録
和霊様――と祀られる鬼神が、宇和島に居る。
和霊と書くにも関わらず鬼神と為るは一見不可解。
併し、其の由来を知れば誰もが頷くであろう。
護国の鬼の詞の様に、古来依り、此の国の神仏は二面性を持つ物である。
山家清兵衛成る鬼神を祀る和霊神社然り。
名君主であり愚昧の徒でもある宇和島藩主、伊達秀宗然り。
そして――
桑折家御用聞き、備中屋吉右衛門然り。
「ヤレ、終わった終わった」
と、然う云い乍ら口元へ猪口を運ぶ老爺は喜色満面であった。身形も好く、体格も好い。加えて好々爺然とした、人を緩ませる其の笑顔。何処かの大店の楽隠居と云われれば、然うであろうと誰もが頷く姿。其れが、備中屋吉右衛門であった。
隣に座るは一人の女。と云っても、纏うは手甲脚絆の旅装束。部屋の隅に寄せられたは背に背負う大きな葛籠。日に焼けた化粧気の無い顔貌は、其れでも滲み出る色香を隠し切れぬが、芸妓では無い事は直に知れる。流しの傀儡遣い、山猫廻し。
此の取り合わせ、傍から見れば、色好みの旦那が女でも見染めて連れ込んだかに見える。
若し仮に此れが正面廊下を歩いて居たのならば、下卑た視線を送る者、羨ましいと笑う者、厭らしいと目を背ける者も在った事だろう。
併し、特別の代金を払って押さえでも為たらしく、此の離れは人目に付かぬ位置に在り、出入り口も廊下も他とは切り分けられて居る。
其の為、何者の目にも触れる事無く、二人は宛がわれた部屋へと潜り込んで居た。
「久方振りの大儲けよ、お前も呑め、山猫廻し」
二人の目の前には二人前の膳。海の幸、山の幸がどんと詰まれ、徳利も片手に余る程も在る、豪勢な物であった。
併し、水を向けられた女の方は些か複雑そうな表情だった。
「然うは云うけどサ」
と、女は眉根を寄せた。
「此処の支払いはアンタの持ちだろ。只奢られて好きに呑めって云われンのも余り心持ちの好い物じゃァ無いねェ」
「何云ってやがる」
と、老爺は軽く応じた。
「慥かに支払いは儂持ちだがな、其りゃあお前さん達が表立って受け取る訳にゃあ行かなかったから此方の懐に入っただけの話であって、稼いだなあお前さん達の方だろうが。此奴あ充分正当な報酬だぜ」
其れでも気に入らねえってんなら、斯う云うのは何様でえ、と老爺は続ける。
「此奴あお前さん等を仲介為た備中屋吉右衛門の支払い持ちだてえのは」
云われて、成程、と女は頷いた。
「其れなら、悪く無いねェ」
「じゃあ、お前も一献行くか」
「戴くよゥ」
とは云え、其れなら支払い持ちの旦那に注がせる訳にも行かないねェ、と女は笑った。
「旦那も一杯如何です」
「商売女の真似事か」
偶にゃあ悪くねえな、と云って老爺は笑顔で猪口に酒を受ける。
老爺の杯を波々と満たし、次いで自分の猪口にも注ぎ、女は漸く口を付ける。
「――好い酒だねェ」
驚いた様に女は眸を見開いた。此れ迄呑んだ事も無い位に、涼やかな切れ口の旨い酒だった。宿の格からして然うだったが、中々に質の好い物が揃って居る様であった。
「此の辺りは灘も近えからな。美味え酒も揃い易いのかも知れねえな」
其処に器量好しが注いで呉れるんだ、不味い訳がねえ、と老爺が軽口を叩くと、女も、阿諛遣っても何も出ないよゥ、と云いつつ満更でも無さそうに笑った。
斯う為て暫く膳を突きながら御大尽と商売女の真似事を為て居ると、不意に襖の向こうが騒がしく成った。
幡々と人の行き交う音。
次いで、幾人かの跫音が近付き、隣室に雪崩れ込む。
連中は既に或る程度出来上がって居るらしく、甲高くけらけらと笑う声、低く笑い返す声、辺りを憚らぬ話し声が襖越しに響いて来る。
何様為た事かと、二人は顔を見合わせる。
此の離れは借り切った筈であった。
其れにも関わらず、此の事態である。
女将でも喚び、説明させようかと思った処で、其れより先に廊下より声が掛かった。
