エンコ――と云う妖物(ばけもの)が居る。
 世には猿猴(えんこう)と書き、猿を指す向きも在るが、(こと)宇和島に於いては()うでは無いのだそうだ。何様(どう)やら淵猴(えんこう)と書くらしい。
 其の名の通り淵、川、海に棲み、泳ぐ者の尻子玉を抜くと云う獣である。又、角力(すもう)が好きで通り(すが)りの者に挑んでは、打ち倒して尻子玉を抜くとも云う。尻子玉を抜かれると、腑抜ける、腰抜ける、病み付く、(しま)いには死ぬのだそうだ。
 ()う聞くと河童(かっぱ)眷属(なかま)の様でもある。
 事実、頭に皿が在るの、片腕を引っ張ると反対が縮んで引かれた腕が伸びるの、馬を川に引きずり込もうと()たのと云った河童に()く聞く話も在るには在る。
 (しか)し、聞けば聞く程に其の差異(ちがい)も際立つ。
 例えば、人を騙して重箱の餅を馬糞に入れ替えた、人に化けた、鹿の角や金物を嫌う等と云った、奇怪な話も在るのである。頭の皿も、擂鉢(すりばち)の様な物を(かぶ)って居るのだとする説も在るし、外見(みため)も毛皮を纏って居るとする。
 従って、エンコはエンコであり、猿や河童に似た別物と考えるのが好いのだろう。
 其のエンコにやられたのでは無いか、と云うのである。
 伊達秀宗が中風に倒れた。
 中風とは風に()たったと書く通り、前触れ無く突然に倒れ、其の後、手足が利かぬ様に成り、痺れ、言葉が滑らかには出ぬ様に成る事を指す。
 此れが、エンコに角力(すもう)で負けた所為(せい)なのでは無いか、と云うのである。
 有り得る事とは思えぬ。
 時の藩主が一人川縁(かわべり)に出かけ、エンコに角力(すもう)を挑まれ、投げ飛ばされて尻子玉を抜かれた、等とは考えられぬ話である。
 (しか)し、領民達は()う噂し合った。
 噂に輪を掛けたのは、其の僅か二年後に秀宗が六男、徳松が夭逝()た事であった。
 領民は、此れもエンコの所為(せい)では無いかと噂した。
 次いで其の三年後に、長女、菊が没した。
 更に二年して、今度は長男、宗実が病死した。
 其の翌年、四女の竹松、八男の岩松(まで)が後を追った。
 加えて二年後に、次女の鶴松も此の世を去った。
 此れ等も又、エンコの所為(せい)にされた。
 更に二年が過ぎ、秀宗に代わり実権を握って居た次男、宗時が突如病み付いたのも、矢張りエンコの所為(せい)では無いかと()れた。
 (いや)逆態(はんたい)(さかのぼ)り、宗実が病弱で、長男にも関わらず廃嫡の憂き目に遭ったのも、元を(ただ)せばエンコの所為(せい)なのでは無いかと(まで)云われた。
 ()しか()ると二十年程前に次女の萬が死んだのも其の所為(せい)だったのでは無いかとも噂が立った。
 此の様に、立て続けに宇和島伊達家を不幸が見舞った。
 加えて、近年稀に見る飢饉が訪れた事、宇和島城の石垣や塀が崩れる程の大地震に襲われた事、颱風(たいふう)にて作物が壊滅的な損害を受けた事も、悪しき噂に拍車を掛けた。
 石垣や塀が崩れたのは伸上(のびあが)りの所為(せい)、悪天候は雷獣を伴った清兵衛の祟りと、()う思う者は(すく)なく無かった。
 更に伊達の江戸屋敷に神鳴(いかづち)が落ち、死人が出るに至っては、此れは誤り無かろうと誰もが思った。
 結果、宇和島藩は絶望の底に沈みつつあった。
 藩の行く末には暗雲が立ち籠めて居た。
 其れを晴らす事は、到底出来そうに無かった。

 其の様な折であった。
 桑折家に養子に入った百助が秀宗に面会を願い出たのは。
