壱
私――てなァ何様云う事で御座居やすかと男は粗雑に口を利いた。
然う問われて、何処から如何語るべきかと返す言葉に詰まり、口を閉じた処で自然と目まで下を向き、気が付くと手に為た安物の刷り紙を凝と見詰めて居た。
「何で御座居やすか、真逆其の藁紙が旦那だとでも仰るので」
視線に気付いたのだろう、男は嘲っている様にも取れる口調で然う云った。
「揶揄うのは勘弁なすって下せェ。慥かに巨きな古木の精が人型を模るなんて話ァ有りやすぜ。狐や狸、猫や鯰だって年月経りゃ人に化けるとも云うし、古びた器物が踊り出す付喪神なんてェのも御座居やす。但し旦那が御手にして居られる其奴ァ、其ンなに旧ィ物じゃ御座居やせんぜ」
まァ精々一月前が好い所の瓦版でさァなどと云われなくとも、其の位の事は解って居た。抑も一月前に此の瓦版を受け取ったのは自分だ。
「旦那は何様見ても普通の人間様に見えらァ。大体、手前の本体を手に持って、此奴が私だなんて云われた日にゃァ、奴は如何為りゃ好いンで」
何様も此様もない。抑も其の様な事は云って居ない。自分は間違い無く人間であるし、物の怪などではない。
――ない筈だ。
名前だって正当と有る。親に貰った立派な名が。
否、物の怪にも名前は有るのか。轆轤首や一反木綿、塗壁だって然うであろう。誰が付けたのかは知れぬが、慥かに語り継がれる名は有る物だ。親――親は、無いのかも知れぬが。
違う。然うではない。
其の様な話ではないのだ。
「わ、私は――」
云い掛けて、矢張り詰まる。
何だろうか。
何と云えば好いのだろうか。
口を開いたは好いものの、其処から先の考えが纏まらず、又黙り込んで仕舞った。
其れを見てか、呆れた様に男は、其の瓦版が何様為たんでと助け舟を出した。
「其奴ァ、話の種が幾つか載っちゃァ居りやすがね、旦那がご執心の種は何奴なんで」
二月程前に上がった心中で御座居やすかと問われて、首を横に振る。
大店の一人娘に縁談が纏まりかけた処での、二番番頭との駆け落ち心中。哀れだとは思うが、自分に関係の在る話ではない。
「じゃァ、火付けか」
其れも違う。
此の所三月ばかり京の周りで小火が幾つか続き、何様も火付けらしいが其の下手人が未だ上がらぬとの話だが、其れも遠くて関わりは無い。
「此奴も違うとなりゃァ、残ってるなァ、四月前の弟殺しか」
然う、其奴だ。
「当たりで御座居やすか」
「し、信州で御座居ます」
旦那、奴如きを相手に其の言葉遣いは要りやせんぜと男は眉を顰めた。
「奴は真っ当に口を利くのも憚られる下賤な者で。真実なら斯うして茶屋でお隣に座らせて戴くことも赦される筈のねェ人間で御座居やす。否、人間ですらねェかも知れねェ。何卒其の様な口をお利きになりませぬよう」
「其の様な――」
其の様な事は御座居ませんでしょうと云おうと為たが、其れ依り先に男に制された。
「其の様な事は御座居やすんで。旦那様も客商売でしたら、其処ン所を確乎とお心得なすって下せェ」
併し信州てェのは、殺しは京の町ですぜ、然う云って男は、否と首を振った。
「慥かに、信州からの流れ者と書いて御座居やすね」
細けェ処迄能くお読みでと今更の様に持ち上げて来るのを置いて、追い立てられる様に言葉を繋ぐ。
「吉次――なのです」
今度は、何とか云えた。
「あァ、殺された弟が御座居やしょう」
「其れで、喜助」
「其れが殺した兄の名で」
違うのですと云うと、何も違いやせんぜと返された。慥かに違わないのである。違わないのであるが、違うのである。其の違いが、肝要なのである。
何と云って好いのか、又、言葉に詰まる。
又黙りですかいと男は呆れた様に云った。
全く、目鼻のねェのっぺらぼうって奴ァ居りやすがねと男は続ける。
「口のない化け物てなァ」
中々聞かねェ。
当人が語りも為ねェからで御座居やすかねと男は笑った。
己が下賤だから敬うような言葉使いは止せと云っておきながら、此の口利き。
然う為て。
又。
又化け物と同じ扱いである。
違うのだ。
私は化け物ではなく人間なのだ。
噫、併し。
少し待って考えてみよ。
併し、真実に然うなのだろうか。
何故然うだと云い切る事が出来るのだろうか。
誰かが保証して呉れる訳でも、請け合って呉れる訳でもあるまい。
縦しんば誰かが請け負って呉れたとて、其れが正しいと何故云えようか。