「失礼致します」
と云うので老爺が、何様為た、と返すと、障子を開き、眉根を寄せた女将が現われた。
「此の離れは貸し切りでは無かったのか」
老爺が然う問うと、女将は、左様で御座居ます、と更に顔を暗くした。
「ですが、其れが、其の、如何為てもと仰います物で」
先代からの昵懇の御客様で、断わり難く、とは云うが、容れ難いのは老爺の方も同じである。
「然うは云うがな、此方は相応の代金も払うと云う約定で、半金も納めてある筈だろう」
「あの、其処で御座居ますが、室料、飲み食いした分も凡て隣に付けよとの仰せで。更に――」
迷惑料も含めて此れも、と袂から小判を一枚取り出して置く。
「此れで御納め戴きたいと」
其処迄されては二人としても断わり難い。
否、もう通されて宴会を始めて仕舞って居る様なのであるから、突っ撥ねて叩き出すのも野暮である。
仕方無い、と二人は嘆息した。
「相分かった」
申し訳ありませぬと、女将は何度も何度も頭を下げ、部屋を退がった。
遺された老爺と女は少々水を差された心持ちであったが、今更云っても詮無い事である。
気を取り直して猪口を傾ける事に為た。
隣からは愉しげな浮かれた声が響いて来る。
今日は宴だ、呑めや騒げや、と男が声を上げる。
アラ、所で今日は一体何の御祝いで御座居ますの、と華やいだ声が応える。
決まって居よう、和霊騒動が片付いた祝いだ。
和霊騒動と云うと、彼の、山家清兵衛様の。
左様。打ち続いた不幸も此処で打ち止め。其の祝いだ。
御終いで御座居ますの。
然うだ、此処で終いだ。
何様為て然う云い切れますの。
何様為ても斯様為ても無い。原因を取り除けば事が終わるのは道理であろう。
原因と云いますと、祟りを何方かが晴らした、と。
扠な。
と、其処で男は言葉を切った。
祟り等と云う物が真実に在るのか何様かは、分からぬよ。
此れは異な事。和霊騒動と云うは、山家清兵衛様の祟りと専らの噂。其れが片付いたのならば、祟りが晴れたと云うのでは御座居ませぬか。
云われて男は、噴と鼻で笑った。
其れを受けて、今度は違う女の声が、然う云えば、と続けた。
妾、此度の騒動は山家清兵衛様では無く、清兵衛様を慕う獺の仕業であったと耳に為た憶えが御座居ます。ね、然う云う事で御座居ましょう。
媚びる様な其の声音に、男は再び鼻で笑った。
云ったであろう、祟り等と云う物が真実に在るのか何様かは、分からぬ。分からぬが、此度の騒動――
「祟り等では無いわ」
明瞭と云い切る其の言葉に、老爺と女は息を呑んだ。
「祟りでは御座居ませんの」
と、科を作り乍ら、一人の女が問う。
「祟りでは無いとは云い過ぎたかも知れぬ。知れぬが、寡なくとも本質は其処では無いな」
「アラ難しい御言葉。妾には解りかねます」
と、反対側から杯に酒を注ぎつつもう一人の女が云う。
「御主達、和霊騒動と云うが、何が在ったか最初から並べられるか」
男に試す様に問われて、二人は交互に指を折る。
「先ずは、参勤交代の帰途の海上。雷に打たれて船が沈み、松浦様が水死為さったとか」
「否々、其の前に桜田玄蕃様の御仲間が皆、傷寒に罹って正月の宴に御出に為れ無かったのが最初でしょう」
「噫、然うですわ。松浦様の溺水は其の後の話」
「其れから、清兵衛様の三回忌にて、鈴木軍治様が落雷に打たれたとか」
「他にも玄蕃様の配下の者が同じ時に幾人か亡くなられて居りますわね」
「更に、玄蕃様御自身も、大風で御寺の梁が墜ちて果敢無く成られて」
「秀宗様が中風に倒れられて」
「秀宗様の御子、徳松様が夭逝なさって」
「宗実様も病死なさって」
「他にも御子が沢山」
「飢饉や地震、颱風も御座居ましたわね」
「宗時様も病み付かれて、もう永くは無いとか」
其の位で御座居ましょうか。
