宇和島藩には或る伝承が在る。
 発端は仙台藩、伊達政宗公の庶長子、秀宗が宇和島藩藩祖として出向いた処依り始まる。
 政宗公は庶子(なが)ら長子である秀宗への情が篤く、諸事情拠り仙台藩を継がせる事は叶わなかった物の、秀宗の宇和島藩入部の際には、自ら選んだ五十七騎の騎馬団、千二百名もの足軽や小姓を与え、六万両もの藩政整備資金を貸し付け、惣奉行として山家清兵衛公頼を付け(まで)()た。
 (しか)し、秀宗は長子であるにも関わらず仙台藩六十二万石を継げなかった事に(ひね)くれ、腹を立てて居た。
 加えて、政宗公の息の掛かった此の山家清兵衛、謹厳実直な男(なが)ら曲がった事を赦せぬ性質(たち)で、贅沢女遊びを止められぬ秀宗や、其れに追従する侍大将である桜田玄蕃と事ある毎に打突(ぶつ)かって(ばか)り居た。
 決定的であったのは、大阪城の石垣普請である。
 惣奉行と侍大将の清兵衛と玄蕃を監督役として大阪に送ったは好いが、二人からの普請の進捗を知らせる報には齟齬が在った。傍から見れば清兵衛の方に理が在ったが、其れを玄蕃は清兵衛に横領有りと讒言(ざんげん)した。結果、秀宗に咎められた清兵衛は申し開きを()るでも無く、自ら謹慎()た。
 此れを一つの好機と見たのが、玄蕃一派であった。
 水無月の末の晩。雨に紛れて清兵衛の屋敷に討ち入った玄蕃の手の者数十名は、其の場に居た清兵衛、次男、三男、四男、下僕二人、加えて隣家依り駆け付けた娘婿、其の長男、次男を(ことごと)く討ち果たした。
 更に、難を逃れた清兵衛の母、妻、末娘、乳母は、伝手を辿って乳母の郷里へと隠れたが、玄蕃一派の魔の手は其処(まで)伸び、初盆の晩、墓参りに出た清兵衛の母、妻の二人を(のこ)して皆斬り殺されて仕舞った。
 二度も天の加護に依ってか逃げ延びた二人であったが、故郷である仙台藩(まで)何とか逃げ(おお)せた処で、老母は心労が祟り其処で命を落とした。又、妻は成丈(なるたけ)夫の近くで菩提を弔いたいと土佐(まで)は舞い戻ったが、其処で病に倒れ、命を果敢無(はかな)く散らした。
 (むご)く、酸鼻極まる話ではある。
 (しか)し、此処からが奇妙な処なのである。
 清兵衛亡き後、雨夜の惨劇に関わったとされる者達が次々と命を落とした。
 或る者は、参勤交代の帰途に於いて落雷で船が沈み、只一人水死した。
 又或る者は、清兵衛の三回忌にて、矢張り落雷を受けて倒れた。
 更に、首謀者たる桜田玄蕃は、大風で墜ちた寺の梁に潰されて圧死した。
 秀宗は中風に罹り、半身(かたみ)不随(きかず)に成った。
 秀宗の子らも夭逝、病没、長患いと続いた。
 (しま)いには飢饉に大地震に颱風(たいふう)と――
 宇和島藩は上も下も引っ繰り返る大騒ぎであった。
 皆、此れは山家清兵衛の祟りに違い無いと噂し合った。

 春。
 月は中天で皓々と輝いて居た。
 宇和島城は静寂の中、眠りに就いて居た。
 宿直(とのい)衛士(えじ)は欠伸を噛み殺し(なが)ら城門を、中庭を、矢倉を警護(まも)って居た。
 其れ依り奥には何人(なんぴと)たりとも入れてはならぬと云う勤めであった。
 時折遠く、刻を告げる寺の鐘が響く。
 聞こえる音は他に無く、忍び込む者等在れば気付かぬと云う事は無い。
 無い筈であった。
 (しか)し、其の深部。
 安息を乱してはならぬと却って人払いをされた一室。