 藩主との面会等、普段ならば()う易々とは実現出来ぬ話である。(しか)も、百助が願い出たのはあろう事か、四人の伴を連れての直接の面会である。道理を(わきま)えれば認められた話では無い。(しか)し、他家に()ったとは云え息子は息子。秀宗の特別の計らいに依って其れは(ひそ)かに執り行われた。
 宇和島城が一室にて、秀宗の前に平伏()て居るのは桑折百助と、其の後ろに身形(みなり)の好い商人風の老いた男、更に修験者の装いの(わか)い者が三人。
 傍らを小姓に支えられる様に()て上座に就いた秀宗は、肘掛けに半身を預け、掠れた声で、(つっか)(なが)ら、(おもて)を上げよ、と云った。
 声を掛けられ、真っ先に顔を上げたのは百助であった。
「お久しゅう御座居ます」
 と云う表情は(いささ)か嬉し()で、笑みが溢れて居た。
「父上に措かれましてはお変わり無く」
 父では無い、と(ども)りながら、言い含める様に、秀宗は応えた。中風の所為(せい)か、喉は掠れ、言葉は(もつ)れる。(しか)し、毅然とした風を保ち、秀宗は続ける。
 御主の父は、桑折中務宗頼であると何度も云ったであろう。考え違いを()るでない。
「申し訳御座居ませぬ」
 と、百助は内心の不満を隠して頭を下げた。(たし)かに父は父だ。()う呼ぶ事に間違いは無いし、父を父と慕う事に過ちは無い。(しか)(たし)かに百助の今の父親は桑折宗頼なのである。主君と臣下の家を、立場を(わきま)えねばならぬ。内情内心は何様(どう)在れ、引くべき線は引かねばならぬのだ。
 無論、高が一家臣の息子が面会を申し込み、容れられると云う時点で特別な扱いではある。(しか)し、流石に其処は追求()ず自制する。云って好い事と好く無い事が在るのだ。此の面会が無しに成って仕舞えば元も子も無い。
「此の度は格別の御配慮、痛み入りまして御座居ます」
 好い、と消え入る様な声で秀宗は応えた。
 して、此度(こたび)は何用じゃ。
「秀宗様」
 (きっ)と顔を上げ、真っ直ぐに秀宗を見据えて、百助は応えた。
「宇和島藩は、今、乱れに乱れて居ります」
 御存知で御座居ましょう、と百助は続ける。
「秀宗様が中風に倒れられて依り、伊達家に打ち続く不幸。或いは藩を襲う天災。(いえ)、其の前の桜田玄蕃の一件。否々(いえいえ)、其の前の雷害依り、永時(ずっと)宇和島藩は難局に喘いで居ります」
 云われずとも、とでも云う様に、秀宗は小さく息を吐いて頷いた。
(わたくし)最初(はじめ)は生まれて居りませぬ故、詳細(くわ)しくは存知ませぬが、物心付く頃依り父宗頼と伴に足繁く児玉(みこたま)明神(みょうじん)に詣り、又、藩を治める家老の息子として乱れる藩情を見て心を痛めて参りました」
 其処で、で御座居ます、と百助は居住まいを正した。
(わたくし)にも何か出来る事は無いかと思案し、気の置けぬ者に相談して居りました処、此の様な者達を紹介されました為、秀宗様にも御目通り願いたく(まか)り越した次第に御座居ます」
 云って、僅かに身を避ける。
「此れなるは、備中屋吉右衛門と申す、当家に出入りする御用聞きに御座居ます。仔細は此の男より」
 其の言葉に応じる様に、平伏()て居た、老いた商人は、備中屋吉右衛門に御座居ます、と伏せた(まま)云った。
「此の度は、宇和島藩藩主、伊達秀宗殿に御目通り叶いまして大変光栄に存じます。当方、しがない御用聞きに御座居ます故、秀宗殿に措かれましては御存知無い物と存じますが、一つ御挨拶を申し上げます」
 (ふん)、と秀宗は息を吐いた。
 其の備中屋が何の心算(つもり)じゃ。