詰まり自分が然うだと思って居るから、然うだと云って居るだけではないのだろうか。
化け物と人とを別つのは、詮じ詰める所、然う思って居るか否かに過ぎぬのではないだろうか。
抑も思って居るとは何様云う事なのか。
胸に一物有りと云う様に、胸で思うものか。
肚の底は知れぬと云う様に、肚で思うものか。
頭が足りぬと云う様に、頭で思うものか。
では胸が、肚が、頭が私だと思って居るのだろうか。
では胸が、肚が、頭が私であるのだろうか。
併し胸だけ、肚だけ、頭だけが切り離され、ひょこひょこと歩いて居たならば、其れは間違いなく人間ではなく化け物の類であろう。其れならば――
私は化け物なのか。
化け物の集まりなのか。
違う。然うではない。
然う云う話ではないのだと、再び思いは返る。
返ったのが胸か、肚か、頭か。
其処はもう何処でも好いのだ。
私が人であると思って居るのならば、人なのだ。其れで好い。
抑も此れ迄は何を考えるでなし、然う為て生きて来た。
其れなのに、何故今更になって斯うも自分が人であるか何様か疑るのか。
自分が人でない証、否、証とまでは云わずとも、疑るに足る契機でも在ったか――
「噫」
然うかと思わず声が出た。
「何がで御座居やす」
と男は問うた。
今更ながら、改めてその男の風体を見る。
装束は修験者の其れに近い。薄汚れた白装束に首から偈箱下げ、白木綿の行者包みで頭を覆っている。札撒き御行で御座居と名乗った事も憶えて居る。
江戸へ上方へと其の日暮らしの無宿渡世。陀羅尼の札を払撒いて、世の安寧をと嘯く御行乞食。
世が乱れて居ては乞食は生きちゃァ行けやせんぜと此の男は笑った。
乞食にこそ此の世の乱れが一番良ッく出てらァ、ご覧なせェ、世が乱れれば乞食が増えやす、其の癖増えた乞食を賄える程余裕もねェ、するてェと乞食がバタバタと死にやすぜ、解りやすい物で御座居やしょう。
何故其の様な話に成ったのかは、もう疾うに忘れて仕舞ったが、其の粗雑乍ら切れ味の在る口利きに心惹かれ、諸国を巡って居るのなら様々な話を見聞きして居ようと、水を向けてみたのだ。
然うだ。
然うだった。
「旦那ァ」
と男は疲れた様な声で呼んだ。
「旦那にゃァ、お話をお聞きする、お聞かせするてェお約束で、先ほどから昼餉を施して戴き、お世話になって居りやす。ですから余りこんな事ァ云いたか御座居やせん。御座居やせんがね」
奴にも出来る事と出来ない事が御座居やすぜとその男は云った。
「旦那にも仕事が御座居やしょう」
「お、御行にも何か予定がお有りですか」
「考え違えをしねェでくだせェ」
奴は所詮御行乞食、為なきゃならねェ事が有るとしたら、山奥か海深くか、兎に角人様の邪魔にならねェ所でとっととくたばって、世の中ァ些と綺麗にする位の事で御座居やすぜ、其れ迄は無様に生き恥を晒す位しか出来る事も有りゃしねェと男は吹いた。
「ですから奴が申して居りやすのは、お話し戴かなけりゃァ旦那のお力には成れやせんって事でさァ。加えて旦那の午からのお仕事も」
無いようには出来やせんぜと男は云った。
「まァ、旦那が若し然うして欲しいと仰るのであれば、其の為に一肌脱ぐのは吝かでは御座居やせんがね」
「い、否、其れには及びませぬ」
ぎらりと睨め付けるようなその視線に妙に背筋の凍る思いを為乍ら、慌てて手を振って然う云う。此の男、只の札撒き御行ではない。一筋縄では行かぬ何かが有ると、然う直感した。
慥かに昼餉に出ると云って抜けて来たのだ。其れ程長いこと穴は開けられまい。
否、抑も昼餉とて態々外で食べねばならぬ謂われも真実は無いのだ。其処を、偶にはと無理を云って出て来たのだから、早目に戻らねば小言も云われよう。
然う考え、目の前の街道の少し先にある勤め先に目を遣る。
勤め先は旅籠である。
もう彼此二十年ほどの勤めになる。
十にも満たぬ頃からの勤めであるから、勤めてからの方が倍程も長い。
望月楼等と云う立派な名前が付いている。
由来は能く知らぬ。
昔に誰ぞ偉い人でも訪れて、月を眺めるか何か為たのであろうと勝手に思って居る。
知らずとも二十年、子細無く過ごして来れたのだから、此れから先も無かろうと思って居る。
二十年。
短いようで長い時である。
勤め始めて二年で何とか仕事を憶えた。
五年で仕事を任されるようになった。
十年で今の連れ合いと出会った。
十二年経って、旅籠の主人の仲人で契った。
