和霊様――と祀られる鬼神が、宇和島に居る。
 和霊(にぎみたま)と書くにも関わらず鬼神と()るは一見不可解。
 (しか)し、其の由来を知れば誰もが頷くであろう。
 護国の鬼の(ことば)の様に、古来依り、此の国の神仏は二面性を持つ物である。
 山家清兵衛成る鬼神を祀る和霊神社(しか)り。
 名君主であり愚昧の徒でもある宇和島藩主、伊達秀宗(しか)り。
 そして――
 桑折家御用聞き、備中屋吉右衛門(しか)り。
「ヤレ、終わった終わった」
 と、()う云い(なが)ら口元へ猪口を運ぶ老爺は喜色満面であった。身形(みなり)も好く、体格も好い。加えて好々爺(ぜん)とした、人を緩ませる其の笑顔。何処(どこ)かの大店(おおだな)の楽隠居と云われれば、()うであろうと誰もが頷く姿。其れが、備中屋吉右衛門であった。
 隣に座るは一人の女。と云っても、(まと)うは手甲脚絆の旅装束。部屋の隅に寄せられたは(せな)に背負う大きな葛籠(つづら)。日に焼けた化粧気の無い顔貌(かお)は、其れでも滲み出る色香を隠し切れぬが、芸妓では無い事は(すぐ)に知れる。流しの傀儡(くぐつ)(つか)い、山猫廻し。
 此の取り合わせ、傍から見れば、色好みの旦那が女でも見染めて連れ込んだかに見える。
 ()し仮に此れが正面(おもて)廊下を歩いて居たのならば、下卑た視線を送る者、羨ましいと笑う者、厭らしいと目を背ける者も在った事だろう。
 (しか)し、特別の代金(かね)を払って押さえでも()たらしく、此の離れは人目に付かぬ位置に在り、出入り口も廊下も他とは切り分けられて居る。
 其の為、何者の目にも触れる事無く、二人は宛がわれた部屋へと潜り込んで居た。
「久方振りの大儲けよ、お(めえ)も呑め、山猫廻し」
 二人の目の前には二人前の膳。海の幸、山の幸がどんと詰まれ、徳利も片手に余る程も在る、豪勢な物であった。
 (しか)し、水を向けられた女の方は(いささ)か複雑そうな表情だった。
()うは云うけどサ」
 と、女は眉根を寄せた。
「此処の支払いはアンタの持ちだろ。只(おご)られて好きに呑めって云われンのも(あんま)り心持ちの好い(もん)じゃァ無いねェ」
「何云ってやがる」
 と、老爺は軽く応じた。
(たし)かに支払いは儂持ちだがな、其りゃあお(めえ)さん達が表立って受け取る訳にゃあ行かなかったから此方(こっち)の懐に入っただけの話であって、稼いだなあお(めえ)さん達の方だろうが。此奴(こいつ)あ充分正当な報酬だぜ」
 其れでも気に入らねえってんなら、()う云うのは何様(どう)でえ、と老爺は続ける。
此奴(こいつ)あお(めえ)さん()を仲介()た備中屋吉右衛門の支払い持ちだてえのは」
 云われて、成程(なるほど)、と女は頷いた。
「其れなら、悪く無いねェ」
「じゃあ、お(めえ)も一献行くか」
「戴くよゥ」
 とは云え、其れなら支払い持ちの旦那に注がせる訳にも行かないねェ、と女は笑った。
「旦那も一杯如何(いかが)です」
商売(しょうべえ)女の真似事か」
 (たま)にゃあ悪くねえな、と云って老爺は笑顔で猪口に酒を受ける。
 老爺の杯を波々(なみなみ)と満たし、次いで自分の猪口にも注ぎ、女は(ようや)く口を付ける。
「――好い酒だねェ」
 驚いた様に女は()を見開いた。此れ迄呑んだ事も無い位に、涼やかな切れ口の旨い酒だった。宿の格からして()うだったが、中々に質の好い物が揃って居る様であった。
「此の辺りは灘も(ちけ)えからな。美味(うめ)え酒も揃い易いのかも知れねえな」
 其処に器量好しが注いで呉れるんだ、不味(まず)い訳がねえ、と老爺が軽口を叩くと、女も、阿諛(おべっか)(つか)っても何も出ないよゥ、と云いつつ満更でも無さそうに笑った。
 ()()(しばら)く膳を突きながら御大尽と商売女の真似事を()て居ると、不意に襖の向こうが騒がしく成った。
 幡々(ばたばた)と人の行き交う音。
 次いで、幾人かの跫音(あしおと)が近付き、隣室に雪崩れ込む。
 連中は既に或る程度出来上がって居るらしく、甲高くけらけらと笑う声、低く笑い返す声、辺りを(はばか)らぬ話し声が襖越しに響いて来る。
 何様(どう)()た事かと、二人は顔を見合わせる。
 此の離れは借り切った筈であった。
 其れにも関わらず、此の事態である。