 藩主、伊達秀宗の寝室の障子に、不意に影が差した。
 誰とも知れぬ其の影は、女の物の様であった。
 怪しき影は廊下にしゃがみ込み、障子越しに内を窺って居る様子であったが、暫くして藩主の安眠を確かめたのか、(たもと)から何かを取り出し、打ち合わせ始めた。
 かちん
 かちん
 と、小さな音が鳴る。
 かちん
 かちん
 小さ過ぎて誰の耳にも届かぬ様な音である。
 かちん
 かちん
 鳴る度に小さく何かが散る。
 かちん
 かちん
 かちん――
 不意に。
 地の底から響く様に。
 低い低い声が。
「起きよ、秀宗。火事であるぞ」
 途端、秀宗の目が(かっ)と見開かれた。
 中風の為、容易に声は出ぬ。身も動かぬ。
 (しか)し、異様な雰囲気を察して、布団の中藻掻く。
 其の背を――
 そっと支えたのは、隣室に控えて居た御行であった。
 秀宗は(たす)けを借り(なが)ら布団の上に身を起こす。
 何事かと問おうとした秀宗の目の前で、御行は口元に指を当て、声を出すなと暗に告げた。
 見れば、障子に映る影は二つに増えて居る。
 一つは先程の女の影。
 そしてもう一つは――
「もう()めよ」
 と、聞き覚えの有る低い声が告げる。
 其れは先程、秀宗の目を覚まさせた物と同じ。
「我が無念を感じ、我が悔恨を悼み、力を尽くして呉れるのは有り難い」
 此れは以前(まえ)にも幾度と無く聞いて居た声。
 聞かなく成り久しく経つが、忘れようにも忘れられぬ。
(しか)し、斯様(かよう)な事を()ても何も得られぬ。誰も喜ばぬ」
 力強く、優しく、穏やかで。
 此れは――
()うであろう、(かわうそ)
 びくり、と女の影が震えた。
 か、(かわうそ)、と誰にも聞き取れぬ程の掠れた声が障子の内から思わず漏れる。
 左様に御座居やす、と(しず)かに御行は頸を縦に振った。
 最初(はじめ)の雷獣。
 次の伸上(のびあが)り。
 最後(しまい)のエンコ。
 此れ()は皆――
 (かわうそ)の仕業に御座居やす。
 其れは真実(まこと)か、と秀宗に問われ、御行は再び頷き返した。
 世に云う雷獣の姿は此の通り。体長二尺余り。仔犬(ある)いは狸にも似て、尾が七八寸。全身に赤黒き体毛が乱生し、髪は薄黒に栗混じり。眼は円形で、耳は小さく鼠に似る。四足には鋭き爪と水掻きを有する――何かに似て居りやせんか。
 云われて、(すぐ)に思い当たる。
 此れは、(かわうそ)眷属(なかま)か。
 左様に御座居やす、と御行は続ける。
 又、伸上(のびあが)りも、(かわうそ)が化けた物とも申しやす。見上げれば何処(どこ)(まで)(おお)きく成る怪異。此奴(こいつ)(かわうそ)が二足で立ち大入道に化けた物、或いは次々と肩車を()何処(どこ)(まで)も高く成って見せた物だと。御聞きに成った事は。
 在る。
 (すなわ)ち此れも、(かわうそ)仕業(しわざ)か。
 更に、エンコは云う(まで)も御座居やせんでしょう。淵に棲む獣(なぞ)他にゃ居りやせん。又、(こと)四国に措いちゃ狐狸(こり)(むじな)の如く(かわうそ)も人に化け、人を化かすと申しやす。(かわうそ)が人に化けた際には擂鉢(すりばち)を伏せた様な編み笠を(かぶ)って描かれる事も多う御座居やす。此れ等は全て、エンコと重なる特徴で御座居やしょう。
 従って此れも、(かわうそ)似姿(にすがた)か。