此の位で御座居ましょうね。
と女達は指折りを止める。
「此れが如何致しましたの」
「流石は芸妓、世事には通じて居るな」
満足気に笑って、男は云った。
「今の話を二つに分けるならば、何様分ける」
「アラ、次は謎掛けですの」
「アラ、負けません事よ」
「其れでは妾は、秀宗様が中風に罹られる依り前か、後かで分けましょう」
「其れでは妾は、玄蕃様が亡くなられる依り前か、後かで分けましょう」
其の心は、と問われ、女達は、知れた事、と返す。
「秀宗様が中風に倒れられて以降は、祟りは凡て伊達の一族に限られますわ。此処で分けるのが妥当で御座居ましょう」
「否、清兵衛様が児玉明神に祀られて祟りは一時収まり、再び始まったのが玄蕃様の一件。此処で分けるべきで御座居ましょう」
男は噴と鼻で笑った。
「アラ、失礼な」
「アラ、失敬な」
其れなら何処で分けるのが正鵠しいと、と問い詰められ、男は、時で分けては何も分からぬ、と嘯いた。
「分けるべきは、人間に出来るか、出来ぬかだ」
「出来るか」
「出来ぬか」
云われて女達は、分け直す。
「然為れば傷寒は」
「出来ぬ事」
「溺水は」
「――出来る事」
「落雷は」
「出来ぬ事」
「圧死は」
「出来ぬ事」
「中風は」
「出来ぬ事」
「地震や颱風は」
「出来ぬ事」
「続く死別は」
「――出来る事」
合って居りましょうか、と視線で問い、男は頷いた。
「傷寒は無理に罹らせる事は出来ぬ。彼の時は偶々流行ったに過ぎぬし、桜田の一派が揃って寝込んだから多少は目立った物の、能く能く見れば一派では無い者も罹って居る。祟りかも知れぬが、気に為る程の事でも無い」
「では、参勤交代の帰途の折の溺水は」
「落雷にて船が沈んだは偶然であろうな」
と、男は云った。
「併し、海に投げ出された者の中で一人だけが溺水。而も其れが桜田の一派であったと成れば、裏を勘繰るのも仕方有るまい。誰かが意図的に沈めたか、否、争った形跡が無い以上、身動きできぬ様、薬でも盛ったか」
「アラ、恐ろしい」
「アラ、悍ましい」
併し此れなら人間にも出来よう。
「故に、此れは祟りでは無い」
「では、清兵衛様の三回忌の折の落雷は」
「神鳴が落ちるを誘う三つの条件が在る」
背の高い物。先の尖った物。金物。
「鈴木軍治は刀を抜き、大上段に掲げて表に飛び出した。神鳴が落ちたは偶然なれど、必然とも云えような」
「御待ち下さいまし」
と、一人の女が小首を傾げて男を制した。
「けれど軍治様以外にも、玄蕃様の御仲間が、同じ時に多数神鳴に打たれて亡くなって居りましょう」
慥かに、ともう一人の女も頷いた。
「此れは、幾ら何でも偶然で片付けて好い事では御座居ませぬ」
「落雷は人間には出来ぬ事」
「矢張り祟りは在るのでは」
祟りが無いとは云っては居らぬ、と男は繰り返した。
「只、此の一連の騒動は祟りでは無いと云うだけの話」
「否、其れは通りませぬ」
「此れは祟りに相違有りませぬ」
「其れは――」
桜田玄蕃の一派が真実に落雷に打たれたのならばな、と、男は閑かに云った。
「誰が神鳴に打たれた処を見たのだ」
見たのは、騒ぎの後に見つかった遺体だけであろう。
云われて女達は眉根を寄せる。
「其れは」
「然うで御座居ますけれど」
「先程も云ったであろう。松浦弥市兵衛は薬を盛られての溺水と。突然の神鳴に人が騒ぎ、逃げ惑う混乱に乗じて、毒を塗った針で一突き。此れで狙った者を亡き者に為る事は出来る。幸い目の前で鈴木軍治が神鳴に打たれた許り。桜田一派で、同じ時に遺体で見付かれば、然程詳しく検案される事も無く、同じく神鳴に打たれた物と考えるだろうな」
「詰まりは此れも」
「人間にも出来る事と」
男は頷く。
「故に祟りでは無いな」
女達は黙り込んだ。
誰かが桜田玄蕃の配下に、意図的に毒を盛った。