 女将(おかみ)でも()び、説明させようかと思った処で、其れより先に廊下より声が掛かった。
「失礼致します」
 と云うので老爺が、何様(どう)()た、と返すと、障子を開き、眉根を寄せた女将(おかみ)が現われた。
「此の離れは貸し切りでは無かったのか」
 老爺が()う問うと、女将(おかみ)は、左様で御座居ます、と更に顔を暗くした。
「ですが、其れが、其の、如何(どう)()てもと仰います物で」
 先代からの昵懇(なじみ)の御客様で、断わり難く、とは云うが、容れ(がた)いのは老爺の方も同じである。
()うは云うがな、此方(こちら)は相応の代金(かね)も払うと云う約定で、半金も納めてある筈だろう」
「あの、其処で御座居ますが、室料、飲み食いした分も(すべ)て隣に付けよとの仰せで。更に――」
 迷惑料も含めて此れも、と袂から小判を一枚取り出して置く。
「此れで御納め戴きたいと」
 其処(まで)されては二人としても断わり難い。
 (いや)、もう通されて宴会を始めて仕舞って居る様なのであるから、突っ撥ねて叩き出すのも野暮である。
 仕方無い、と二人は嘆息した。
「相分かった」
 申し訳ありませぬと、女将(おかみ)は何度も何度も頭を下げ、部屋を退()がった。
 遺された老爺と女は少々水を差された心持ちであったが、今更云っても詮無い事である。
 気を取り直して猪口を傾ける事に()た。
 隣からは愉しげな浮かれた声が響いて来る。
 今日は宴だ、呑めや騒げや、と男が声を上げる。
 アラ、所で今日は一体何の御祝いで御座居ますの、と華やいだ声が応える。
 決まって居よう、和霊騒動が片付いた祝いだ。
 和霊騒動と云うと、()の、山家清兵衛様の。
 左様。打ち続いた不幸も此処で打ち止め。其の祝いだ。
 御終いで御座居ますの。
 ()うだ、此処で(しま)いだ。
 何様(どう)()()う云い切れますの。
 何様(どう)()ても斯様(こう)()ても無い。原因(もと)を取り除けば事が終わるのは道理であろう。
 原因(もと)と云いますと、祟りを何方(どなた)かが晴らした、と。
 (さて)な。
 と、其処で男は言葉を切った。
 祟り等と云う物が真実(ほんとう)に在るのか何様(どう)かは、分からぬよ。
 此れは異な事。和霊騒動と云うは、山家清兵衛様の祟りと(もっぱ)らの噂。其れが片付いたのならば、祟りが晴れたと云うのでは御座居ませぬか。
 云われて男は、(ふん)と鼻で笑った。
 其れを受けて、今度は違う女の声が、()う云えば、と続けた。
 (わたくし)此度(こたび)の騒動は山家清兵衛様では無く、清兵衛様を慕う(かわうそ)の仕業であったと耳に()た憶えが御座居ます。ね、()う云う事で御座居ましょう。
 媚びる様な其の声音に、男は再び鼻で笑った。
 云ったであろう、祟り等と云う物が真実(ほんとう)に在るのか何様(どう)かは、分からぬ。分からぬが、此度(こたび)の騒動――
「祟り等では無いわ」
 明瞭(はっきり)と云い切る其の言葉に、老爺と女は息を呑んだ。

「祟りでは御座居ませんの」
 と、(しな)を作り(なが)ら、一人の女が問う。
「祟りでは無いとは云い過ぎたかも知れぬ。知れぬが、(すく)なくとも本質は其処では無いな」
「アラ難しい御言葉。(わたくし)には解りかねます」
 と、反対側から杯に酒を注ぎつつもう一人の女が云う。
「御主達、和霊騒動と云うが、何が在ったか最初(はじめ)から並べられるか」
 男に試す様に問われて、二人は交互に指を折る。
「先ずは、参勤交代の帰途の海上。雷に打たれて船が沈み、松浦様が水死()さったとか」
否々(いえいえ)、其の前に桜田玄蕃様の御仲間が皆、傷寒に(かか)って正月の宴に御出に()れ無かったのが最初(はじまり)でしょう」
(ああ)()うですわ。松浦様の溺水は其の後の話」
「其れから、清兵衛様の三回忌にて、鈴木軍治様が落雷に打たれたとか」
「他にも玄蕃様の配下の者が同じ時に幾人か亡くなられて居りますわね」
「更に、玄蕃様御自身も、大風で御寺の梁が墜ちて果敢無(はかな)く成られて」
「秀宗様が中風に倒れられて」
「秀宗様の御子、徳松様が夭逝なさって」
「宗実様も病死なさって」
「他にも御子が沢山」
「飢饉や地震、颱風(たいふう)も御座居ましたわね」
「宗時様も病み付かれて、もう永くは無いとか」