 詰まり(かわうそ)が幾つもの姿を採り、其の時々に応じて害を()して居たと云う事か。
 秀宗は独り得心する。
 故に御行は、幾つかの妖物(ばけもの)が手を組んだと考えた方が好いと云ったのか、と。
「もう好いであろう。火打ち石を棄てよ」
 喝破され、女の影は項垂れていた様であったが、(くる)と身を翻すと影は見る間に縮み、二尺(ばか)りの獣の影と変じた。
「秀宗殿」
 と、未だ立つ方の影は障子の内へと声を掛けた。
 秀宗は再び声を失った。
 ()うだ。
 此の声は。
 知って居る。
 憶えて居る。
 忘れられる筈も無い。
 消し去れる筈も無い。
 此れは――
 清兵衛か、と掠れた声で、秀宗は云った。
「左様に御座居ます」
 と、懐かしき声は応えた。
 (いや)、有り得ぬ。
 有り得た話では無い。
 有り得た話では無いのだが。
「其処な御行の法力にて、冥府依り一時(いっとき)舞い戻りまして御座居ます」
 ()う云われれば、()うかも知れぬと思って仕舞う。
 清兵衛の声は続ける。
(かわうそ)が――」
 迷惑を御掛け致した。
 迷惑とな、と問い掛けると、声は困った様な調子で続けた。
此奴(こやつ)()も悪気有っての事では御座居ませぬ。只、(それがし)が可愛がって居りました故、其の恩に報いようと(すこ)(ばか)()り過ぎた様に御座居ます」
 遅参致し、御子息御息女の件、申し訳御座居ませぬ、と調子を改めて、影は頭を下げた。
 好い、と秀宗は応えた。
 御主が、清兵衛が悪い訳では無い。
 元を(ただ)せば、儂の身から出た錆。
 罪無き御主の子らも斯様(かよう)()て失われたのだ。
 儂だけが其れを容れぬ、赦せぬとは云えまいよ。
 (いや)()()て立ち返って(まで)儂を、伊達家を、宇和島藩を護ろうと()て呉れて居るのだ。
 (むし)ろ礼を云わねばなるまいな。
 ()う云って、秀宗は深く息を吐いた。
 (のう)、清兵衛――
 此方(こちら)に来ぬか。
 顔を見せぬか。
 今ならば御主とも分かり合えるのでは無いかと思うのだ。
 今こそ御主と膝突き合わせて語り尽くしたいのだ。
 今、御主に教えて貰いたい事が山程在るのだ。
 儂が――
 儂が間違(まちご)うて居たのだ。
 ()う思う様に成ったのだ。
「なりませぬ」
 ぴしゃりと撥ね付ける様に声は応えた。
「此の障子は彼岸此岸を隔てる門扉。越える事は叶いませぬ。届くは精々(せいぜい)声位。()う御心得戴きたく存じます」
 ()う云われ、秀宗は伸ばし掛けた手を布団の上に落とした。
「其れに此の身は、既に此の世には在らぬ身。永く留まる事も叶いませぬ」
 其れでは、と秀宗は絞り出す様に云った。
 其れでは儂は御主に()()れる事は何も無いのか。
 暫しの沈黙が有り、ふと、空気が緩んだ。
「其れでは秀宗殿、(おん)(みずか)らの手で社を御建て下され。護国の鬼と成った(それがし)は其処に(おさま)り、永く此の地を御護り致そう」
 其れで好いのか、と秀宗が問い、好う御座居ます、と影は応じた。
 秀宗はほっと息を吐いた。
 其れでは、儂が此処に責の所在を明らかに()よう、と秀宗は云った。
 臣下の罪は、他ならぬ主君の罪。儂が清兵衛を上意にて成敗()たのだ。
 故に、儂が(おのれ)の責に措いて、清兵衛を祀るのだ。
 其れで好いか。
 好う御座居ます、と再び影は応じた。
 清兵衛――
 儂が――
 儂が悪かった、と秀宗は畳に手を突いた。
