伸上(のびあが)り――という妖物(ばけもの)が居る。
 又の名を伸上(のびあが)り入道とも云う。処に依っては見越(みこし)入道、見上(みあげ)入道、高入道(など)とも云うそうである。
 入道と云うのだから、恐らくは人の様な姿を()て居るのであろうが、定かでは無い。
 影の様で瞭然(はっきり)とはしないと云う話が多いが、丸くて奇妙な石の様であったとする話も有る。
 (いず)れにせよ、突然(いきなり)目の前に現われたかと思うと、見て居る内に次第に背が高く成り、見上げれば見上げる程更に背は高く成って行く物だそうである。又()()(じっ)と見上げて居ると、不意に喉元に噛み付くのだとか、(くび)を締め上げるのだとか、倒れ掛かって来るのだとかも云う。
 難を避ける為には、地上一寸辺りの処を蹴飛ばして目を逸らす、或いは見越したと叫ぶと好いと云う話である。
 要は、見詰めて居れば何処(どこ)(まで)(おお)きく成り、()()て上から人に害を()妖物(ばけもの)と云って、然程(さほど)大きな間違いは無かろう。
 其奴(そいつ)の仕業だ、と云うのである。
 山家清兵衛公頼を児玉(みこたま)明神(みょうじん)に祀って依り十年近くが過ぎようかと云う頃の話である。
 其れ(まで)続いた雷害が真実(ほんとう)に清兵衛の祟りであったのか何様(どう)かは分からぬ。
 分からぬが、祀って以降大きな災害は起きずに過ぎた。
 (しか)し九年目。桂林院(こと)秀宗正室である亀女の三回忌法要が営まれた折に其れは起きた。
 (ところ)は、(くだん)の金剛山正眼院である。
 桂林院殿の法要の最中、不意に大風が吹き付け、本堂の梁が落ち、あろう事か桜田玄蕃が圧死したのである。
 又も山家清兵衛の祟りの再来かと、宇和島藩は上から下(まで)どよめいた。
 風が吹いたされる時、本堂に向かって立ち上がる人の様な形を()た煙の様な物を見た、と云う者も在った。
 見上げた者に倒れ掛かるが伸上(のびあが)りである。故に、桜田玄蕃が見上げて仕舞ったのでは無いか、と()う語る者も居た。
 先の雷獣の一件も合せると、清兵衛は(あたか)も死して妖物(ばけもの)共の親玉にでも座り、手下を(つか)って彼此(あれこれ)()て居るかの様であった。
 此の事態には流石の秀宗も震え上がった。
 八方手を尽くし、加持祈祷を行った。
 護符やら法具やらを掻き集めた。
 (しか)し其れでも――
 (おそ)れを拭い去る事等出来よう筈も無かった。

 何が悪かったのだ、と宇和島城内の自室で伊達秀宗は頭を抱えて居た。
 其処に在ったのは最早、嵐の船上に措いても動じずに檄を飛ばした名君主では無かった。不惑(しじゅう)を過ぎ、青()めた顔で布団を被り、ぎょろぎょろと眼球だけを落ち着かず動かして居る、情け無く痩せた男であった。
 山家清兵衛を討った桜田玄蕃が死んだ。
 (いや)正確(ただ)しくは清兵衛を討ったのは玄蕃の命を()けた配下の者数十名であり、其れらが徒党を組んで()った事である。無論、首謀者と云う意味では、全ては玄蕃に帰結()るのではあろうが、玄蕃は直接手を下した訳では無い。
 訳では無いのだが。
 先の雷獣騒ぎで、直接手を下したと目される玄蕃の配下の者が次々と死んだ。
 此度(こたび)伸上(のびあが)り騒動にて、命を下した玄蕃が圧死した。
 斯様(かよう)に、徐々に上へ、徐々に奥へ、徐々に根元へと、(さかのぼ)る様に()て清兵衛の祟りらしき物は拡がって来て居る。
 なれば――