 其の位で御座居ましょうか。
 此の位で御座居ましょうね。
 と女達は指折りを止める。
「此れが如何(いかが)致しましたの」
「流石は芸妓、世事には通じて居るな」
 満足気に笑って、男は云った。
「今の話を二つに分けるならば、何様(どう)分ける」
「アラ、次は謎掛けですの」
「アラ、負けません事よ」
「其れでは(わたくし)は、秀宗様が中風に(かか)られる依り前か、後かで分けましょう」
「其れでは(わたくし)は、玄蕃様が亡くなられる依り前か、後かで分けましょう」
 其の心は、と問われ、女達は、知れた事、と返す。
「秀宗様が中風に倒れられて以降は、祟りは(すべ)て伊達の一族に限られますわ。此処で分けるのが妥当で御座居ましょう」
(いえ)、清兵衛様が児玉(みこたま)明神(みょうじん)に祀られて祟りは一時(いっとき)収まり、再び始まったのが玄蕃様の一件。此処で分けるべきで御座居ましょう」
 男は(ふん)と鼻で笑った。
「アラ、失礼な」
「アラ、失敬な」
 其れなら何処(どこ)で分けるのが正鵠(ただ)しいと、と問い詰められ、男は、時で分けては何も分からぬ、と(うそぶ)いた。
「分けるべきは、人間(ひと)に出来るか、出来ぬかだ」
「出来るか」
「出来ぬか」
 云われて女達は、分け直す。
()()れば傷寒は」
「出来ぬ事」
「溺水は」
「――出来る事」
「落雷は」
「出来ぬ事」
「圧死は」
「出来ぬ事」
「中風は」
「出来ぬ事」
「地震や颱風(たいふう)は」
「出来ぬ事」
「続く死別は」
「――出来る事」
 合って居りましょうか、と視線で問い、男は頷いた。
「傷寒は無理に(かか)らせる事は出来ぬ。()の時は偶々(たまたま)流行(はや)ったに過ぎぬし、桜田の一派が揃って寝込んだから多少は目立った物の、()()く見れば一派では無い者も(かか)って居る。祟りかも知れぬが、気に()る程の事でも無い」
「では、参勤交代の帰途の折の溺水は」
「落雷にて船が沈んだは偶然であろうな」
 と、男は云った。
(しか)し、海に投げ出された者の中で一人だけが溺水。(しか)も其れが桜田の一派であったと成れば、裏を勘繰るのも仕方有るまい。誰かが意図的に沈めたか、(いや)、争った形跡が無い以上、身動きできぬ様、薬でも盛ったか」
「アラ、(おそ)ろしい」
「アラ、(おぞ)ましい」
 (しか)し此れなら人間(ひと)にも出来よう。
「故に、此れは祟りでは無い」
「では、清兵衛様の三回忌の折の落雷は」
神鳴(いかずち)が落ちるを誘う三つの条件が在る」
 背の高い物。先の尖った物。金物。
「鈴木軍治は刀を抜き、大上段に掲げて表に飛び出した。神鳴(いかずち)が落ちたは偶然なれど、必然とも云えような」
「御待ち下さいまし」
 と、一人の女が小首を傾げて男を制した。
「けれど軍治様以外にも、玄蕃様の御仲間が、同じ時に多数神鳴(いかずち)に打たれて亡くなって居りましょう」
 (たし)かに、ともう一人の女も頷いた。
「此れは、幾ら何でも偶然で片付けて好い事では御座居ませぬ」
「落雷は人間(ひと)には出来ぬ事」
「矢張り祟りは在るのでは」
 祟りが無いとは云っては居らぬ、と男は繰り返した。
(ただ)、此の一連の騒動は祟りでは無いと云うだけの話」
(いいえ)、其れは通りませぬ」
「此れは祟りに相違有りませぬ」
「其れは――」
 桜田玄蕃の一派が真実(まこと)に落雷に打たれたのならばな、と、男は(しず)かに云った。
「誰が神鳴(いかずち)に打たれた処を見たのだ」
 見たのは、騒ぎの後に見つかった遺体だけであろう。
 云われて女達は眉根を寄せる。
「其れは」
()うで御座居ますけれど」
「先程も云ったであろう。松浦弥市兵衛は薬を盛られての溺水と。突然(いきなり)神鳴(いかづち)に人が騒ぎ、逃げ惑う混乱に乗じて、毒を塗った針で一突き。此れで狙った者を亡き者に()る事は出来る。幸い目の前で鈴木軍治が神鳴(いかずち)に打たれた(ばか)り。桜田一派で、同じ時に遺体で見付かれば、然程(さほど)詳しく検案される事も無く、同じく神鳴(いかずち)に打たれた物と考えるだろうな」
「詰まりは此れも」
人間(ひと)にも出来る事と」
 男は頷く。
「故に祟りでは無いな」
 女達は黙り込んだ。
 誰かが桜田玄蕃の配下に、意図的に毒を盛った。
