録
吉田屋敷は――
赤坂の吉田屋敷は蜂の巣を突いた様な騒ぎであった。
其れも仕方の無い話であろう。夜毎夜廻りに出ていた跡継ぎの義虎が、遂に亡骸で帰って来たのだ。吉田家に仇為さんとする者の仕業か、遂々血族に害が及んだかと、吉田家は色めき立った。
併し、伴に居た筈の花井玄蕃の話は何とも要領を得なかった。
皿屋敷にて菊の祟りに遭ったのだと、玄蕃は然う云ったのだ。
番町が青山屋敷の古井戸より女性の亡魂が立ち返るのに出遇したのだと。
然う為て――
『一つ』
『二つ』
『三つ』
『四つ』
『五つ』
『六つ』
『七つ』
『八つ』
『九つ』
其処迄聞いた義虎は、自ら喉を突いて死んだのだと。
詰り其れは噂の通り狂い死んだとでも云うのかと、家人は重ねて問うたが、玄蕃には慥かな返答は出来なかった。意の向かう先は宙へと消えた。
只――
其れ以来、端然と皿屋敷の怪は絶えた。
古井戸に亡魂が出ると云う噂も、皿を数えると云う噺も、聞けば狂い死ぬと云う伝も、全く出なくなった。
其れは傳通院了誉上人の御蔭だと、何処からか然う云った噂も流れた。
十まで数え切れぬが故に幾夜も迷って出た菊の亡魂であったが、其の晩、了誉上人が合わせて『十』と声を掛け、満たされた菊は、あな嬉しやと解脱得度に相成ったと、斯う云うのである。
併し其れは有り得ぬ話である。
酉蓮社了誉上人が没したは、吉田家が番町より赤坂に屋敷移りをする其れよりも、更に遙か昔の事なのである。有り得よう筈が無い。
筈が無いのであるが――
町人共は然う噂為合った。
然して理由は分からぬが――
現に番町皿屋敷の騒動は、治まって仕舞ったのである。
吉田義虎も、身の周りで人死にが続くのに堪え兼ねて独り怨霊に立ち向かいは為たものの、憐れ返り討ちに遭い露と消えたのだと、然う云う事に成って仕舞った。
「分からねえだろうなあ」
然う老爺は通りを見下ろして独りごちた。
「彼奴の仕掛けてなあ、中に居ても能くは分からねえ」
場所は喜多屋と云う茶店の二階である。
数日前に花井玄蕃が担ぎ込まれた座敷と云えば、分かり易いだろう。其処に、一人の老爺が坐って酒を呷っていた。肴は漬け物や団子が精々だが、ちびりちびりと呑るには事欠かぬと見えて、追加を頼む気配は無く、階下からも声は掛からない。否、抑も余分な金を少々積んで人掃いを頼んだのだから、近寄る者など無い筈だった。
老爺は猪口を舐めつつ、やれやれと天井を見上げた。
「一体彼奴の頭ん中あ何様成って居やがんでえ」
「見てェかよ」
たん、と襖が開いて男が一人姿を現した。
白木綿の行者包みに白装束。首から偈箱を提げた見るからに薄汚れた身形の男は、見ても何も分からねェと思うぜと云って、無遠慮に座敷へと上がり込んだ。序でに後ろ手に襖を閉める。
「来たな、傳通院の」
「五月蠅ェよ、其の名前で呼ぶンじゃねェ」
其の歳で無礼討ちなんてなァ厭だろうがと、男は腰を下ろし乍ら云った。
「傳通院てなァ徳川将軍家の菩提寺だぜ、怖え物知らずの若え者ならイサ知らず、老い耄れて不敬働いて死んだとなっちゃァ後世迄の笑い物だぜ」
「応、其りゃあ怖えな」
桑原桑原と戯けた様に云い、老爺は、どうだと猪口を勧めた。
「一杯頂くぜ」
くいと一息に杯を干し、次いで男は波々と注いだ猪口を返す。
「其れでよ、御行の」
受けた猪口をちびりと舐め、老爺は視線を男に転じた。
「如何した」
「如何したじゃねえよ」
分かってるんだろうがと老爺は続ける。
「今回の始末について、背景を詳しく聞かせて呉れと斯う云う話に決まって居ろうが」
然う云われて男は小さく溜息を吐いた。
「以前にも云ったがよ、過ぎた事を掘り返しても何にも成らねェぜ。得する事ァ有りゃしねェ。なァ――」
手前腑分けってなァ見た事あるかいと、男は急に話を転じた。
「腑分けてえのは彼れか、罪人の腹を掻っ捌いて散々に為る奴か」
「然う其れよ」
「ねえなあ」