其れは何の為に。
決まって居る。
桜田一派に怨みが有るか、或いは桜田一派を好く思って居ないか。
然う云った者の仕業に違い無い。
何故直接桜田玄蕃を狙わなかったのかは、分からぬが。
「では、桜田玄蕃様の圧死の件は」
「寺の梁に傷を付け、機を見て狙って落とす、と云うのも不可能では無いが考え難かろう。況して、其れで狙った一人を潰すと為ると神業に等しい。此れは、祟りかも知れぬな」
「では、伊達秀宗様の中風の件は」
「中風とて狙って起こす事の出来る話では無い。而も秀宗は何だ彼だと未だ永らえて居る。祟りかも知れぬが、余りに弱い」
「では飢饉は、地震は、颱風は」
「其れこそ偶然であろう。山家清兵衛は領民を甚く重んじたと云う。なれば、徒に害を為す様な祟り等、考え難い」
「では、伊達家に続く病や死別は」
「其れは――」
又も毒を盛られたのであろうな、と低く男は云った。
「アラ、恐ろしい」
「アラ、悍ましい」
云って、女達は顔を見合わせた。
「然う云えば」
「ええ、然う云えば」
「先頃、忠臣桑折中務宗頼様も身罷られたとか」
「若しや、宗頼様も同じく何方かに毒を盛られて」
「其れは違う」
と、男は斬り付ける様にぴしゃりと云った。
何せ――
「伊達家に毒を盛ったのが、其の宗頼だ」
謐と場が静まり返った。
其れも仕方の無い話であろう。
真逆。
真逆此処で其の様な告発が在ろうとは。
併し、男は其の静けさを理解が追い付いて居らぬ所為であるとでも取ったのであろうか、先程迄と同じ調子で言葉を続ける。
「桑折宗頼の父、桑折景頼は宇和島藩の筆頭家老にして秀宗の後見。宇和島藩改易騒動に於いても並々ならぬ尽力を為た人物。其れにも関わらず、功を讃えられる所か石高を七分の一に減らされ、河後森城から宇和島城下への招致。腹を立てるなと云う方が無茶な話であろう」
云われて、女達は口々に反駁する。
「其れは」
「然うかも知れませぬが」
「でも桑折宗頼様は忠臣と」
「祟りを晴らすべく児玉明神へも足繁く通って居たと」
祟りを晴らすべくか何様かは、当人でなくば分かるまい、と冷たく男は云った。
「上役が振々と定まらぬが故に配下が迷惑を被る。併し諫めても諭しても利かぬならと、御家乗っ取りを企んでも不思議は有るまい。幸いな事に宗頼は秀宗からの憶えも好く、秀宗の実子を養子に貰っても居る。なれば傀儡を立て、実権を握れば、宇和島藩は依り好く成る筈、とな。折好く、人間の手に余る玄蕃の圧死と秀宗の中風。此れは山家清兵衛も未だ怒って居るのでは無いかと考えても無理は無い」
案外児玉明神へは、己の弑逆の助力を請うて居たのかも知れぬぞ。
「其れでは――」
「其れでは、宗頼様は何故に――」
身罷られたと。
然う問う女達に、男は低い声で問い返した。
御主達は恐水病と云う病を知って居るか。
「恐水病で御座居ますか」
「寡聞にして存じませぬ」
「恐水病とはな、野犬等に噛まれて発症する、南国依り渡った伝染病よ。野犬のみならず、時として鼬、猫、狐、獺等が媒介える事も有る」
「野犬とは恐ろしい」
「噛まれるとは痛々しい」
「此の恐水病の最も恐ろしい処はな――」
発症すれば救からぬ処よ、と男は云った。
「救からないの御座居ますか」
「絶対にで御座居ますか」
「救からぬ」
と男は答えた。
「十人が十人救からぬ。治療法も無ければ対処法も無い。噛まれれば、発症せぬ事を祈るしか無い」
此れに、宗頼は罹ったのだ、と男は云った。
「而も、意図的に感染されたのだ」
「其れは何の様に」
「薬で以って躰の自由を奪われた処に、恐水病で死した獺の牙を突き立てられて」
「其れは誰に依って」
「主君の身内に毒を盛る悪行を知り、止めねばならぬと決意した者に依って」
「恐ろしい」
「悍ましい」