 なれば、問題は其の次である。
 山家清兵衛を討ったは上意討ちであると()れて居る。
 詰まり、次に清兵衛の祟りを(こうむ)るのは、己ではあるまいか。
 ()う、思ったのである。
 故に、何時(いつ)己の上に災難が降り掛かるかと秀宗は怯えた。
 己の身から出た錆であるとは云え、冷や汗を垂らし、歯の根も合わぬ程に(おのの)いた。
 防ごうにも防ぎ様が無い。
 避けようにも手立てが無い。
 何せ――
 相手は冥府魔道に堕ちた(たたり)神である。
 雷獣を操り、伸上(のびあが)りを(つか)(あら)神である。
 如何(どう)()て其の怒りから逃れられようか。
 不安と恐怖で雁字(がんじ)(がら)めに成った秀宗は、居ても立っても居られず、忠義の者と名高い桑折家を頼った。
 無論、桑折家に怨霊を(はら)う力など無いし、祟りの盾と成る事なども出来ぬ。(しか)し、智恵を借り、意見を貰い、頼りに()る位は出来よう。
 政宗に後見人として付けられた、七千石の河原渕領河後森(かごもり)城城代、桑折左衛門景頼は()うに亡い。父の様な(とし)の、頼りに()て居た景頼が此の世を去った時には、秀宗も大層気落ちした物であった。(しか)し、跡を継いだ其の息子、桑折中務(なかつかさ)宗頼(むねより)も又、父に似て中々に謹厳実直な人柄であると聞いて居た。
 故に秀宗は、其の宗頼を何とか手元に置かんと、七千石の河原渕領河後森城から一千石に減俸の上、宇和島城へと呼び寄せた。此れは高々十万石の宇和島藩に措いて同じ城下に七千石もの大口を抱える事は出来ず、又宇和島藩を一つに(まと)める為にも仕方無かった事ではあるが、傍から見れば理不尽な仕打ちには違い無かった。桑折家は元々宇和島藩の筆頭家老であり、改易騒動の際にも力を尽くした影の立て役者である。其れを考えれば、間違っても在るべき仕打ちでは無いのである。
 (しか)し、宗頼は其れに逆らう事は無く、諾と従った。
 (いや)、其れ処か秀宗に忠義を尽くし、又、暇さえ有れば怒りを鎮めんと児玉(みこたま)明神(みょうじん)へ足繁く参る程であった。
 領民は口々に桑折宗頼を憐れみ、又其の忠義を褒め称えた。
 秀宗の見込み通り、宗頼は信の措ける男の様であった。

 不意に、御免下さいませ、と部屋の外から声がした。
 秀宗は震える声で、応えた。
 む、宗頼か。
 ()う問うと、左様に御座居ます、と答が返った。
 入っても宜敷(よろしゅ)う御座居ますか、との問いに秀宗は、小さく、入れ、と応じた。
 襖を開けて(しず)かに現われたのは、厳しい表情の(わか)い男であった。
 宗頼、お呼びにより参りまして御座居ます、と平伏する其の男に、秀宗は近う寄れと手招きを()た。
 桑折宗頼は秀宗より十ほど若い男であったが、成程(なるほど)、景頼の教育が行き届いて居る様で、同年代に在り(なが)ら博識にして明皙(めいせき)、物の道理を弁えた人物であった。其の為、秀宗の後見人には成り得なかったが、相談役としては役不足ですらある程であった。
 宗頼は、秀宗にとって頼り(すが)る相手と云うよりは、話し相手に成って呉れる朋輩(とも)と成った。
 逆態(はんたい)に云えば、()う云った吐き出せる相手でも居なければ、此の時の秀宗は狂死していたやも知れなかった。
 其れ程(まで)に、秀宗は追い詰められて居た。
 膝で(にじ)り寄った宗頼の手を取り、秀宗は、もう駄目かも知れぬ、と小さく云った。
 何を仰いますか、と宗頼は応えた。