手前は有んのかと問われ、男は無けりゃァ訊かねェと粗雑に答えた。
「一遍でも見りゃァ充分だがよ、彼りゃァ凄ェ」
人間の中身が彼ンな風に成ってるなんて些とも知らなかったぜと男は云い、儂あ今でも知らねえと老爺は応じた。
「知らねェ事は恥じゃねェが、知らねェ事を恥じねェのは恥だ」
今の内に教えて措いて遣るがよと男は続ける。
「頭ン中ァ、黄色いってェか白いってェか、兎に角、全く能く分からねェ塊が詰まって居やがったぜ」
だからよ――
「死んじまった者、過ぎちまった物を引っ繰り返しても如何にも成らねェ事ァ一杯有るし、頭ン中見ても何も分かりゃしねェよ」
然う云って男は自分の頭を小突いた。
「其処に話は戻るのかよ」
噴と老爺は鼻を鳴らした。
「じゃあ其の腑分けだがよ」
「腑分けが如何した」
「何の為にするんでえ」
然う老爺は問いを投げ掛けた。
「其りゃァ、人間の中身が何ンな風なのかてェのが分かりゃァ治し様も有るってェ事じゃねェのか」
偉ェお医者の考える事だ、意味が有ンだろうよと男が応じると、老爺は其れ見ろと膝を叩いた。
「だったら頭ん中は知らねえがよ」
腑あ大事なんじゃねえのかよと、老爺は云った。
「だから儂あ腑に落として置きてえと、斯う云ってるんじゃねえか」
男は驚いた様に目を見開き、偶にゃァ上手ェ事云いやがるなと珍しく感心した様に云った。其れに老爺は気を好くしたのか、口元を歪めて更に猪口を傾けた。
「仕方ねェな、何処から聞きてェ」
「然うさな」
老爺はつるりと顎を撫で、暫し考え込んでいる様であったが、ふと顔を上げ、応、然うよ、皿数えてなあ何でえと、問い掛けた。
「彼れの祟りなんて物は真実に有んのかよう、彼れあ――」
山猫廻しの仕込みじゃねえのかと云うと同時に襖が再び、たんと開いた。
「お呼びの様じゃないかい」
入って来たのは其の細身に似合わぬ葛籠を背負い、手甲脚絆の旅装束に身を包んだ若い女だった。
「応、好い処に来たぜ。丁度手前の人形の話が出た処だ」
彼の古井戸からするするっと上げた奴だと男が云うと、女も小さく頷いた。
「あァ、彼れァ妾の商売道具サ」
好い出来だったろうと自慢気に云う女に、老爺は応よと頷き返した。
「儂あ事前に知って居たから好かったがよ、知らずに見て居たら真実に亡魂が迷い出たかと思ったろうよ」
呑むかいと老爺は猪口を勧め、受けた女はそっと口を付けた。
「――て、然うじゃねえよ」
「何がサ」
「何がってお前」
彼れが山猫廻しの傀儡だってえんなら、何で吉田義虎は手前で喉突いて死んじまったんだよと老爺は声を上げた。
「真逆お前の傀儡にゃ人の気い狂わせる神妙不可思議な力でも有るってえのかよ」
「人聞きの悪い事を云わないでお呉れよゥ」
妾の傀儡に其ンな物騒な仕掛けは有りゃしないよゥと云って、女は一息に呷った。
「じゃあ怪訝しいじゃねえか」
女から猪口を取り返し、今度は自分に注ぎつつ老爺は眉根を寄せた。
「皿数えに遭った奴あ狂い死ぬ。其処迄あ好いとしても、何で義虎は狂っちまったんだよ。彼れあ本物じゃあ無かったんだぜ」
別に彼奴ァ狂った訳じゃァねェよと、今度は男が答えた。
「其りゃ一層怪訝しいじゃねえか」
正常な儘に手前の喉突いたてえのかよと老爺が問うと、男はまァ然うかもなと云い乍ら猪口を口元に寄せた。
「或いは端から狂って居たってェのが正鵠しいのかも知れねェ」
「おい待て御行の、儂あ現況二つ程云いてえ事が有るがよ、一つあお前、其の猪口と徳利何処から出した」
真逆手前の分が有る癖に儂の酒掠め取ったんじゃあるめえなと、老爺は半眼で睨む。
「山猫廻し、お前もだ」
何時の間にか手酌を始めて居た女にも、咎める様に然う云う。
「何サ、別に呉れと云った訳じゃ無いのに勝手に呉れたンじゃないよ」
妾を責めるのは筋違いサねと、女は平然と然う云った。
「抑も人を騙す、脅す、賺す、唆す、転す、謀る、踊らせる、掠め取るってのは、其処の小股潜りの十八番じゃないかい。妾よりも其方を責めな」
