参
伸上り――という妖物が居る。
又の名を伸上り入道とも云う。処に依っては見越入道、見上入道、高入道等とも云うそうである。
入道と云うのだから、恐らくは人の様な姿を為て居るのであろうが、定かでは無い。
影の様で瞭然とはしないと云う話が多いが、丸くて奇妙な石の様であったとする話も有る。
何れにせよ、突然目の前に現われたかと思うと、見て居る内に次第に背が高く成り、見上げれば見上げる程更に背は高く成って行く物だそうである。又然う為て凝と見上げて居ると、不意に喉元に噛み付くのだとか、頸を締め上げるのだとか、倒れ掛かって来るのだとかも云う。
難を避ける為には、地上一寸辺りの処を蹴飛ばして目を逸らす、或いは見越したと叫ぶと好いと云う話である。
要は、見詰めて居れば何処迄も巨きく成り、然う為て上から人に害を為す妖物と云って、然程大きな間違いは無かろう。
其奴の仕業だ、と云うのである。
山家清兵衛公頼を児玉明神に祀って依り十年近くが過ぎようかと云う頃の話である。
其れ迄続いた雷害が真実に清兵衛の祟りであったのか何様かは分からぬ。
分からぬが、祀って以降大きな災害は起きずに過ぎた。
併し九年目。桂林院事秀宗正室である亀女の三回忌法要が営まれた折に其れは起きた。
処は、件の金剛山正眼院である。
桂林院殿の法要の最中、不意に大風が吹き付け、本堂の梁が落ち、あろう事か桜田玄蕃が圧死したのである。
又も山家清兵衛の祟りの再来かと、宇和島藩は上から下迄どよめいた。
風が吹いたされる時、本堂に向かって立ち上がる人の様な形を為た煙の様な物を見た、と云う者も在った。
見上げた者に倒れ掛かるが伸上りである。故に、桜田玄蕃が見上げて仕舞ったのでは無いか、と然う語る者も居た。
先の雷獣の一件も合せると、清兵衛は恰も死して妖物共の親玉にでも座り、手下を遣って彼此為て居るかの様であった。
此の事態には流石の秀宗も震え上がった。
八方手を尽くし、加持祈祷を行った。
護符やら法具やらを掻き集めた。
併し其れでも――
懼れを拭い去る事等出来よう筈も無かった。
何が悪かったのだ、と宇和島城内の自室で伊達秀宗は頭を抱えて居た。
其処に在ったのは最早、嵐の船上に措いても動じずに檄を飛ばした名君主では無かった。不惑を過ぎ、青褪めた顔で布団を被り、ぎょろぎょろと眼球だけを落ち着かず動かして居る、情け無く痩せた男であった。
山家清兵衛を討った桜田玄蕃が死んだ。
否、正確しくは清兵衛を討ったのは玄蕃の命を享けた配下の者数十名であり、其れらが徒党を組んで遣った事である。無論、首謀者と云う意味では、全ては玄蕃に帰結為るのではあろうが、玄蕃は直接手を下した訳では無い。
訳では無いのだが。
先の雷獣騒ぎで、直接手を下したと目される玄蕃の配下の者が次々と死んだ。
此度の伸上り騒動にて、命を下した玄蕃が圧死した。
斯様に、徐々に上へ、徐々に奥へ、徐々に根元へと、遡る様に為て清兵衛の祟りらしき物は拡がって来て居る。
なれば――
なれば、問題は其の次である。
山家清兵衛を討ったは上意討ちであると為れて居る。
詰まり、次に清兵衛の祟りを被るのは、己ではあるまいか。
然う、思ったのである。
故に、何時己の上に災難が降り掛かるかと秀宗は怯えた。
己の身から出た錆であるとは云え、冷や汗を垂らし、歯の根も合わぬ程に戦いた。
防ごうにも防ぎ様が無い。
避けようにも手立てが無い。
何せ――
相手は冥府魔道に堕ちた祟神である。
雷獣を操り、伸上りを遣う荒神である。
如何為て其の怒りから逃れられようか。
不安と恐怖で雁字搦めに成った秀宗は、居ても立っても居られず、忠義の者と名高い桑折家を頼った。
無論、桑折家に怨霊を祓う力など無いし、祟りの盾と成る事なども出来ぬ。併し、智恵を借り、意見を貰い、頼りに為る位は出来よう。