 其れは何の為に。
 決まって居る。
 桜田一派に怨みが有るか、或いは桜田一派を好く思って居ないか。
 ()う云った者の仕業に違い無い。
 何故直接桜田玄蕃を狙わなかったのかは、分からぬが。
「では、桜田玄蕃様の圧死の件は」
「寺の梁に傷を付け、機を見て狙って落とす、と云うのも不可能では無いが考え難かろう。()して、其れで狙った一人を潰すと()ると神業(かみわざ)に等しい。此れは、祟りかも知れぬな」
「では、伊達秀宗様の中風の件は」
「中風とて狙って起こす事の出来る話では無い。(しか)も秀宗は(なん)(かん)だと()だ永らえて居る。祟りかも知れぬが、余りに弱い」
「では飢饉は、地震は、颱風(たいふう)は」
「其れこそ偶然であろう。山家清兵衛は領民を(いた)く重んじたと云う。なれば、(いたずら)に害を()す様な祟り等、考え難い」
「では、伊達家に続く(やまい)や死別は」
「其れは――」
 又も毒を盛られたのであろうな、と低く男は云った。
「アラ、(おそ)ろしい」
「アラ、(おぞ)ましい」
 云って、女達は顔を見合わせた。
()う云えば」
「ええ、()う云えば」
「先頃、忠臣桑折中務(なかつかさ)宗頼様も身罷(みまか)られたとか」
()しや、宗頼様も同じく何方(どなた)かに毒を盛られて」
「其れは違う」
 と、男は斬り付ける様にぴしゃりと云った。
 何せ――
「伊達家に毒を盛ったのが、其の宗頼だ」
 (しん)と場が静まり返った。
 其れも仕方の無い話であろう。
 真逆(まさか)
 真逆(まさか)此処で其の様な告発が在ろうとは。
 (しか)し、男は其の静けさを理解が追い付いて居らぬ所為(せい)であるとでも取ったのであろうか、先程(まで)と同じ調子で言葉を続ける。
「桑折宗頼の父、桑折景頼は宇和島藩の筆頭家老にして秀宗の後見。宇和島藩改易騒動に於いても並々ならぬ尽力を()た人物。其れにも関わらず、功を讃えられる所か石高を七分の一に減らされ、河後森(かごもり)城から宇和島城下への招致。腹を立てるなと云う方が無茶な話であろう」
 云われて、女達は口々に反駁する。
「其れは」
()うかも知れませぬが」
「でも桑折宗頼様は忠臣と」
「祟りを晴らすべく児玉(みこたま)明神(みょうじん)へも足繁く通って居たと」
 祟りを晴らすべくか何様(どう)かは、当人でなくば分かるまい、と冷たく男は云った。
上役(うえ)振々(ふらふら)と定まらぬが故に配下(した)が迷惑を(こうむ)る。(しか)し諫めても諭しても利かぬならと、御家乗っ取りを企んでも不思議は有るまい。幸いな事に宗頼は秀宗からの憶えも好く、秀宗の実子を養子に貰っても居る。なれば傀儡(かいらい)を立て、実権を握れば、宇和島藩は依り好く成る筈、とな。折好く、人間(ひと)の手に余る玄蕃の圧死と秀宗の中風。此れは山家清兵衛も未だ怒って居るのでは無いかと考えても無理は無い」
 案外児玉(みこたま)明神(みょうじん)へは、己の弑逆の助力を請うて居たのかも知れぬぞ。
「其れでは――」
「其れでは、宗頼様は何故(なにゆえ)に――」
 身罷られたと。
 ()う問う女達に、男は低い声で問い返した。
 御主達は恐水病と云う病を知って居るか。
「恐水病で御座居ますか」
寡聞(かぶん)にして存じませぬ」
「恐水病とはな、野犬等に噛まれて発症する、南国依り渡った伝染病よ。野犬のみならず、時として(いたち)、猫、狐、(かわうそ)等が媒介(つた)える事も有る」
「野犬とは恐ろしい」
「噛まれるとは痛々しい」
「此の恐水病の最も恐ろしい処はな――」
 発症すれば(たす)からぬ処よ、と男は云った。
(たす)からないの御座居ますか」
「絶対にで御座居ますか」
(たす)からぬ」
 と男は答えた。
「十人が十人(たす)からぬ。治療法も無ければ対処法も無い。噛まれれば、発症せぬ事を祈るしか無い」
 此れに、宗頼は(かか)ったのだ、と男は云った。
(しか)も、意図的に感染(うつ)されたのだ」
「其れは()の様に」
「薬で以って(からだ)の自由を奪われた処に、恐水病で死した(かわうそ)の牙を突き立てられて」
「其れは誰に依って」
「主君の身内に毒を盛る悪行を知り、止めねばならぬと決意した者に依って」
(おそ)ろしい」
(おぞ)ましい」
 其れに()ても、と二人は声を合わせた。