其れに為ても、と二人は声を合わせた。
「此の様な事を話して仕舞って宜敷かったので」
「此の様な場所で誰が聞いて居るとも知れぬのに」
構わぬ。
「縦令隣室の者に聞かれた処で害は無い。然うであろう――妖物遣いの一味よ」
たん、と二室を区切って居た襖が開く。
男は躊躇う様子も無く、老爺と女の座る部屋へと脚を踏み入れた。
顔には満面の笑み。凡て知って居るぞと其れは雄弁に物語って居た。
併し、其の顔に憶えは無い。
得体の知れぬ男の乱入に、詞無く聴き入って居た老爺も女も、何事かと身を固く為る。
男は、其の様な有様に頓着せず、部屋の中程迄踏み入ると、無造作に腰を落ち着けた。
「いやはや、獺一つで凡てを操る手並み、感服致した。御用聞き備中屋吉右衛門なる者を変装芝居で騙って取り入った手管と云い、其方の山猫廻し殿の傀儡早変わりと云い、見事と云う依り他有りますまい」
「――な、何の事やら」
喉の奥から絞り出す様に応えた女に、男は、誤魔化されずとも宜敷い、と笑った。
「抑も御用聞き備中屋吉右衛門と其方の顔が違う事位は、毫し調べれば分かる事。女から獺へ転じた影芝居の絡繰傀儡も、其処の葛籠を検めれば云い逃れ出来ぬ事。此処に居らぬ最後の一方は、仙台依り清兵衛の声色の為に呼び寄せた山家清兵衛が長子、喜兵衛殿の御見送りに港に行かれたか。其れを確かめる手段は幾らでも有る」
立て板に水の如く流れる様に云われ、二人ははっと息を呑む。
併し――と男は続ける。
此れ等を明るみに出す心算は有りませぬ。
「寧ろ手前は其の手際を賞賛し、又、父の遣いとして礼を申さねばと罷り越した次第。宇和島藩が必要以上に乱れては手前共の仕事にも差し障りが出ます故」
御主、何者だ、と低く睨め付ける様に老爺が問う。
其れに男は、一分の隙も無い笑みで応えた。
「申し遅れました。御初に御目に掛かります。手前の名は弦右衛門。通り名を六部の弦右衛門。父、海座頭の竹治の遣いに御座居ます」
「う、海座頭ゥ」
と、女は悲鳴じみた甲高い声を上げる。
と同時に、拙い、と女は内心焦り出す。
何が何様拙いとは具体的には云えぬが、此の大悪党に仕掛けの裏迄凡て知られて居ると云うのは、寡なくとも好い事では無い。
而も、敢えて其れを明かし、笑顔で近付いて来る意図が分からぬ。
恐ろしい。
不気味で。
気持ち悪い。
「な、何が目的で此ンな――」
「厭で御座居ますねえ。礼をと申しましたで御座居ましょう」
噫、と男は頷く。
「御安心召されませ、此の女共は手前共の身内に御座居ます故」
此方の手の内明かしも兼ねて、軽く一芝居をさせて戴きました、然う云って男は二つ手を打つ。
途端、科を作って居た女二人は確と立ち上がり、己が袂に手を差し入れる。
何事か。暗器でも忍ばせたか。襲う心算かと身構える二人をひたりと見据え、楚々と歩み寄った女共は其の儘傅き、小判を一枚ずつ畳に置いた。
「此れは目論見通り能く働いて呉れた事に対する、手前共からの謝礼金。先の迷惑料と合わせて都合三両。御三方で分け合うには都合が宜敷かろうかと存じます」
然う云って男は高らかに笑った。
「ヤレ、驚かせて仕舞いましたかな。他意は御座居ませぬ。其れでは御緩りと宇和島を御堪能あれ」
男は云うなり立ち上がり、繰と背を向けた。
背後から襲われる等と云う事は一切考えて居ない堂々たる背中に、二人は言葉も無く圧倒される。
そして男は其の儘、離れを出て行く。
女達も一礼して後を追った。
残された老爺と山猫廻しの女は、詰めて居た息を緩々と吐いた。
何か得体の知れぬ物に丸呑みに為れたかの様な心持ちであった。
目の前の小判も、毒か何かを帯びて居る様な気が為て手が出せぬ。
手元の酒も、邪気に当てられでも為たかの様な思いで口に運べぬ。
此れが――
此れが海座頭一味。