政宗に後見人として付けられた、七千石の河原渕領河後森城城代、桑折左衛門景頼は疾うに亡い。父の様な齢の、頼りに為て居た景頼が此の世を去った時には、秀宗も大層気落ちした物であった。併し、跡を継いだ其の息子、桑折中務宗頼も又、父に似て中々に謹厳実直な人柄であると聞いて居た。
故に秀宗は、其の宗頼を何とか手元に置かんと、七千石の河原渕領河後森城から一千石に減俸の上、宇和島城へと呼び寄せた。此れは高々十万石の宇和島藩に措いて同じ城下に七千石もの大口を抱える事は出来ず、又宇和島藩を一つに纏める為にも仕方無かった事ではあるが、傍から見れば理不尽な仕打ちには違い無かった。桑折家は元々宇和島藩の筆頭家老であり、改易騒動の際にも力を尽くした影の立て役者である。其れを考えれば、間違っても在るべき仕打ちでは無いのである。
併し、宗頼は其れに逆らう事は無く、諾と従った。
否、其れ処か秀宗に忠義を尽くし、又、暇さえ有れば怒りを鎮めんと児玉明神へ足繁く参る程であった。
領民は口々に桑折宗頼を憐れみ、又其の忠義を褒め称えた。
秀宗の見込み通り、宗頼は信の措ける男の様であった。
不意に、御免下さいませ、と部屋の外から声がした。
秀宗は震える声で、応えた。
む、宗頼か。
然う問うと、左様に御座居ます、と答が返った。
入っても宜敷う御座居ますか、との問いに秀宗は、小さく、入れ、と応じた。
襖を開けて閑かに現われたのは、厳しい表情の壮い男であった。
宗頼、お呼びにより参りまして御座居ます、と平伏する其の男に、秀宗は近う寄れと手招きを為た。
桑折宗頼は秀宗より十ほど若い男であったが、成程、景頼の教育が行き届いて居る様で、同年代に在り乍ら博識にして明皙、物の道理を弁えた人物であった。其の為、秀宗の後見人には成り得なかったが、相談役としては役不足ですらある程であった。
宗頼は、秀宗にとって頼り縋る相手と云うよりは、話し相手に成って呉れる朋輩と成った。
逆態に云えば、然う云った吐き出せる相手でも居なければ、此の時の秀宗は狂死していたやも知れなかった。
其れ程迄に、秀宗は追い詰められて居た。
膝で躙り寄った宗頼の手を取り、秀宗は、もう駄目かも知れぬ、と小さく云った。
何を仰いますか、と宗頼は応えた。
気を強くお持ち下され。秀宗殿は宇和島藩藩主に御座居ますぞ。此の様な時こそ確りと為ずして如何致す。
併し、と秀宗は猶も心細気に云った。
清兵衛が祟って居るのだ。
然う云って、秀宗は身を震わせた。
本気で云って居られるので御座居ますか、と宗頼が問い掛けると、秀宗は小さく頷いた。
手を下した者が死に、命を下した者が死んだのだ、次は――
と云い掛けて、秀宗の言葉は尻窄みに消える。
其の先は流石に明瞭とは口に出せなかった様であった。
其れは、則ち――
上意討ちであったと云う話は真実であった、と云う事で御座居ますか、と宗頼は率直と問うた。
併し、秀宗は間髪を入れず確りと頸を横に振った。
違う。
と、振り絞る様な声で秀宗は云った。
儂は命じて等居らぬ。
――違うので御座居ますか。
違う。
然う云って、秀宗は黙り込んだ。
上意討ちであると世の者共は云うが、実は違うと云う事は、秀宗が一番能く知って居た。
秀宗は其の様な命など下しては居ない。
居ないのであるが――
上意討ちであると云う噂が実しやかに流れた時に、秀宗は否定も肯定も為なかった。
順当な手続きを踏んだ上意討ちであったならば、改易騒ぎの際に、清兵衛の罪状と証拠を明らかにし、此れ故に討ったとして堂々と届け出れば好かった筈なのである。
其れが出来ずに釈明に奔走した処を見ただけでも、何れ真っ当な沙汰の在った物では無かった事が分かろうと云う物である。
併し、噂に対しては秀宗は敢えて口を噤んだ。
配下を御せぬ己の器を曝け出す訳に行かなかったと云うのも勿論在るが――
然うとは明白に云わずには居たが、山家清兵衛を疎んで居たのは紛れも無い事実だったからである。
