわ)えは必要なのだと。
 ()う思い立ち、()(まで)以上に手綱を引き締めた。
 数日では然程(さほど)変わらぬ。
 (しか)一月(ひとつき)二月(ふたつき)、半年と経てば塵も積もる。
 漸く少しずつ余裕が出来始めた、其の矢先の事である。
「其れが解って居り(なが)ら何故――」
 (なお)も言い募ろうとした庄兵衛を遮る様に、たんと襖が開いた。
 顔を出したのは庄兵衛の母、絹であった。
「何を揉めておいでか」
 白々しい事を云う、と庄兵衛は胸中苦々しく考える。
 何を話して居たかなど、解って居ない筈が無い。
 如何(いか)に庄兵衛が激して居ようと、部屋に近付く(あし)音を聞き漏らす事など無いのである。
 其れは則ち、母が忍び足で近寄り、襖の向こうで耳を(そばだ)てて居た事を意味して居る。
「何でも御座居ませぬ」
 冷たく言い放ち、庄兵衛は立ち上がった。
「待ちや」
「少し出て参ります」
 呼び止める母の声を意に介さず、庄兵衛は腰の物を取って部屋を後にする。
 足音高く玄関まで歩みを進めたが、妻も母も追って来る様子はなかった。
 庄兵衛は下駄を履き、表に出た。
 今日は非番である。
 其の様な日まで番屋の方に足を向ける気にもならず、庄兵衛は普段では決して向かわぬ方へ何とも無しに足を踏み出した。
 歩み(なが)ら、庄兵衛は母の事を考える。
 老いた母には恩を感じては居る。
 父亡き後、女手一つで育てて呉れたのだ。感謝の念も情愛の念も無いではない。
 縁談を取り纏めたのが母自身である事も有り、妻とも表立って諍いを起こす事は無い。其れは助かっても居る。
 (しか)しと庄兵衛は思う。
 其れだけでは済まぬ物が有るのだ。
 庄兵衛の幼い頃、父が生きて居た頃の母は今とは違った。
 羽田の家は代々、同心の家である。
 母は、父の仕事を誇りに思って居り、跡を継ぐようにと幼い庄兵衛を励ました。
 見廻りの最中に酔漢に刺されて父が命を落とした時は、父の誇りを継ぎ、京の町を守るのだと庄兵衛を焚き付けた。
 望み通りに同心に取り立てられた時は、我が事の様に喜び、庄兵衛を褒め称えた。
 其れが変わり始めたのは、何時からだっただろうか。
 三人目の孫が生まれた頃からであろうか。
 庄兵衛が嫁を娶ったのがもう十八年は前の話である。其の頃の庄兵衛は運が向いており、同心に取り立てられて四年、幾らかの功を上げて居た。其れが人目を引いたのか、母の元に舞い込んだ縁談の一つが纏まり、多恵が羽田家にやって来た。其の翌年には腹に嬰児(ややこ)が宿り、玉の様な一粒種の跡継ぎを授かったのだから順風満帆と云っても良かっただろう。
 (しか)し、好い事(ばか)りは続かぬ物である。
 先ず折角の跡継ぎ息子は三つの頃に病で此岸(このよ)を去った。
 其れに拠って母が()れ程気落ちしたか知れぬ。
 喪った者は還らぬと新たな子作りに励んではみたものの、一人目の娘の時は未だ喜び、二人目の時も次こそはと願いを掛けて居た母も、三人目となると流石に精も根も尽きたと見えた。
 ()()た頃には庄兵衛一人の稼ぎでは暮らし向きが思う様には行かぬ様に成って居り、倹約を旨と()るべしと宣言した庄兵衛に、大いに反発したのが母であった。
 其れ迄は父の仕事を誇って居た筈が、稼ぎが悪いと繰り言を述べ始め、頼りない情けない口惜しい恩を仇で返すのかと罵る様に成り、(しま)いには天気が悪いのも味噌汁が不味いのも何もかもが庄兵衛の所為(せい)である様な口を利く様に成った。
 父は悉皆(すっかり)と影を潜めた。
 お蔭で最後に生まれた待望の息子も、母はもう顧みようとはしなかった。
 何様(どう)して()う成ったのかと庄兵衛は答の出ぬ問を肚の底に呑み込んだ。
 此れ(ばか)りは、云っても詮無い事である。
 其の位の事は、庄兵衛にも解っている。
 ――角を曲がろうとして、庄兵衛は其の先に何やら人の群が在る事に気が付いた。