 深く、深く(こうべ)を垂れ、顔を上げた時には、既に清兵衛の影も(かわうそ)の影も、其処には無かった。

 其の年、秀宗並びに次男宗時の命に依り山家清兵衛公頼は竈神、尊名八面(やつづらの)大荒神(おおさけがみ)の社隅、児玉(みこたま)明神(みょうじん)では無く、山頼(やまより)和霊(われい)神社として、願主に伊達宗利並びに神尾勘解由を立てて独立して祀られる事と成った。
 既に病に伏し、命の危ぶまれて居た宗時は完成を見る事無く没したが、此れを最後に祟りと噂される事件は起きなく成ったと伝わる。
 更に十年程後、清水茂兵衛の子らが参勤交代の帰途にて矢張り風雨に遭い、転覆して水死したが、祟りと称するには(やや)遠い感は拭えまい。
 ()()て、山家清兵衛公頼の死に始まり、和霊神社に終わる此の一連の騒動を、宇和島の領民は和霊騒動と呼び習わしたと云う。


 桑折中務(なかつかさ)宗頼(むねより)は、床に病み伏せて居た。
 数日前から風邪を引いているかの様な症状に見舞われて居るのには気付いて居た。
 加えて、手先の熱感や疼き。理由の分からぬ不安焦燥。焼ける様な喉の痛み。
 思い起こされるのは一月程前。
 無論宗頼は知らぬが、秀宗が清兵衛と語らい、和霊神社建立を決め、丸二年を掛けて翌々水無月にはと計画を固め始めて居た頃の事である。
 其の日、宗頼は尋常で無い、(かつ)て感じた事のない眠気に襲われ、家人にも断わり早々に吊り蚊帳の内に籠って床に就いて居た。
 夜も更け、虫の声が庭から忍び入る刻限。
 昼間の熱気も冷え、宗頼は微かに身動(みじろ)ぎを()た。
 (いや)、其れは単純に(からだ)が冷えたからだけでは無かった。
 武士たる者、如何(いか)に寝入って居ようとも、常に無い物音、気配に勘付けば即座に目を覚ます様に出来て居る。
 此れ(まで)経験(おぼえ)の無い程の眠気に前後不覚に陥って居ようとも、異常を感ずれば緩慢(ゆるやか)にでも意識は覚醒する。
 宗頼が微睡(まどろ)みの淵から引き戻されたのは、()う云った処が理由であった。
 跫音(あしおと)を忍ばせ、声も掛けずに、何者かが宗頼の部屋に這入(はい)って来た様であった。
 様であったと云うのも、宗頼の目が開かぬ為、確かめられぬのである。
 睡魔の所為(せい)か、異常に目蓋が重く、中々持ち上がらぬ。
 (しか)し、微かに聞こえる畳の擦れる音が侵入者の存在を宗頼に伝えて居た。
 何事か、と胡乱な頭で宗頼は考える。思考は散漫として居り、中々纏まらぬ。
 身を起こすのも億劫で、指先一つとして動かすのに多大な労力が要る。
「――何者か」
 と、何とか誰何(すいか)の声を絞り出す。
 途端に、音と寄ろうと()て居た気配は止まった。
 (しば)し、互いに相手の出方を探り合うかの如き沈黙が満ちる。
 在るのは虫の声、風の音、水の音。
 余りの動きの無さに、真逆(まさか)思い過ごしであったかと宗頼が考え始めた頃。
 音と気配は再び動き出した。
 ごそごそと蚊帳の縁を探って持ち上げる動きに、蚊帳が揺れる。
「何者か」
 と再び尋ねる。
 傍から見れば間抜けであろう。
 蚊帳の中、布団に寝転がった(まま)、声だけを発しているとは。
 (しか)し、枕元には太刀が在る。
 いざと云う時には其れで何様(どう)とでも出来る心算(つもり)であった。
 利かぬ全身に力を込める。