 気を強くお持ち下され。秀宗殿は宇和島藩藩主に御座居ますぞ。此の様な時こそ(しっか)りと()ずして如何(いかが)致す。
 (しか)し、と秀宗は(なお)心細気(こころぼそげ)に云った。
 清兵衛が祟って居るのだ。
 ()う云って、秀宗は身を震わせた。
 本気で云って居られるので御座居ますか、と宗頼が問い掛けると、秀宗は小さく頷いた。
 手を下した者が死に、命を下した者が死んだのだ、次は――
 と云い掛けて、秀宗の言葉は尻窄みに消える。
 其の先は流石に明瞭(はっきり)とは口に出せなかった様であった。
 其れは、(すなわ)ち――
 上意討ちであったと云う話は真実(まこと)であった、と云う事で御座居ますか、と宗頼は率直(はっきり)と問うた。
 (しか)し、秀宗は間髪を入れず(しっか)りと(くび)を横に振った。
 違う。
 と、振り絞る様な声で秀宗は云った。
 儂は命じて等居らぬ。
 ――違うので御座居ますか。
 違う。
 ()う云って、秀宗は黙り込んだ。
 上意討ちであると世の者共は云うが、実は違うと云う事は、秀宗が一番()く知って居た。
 秀宗は其の様な命など下しては居ない。
 居ないのであるが――
 上意討ちであると云う噂が(まこと)しやかに流れた時に、秀宗は否定も肯定も()なかった。
 順当(まとも)な手続きを踏んだ上意討ちであったならば、改易騒ぎの際に、清兵衛の罪状と証拠を明らかにし、此れ故に討ったとして堂々と届け出れば好かった筈なのである。
 其れが出来ずに釈明に奔走した処を見ただけでも、(いず)れ真っ当な沙汰の在った物では無かった事が分かろうと云う物である。
 (しか)し、噂に対しては秀宗は敢えて口を(つぐ)んだ。
 配下を御せぬ己の器を曝け出す訳に行かなかったと云うのも勿論在るが――
 ()うとは明白(あからさま)に云わずには居たが、山家清兵衛を(うと)んで居たのは紛れも無い事実だったからである。
 清兵衛が除かれた事を、(いた)(どころ)か心底嬉しく思ったからである。
 丸で長年在った目障りな(いぼ)か、或いは呑み込めぬ喉の(つかえ)が、不意に無くなったかの様な晴れやかな心持ちだったからである。
 口には出せずに居たが、其れを察して先回り()()って呉れたであろう事に、感謝すら覚えて居たからである。
 故に、否定せぬ(どころ)か、下手人である桜田玄蕃一派を不問に付しすら()た。(いや)、増禄すら施した。
 逆態(はんたい)に、山家清兵衛の親類縁者や賛同者を片っ端から放逐、碌召し上げ、士分剥奪に処した。
 此れは(すなわ)ち、上意討ちである事を暗に認めたも同然であった。
 真実(ほんとう)は、違って居たのだが。
 直接に指示等、下しては居なかったのだが。
 違って居るのならば、と宗頼は応じた。
 内心が何様(どう)在ったとしても、何も恐れる必要は御座居ますまい。真実(ほんとう)に命じたのならば恐れるのも道理では御座居ますが、()うで無くて殿を祟らんと()るならば筋違いの逆恨み。毅然と()て居れば宜敷(よろし)かろうと存じます。
 (いえ)――
 縦令(たとえ)真実(ほんとう)に殿の上意であったとしても、武士たる者、祟りを()すは言語道断で御座居ましょう。
 と、宗頼は云った。
 何故(なにゆえ)()う思う。
 問われて宗頼は、至極当然の様に云った。