否、頭目の海座頭は未だ影も形も見せて居らぬ。
手下で此れならば、当の海座頭は如何程の者か。
と、閑かに廊下側の襖が開いた。
「何でェ、辛気臭ェ顔並べやがって」
悪態を吐き乍ら現われたのは、弦右衛門の云った通り山家喜兵衛を港迄送りに行って居た御行の男であった。
男は後ろ手に襖を閉め、畳の上に転がった小判に目を止めると、盛大に溜め息を吐いた。
「藩主だ家老だてェ処から常にゃァ見ねェ程の報酬をせしめたンだから多少気が大きく成ンのも分かるがよ、此りゃァ些と遊びが過ぎるンじゃねェか」
「――遊んじゃ居ねえよ」
と、疲れ切った様に、老爺が応じた。
「おい、御行の」
「何だ」
「海座頭だとよ」
「あァン」
海座頭が何様為た、と云われ、老爺は小さく息を吐いた。
「お前、知ってやがったのか、何様なんでえ」
「何をだよ」
「海座頭だよ。何で此の一件に此奴が関わって来る。此奴が絡んで来ると、お前――」
知って居たのかよう、と問われ、男は、予想は為てたぜ、と事も無げに云った。
「併し、真実に来ンのか」
と云っても、当人じゃァ無くて、息子だって云ってたけどねェ、と呟く様に女が応える。
「六部の弦右衛門って云ったっけ」
「其りゃァ其処其処の名だなァ」
海座頭の腹心よ。
「何でだ」
「何がだ」
「何で海座頭が絡む」
「手前知らねェのか」
宇和島の西に在る日振島てェなァ、旧くは平将門の時代より海賊の本拠地。藤原純友に始まり、時々で主は変わり乍らも連綿と続いて居やがる。其れが只今は海座頭一家てェ按配よ。
然う、男は云う。
「何だとう」
と、老爺は思わず声を上げた。
「何で其んな事が表沙汰に成らねえ」
「成るかよ。宇和島藩の家中に内通じた者が居るンだからな。奴等の実入りの一部を渡し、目を瞑って貰って居るてェ関係よ」
「誰だよ、其の内通じて居る奴てえなあ」
「何処にでも居るぜ」
雑草の根張り巡らすみてェにな、と男は応じた。
「嘗ての筆頭と来りゃァ手前にも想像付くだろうが、桜田玄蕃だ。だが其れだけじゃァねェ。清廉潔白で知られた山家清兵衛の下にだって手先は居た様だぜ」
「居たのかよ」
「居たンだよ。恐らく、清家久左衛門てェのがな」
「誰だ、其奴あ」
「日振島の庄屋だ」
「おい、御行の」
庄屋だからって極め付けるなあ、幾ら何でも早計じゃあねえか、と老爺が反駁すると、男は、確然と根拠は有るンだよ、と云い返した。
「思い出しても見ねェ。日振島は宇和島から七里程も離れて居るンだぜ。其れなのに選りに選って、清兵衛の屋敷が襲われた晩に風雨を押して海を渡り、翌日にゃァ誰に聞いたか伊方屋仁左衛門の別宅を訪れ、葬儀と片付けに奔走為て居たとか、初盆の日も態々晩に墓参りに行き、偶々出会した清兵衛の母と妻を保護為ただとか、余りに間が好過ぎるじゃァねェか。此奴ァ、裏の動きを知って居たとしか思えねェだろうが」
「其りゃあ、然う云われりゃ然うだが」
まァ好いンだよ、と男は興味を失った様に云った。
「其ンな事ァ何方でも」
兎に角、宇和島が荒れちゃァ海座頭一味は困る。だから宇和島の天秤が何方にも傾き過ぎねェ様に暗躍為てたンだ。絡んで来るなァ予想の範疇だぜ。
「永時裏で働いて居やがったのか」
「然うよ。山家清兵衛てェ目の上の瘤が居なくなって増長為掛けた桜田一派に歯止めを掛ける為に手下に毒盛って廻ったなァ、何を隠そう海座頭一味だぜ」
「其処もかよ」
「其処もだよ」
「だから、桜田玄蕃には直接手を出えさなかったのかよ」
「然う云う事だ」
頭を挿げ替え仕舞う処迄遣ると面倒だからな。
「で、必要以上に宇和島藩が荒れねえ様に、又、我が強く面倒な桑折宗頼に実権を握らせねえ様にと思って居た処に、儂等が来たてえ事か」
「然うだな」
「思惑が一致し、狙い通りに儂等が動いて、上手え事片付けたから、褒美を呉れたてえ訳か」