無理矢理此方に振るンじゃねェよと、男は苦い顔をした。
「手前も手前だ。斯うして背景を語って遣ってるンだぜ、猪口の一杯二杯で細けェ事云ってンじゃねェ」
此方人等話して遣らなきゃならねェ筋はねンだぜと男が云うと、老爺は其方が二つ目よと応じた。
「端から狂って居たってえなあ何でえ」
身の周りに続く人死にに心病んでてえ訳でもねえのかいと老爺が問うと、男は違ェよと淡白と答えた。
「無くなっただろうが、皿屋敷の怪は」
「無くなったな」
「――此処迄云やァ分かりそうな物だがな」
「何がでえ」
「皿数えに遭って死んじまった三人、彼りゃァ――」
全部吉田義虎の仕業だと、男は云った。
「何だとう」
「能ッく考えて見ねェ、伴に育った女馴染みだ、剣の腕を磨いた同門同士だ、面倒を見た乳母だってェ頭詞が付くがよ、云っ仕舞えば全部只の死人だ。其の真ン中に居るンだぜ、此奴ァ。となりゃァ」
下手人と考えた方が余程整然と来らァと男は云って、くいと猪口を呷った。
「待て待て御行の、てえ事あ何か、彼の吉田義虎てえ男あ周りの連中に、余人にゃあ知れねえ怨みか何かでも抱えてたてえのかよ」
「ねェよ、其ンな七面倒臭ェ物」
「じゃあ怪訝しいじゃねえか」
怨みも何もねえんなら、人を殺さずにゃ居られねえ病にでも罹ったてえのかようと老爺は声を上げ、男は、だから端からだって云ってンだろうがと返した。
「中途で成ったンじゃァねェ、彼りゃァ生まれついての物だ」
「生まれついての人殺してえのかよ」
其れとも何か、親の因果が子に報いてな物かよと老爺が問うと、男は然う云う訳でもねェよと面白くも無さそうに云った。
「慥かに番町の吉田屋敷、天樹院様の吉田御殿、青山家騒動てェ因縁深ェ話は幾つも在ったがよ。何の事ァねェ、吉田屋敷の話にゃ人死にが出た訳でもねェ。天樹院様の奴ァ全部作り物てなァ知っての通りだ。青山家の騒動、此奴ァ慥かに何があったのか些とも分からねェ鬼魅の悪ィ話じゃァあるが、今回の一件にゃァ縁も所縁もねェ処よ」
結び付けてェてンなら、其りゃァもう山猫廻しの傀儡語りの領分だと男が水を向けると、女も、然うサねと応じた。
「好さそうな処でも繋ぎ合わせて積み上げて、次は怪談てェ趣向も面白いねェ」
若い婦の情念を絡めた筋書きってのは、思いの外客を惹く物サと女は笑い、男は、好きにしろよと云って唇を湿らせた。
「生まれついての人殺してェのも其りゃァ違う。然う云う奴ァ小せェ頃から虫螻だの犬猫だのを虐め殺したてェ話が付き物だが、ねェだろう」
「無かったなあ」
寧ろ確乎した子だった様じゃねえかと老爺は続け、其処で、応と声を上げた。
「好い子で居過ぎて雁字搦めで息が詰まって、其の末にてえのかい」
「違ェよ」
だから端からって云ってンだろうが、何遍云わせるんでェと男は稍疲れた様に云った。
「話が些とも先に進まねェな」
「悪かったよ御行の、其れで――」
じゃあ一体何様云う訳でえと老爺が問い、男は、好いかと云って座り直した。
「吉田義虎は小せェ頃から、足りねェのが、欠けてンのが、満ちて居ねェのが気に食わねェ性質だった。何でも彼でも突き詰めなきゃ気が済まねェ性分だった」
「然うらしいな」
だから殺したのよと、男は云った。
「何だ其りゃあ」
と老爺は此れ迄に一番の声を上げた。
「真逆埃でも掃いて捨てる様に、身の周りの一寸足りねえ気に食わねえ奴を――」
「声がでけェよ」
閑かに男は制した。
「其れにな」
其りゃァ――
「逆態だ」
逆態いと老爺は尻上がりに云った。
「御行の、逆態てなあ何でえ」
「何度も云ってるだろうが、端からだと」
手前の云う通りだとすりゃァ、矢っ張り小せェ頃から何かしら摘んだの潰したのが無きゃァ妙だろうがと、冷静に然う云われ、老爺も少し落ち着いた様子だった。
「じゃあ、何様だったってんでえ」
「分からねェか」