「此の様な事を話して仕舞って宜敷(よろし)かったので」
「此の様な場所で誰が聞いて居るとも知れぬのに」
 構わぬ。
縦令(たとえ)隣室の者に聞かれた処で害は無い。()うであろう――妖物(ばけもの)(つか)いの一味よ」
 たん、と二室を区切って居た襖が開く。
 男は躊躇(ためら)う様子も無く、老爺と女の座る部屋へと脚を踏み入れた。
 顔には満面の笑み。(すべ)て知って居るぞと其れは雄弁に物語って居た。
 (しか)し、其の顔に憶えは無い。
 得体の知れぬ男の乱入に、(ことば)無く聴き入って居た老爺も女も、何事かと身を固く()る。
 男は、其の様な有様に頓着せず、部屋の中程(まで)踏み入ると、無造作に腰を落ち着けた。
「いやはや、(かわうそ)一つで(すべ)てを操る手並み、感服致した。御用聞き備中屋吉右衛門なる者を変装芝居で(かた)って取り入った手管と云い、其方(そちら)の山猫廻し殿の傀儡(くぐつ)早変わりと云い、見事と云う依り他有りますまい」
「――な、何の事やら」
 喉の奥から絞り出す様に応えた女に、男は、誤魔化されずとも宜敷(よろし)い、と笑った。
(そもそ)も御用聞き備中屋吉右衛門と其方(そなた)の顔が違う事位は、(すこ)し調べれば分かる事。女から(かわうそ)へ転じた影芝居の絡繰(からくり)傀儡(くぐつ)も、其処の葛籠(つづら)(あらた)めれば云い逃れ出来ぬ事。此処に居らぬ最後の一方(ひとかた)は、仙台依り清兵衛の声色の為に呼び寄せた山家清兵衛が長子、喜兵衛殿の御見送りに港に行かれたか。其れを確かめる手段(すべ)は幾らでも有る」
 立て板に水の如く流れる様に云われ、二人ははっと息を呑む。
 (しか)し――と男は続ける。
 此れ()を明るみに出す心算(つもり)は有りませぬ。
(むし)ろ手前は其の手際を賞賛し、又、父の(つか)いとして礼を申さねばと罷り越した次第。宇和島藩が必要以上に乱れては手前共の仕事にも差し障りが出ます故」
 御主、何者だ、と低く睨め付ける様に老爺が問う。
 其れに男は、一分の隙も無い笑みで応えた。
「申し遅れました。御初に御目に掛かります。手前の名は弦右衛門。通り名を六部の弦右衛門。父、海座頭の竹治(たけはる)(つか)いに御座居ます」
「う、海座頭ゥ」
 と、女は悲鳴じみた甲高い声を上げる。
 と同時に、(まず)い、と女は内心焦り出す。
 何が何様(どう)(まず)いとは具体的には云えぬが、此の大悪党に仕掛けの裏(まで)(すべ)て知られて居ると云うのは、(すく)なくとも好い事では無い。
 (しか)も、敢えて其れを明かし、笑顔で近付いて来る意図が分からぬ。
 恐ろしい。
 不気味で。
 気持ち悪い。
「な、何が目的で此ンな――」
「厭で御座居ますねえ。礼をと申しましたで御座居ましょう」
 (ああ)、と男は頷く。
「御安心召されませ、此の女共は手前共の身内に御座居ます故」
 此方(こちら)の手の内明かしも兼ねて、軽く一芝居をさせて戴きました、()う云って男は二つ手を打つ。
 途端、(しな)を作って居た女二人は(しっか)と立ち上がり、(おの)(たもと)に手を差し入れる。
 何事か。暗器でも忍ばせたか。襲う心算(つもり)かと身構える二人をひたりと見据え、楚々と歩み寄った女共は其の(まま)(かしず)き、小判を一枚ずつ畳に置いた。
「此れは目論見(もくろみ)通り能く働いて呉れた事に対する、手前共からの謝礼金。先の迷惑料と合わせて都合三両。御三方で分け合うには都合が宜敷(よろし)かろうかと存じます」
 ()う云って男は高らかに笑った。
「ヤレ、驚かせて仕舞いましたかな。他意は御座居ませぬ。其れでは御(ゆる)りと宇和島を御堪能あれ」
 男は云うなり立ち上がり、(くる)と背を向けた。
 背後から襲われる等と云う事は一切考えて居ない堂々たる背中に、二人は言葉も無く圧倒される。
 そして男は其の(まま)、離れを出て行く。
 女達も一礼して後を追った。

 残された老爺と山猫廻しの女は、詰めて居た息を緩々(ゆるゆる)と吐いた。
 何か得体の知れぬ物に丸呑みに()れたかの様な心持ちであった。
 目の前の小判も、毒か何かを帯びて居る様な気が()て手が出せぬ。
 手元の酒も、邪気に当てられでも()たかの様な思いで口に運べぬ。
 此れが――
 此れが海座頭一味。