「当方の聞き及びました処、只今の宇和島藩は山家清兵衛の祟りに上から下(まで)恐れ(おのの)いて居るとか。其の為、当方の御世話に成って居ります桑折家も、宇和島伊達家も御苦慮なさって居るとの事。故に、差し出がましい様では御座居ますが、当方の縁を辿って、信の措ける、悪霊祓い(まが)祓いを生業(なりわい)()る者を探し当て、()く連れ(まか)り越して御座居ます」
 ()うは云っても、と吉右衛門は続ける。
「秀宗殿は此の者共は(おろ)か、当方すら御存知無く、如何(いか)()て信じられようかと御思いに御座居ましょう」
 胸の裡を見透かされた様で素直には頷けず、秀宗は唯無言で続きを促した。
「故に、御許し頂けますならば、此の場にて問答でも行い、()し信じても好いと御思いに成られましたならば、此の一件、(すこ)し御預け戴きたく存じます」
 問答とな、と秀宗は応じた。
「左様に御座居ます」
 ()う云って吉右衛門は頷いた。
「と申しますのも、此の修験者、装束(なり)は見窄らしくも見えましょうが、実力は(たし)か。霊験は(あらた)か。知識も深く御座居ます。故に、真実(ほんとう)に任せるか否かは(さて)置いて、相談だけでも()て見て措いて損は無い物と存じます」
 成程(なるほど)、と秀宗は頷いた。
 試して見てから雇えと()う云う売り込みか。
 秀宗は更に後ろに平伏する、修験者の装いの三人に目を転じた。
 ならば問う。
 此の我が藩を襲って居る山家清兵衛が一件、真実(まこと)に晴らせると云うのか。
 問われて、一人が平伏した(まま)に応えた。
「低い処から失礼致しやす。(やつがれ)は名乗る程の者でもねェ、御行(おんぎょう)乞食(こつじき)。只(ちい)(ばか)り腕に覚えが有るてンで(まじな)いの真似事を()て居るだけの、賤しき身の上。後ろの此奴(こいつ)()は見習いに御座居やす」
 (さて)、秀宗様の問いで御座居やすが、と男は其処で言葉を切った。
(やつがれ)にゃァ、山家清兵衛の祟りを晴らす(こた)ァ出来やせん」
 云われて狼狽(うろた)えたのは吉右衛門、そして百助であった。特に吉右衛門は、たった今大見得を切った手前、引くに引けぬ。
「な、何を云うか御行。御主が祓えると云うから()う為て――」
(はや)っちゃァ不可(いけ)ませんぜ」
 と、(しず)かに御行は応えた。
(たし)かに(やつがれ)にゃァ山家清兵衛の祟りを晴らす(こた)ァ出来やせん。(いや)、出来ねェと云うより、()る必要がねェ」
 何せ此の一件、山家清兵衛様の祟りじゃァ御座居やせん。
 云い切られ、今度は秀宗も揃って目を剥いた。
 此の男は、今、何を云った。
 山家清兵衛の祟りでは無い。
 其の様な事は信じられぬ。
 信じられる筈が無い。
 ()し其れが真実(ほんとう)なら、此れは一体何だと――
 混乱の中、秀宗は絞り出す様に問いを重ねた。
 何故(なにゆえ)に、山家清兵衛は関わりが無いと云い切れる。
「関わりは御座居やす」
 と、事も無げに御行は応じた。
 再び場は混乱の渦に叩き込まれる。(しか)し、誰一人事の成り行きが掴めず、内心渦巻く疑問は言葉に成らず、只押し黙る。
「関わりは御座居やすが――」
 手を下して居る者が別に居りやす。
 別に居るのか、と秀宗が絞り出す様に更に問う。
「居りやす。其方(そちら)ならば、祓う事も(やぶさ)かでは御座居やせん」
 何故(なにゆえ)に別と云い切れる。
「根拠は幾つか御座居やす。一つは、祟りとされる一連の件、時期に依って大別は出来やすが、手段(てだて)散々(ばらばら)に御座居やす。勿論、世の者は山家清兵衛が死して妖物(ばけもの)の親玉に座ったんだとかも云いやすが、幾ら何でも其りゃ(かんげ)(にき)い。其れ依りも、幾つかの妖物(ばけもの)が手ェ組んだ、(ぐれえ)(かんげ)えた方が座りが好い」