 其れが踊る様に、歌う様に()(なが)此方(こちら)へと向かって来る。
 笛や太鼓や(かね)の音が賑やかに鳴り響く。
 先頭に立つのは恰幅の好い老爺である。身形(みなり)も立派で、何様(どう)やら何処かの大店の隠居か何かと見える。
 後に続くのは其の店子やら客やら関わりのない町人やらであろうか、兎に角様々な人共である。
 庄兵衛は顔を(しか)めた。
 其れらの顔に見憶えが有ったからではない。
 単に其の群が気に入らなかったからである。
 彼らは歌にヨイヨイと合いの手を入れ(なが)ら歩いて来る。
 庄兵衛は追い立てられる様にして道を変えた。
 後ろから歌が追い掛けてくる。
 鯖食った 鯖食った 鯖食ったヨイヨイ
 鯖食った 鯖食った 鯖食ったヨイヨイ
 其の様な、意味が有るのか如何(どう)かも怪しい歌である。
 馬鹿馬鹿しいと庄兵衛は胸中に呟く。
 此の歌に乗せられて、妻の多恵は結納の為にと貯めた金子に手を付け、鯖を山の様に買い求めたのだ。
 鯖を食う事に()の様な意味が有るのかは知らぬ。
 知らぬし、知る必要も有るとは思えぬ。
 庄兵衛は苦虫を噛み潰した思いで、勢い込んで地を踏みつけた。
 (そもそ)も羽田の家は大所帯で金を貯めるのも難しいのだ。
 (しか)し、其れでも借財を作らぬのが庄兵衛なりの矜恃であった。
 武士はお上に与えられた扶持で口を糊し、足りぬ事の無い様工夫するが筋である。()う信じて来た。
 お上の他頼るもの無きが故に、お上にのみ身命を尽くして奉公申し上げるべきである。()う課して来た。
 ()う云った訳から、庄兵衛は借財と云う物を毛蟲か毒蟲の様に嫌って居た。
 (しか)し、多恵は其れが解らぬ。(いや)、解った所で其れに沿う事が出来ぬ。
 其の為散財し、月の末に成って勘定が足りなく成る事も屡々(しばしば)有る。すると多恵は内緒で実家(さと)から金を持って来て帳尻を合わせるのである。
 勿論、()う云う事は所詮庄兵衛に知れずには居ない。
 庄兵衞は五節句だと云っては物を貰い、子供の七五三の祝だと云っては稚児(こども)に衣類を貰うのでさえ、施しを受ける様で受け入れ難く思って居るのだから、暮らしの穴を填めて貰ったのに気が付いては、好い顏など()よう筈が無い。
 其れはもう誰が見ても自明(あきらか)である。
 (しか)し、多恵は未だ其れが能く分かって居らぬのである。
 分かって居らぬとしか思えぬのである。
 庄兵衛は息を吐いて、足を止めた。
 俯いて居た顔を上げる。
 ――気が付くと、庄兵衛は何時(いつ)の間にか京の町外れに辿り着いて居た。
 ぐるりと見廻すと、辺りにはぽつりぽつりと(あば)()が突っ立って居るだけで、妙に寂しい風が吹き過ぎる場所であった。
 何様(どう)やら考え事に夢中になり過ぎて、思わぬ所に迷い込んだらしかった。
 ふと目に止まった橋に近寄り、欄干に刻まれた銘を見る。
 其処に紙屋川と有る事、家を出てからの足取り、其れらを京の地図と重ね合わせて大雑把に己の居る場所の見当を付ける。
 成程(なるほど)何様(どう)やら京の北の外れの様であった。
 北の外れ、と云う言葉から、ふと、庄兵衛は先頃此の近くであった酷い事件を思い出した。
 事件は、西陣の織場で働いて居た兄が、家で寝ていた肺病病みの弟の喉笛を掻き切って殺害せしめたと云う物である。
 下手人を捕らえてよりもう半年近くにもなるが、未だに裁きは下って居なかった様に思う。
 庄兵衛はもう一度辺りを見回し、何となく得心が行った様な気がした。
 此の侘びしい、荒んだ土地では、人の心もまた荒んで仕舞う物なのだろう。
 此処には何も無い。
 只空虚(うつろ)な風が吹くだけである。
 兄弟は信州からの流れ者であったと云う。
 詰まり、二人には互いの外に頼りに出来る者は無かったのだろう。
 二人の間に真実(ほんとう)()の様な事が有ったのかは知れぬ。
 知れぬが、互いが頼りに出来ぬと成った時に、今度は互いに消し合うしか術が無かったのであろう。