 獣か、人か。
 兎に角、何かが居るのは間違い無いのである。
 (しか)し、何者か、悪意が有るのか、目的は何なのかが皆目分からぬ。
「名を名乗れ」
 アラヤ、と、甲高い声がした。
 (おら)や、と、云ったのかも知れぬ。
 稚児(こども)の様な声であった。
 (しか)し、油断は出来ぬ。
 (いず)れ、正直(まとも)に応える心算(つもり)は無いのであろうか。
何処(どこ)から来た」
 重ねて問う。
 カワイ、と、再び甲高い声が応える。
 河合、と、云ったのかも知れぬ。
 ()う云った地名に憶えは無い。
 無いが、小さな村(まで)は全ては頭に入って居らぬ。
 ()しか()ると在るのかも知れぬ。
 知らぬだけで。
 宗頼は(ようや)く力を込めて薄目を開く。
「姿を見せよ」
 ()う云った途端に、ぴたりと蚊帳の揺れは収まった。
 出るのを(ひる)むかの様に。
 現わすのを躊躇(ためら)うかの様に。
 (しか)し、此処で逃がす訳には行かぬ。
「今一度云う、姿を見せよ」
 見せねば、斬るぞ。
 云い(なが)ら枕元に手を伸ばそうと()た、其の刹那。
 定まらぬ視界に、炯々と輝く二つの眸が映り込んだ。
 ひょこりと顔を出したのは、(ちい)さな獣であった。
 莫迦な、と宗頼は思う。
 たった今、何者かが応えを返したでは無いか。
 其れにも関わらず、呼ばれて顔を出したのが獣一疋(いっぴき)
 有り得る話では無い。
 獣は所詮獣。
 口が利ける筈が無い。
 (しか)し、虚を突かれ戸惑う宗頼の顔を、獣は(じい)と覗き込む。
 不意に雲間から月影が部屋の中に差し込んだ。
 光の下で明らかに成った其れは、一疋(いっぴき)(かわうそ)であった。
 (かわうそ)は人に化け、人を化かすと云う。
 其れは宗頼も聞いた事が有った。
 (しか)し、である。
 真実(ほんとう)に其の様な事が在るのか。
 戸惑い(なが)らも宗頼は、覗き込む(かわうそ)と、其の来た方向、そして周囲(あたり)の気配の全てに気を配り、次を待った。
 偶々(たまたま)(かわうそ)が入り込んだとは考え難い。
 ()してや蚊帳を捲って(まで)とは余計に有り得ぬ。
 (すなわ)ち、普通に考えれば、此の(かわうそ)で気を逸らして措いて、這入り込んだ侵入者は何か別の目的が在るのだろうと思う。
 不意を討つ心算(つもり)か、或いは――
 (しか)し、動く物は他に無い。
 脅かす心算(つもり)で枕元の太刀へと勢い好く手を伸ばした。
 鈍い(からだ)は思う様に動かず、太刀の在る筈の場所へ伸ばした筈の手は空を切る。
 構わぬ。
 此れで逃げれば好し。
 ()うで無くても何か動きを見せるに違い無い。
 (かわうそ)はびくりと身を震わせ、跳ねる様に視界から消えた。
 追い払えたか。
 ()う思ったのも束の間。
 (かわうそ)は再び舞い戻り、又、(じっ)と顔を覗き込んだ。
 其の後ろに、ゆらりと影が立つのが見えた。
 (かわうそ)伸上(のびあが)りに化けると云う。
 伸上(のびあが)りとは見上げる程に(おお)きく成り、見詰めて居ると喉元に喰らい付くと云う。
 宗頼は自身の体勢と位置関係を意識する。
 床に寝て居れば如何(いか)(ちい)さき(かわうそ)と云えど、見上げるは必定。
 真逆(まさか)此れが。
 (かわうそ)は大きく口を開け、喉笛に――
「――ッ」
 思わず声が漏れる。