 真実(ほんとう)(ちい)と違いやすがね、と御行は云う。
 違うのか。
 其れは追々。
「二つは、山家清兵衛は死す時、護国の鬼と成らんと(うそぶ)いたとか。なれば、此の国を潰しかねぬ仕打ち、筋に合いやせん。此奴(こいつ)は矢張り、山家清兵衛本人とは別の何かが動いて居ると(かんげ)えた方が道理で御座居やす」
 詰まり、と秀宗は云った。
 清兵衛は利用されて仕舞って居るのか。
 (さて)其奴(そいつ)も追々。
「三つは、此奴(こいつ)は此の道を生業(なりわい)()る者の鼻なんで御座居やすがね。何様(どう)にも臭うンで」
 臭う、とは。
 言葉の通りで。
(なまぐせ)ェ獣の臭いが彼方此方(あちこち)から漂って来る。失礼を承知で申し上げやすがね、此の城からも其奴(そいつ)は嗅げる。秀宗様の周りが(こと)(ひで)ェ。詰まり――」
 ()しか()ると一刻の猶予も御座居やせんぜ、と御行は云った。
 詰まり、御主は既に全てが見えて居ると云うのか、と秀宗は尋ねた。
 其れに御行は、(しず)かに応えた。
(ほとん)どの推量(あたり)は付いて居りやす」
 後は幾つか確認させて戴けりゃァ済む(ぐれえ)で。
 好し、と秀宗は頷いた。
 此の切れの在る弁舌。全てを見通して居るかの様な炯眼。加えて、未だ誰も考えも()なかった新しき切り口。
 興味深い男である。
 ()しか()ると、真実(ほんとう)に此の男なら或いは。
 (すこ)し任せて見ようと云う気に成った。
 秀宗は年甲斐も無く逸る気を抑え(なが)ら、努めて(しず)かに云った。
 何が望みだ。
「望みてェと」
 云う(まで)も無かろう、()し晴らせたら何を望む。
 ()う問われて、御行は小さく笑った。
(やつがれ)は明日をも知れぬ御行(おんぎょう)乞食(こつじき)。要る物(なぞ)御座居やせん。強いて挙げれば、寺社への寄進、領民の支援(たすけ)、善き藩政を行って戴きてェと、其れだけに御座居やす」
 相分かった、と秀宗は再び頷いた。
 御主に任せて見よう。
宜敷(よろし)いので」
 好い。
「なれば一つお願いが」
 何でも申せ。
「今晩で御座居やすが」
 秀宗様の寝室の隣の部屋に、侍らせて戴きてェ、と御行は云った。
「事は一刻を争うかも知れねェ。夜も警護(まもり)に就かせて貰いてンで」
 好い、と秀宗は即答した。
真実(ほんとう)宜敷(よろし)いンで」
 仮にも藩主様の隣室(おとなり)に素性の知れぬ者を入れても、と御行が重ねて問うと、秀宗は薄く笑った。
 御行、と秀宗は呼ぶ。
 儂は藩主の座に(おさま)っては居るが、見ての通りの半身(かたみ)の利かぬ中風(わずら)い。藩政も殆どは(せがれ)の宗時に任せて居る。仮に御行が悪心秘めたる不埒者で、儂の命を狙うて居たとしても、儂の命が今晩果てたとしても、もう宇和島藩は揺るがぬであろうよ。(むし)ろ儂の命一つで片が付くのならば安い物。
 其れにな、御行。
 ぎらり、と秀宗の鋭い眼光が御行を貫く。
 御主が云うたのであろう、清兵衛は護国の鬼と成ったと。なれば、悪心持つ者が儂に近付こうとしたならば、必ずや清兵衛が(はば)んで呉れる事であろう。
「仰る通りに御座居やす」
 御行は(しず)かに(こうべ)を垂れた。
 御行、と秀宗はもう一度呼び掛ける。
 御主は此の宇和島藩に、伊達家に降り掛かる暗雲を祓えると申したな。
 約定(たが)えるなよ。
(かしこ)まりまして御座居やす」
 御前にて、皆一様に平伏した。


  top  
prev index next


novel (tag)
prev
index
next
※message
inserted by FC2 system