 (いや)、頭目の海座頭は未だ影も形も見せて居らぬ。
 手下で此れならば、当の海座頭は如何(いか)程の者か。
 と、(しず)かに廊下側の襖が開いた。
「何でェ、辛気臭ェ顔並べやがって」
 悪態を吐き(なが)ら現われたのは、弦右衛門の云った通り山家喜兵衛を港(まで)送りに行って居た御行の男であった。
 男は後ろ手に襖を閉め、畳の上に転がった小判に目を止めると、盛大に溜め息を吐いた。
「藩主だ家老だてェ処から常にゃァ見ねェ程の報酬をせしめたンだから多少気が大きく成ンのも分かるがよ、此りゃァ(ちい)と遊びが過ぎるンじゃねェか」
「――遊んじゃ居ねえよ」
 と、疲れ切った様に、老爺が応じた。
「おい、御行の」
「何だ」
「海座頭だとよ」
「あァン」
 海座頭が何様(どう)()た、と云われ、老爺は小さく息を吐いた。
「お(めえ)、知ってやがったのか、何様(どう)なんでえ」
「何をだよ」
「海座頭だよ。何で此の一件に此奴(こいつ)が関わって来る。此奴(こいつ)が絡んで来ると、お(めえ)――」
 知って居たのかよう、と問われ、男は、予想は()てたぜ、と事も無げに云った。
(しか)し、真実(ほんとう)に来ンのか」
 と云っても、当人じゃァ無くて、息子だって云ってたけどねェ、と呟く様に女が応える。
「六部の弦右衛門って云ったっけ」
「其りゃァ其処其処の名だなァ」
 海座頭の腹心よ。
「何でだ」
「何がだ」
「何で海座頭が絡む」
手前(てめえ)知らねェのか」
 宇和島の西に在る日振島(ひぶりしま)てェなァ、(ふる)くは平将門の時代より海賊の本拠地(ねじろ)。藤原純友に始まり、時々で(あるじ)は変わり(なが)らも連綿と続いて居やがる。其れが只今は海座頭一家てェ按配(あんべえ)よ。
 ()う、男は云う。
「何だとう」
 と、老爺は思わず声を上げた。
「何で其んな事が表沙汰に成らねえ」
「成るかよ。宇和島藩の家中に内通(つう)じた者が居るンだからな。奴等(やつら)の実入りの一部を渡し、目を(つむ)って貰って居るてェ関係よ」
「誰だよ、其の内通(つう)じて居る奴てえなあ」
「何処にでも居るぜ」
 雑草(くさ)の根張り巡らすみてェにな、と男は応じた。
(かつ)ての筆頭と来りゃァ手前(てめえ)にも想像付くだろうが、桜田玄蕃だ。だが其れだけじゃァねェ。清廉潔白で知られた山家清兵衛の下にだって手先は居た様だぜ」
「居たのかよ」
「居たンだよ。恐らく、清家久左衛門てェのがな」
「誰だ、其奴(そいつ)あ」
「日振島の庄屋だ」
「おい、御行の」
 庄屋だからって()め付けるなあ、幾ら何でも早計じゃあねえか、と老爺が反駁すると、男は、確然(ちゃん)と根拠は有るンだよ、と云い返した。
「思い出しても見ねェ。日振島は宇和島から七里程も離れて居るンだぜ。其れなのに選りに選って、清兵衛の屋敷が襲われた晩に風雨を押して海を渡り、翌日にゃァ誰に聞いたか伊方屋仁左衛門の別宅を訪れ、葬儀と片付けに奔走()て居たとか、初盆の日も態々(わざわざ)晩に墓参りに行き、偶々(たまたま)出会(でくわ)した清兵衛の母と妻を保護()ただとか、余りに間が好過ぎるじゃァねェか。此奴(こいつ)ァ、裏の動きを知って居たとしか思えねェだろうが」
「其りゃあ、()う云われりゃ()うだが」
 まァ好いンだよ、と男は興味を失った様に云った。
「其ンな(こた)何方(どっち)でも」
 兎に角、宇和島が荒れちゃァ海座頭一味は困る。だから宇和島の天秤が何方(どちら)にも傾き過ぎねェ様に暗躍()てたンだ。絡んで来るなァ予想の範疇だぜ。
永時(ずっと)裏で働いて居やがったのか」
()うよ。山家清兵衛てェ目の上の(こぶ)が居なくなって増長()掛けた桜田一派に歯止めを掛ける為に手下(てか)に毒盛って廻ったなァ、何を隠そう海座頭一味だぜ」
「其処もかよ」
「其処もだよ」
「だから、桜田玄蕃には直接手を出えさなかったのかよ」
()う云う事だ」
 頭を()げ替え仕舞(ちま)う処(まで)()ると面倒だからな。
「で、必要以上に宇和島藩が荒れねえ様に、又、我が強く面倒な桑折宗頼に実権を握らせねえ様にと思って居た処に、儂等が来たてえ事か」
()うだな」
「思惑が一致し、狙い通りに儂等が動いて、上手(うめ)え事片付けたから、褒美を呉れたてえ訳か」
「――何でェ、此の小判は()う云う経緯(いきさつ)か」