 知れた事。武士たる者、主君の命には文字通り命を賭して従うが(みち)に御座居ます。苦しかろうと辛かろうと、(いな)()は御座居ませぬ。主命が正道に背くとあらば諫め申し上げるも忠臣の(みち)には御座居ましょうが、()れられぬからとて最初(はな)から祟りだ何だと闇討ちの様に()ては、其れこそ正道に沿いませぬ。主君は大きく構えて在らねば下々が狼狽(うろた)えます故、努々(ゆめゆめ)動揺召されませぬ様。
 ()う云われても、秀宗は易々とは受け容れられぬ様であった。
 未だ不安と恐怖が拭い去り難く染み付いて居る様で、ぎょろぎょろと視線を四方に走らせて居る。
 (のう)、宗頼。
 と、呼び掛けられ、宗頼は居住まいを正した。
 何で御座居ましょうか。
 問われ、秀宗は怯えた()を宗頼に合わせた。
 御主の云う事は分かる。
 分かるが。
 其れが。
 其の筋道が、清兵衛にも通じようか。
 何故通じないとお思いに、と宗頼は応じた。
 聞けば山家清兵衛殿は忠臣の中の忠臣。死す時も護国の鬼に成らんと(うそぶ)いたとか。なれば――筋を違えは致しますまい。
 (しか)し、と秀宗は反駁した。
 清兵衛は雷獣を操り、伸上(のびあが)りを(つか)妖物(ばけもの)に成り果てて居るのだぞ。人間(ひと)の道理が通じる相手では、最早在るまい。
 ()う云われて、宗頼は、(むし)ろ其れ故にで御座居ます、と応えた。
 上意討ちが真実(まこと)では無いので御座居ますれば、即ち其の雷獣やら、伸上(のびあが)りやらのお蔭で失われたるは、所詮、主命を(かた)って清兵衛殿を討った不埒者共では御座居ませぬか。秀宗殿にとって害在りとすべき者共。顧みる必要等御座居ますまい。現に秀宗殿は、害一つ無く護られて居りましょう。
 其れとも――
 清兵衛殿は生前から道理の通じぬ妖物(ばけもの)に御座居ましたか。
 ()う問われ、秀宗は唸って黙り込んだ。
 其の様な事は無い。
 寧ろ公明正大で理路整然と()て居たが故に、疎んで居たのだ。
 妖物(ばけもの)等では無い。
 妖物(ばけもの)等では――
 ――(いや)
 慄然(ぞくり)と、秀宗は背筋を走る冷たい物を感じた。
 妖物(ばけもの)、であったのやも知れぬ。
 ()う、思ったからである。
 伸上(のびあが)り――
 己にとって、清兵衛は伸上(のびあが)りであったのかも知れぬ、と秀宗は思った。
 伸上(のびあが)りは、夜道で不意に目の前に現われて、見上げる程に巨きく成る妖物(ばけもの)である。
 又、(じっ)と見上げ続けて居ると襲い掛かって来ると云う。
 其れが、秀宗には清兵衛と重なって見えた。
 父に付けられ、不意に目の前に現われた男であった。
 己の家臣であるにも関わらず、何方(どちら)かと云うと上から監査()る様な目で見られて居た。
 時に父を介して、時に自身の口から、諫める様に小言を多く云われた。
 (しか)も大抵が正しく、反論の余地も無い物であった。
 其れが、気に入ら無かったのである。
 己の自由に()せて貰えぬのも、気に食わなかったのである。
 故に――
 (うと)んじた。
 否が応でも目に入る、目に付くのだから、何時(いつ)か潰して遣ろうと(くら)い炎を燃やした。
 (しか)し――
 虚勢を張り、見下して()ろうと背伸びを()れば()る程に(おお)きく成る。
 張り合おうと、負けまいと見詰める程に何処(どこ)(まで)でも背が伸びる。
 其れが秀宗にとっての清兵衛であったが――
 詰まり此れは伸上(のびあが)りに他ならぬのでは無いか。
 (すなわ)ち其の最後(しまい)には、見上げて居る此方(こちら)の身を滅ぼして仕舞うのでは無いか。
 故に。