「分からねえな」
噴と息を吐いて、男は猪口を呷った。
「――千代ってェ奴ァ佳い娘だなァ」
「御行の、お前何が云いてえ」
「然うじゃァねェか。彼奴ァ足る事を知って居たンじゃァねェ。満たすってェ事を知って居たンだ。中々居ねェよ、然う云う出来た奴ァ」
まァ些と変わっちゃ居たみてェだがなと男が云うと、老爺も、まあ然うだなと応じた。
「千代の奴ァ能く此ンな事云ってたそうじゃァねェか」
満ち足りて仕舞っては満ち足りませぬ。
満ち足りるを当たり前と思うて居るから、足りぬと思うのです。
此の世には元より満ち足りると云う事は有りませぬ。初めから何かが欠けて居るのです。何かが足りて居らぬのです。併し其れが普通では無いと、全き姿こそが当然であると、然う思うから満ち足りぬのです。余計に足りぬ物が目立つのです。足りる事が出来ぬのです。此の世は、足りぬ儘に足りて居り、満たされぬ儘に満たされて居るのです。
又斯う云う面も在りましょう――
満ち足りて仕舞えば、後は失うしか有りますまい。然う致しますれば、満ち足りて仕舞った其の後に在りますのは、其れを欠いて仕舞う、失して仕舞う不安だけでありましょう。十全に満ち足りたからこそ、却って安定を無くして仕舞うのです。
逆態に、未だ足りて居らねば其れ故の探し求める娯しみが在り、又敢えて一つ欠いてこその思い描く愉しみも在りましょう。手にして仕舞えば、噫何だ此の程度の物かと御思いになるやも知れませぬ。手に入れて仕舞えば、其れは最早其処に在る以上の物には決して成り得ませぬ。何処かが満ち足りぬからこそ、心の裡は却って満たされるのです。
欠けたるを好ましく想い、足らざるを愛おしく想い、満たされぬを慈しむ事こそ、虚ろな穴を満たして生きる筋道なのではありませぬか。
ほら――
『一つ』
『二つ』
『三つ』
『四つ』
『五つ』
『六つ』
『七つ』
『八つ』
『九つ』
『……あら、一つ足りない』
――然う云って千代は笑みを湛えて振り返った。
――義虎の心の臓が、知らず大きく跳ねた。
――だから
「だから、殺したのよ」
何故だと、老爺は唸った。
「何故其れで死ななきゃならねえ」
「義虎ってェ野郎は其れ迄足りねェのが、欠けてンのが、満ちて居ねェのが気に食わねェってンで、出来るだけ見ねェ様に為て来た。然うだってェのに其の足りねェ筆頭みてェな奴に――」
惹かれちまったからよと男は云った。
「筆頭て、なあ御行の、千代は慥かに其んなに聡い娘じゃ無かったかも知れねえがよ」
「然うじゃァねェよ」
と男は閑かに制した。
「十に一つ足りねェだろうが――」
指が。
「指い」
「然うよ。おせんの生まれ変わりだか何だか知らねェが、生れつき一つ指が足りなかったそうじゃァねェか」
だから――
「だから其んな半端者に惹かれたのが悔しいて殺したか」
「然うじゃァねェ」
其処も――
「逆態よ」
何も彼もが一遍に引っ繰り返っちまったのよと、男は云った。
「其れ迄ァ足りねェ物は見ねェ様に為て来た。全きを好み、欠けたるを遠離けて来た。其れなのに、何様見ても足りねェ者に如何為ようも無く惹き付けられる手前が慥かに居る事に気付いちまった。だから――」
だから真実に落としてみた、奪ってみた、足りぬように――為てみたンだよ、千代を。
其れでも懐ける物かと確かめてみたかった。
己の此の愛おしいと云う気持ちを。
縦令相手が欠け落ちて仕舞っても。
だから――
「だから殺したてえのかよ」
「だから帯で頸を締めちまったのよ」
其れでも、変わらなかったンだろうよと、男は猪口を舐めた。
「千代が地に伏しても猶、其の愛おしさは些とも減りゃしなかった。否、寧ろ愛おしさは募る程だった。もう千代は笑い掛けては呉れねェと、語り掛けては呉れねェと、然う思う程に――」
込み上げて堪え切れない程だったンだろうよと、男は云った。
欠けて居るからこそ好ましい。
足りて居らぬからこそ愛おしい。