 と、男は嗤った。
「餓鬼みてェな遊びでも遣ってたのかと思ったぜ」
()るかよ」
()ても好いンだぜ」
 ()う云って又男は(すこ)し嗤った。
「まァ口封じの意味合いも有ンだろうがな」
 口封じだあ、と老爺は唸る様に云った。
「其んな(こた)あ一言も云わなかったぜ」
「相手の手札も知れねェのに、自分の手の内を残らず晒す間抜けが居るかよ」
 男は、好いか、と諭す様に云った。
「海座頭の本拠地(ねじろ)やら、毒殺に手ェ下した事やらが露呈(ばれ)てねンなら其れで好し。露呈(ばれ)てた処で、此の口止め料だ。暴露(ばら)しゃァ暴露(ばら)すぞてェ交換条件に加えて、無償(ただ)でってンじゃァねェから沈黙(だま)ってろよてェ話だろうぜ」
 と男が云うと、老爺は承服()かねる様に歯噛み()た。
「じゃあ儂等は(てい)()く悪党に使われたてえ事じゃあねえかよう」
「其の通りだよ」
 (すべ)てじゃァねェがな、と平然と云われて、老爺は思わず激高した。
「何で其れで平気なんだお(めえ)は。悔しくねえのか。(しゃく)じゃねえのか。悪党の行いの片棒担がされて、其れでお(めえ)、満足なのかよう」
 お(めえ)の仕掛けも全部割れてたんだぜ。好い様に遣られて其れで好いのかよう。
「莫迦云ってンじゃァねェ」
 と、男は云った。
「今回の一件に就いちゃァ、海座頭の奴ァ元々(ほとん)どの裏に潜んで、覗き見()て居やがったンだぜ。(しか)も依頼の筋に対しちゃァ手前(てめえ)が手ェ下してた訳じゃァねェから手前(てめえ)()められる訳でもねェ。安全な処から高処(たかみ)の見物だ。岡目八目てェ通り、割れて当然よ」
 其れにな、と男は続ける。
「何(ねむ)てェ事云ってやがる。何今更善人(ぜんにん)()ろうと()て居やがる。此方人等(こちとら)元々お天道様にゃァ顔向け出来ねェ小悪党じゃァねェか。依頼を()けりゃァ其の為に動く。結果、他の悪党に利する処が有っても、其りゃァ此方(こっち)の知った事じゃァねェよ」
 神(さん)(さん)じゃァねンだ、非の打ち所のねェ善行なんざ出来るかよ、と蹴り付ける様に云われ、老爺は返す言葉に詰まる。
「――其れじゃあ(ちょい)と聞かせてお呉れよ、御行の」
 と、場を和ませる様に、今度は女が声を掛けた。
「何だよ」
「何だよ、て愛想が無いねェ」
 女は苦笑を浮かべる。
「大体の筋はサ、昨刻(さっき)六部の奴が見透かした様に語って行ったから良いンだけど。ホラ、元々の依頼の筋の方は上手く行ったのかい」
()うだな、上手く行ったと云って好いとは思うぜ」
「其の依頼は、一体何処の誰からの物なのサ」
「何だ手前(てめえ)()ンだけ一緒に居て分かって無かったのかよ」
 今回の事の大元ァ桑折宗頼だろうが。
 依頼の筋は――
「息子だよ」
 桑折親左衛門宗臣だ、と男は面白くも無さそうに云った。
「――真逆(まさか)。未だ元服()るか()ないかの若造じゃないサ」
「其の若造だよ」
 誰も疑わなかったンだろうな、と男が云い、何方(どっち)をさ、と女が応じる。
「桑折宗頼サマが伊達家に毒を盛ってるてェ事かい、其れとも其ンな若造が黒幕だったてェ事かい」
何方(どっち)もだよ」
 と男は呟く様に云った。
「誰からも信の篤かった宗頼が其ンな野心を抱いているたァ誰も気付かなかったろうし、(おさな)い宗臣が其れに気付き、食い止める覚悟を決めるたァ宗頼も思わなかったろう」
真実(まこと)の忠臣てェ奴かねェ」
「残念(なが)ら向いてねェがな」
 と男は溜め息と共に云った。
「話して見て分かったが、家老を継げる器じゃァねンだよ。本来自らを縛り、身を律して尽くす人柄じゃァねェ。何物にもとらわれぬ俳人としてなら残せる名も在るかも知れねェがな。当人も其れに気付いて居る上に、間接的にしろ父を亡き者に()て家老職を継いだ自身と、国獲りを企んだ父とは同じじゃァねェかと内心責めても居る。此奴(こいつ)ァ遠からず病むか、でなくとも機ィ見て早くに隠居()仕舞(ちま)うだろうな」
()うかい」
 其れじゃァ真実(ほんとう)に何が好い事なのか分からないねェ、と女は応じた。
「いっそ国獲りを成功させ仕舞(ちま)った方が、(みんな)仕合わせだったか知れないねェ」
「分からねェ(こた)ァ、(かんげ)えても仕方ねェ。世の中てェなァ、成る様にしか成らねぇ(もん)だぜ」