 ()しか()ると、見上げて仕舞った己の喉笛を食い千切る(まで)清兵衛の祟りは終わらぬのでは無いか。
 ()う思ったのである。
 怯えた(さま)の秀宗を見て宗頼は、小さく(かぶり)を振った。
 真逆(まさか)真実(ほんとう)に清兵衛殿は(ことわり)の通じぬ御方であったと、()う仰せで御座居ますか。
 違う、と秀宗は小さく答えた。
 違うのだ。
 ()うでは無いのだ。
 ()う云う話では無いのだが――
 此れは如何(いか)(ことわり)を尽くしても、宗頼に理解(わか)かって貰う事は出来そうに無かった。
 (のう)、宗頼。
 と秀宗は再び呼び掛けた。
 一つ、願いを聞いて貰えぬか。
 何なりと、と宗頼は応えた。
 秀宗は宗頼の握った手に更に力を込め、百助を、と口にした。
 百助を、養子に貰っては貰えまいか。
 百助とは、秀宗殿の四男の、()の百助様で御座居ますか、と宗頼は応じ、秀宗は左様と頷いた。
 何を仰いますか、と宗頼は云った。
 気を確かにお持ち下され。
 確かじゃ、と宗頼は半ば狂気に冒され掛けた、ぎらつく眼差しで応えた。
 好いか、此れは思い付きで云って居るのでは無い。最善を考えた上で云って居るのだ。
 最善とは、と問われ、秀宗は手に更に力を込めた。
 一つは、伊達の血を絶やさぬ為じゃ。
 仮に清兵衛の祟りが我が身に、伊達の家に降り掛かろうとも、其方(そなた)の家に血筋が(のこ)って居れば何様(どう)とでも成ろう。縦令(たとえ)我が係累が奇禍に遭おうとも、血を散らして措けば何処かには(のこ)ろう。伊達の名が消え掛けようとも、桑折に百助さえ(のこ)れば宇和島伊達家は其処から屹度(きっと)立て直せよう。
 二つは、御主の家との繋がりを(なお)強固(かた)める為じゃ。
 儂の伊達の血が(のこ)ったとて、家臣に信が措けねば何にも成らぬ。(しか)し、筆頭家老たる桑折家と血縁が在れば又話は別。血は水よりも濃いの例えも在ろう。藩主と家老の立場の違いは在ろうとも、兄弟一致団結し此の宇和島藩を護って行く事こそ、肝要であろう。
 何様(どう)じゃ。
 ()う問われて、宗頼は、仔細承知(つかまつ)り申した、と頷いた。
 成程(なるほど)、秀宗殿の仰る事にも一理御座居ましょう。
 (しか)し、百助様も未だ生まれた(ばか)り。養子に取るには時期尚早かと存じます。又、秀宗殿が清兵衛殿の祟りに遭うと決まった訳でも御座居ませぬ。故に、()う云うのは如何(いかが)で御座居ましょう。
 秀宗殿に何か思わぬ事があった時に、此の話を推し進めると云う約定を、今此処で交わすと云うのは。
 勿論、此の約定が在ろうと無かろうと、桑折家は藩の為、全てを(なげう)つ所存に御座居ますが、と宗頼が云うと、秀宗ははらはらと涙を流した。
 儂は此の様な忠義の者を得て仕合わせじゃ。必ず、必ずや其の様に、宜敷(よろし)く頼むぞ。
 秀宗が狂おしい(まで)に最も(おそ)れて居たのは、己が死す事其の物では無かった。己が死した後の宇和島藩、宇和島伊達家の行く末をこそ、最も(おそ)れ、案じて居たのであった。

 此の約定が効を発するか否かは誰一人知る由も無かったのだが――
 秀宗が中風に倒れ、其の子、宗時に藩の実権を譲ったのは此の二年後の事であり、更に二年して秀宗が六男、徳松が夭逝()たのを()け、約定通り四男、百助は桑折家に養子に入る事と成った。


  top  
prev index next


novel (tag)
prev
index
next
※message
inserted by FC2 system