 人は身に病が有ると、此の病が無かったらと思う。
 病無く働けても、其の日其の日の食が無いと、食って行かれたらと思う。
 食えて居ても、萬一の時に備える(たくわえ)が無いと、少しでも(たくわえ)が有ったらと思う。
 (たくわえ)があっても、又其の(たくわえ)がもっと多かったらと思う。
 ()う云う物である。
 其の様に人の欲に(きり)は無い。
 一つが満たされれば又次が一つ、二つ、三つと頭を(もた)げる。
 ()う云った欲は何かを得る為にも働くし。
 何かを失わぬ為にも働く。
 庄兵衛とて、何時(いつ)も心の奧底には、()()て暮して居て、不意にお役御免に成ったら如何(どう)()よう、大病にでも()ったら如何(どう)()ようと云う恐れが潛んで居る。恐れが潜んで居るからこそ、()う成りたくないと云う欲と、()う成った時も羽田の家を保たせたいと云う欲とが有る。
 庄兵衛自身は己がお上に仕える同心である事に誇りを持って居る。
 勿論、妻や子らにも誇りに思って貰いたいと願って居る。
 (しか)し、己の生き方の全てを押し付ける事が是であるとは思っては居らぬ。
 家族には倖せに成って貰いたいのである。
 詰まり、庄兵衛が倹約を旨とし、又其れを己の家族に求めるのにはもう一つ、確乎(しっかり)とした理由(わけ)がある。
 己が日々の稼ぎを生み出せぬ身と成った時に、妻が有る物で工夫して支えるのでなく、他所(よそ)から借りて来て済ます事しか出来ぬ様では、羽田の家に未来(さき)は無い。折々妻が里方から金を取り出して来て穴填を()た事などが分かると、庄兵衛が激昂するのには此の為でもあるのだ。
 庄兵衛は人の抱く欲が、何も全て悪い物だとは思って居ない。
 欲が有るからこそ生きる気力も湧き、又欲によって手に入れた物が己を支える事も有るのである。
 己が独りで屋敷に居るとする。
 一人では寂しいという欲が湧き、家族を得る。
 家族を得たからこそ養いたいという欲が湧き、食を得る。
 食を得たからこそより良く暮らしたいという欲が湧き、(たくわえ)を得る。
 其れが自然だと思って居る。
 詰まり、逆説的に――
 庄兵衛は此の土地が好きになれぬと思った。
 此の土地は何も無い。
 空っぽである。
 ()うまで虚ろであると、何一つ得る事など出来ずに――
 何時(いつ)しか己まで虚ろに食い潰されよう。
 ()(ほど)に、本当に、何も無い。
 何も無いと云う事は何一つ満たされぬと云う事である。
 何一つ満たされぬと云う事は次の欲が生み出せぬと云う事である。
 次の欲が生み出せぬと云う事は生きてゆく事が出来ぬと云う事である。
 だから――
 だから弟殺しなどと云う事件が起きたのではないか。
 庄兵衛は()う思った。
 欲が無いから愛着も執着も無い。
 無いから、唯一の肉親を殺しても何も失わぬ。
 此の何も無い土地で、何一つ満たされず、何一つ得る事が出来ず、只(かわ)いて、只(かつ)えて、()()て死んで逝ったに違いない、()()て殺したに違いない、男達を思って、庄兵衛は暫し立ち尽くした。
 遠く(くだん)のお囃子が聞こえる。
 其れも此処では只虚ろで、丸で送葬の調べである。
 如何(いか)(ばか)りの時間を()()て居ただろうか。
 何()るで無く茫洋(ぼんやり)と川を眺めて居た庄兵衛はふと、人の気配を感じた。
 眼差しを上げ、(こうべ)を巡らすと少し離れた場所に白装束の男が立ち、同じ様に川を眺めて居たのに気が付いた。
 庄兵衛の目が向いたのに気付いたのか、男も庄兵衛の方へと顔を上げた。
 白袈裟に行者包みの頬被り。首から偈箱を下げた其の姿は御行であるように見えた。
 何を――
「何を()て居るのか」
 と庄兵衛は思わず訊ねていた。
 能く能く考えてみれば庄兵衛が来た時には此の男は居なかったのである。
 従って、茫洋(ぼんやり)と川を眺めていた事に就いてならば、寧ろ男の方の言葉であろう。