満ちて居らぬからこそ心地好い。
其処に生まれて此の方一度も憶えた事の無かった充足感を得た。
千代は――
千代は正鵠しかった。
「だから皿数えに取り憑かれた」
憑かれたなァ他でもねェ義虎だと、男は云った。
「だから、繰り返したンだよ」
何度も、何度も。
何度繰り返しても飽きなかった。
『一つ』
『二つ』
『三つ』
『四つ』
『五つ』
『六つ』
『七つ』
『八つ』
『九つ』
『……噫、一つ足りない』
『足りない』
『足りない』
『足りない』
『足りない』
『足りない』
だからこそ愛おしい。
此れ程迄に心満たされる。
「酔わせて幼馴染を殺して、誘い出して乳母を殺して、未だ次が出なかったのが幸いだ」
放って置きゃァ青山屋敷の二の舞だったろうぜ。まァ流石に其の前に何処かに嗅ぎ付けられたろうけどなァと、云って男は猪口を呷った。
「御行の、其れじゃあ如何して彼あ成るんでえ」
「何れの事だよ」
「義虎よ」
最後にゃ手前で喉突いちまったじゃねえかと老爺が問い掛けると、男は、彼れかと面白くも無さそうに云った。
「足りねェ事に憑かれちまった憐れな男の末路よ」
「何様云うこったよ」
「足りねェだけじゃァもう足りねェ。其処に亡魂が現れた。胸の裡に底の知れぬ井戸の様な空虚が在って満たされねェから、如何為ても埋まらねェから――亡魂は斯うして出るのだと、然う聞いた。肚の内に呑んだ辛み苦しみ、心の底に澱の様に沈んだ怨み妬みは、死んで仕舞えば最早埋めるに埋められねェから、行き場を無くして自身を焦がす。だが焦がしても焦がしても終りはねェ。だから、亡魂に成れば永続と足りねェ儘で居られると、然う知った」
其れならば――
「手前で手前を足りなく為て遣ろうと思うじゃァねェか」
「だから、喉を突いたのか」
足りなく成る為に。
「番町青山屋敷の皿数えって奴ァ、お菊って女中だ。だが義虎にゃァ彼れがお千代に見えてたンだろうぜ」
云ってただろうが、羨ましいってなと、男は吐き捨てる様に云った。
「手前の手で足りなく為た相手が、其の御蔭で手前が一番辿り着きたかった場所に先んじて行っちまった。其りゃァ――」
怨病ましくも思うだろうぜ。
男が然う云うと、座敷は沈と静まり返った。
稍あって――
「其れで、彼の仕掛けって訳かい」
と、然う老爺が呟く様に云った。
「あァ、真逆皿数えなんてェ物を遣う破目に成るたァ思わなかったがな」
男が然う云うと、老爺は、なあ御行の、と呼び掛けた。
「吉田義虎の奴あ、皿数えに成んのかなあ」
足りねえってんで怨んで死んじまったら然う成るんだろうと、問い掛ける老爺に男は、成らねェよと応じた。
「義虎が怨病んだ相手ァ彼の世の者だ。大方今頃彼岸で宜敷くやってるンだろうぜ」
「然うか」
老爺は頷いて、なあ御行の、と再び呼んだ。
「此の世ってなあ其んなに足りねえ物なのかよう」
知らねェよと、男は粗雑に答えた。
「まァ千代の云って居やがった通り、初めから足りる様にゃァ出来てねェんだろうよ。だが然う云うなァ」
足りねェたァ云わねェなと男が云うと、まァね、と女が後を受けた。
「其れでも如何しても足りないってンなら、創作りゃァ好いだけの話サ」
妾等みたいにねと女が云い、違えねえと、漸く老爺は笑って猪口を傾けた。
男は独り、窓から空を見上げた。
此の世は所詮井戸の中。
人は皆、井の中の蛙。
欠けてようが足りなかろうが、お天道様見上げて此処で生きて行くしか道はねェ。
其ンな事も、義虎は分かって無かった。
「おい御行の、何見てやがんでえ」
「何ンでもねェよ」
他人の事ァ放っときやがれと悪態を吐いて、男は視線を戻した。
然う為て――
上手ェ事創作って遣れなくって悪かったなァと誰にともなく口の中で呟くと
りん
と鈴を鳴らした。
[了]
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