「――何でェ、此の小判は然う云う経緯か」
と、男は嗤った。
「餓鬼みてェな遊びでも遣ってたのかと思ったぜ」
「為るかよ」
「為ても好いンだぜ」
然う云って又男は毫し嗤った。
「まァ口封じの意味合いも有ンだろうがな」
口封じだあ、と老爺は唸る様に云った。
「其んな事あ一言も云わなかったぜ」
「相手の手札も知れねェのに、自分の手の内を残らず晒す間抜けが居るかよ」
男は、好いか、と諭す様に云った。
「海座頭の本拠地やら、毒殺に手ェ下した事やらが露呈てねンなら其れで好し。露呈てた処で、此の口止め料だ。暴露しゃァ暴露すぞてェ交換条件に加えて、無償でってンじゃァねェから沈黙ってろよてェ話だろうぜ」
と男が云うと、老爺は承服為かねる様に歯噛み為た。
「じゃあ儂等は体好く悪党に使われたてえ事じゃあねえかよう」
「其の通りだよ」
凡てじゃァねェがな、と平然と云われて、老爺は思わず激高した。
「何で其れで平気なんだお前は。悔しくねえのか。癪じゃねえのか。悪党の行いの片棒担がされて、其れでお前、満足なのかよう」
お前の仕掛けも全部割れてたんだぜ。好い様に遣られて其れで好いのかよう。
「莫迦云ってンじゃァねェ」
と、男は云った。
「今回の一件に就いちゃァ、海座頭の奴ァ元々殆どの裏に潜んで、覗き見為て居やがったンだぜ。而も依頼の筋に対しちゃァ手前が手ェ下してた訳じゃァねェから手前が嵌められる訳でもねェ。安全な処から高処の見物だ。岡目八目てェ通り、割れて当然よ」
其れにな、と男は続ける。
「何眠てェ事云ってやがる。何今更善人振ろうと為て居やがる。此方人等元々お天道様にゃァ顔向け出来ねェ小悪党じゃァねェか。依頼を請けりゃァ其の為に動く。結果、他の悪党に利する処が有っても、其りゃァ此方の知った事じゃァねェよ」
神様仏様じゃァねンだ、非の打ち所のねェ善行なんざ出来るかよ、と蹴り付ける様に云われ、老爺は返す言葉に詰まる。
「――其れじゃあ些と聞かせてお呉れよ、御行の」
と、場を和ませる様に、今度は女が声を掛けた。
「何だよ」
「何だよ、て愛想が無いねェ」
女は苦笑を浮かべる。
「大体の筋はサ、昨刻六部の奴が見透かした様に語って行ったから良いンだけど。ホラ、元々の依頼の筋の方は上手く行ったのかい」
「然うだな、上手く行ったと云って好いとは思うぜ」
「其の依頼は、一体何処の誰からの物なのサ」
「何だ手前、彼ンだけ一緒に居て分かって無かったのかよ」
今回の事の大元ァ桑折宗頼だろうが。
依頼の筋は――
「息子だよ」
桑折親左衛門宗臣だ、と男は面白くも無さそうに云った。
「――真逆。未だ元服為るか為ないかの若造じゃないサ」
「其の若造だよ」
誰も疑わなかったンだろうな、と男が云い、何方をさ、と女が応じる。
「桑折宗頼サマが伊達家に毒を盛ってるてェ事かい、其れとも其ンな若造が黒幕だったてェ事かい」
「何方もだよ」
と男は呟く様に云った。
「誰からも信の篤かった宗頼が其ンな野心を抱いているたァ誰も気付かなかったろうし、稚い宗臣が其れに気付き、食い止める覚悟を決めるたァ宗頼も思わなかったろう」
「真実の忠臣てェ奴かねェ」
「残念乍ら向いてねェがな」
と男は溜め息と共に云った。
「話して見て分かったが、家老を継げる器じゃァねンだよ。本来自らを縛り、身を律して尽くす人柄じゃァねェ。何物にもとらわれぬ俳人としてなら残せる名も在るかも知れねェがな。当人も其れに気付いて居る上に、間接的にしろ父を亡き者に為て家老職を継いだ自身と、国獲りを企んだ父とは同じじゃァねェかと内心責めても居る。此奴ァ遠からず病むか、でなくとも機ィ見て早くに隠居為仕舞うだろうな」
「然うかい」
其れじゃァ真実に何が好い事なのか分からないねェ、と女は応じた。