其れから八年。自分で云うのも気恥ずかしいが、仲睦まじく、大過なく遣って来れたと自負している。旅籠でも其れ成りの立場と云うものが付き、斯う為て昼餉の自由も多少は作れるように成った。
然う、此の二十年は、倖せだったのだ。
つい一月ほど前、旅籠に届いた此の瓦版を見る迄は。
二十年も前の事が、今更立ち返って来なければ。
「つかぬ事を訊きますが」
「何なりと」
其の。
「私は」
私は――
「生きて居ましょうな」
まァ然うで御座居やしょうねと男は云った。
「旦那と斯う為てお話しして居るので御座居やすから、生きて居るので御座居やしょう。奴は斯様に僧形を装て居りやすがね、神仏心霊にゃァとんと御縁が御座居やせん。然う成りますれば」
旦那も生きて居るので御座居やしょう。
「まァ、生きた儘に死んだ様な心地に成るなんてェ事も世の中にゃァ御座居やす。然う云う意味で御座居やしたら」
分かりかねやすがねと男は投げ遣りに云った。
「然う云う意味ではないのです」
と明確と否定する。其の様な曖昧な、心持ちの話ではないのだ。
「先ほどの瓦版ですが」
「へェ、弟殺しの」
「吉次」
「弟の名でございやすね」
「彼れは――」
私なのです。
「――旦那、今、何と」
「大丈夫です」
狂って居る訳ではないと告げる。
狂人は皆然う云う物なのかも知れぬ。
併し、然うではないのだ。
私は狂って居らぬし。
化け物でもない。
「私の名は吉次と云います」
「へェ、お初に伺いやすが――其れは同じ名で」
云と頷く。
「私の兄の名は」
喜助と云う。
「偶然で御座居やすか」
「然うかも知れませぬ」
然うでは、無いかも知れぬが。
「私と兄は、信州の生まれなのです」
「其処までお揃いで」
「私はそろそろ三十に手が届きます」
「同い年で御座居やすね」
男は考え込む様に顎に手を当てた。
「其れで、兄上は今何処に」
「分からぬのです」
「分からねェと仰る」
「然う分からぬのです」
其れも仕方の無い話なのだ。何せ――
「二十年程前に、兄とはこの山で流離れた限りなのです」
十にも満たぬ頃、兄に手を引かれて此の山道を駆け、闇に怯え、石に滑り、根に足を取られ、気が付いた時には、兄は居なくなっていた。寂しくて、辛くて、独り泣き乍ら何処とも知れぬ山中を、何れ程とも知れぬ間彷徨って居たのを旅籠の主人が拾い、哀れに思って置いて呉れたのが、望月楼との縁だ。
「子ども二人ッ限りで、此ンな道を駆けて居たので」
「逃げて居たのです」
村に流行病が入り込んだのだ。
「病を其れ以上広がらせぬ為には、罹った者の家を丸ごと焼くしか無かったのです。併し、罹ったのは父と母だけで私たちは未だ罹っては居なかったのです。村の者には同じに見えたのでしょうが。其れで、稚児だけでも逃がそうと思ったのでしょう。持てるだけの食い物を持たせ、着れるだけの着物を重ねて、父と母が裏からそっと逃がして呉れたのです」
思い出そうと為れば何時でも眼瞼の裏に、耳の奥にまざまざと思い出す事が出来る。
兄の云う事を聞いて能く尽くすのだと諭す父の言葉が。
弟の身に気を遣い二人限りの兄弟を能く守るのだと恃む母の姿が。
其れから二十年、斯う為て風邪一つ引かずに暮らして来て居るのだから、其の時も罹って居なかったと今ならば判然と云えますと云うと、酷ェ事しやがると男は呟いた。
「まあ善くはありませぬが、仕方は無いのでしょう。両親は助からなかったのでしょうし、私は斯う為て無事に生きて居る。過ぎた事を悔やんでも何も出来ぬ以上、此れ依り外何を望めましょうか」
然う云うと、旦那は出来たお人だと男は感心した様な眸で此方を見た。
其れは違う。
出来ては居らぬ。
固まっては居らぬのだ。
其れが証拠に今も斯う為て定まらぬ。
「其処なのです」
「何処で」
「云ったでしょう、御行。私は此の山で兄と流離れたのです」
然う為て此の山は、信州を抜け京の町へと続く街道沿いに在る。
「詰まり――」
流離れたのは兄ではなく、私の方なのかも知れぬ。
本当の私は此処には居らず、兄と伴に京に行ったのかも知れぬ。
然う為て――
四月程前に、兄に殺されたのかも知れぬ。
「だから、此の私は既に死んで居るのかも知れぬし」
化け物なのかも知れぬのですと望月楼の吉次は結んだ。
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