 (かろ)うじて頸は護る事が出来た。
 代償と成ったのは、咄嗟に庇った右腕。
 深々と(かわうそ)の牙が食い込む。
「ええい」
 息を絞り出し、左腕で振り払おうと()るも、(かわうそ)は機敏に其の手を避ける。そして腕の間を擦り抜ける様に()て首筋へと牙を立てた。
 其処を、宗頼は素手で鷲掴みに()た。
 忌々しい(かわうそ)め、何の怨みでの狼藉か。
 息を荒げ、利かぬ躰を無理に動かし、宗頼は力任せに(かわうそ)を叩き付けた。次いで、動きの止まった(かわうそ)(くび)を、有らん限りの力で締め上げる。
 (かわうそ)人間(ひと)では(からだ)の大きさも違う。掴まえて仕舞えば力の差は歴然である。覆す術(など)在ろう筈も無い。全身の力を込め、全体重を乗せて、(かわうそ)を畳の上で骨をも砕けよ、息をも絶えよと締め付ける。
 其の辺りで、(ようや)く家人が異常に気付いた様であった。
 幡々(ばたばた)と人が立ち騒ぐ音がして、幾人かが部屋に飛び込んで来た。
「宗頼様」
如何(いかが)()されましたか」
 目に入るのは部屋の中央に吊られた蚊帳。隅に寄せられた文机。壁に掛け軸。花器に花。
 普段(いつも)通りの変わらぬ寝室。
 燭台に照らされた室内に、宗頼の他に人影は無かった。
 枕元に置いて居た筈の太刀は、何時(いつ)の間にやら蚊帳の隅へと弾き飛ばされて居た。
 そして当の宗頼は蚊帳の中、()し掛かる様に為て、(ちい)さな影を畳へと押し付けて居た。
「宗頼様」
「御無事で御座居ますか」
 口々に云う家人に、宗頼は顔を上げ、ぐたりと力を失った(かわうそ)の死骸を見せた。
 家人は何事かとどよめく。
 偶々(たまたま)気の立って居た(かわうそ)が居り、其れが運悪く寝所に忍び込みでも()たのか、と宗頼は息を整え(なが)ら思った。
 全く、忌々しい(かわうそ)め。
「打ち捨てて措け」
 と(しず)かに云い措いて、蚊帳を捲って死骸を投げ付ける様に打ち渡す。
 其の場は其れで片が付いた。
 筈であった。
 ()う、今、疼いて居る場所は、其の時に噛まれた傷に相違無かった。
 宗頼は知らぬ。
 エンコ(こと)(かわうそ)が馬を好んで淵に引き摺り込む様に、(かわうそ)は特に馬に悪さを()る。
 薩州の農家では(かわうそ)を殺せば七代馬に祟ると云って、殺さぬ様戒める程である。
 丙午(ひのえうま)の例えの通り、馬は火に(ゆかり)を持つ。なれば水に棲む(かわうそ)が火に纏わる馬に祟るは道理であろうか。
 (すなわ)ち、(かわうそ)(くび)り殺した宗頼にも――
 焼け付く喉の痛みに宗頼は荒れ馬の如くのたうち回った。
 嗚呼(ああ)、其れに()ても喉が痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い――
 (しか)し、駄目なのだ。
 水を飲んではならぬのだ。
 水を飲むと堪えられぬ痛みが走るのだ。
 水が狂って仕舞う程の痛みを(もたら)すのだ。
 水に――
 水に――
 水に殺される。

 桑折宗頼の養子である百助が親左衛門宗臣(むねしげ)と名を改め、家老職を継いだのは其の年の内の事であり――
 宗頼が何時(いつ)()の様に()て没したのか、正確(たしか)な記録は残って居ない。


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