「いっそ国獲りを成功させ仕舞った方が、皆仕合わせだったか知れないねェ」
「分からねェ事ァ、考えても仕方ねェ。世の中てェなァ、成る様にしか成らねぇ物だぜ」
其ンな処で好いかよ、と男が云うと、女は、噫然うだ、手を打った。
「もう一ツ永時気になっちゃ居たンだけどねェ」
教えと呉れよ、と云って、女は、エンコって居るだろゥ、と続けた。
「居るが何様為た」
「河童だか獺だか知らないけどサ、何で彼れは金物や鹿の角を嫌うのサ」
繋がりが些とも分からない、と云われて男は、繋がりなんざ些とも有りや為ねェよ、と応じた。
「無いのかい」
「ねェな」
彼りゃァ、別の生き物が混じっただけだ、と男は淡然と云った。
「唐国の旧ィ書物に山海教てェのが在るんだがよ。其処にエンコてェ獣が出て来る。其の姿は麋の様で魚の目。鳴くときは自分の名を呼ぶてェ代物だ」
「其れが、何か関わるのかい」
「だから関わらねェよ。同じ名だってェだけだ。だがよ」
鹿なら刃物を懼れ、狩られた同族の角が掲げられりゃァ逃げるだろうよ。
「噫、成程」
云われて女も笑う。
「其奴ァ仕方がないねェ」
「其ンな処で好いかよ」
と男が云うと、おい御行の、と低い声がした。
「何でェ爺ィ、さっぱり水に流して酒でも呑むかい」
強いて明るい口調で男は応えるが、老爺は暗い表情の儘に続ける。
「一つ答えろ。お前、若し此の先、悪党の片棒を担がなきゃならねえと成った時、如何為る」
「蒸し返すねェ」
「好いから答えろ」
「云ったろうが」
だから眠てェ事云ってンじゃァねェよ、と男は吐き捨てる様に云った。
「何が善か、何が悪かてェなァ、神様か仏様でもなけりゃァ分からねェよ。仕事ァ選ぶぜ。請けるか何様かも其の時次第だ。だけどな、其の結果の善し悪し迄ァ、知った事じゃァねェよ。所詮は小悪党、世の裏径を掻い潜って這い回るが生き様だろうが。何時か附が廻って来るのかも知れねェが、其処迄含めて手前の責分だ」
何だ手前、何が気に入らねェ。
然う云われて老爺は、毫しだけ淋し気な表情を浮かべた。
「お前の云う事あ分かる。屹度お前が、正直しいんだろうぜ」
だけどな、と老爺は続ける。
「お前、云ったじゃあねえか。海座頭の野郎が関わって来たら念入りに打ち毀して遣ろうぜと」
「然う為なかったのが気に食わねェのか」
「然うじゃあねえ。然うじゃあねえが」
此の齢に成って思うのよ。
「死ぬ時迄お天道様に顔向け出来ねえなあ、厭だなあ」
「厭だも何も、手前で選んだ道だろうがよ」
「然うだ。だからこそ――」
最期位は正義しく在りてえんだよ、と、老爺は云った。
「儂あ、もうお前にゃあ付いて行けねえ」
抜けさして貰うぜ。
云って、やおら老爺は立ち上がった。
「――爺ィ一人で此れから如何為る」
「扠な」
空を見上げる其の眸には何が映って居るのか。
「兎に角、儂あ儂の思う通りにさせて貰う。永え事世話に成ったな」
武運を祈ってるぜ。
然う云って、老爺は襖を抜けて部屋を出た。
途中、一度も止まる事無く跫音が廊下を遠離る。
空々と戸が開く音がして、ぴしゃんと閉じる。
其処迄聞き送って――
遺された男はどっかと腰を下ろす。
「其ンで、手前は如何為る」
問われて女は首を傾げた。
「如何為ると云われてもねェ」
妾ァ未だ抜ける気は無いよ、と詰まら無さそうに云う。
「只、知った顔が減ると、些と――」
淋しく成るねェ。
其れは男も同じだった。
長く組み、彼方此方と仕事を為て廻った仲だった。
愉しい事、辛い事、色々な事を共に分け合った。
「武運を祈る、か」
出て行くなァ勝手だが――
手前こそ、野垂れ死ぬンじゃァねェぞ。
男は祈りを籠めて――
りん
と鈴を鳴らした。
[了]
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