 其ンな処で好いかよ、と男が云うと、女は、(ああ)()うだ、手を打った。
「もう一ツ永時(ずっと)気になっちゃ居たンだけどねェ」
 教えと呉れよ、と云って、女は、エンコって居るだろゥ、と続けた。
「居るが何様(どう)()た」
「河童だか(かわうそ)だか知らないけどサ、何で()れは金物や鹿の角を嫌うのサ」
 繋がりが(ちい)とも分からない、と云われて男は、繋がりなんざ(ちい)とも有りや()ねェよ、と応じた。
「無いのかい」
「ねェな」
 ()りゃァ、別の生き物が混じっただけだ、と男は淡然(あっさり)と云った。
「唐国の(ふり)ィ書物に山海教(せんがいきょう)てェのが在るんだがよ。其処にエンコてェ獣が出て来る。其の姿(かたち)(なれしか)の様で魚の目。鳴くときは自分の名を呼ぶてェ代物だ」
「其れが、何か関わるのかい」
「だから関わらねェよ。同じ名だってェだけだ。だがよ」
 鹿なら刃物(かなけ)(おそ)れ、狩られた同族の角が掲げられりゃァ逃げるだろうよ。
(ああ)成程(なるほど)
 云われて女も笑う。
其奴(そいつ)ァ仕方がないねェ」
「其ンな処で好いかよ」
 と男が云うと、おい御行の、と低い声がした。
「何でェ爺ィ、さっぱり水に流して酒でも呑むかい」
 強いて明るい口調で男は応えるが、老爺は暗い表情の(まま)に続ける。
「一つ答えろ。お(めえ)()し此の先、悪党の片棒を担がなきゃならねえと成った時、如何(どう)()る」
「蒸し返すねェ」
「好いから答えろ」
「云ったろうが」
 だから(ねむ)てェ事云ってンじゃァねェよ、と男は吐き捨てる様に云った。
「何が善か、何が悪かてェなァ、神(さん)か仏(さん)でもなけりゃァ分からねェよ。仕事ァ選ぶぜ。()けるか何様(どう)かも其の時次第だ。だけどな、其の結果の善し悪し(まで)ァ、知った事じゃァねェよ。所詮は小悪党、世の裏径(うらみち)を掻い潜って這い回るが生き様だろうが。何時(いつ)(つけ)が廻って来るのかも知れねェが、其処(まで)含めて手前(てめえ)の責分だ」
 何だ手前(てめえ)、何が気に入らねェ。
 ()う云われて老爺は、(すこ)しだけ淋し気な表情を浮かべた。
「お(めえ)の云う(こた)あ分かる。屹度(きっと)(めえ)が、正直(ただ)しいんだろうぜ」
 だけどな、と老爺は続ける。
「お(めえ)、云ったじゃあねえか。海座頭の野郎が関わって来たら念入りに()(こわ)して()ろうぜと」
()()なかったのが気に食わねェのか」
()うじゃあねえ。()うじゃあねえが」
 此の(とし)に成って思うのよ。
「死ぬ時(まで)お天道様に顔向け出来ねえなあ、厭だなあ」
「厭だも何も、手前(てめえ)で選んだ道だろうがよ」
()うだ。だからこそ――」
 最期(ぐれえ)正義(ただ)しく在りてえんだよ、と、老爺は云った。
「儂あ、もうお(めえ)にゃあ付いて行けねえ」
 抜けさして貰うぜ。
 云って、やおら老爺は立ち上がった。
「――爺ィ一人で此れから如何(どう)()る」
(さて)な」
 (くう)を見上げる其の眸には何が映って居るのか。
「兎に角、儂あ儂の思う通りにさせて貰う。(なげ)え事世話に成ったな」
 武運を祈ってるぜ。
 ()う云って、老爺は襖を抜けて部屋を出た。
 途中、一度も止まる事無く跫音が廊下を遠離(とおざか)る。
 空々(がらがら)と戸が開く音がして、ぴしゃんと閉じる。
 其処(まで)聞き送って――
 遺された男はどっかと腰を下ろす。
「其ンで、手前(てめえ)如何(どう)()る」
 問われて女は首を傾げた。
如何(どう)()ると云われてもねェ」
 (あたし)ァ未だ抜ける気は無いよ、と詰まら無さそうに云う。
「只、知った顔が減ると、(ちい)と――」
 淋しく成るねェ。
 其れは男も同じだった。
 長く組み、彼方此方(あちこち)と仕事を()て廻った仲だった。
 愉しい事、辛い事、色々な事を共に分け合った。
「武運を祈る、か」
 出て行くなァ勝手だが――
 手前(てめえ)こそ、野垂れ死ぬンじゃァねェぞ。
 男は祈りを籠めて――
 りん
 と(れい)を鳴らした。

 
[了]


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