 (しか)し男は申し訳御座居やせんと頭を下げた。
「お侍様のお気に障った様で御座居やしたらご容赦下せェ。(やつがれ)(いや)しい御行乞食で御座居やす。明日をも知れぬ根無し草。怪しくねェとは申せやせんが、誓って悪心の有る者では御座居やせん」
 ()う云われて庄兵衛の方が戸惑った。
 特に此れと云った訳が有って発した問では無かったのだ。
 其れなのに()うも畏まられては却って具合が悪い。
(いや)()う改まる事は無い。己は京都東町奉行所、同心。羽田庄兵衛と云う。とは云え、今日は非番でな。ちと散歩をして居った所だ。足に任せて歩いて居ると此の様な所に出てな、川を見(なが)()う云えばと色々思い出して居った所よ。して、お前は何を考えて居たのだ」
 言い訳がましく()う問うと、男はへェと小さく頷いた。
()う云って疑われるのは覚悟の上で御座居やすが、羽田様が正直にお話し下すったんで(やつがれ)も正直にお話し致しやす。(やつがれ)は此の近くであったと聞く、弟殺しの事を考えて居たんで」
 な――
「なんと、お前は()の者達を知って居るのか」
 滅相もねェと男は顔を伏せた。
「只瓦版でちょいと見かけただけで。(しか)し聞けば身寄りの()ェ連中だとか。(やつがれ)()うして僧形をして居りやす。ついては(たま)鎮めの真似事だけでも()て遣ろうかと(まか)り越した次第で御座居やす」
 ()うかと庄兵衛は応えた。
「其の殺された弟、名を吉次と云う」
「へェ、慥かに瓦版には()う」
「吉次の魂は、安らいだだろうかな」
 ()う云うと男は困った様に笑った。
(やつがれ)にゃァ学も法力も何も御座居やせん。()して霊魂(たましい)が有るか何様(どう)か、其の様な問答の(こたえ)も存じやせん。(やつがれ)に出来やすのは只(れい)を鳴らして祈るだけで」
 成程(なるほど)と庄兵衛は思う。慥かに、彼岸(あのよ)を知る術は無いのかも知れぬ。
 (しか)し、形だけでも吉次は弔いを得たのかも知れぬ。
 其れだけで成仏するを得たのかも知れぬ。
 (いや)――
「得たのであろうな」
 何をで御座居やすかと問う男に、庄兵衛は先程迄考えて居た事を口に乗せてみた。
「己はな御行。得ると云う事に就いて考えて居ったのだ」
「得ると云う事で御座居やすか」
()うだ。人の欲と云うものは悉皆(しっかい)得た所、得られると思った所から生まれるのだと思うのだ。何一つ得られぬ、満たされぬ生では、欲も尽きよう。擦り切れよう。(しか)し、人が何かを得るのも又、欲に依ってなのだ。欲が人を突き動かし、人は何かを得るのであろう。此れらは裏表であるのだ」
 見よ、此処は何も無かろうと庄兵衛は続けた。
(しか)るに、吉次は死ぬまで何も得る事は出来なかったであろう。欲も擦り切れて居ったであろうな」
「無欲てなァ成仏の第一歩と聞きやす」
 吉次は生き仏に成って居たと仰るんでと男は問うた。
()うではない」
 なかろうと思う。
 欲を無くすのと、欲を失くすのとは、似ている様で天と地程の開きがある。
 此岸(このよ)で何も得られなかったからこそ、せめて彼岸(あのよ)ではとの欲も生まれよう。
「多くの者に於いて、死して後は迷い出る事無く成仏するが願いであろう。(しか)し成仏は無欲だ。と成れば、其の願いは此岸(このよ)で果たされねば彼岸(あのよ)に逝けぬと云う事に成ろう。死んで仕舞えば財も病も何も無い。()う云った欲は全て消え去り、最後に残るのが、成仏したいと云う此岸(このよ)での最後の欲なのだ」
 であるからこその葬儀だと庄兵衛は云う。
此岸(このよ)で葬儀を得、成仏の祈りを得る事で全ての欲から解き放たれ、漸く彼岸(あのよ)へと旅立てるのではあるまいか」
 だから吉次は漸く得る事を得て成仏できたのではないだろうかと庄兵衛は結んだ。


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