清兵衛が除かれた事を、悼む所か心底嬉しく思ったからである。
丸で長年在った目障りな疣か、或いは呑み込めぬ喉の痞が、不意に無くなったかの様な晴れやかな心持ちだったからである。
口には出せずに居たが、其れを察して先回り為て遣って呉れたであろう事に、感謝すら覚えて居たからである。
故に、否定せぬ所か、下手人である桜田玄蕃一派を不問に付しすら為た。否、増禄すら施した。
逆態に、山家清兵衛の親類縁者や賛同者を片っ端から放逐、碌召し上げ、士分剥奪に処した。
此れは則ち、上意討ちである事を暗に認めたも同然であった。
真実は、違って居たのだが。
直接に指示等、下しては居なかったのだが。
違って居るのならば、と宗頼は応じた。
内心が何様在ったとしても、何も恐れる必要は御座居ますまい。真実に命じたのならば恐れるのも道理では御座居ますが、然うで無くて殿を祟らんと為るならば筋違いの逆恨み。毅然と為て居れば宜敷かろうと存じます。
否――
縦令、真実に殿の上意であったとしても、武士たる者、祟りを為すは言語道断で御座居ましょう。
と、宗頼は云った。
何故、然う思う。
問われて宗頼は、至極当然の様に云った。
知れた事。武士たる者、主君の命には文字通り命を賭して従うが倫に御座居ます。苦しかろうと辛かろうと、否哉は御座居ませぬ。主命が正道に背くとあらば諫め申し上げるも忠臣の筋には御座居ましょうが、容れられぬからとて最初から祟りだ何だと闇討ちの様に為ては、其れこそ正道に沿いませぬ。主君は大きく構えて在らねば下々が狼狽えます故、努々動揺召されませぬ様。
斯う云われても、秀宗は易々とは受け容れられぬ様であった。
未だ不安と恐怖が拭い去り難く染み付いて居る様で、ぎょろぎょろと視線を四方に走らせて居る。
喃、宗頼。
と、呼び掛けられ、宗頼は居住まいを正した。
何で御座居ましょうか。
問われ、秀宗は怯えた眸を宗頼に合わせた。
御主の云う事は分かる。
分かるが。
其れが。
其の筋道が、清兵衛にも通じようか。
何故通じないとお思いに、と宗頼は応じた。
聞けば山家清兵衛殿は忠臣の中の忠臣。死す時も護国の鬼に成らんと嘯いたとか。なれば――筋を違えは致しますまい。
併し、と秀宗は反駁した。
清兵衛は雷獣を操り、伸上りを遣う妖物に成り果てて居るのだぞ。人間の道理が通じる相手では、最早在るまい。
然う云われて、宗頼は、寧ろ其れ故にで御座居ます、と応えた。
上意討ちが真実では無いので御座居ますれば、即ち其の雷獣やら、伸上りやらのお蔭で失われたるは、所詮、主命を騙って清兵衛殿を討った不埒者共では御座居ませぬか。秀宗殿にとって害在りとすべき者共。顧みる必要等御座居ますまい。現に秀宗殿は、害一つ無く護られて居りましょう。
其れとも――
清兵衛殿は生前から道理の通じぬ妖物に御座居ましたか。
然う問われ、秀宗は唸って黙り込んだ。
其の様な事は無い。
寧ろ公明正大で理路整然と為て居たが故に、疎んで居たのだ。
妖物等では無い。
妖物等では――
――否。
慄然と、秀宗は背筋を走る冷たい物を感じた。
妖物、であったのやも知れぬ。
然う、思ったからである。
伸上り――
己にとって、清兵衛は伸上りであったのかも知れぬ、と秀宗は思った。
伸上りは、夜道で不意に目の前に現われて、見上げる程に巨きく成る妖物である。
又、凝と見上げ続けて居ると襲い掛かって来ると云う。
其れが、秀宗には清兵衛と重なって見えた。
父に付けられ、不意に目の前に現われた男であった。
己の家臣であるにも関わらず、何方かと云うと上から監査為る様な目で見られて居た。
時に父を介して、時に自身の口から、諫める様に小言を多く云われた。
而も大抵が正しく、反論の余地も無い物であった。
其れが、気に入ら無かったのである。
己の自由に為せて貰えぬのも、気に食わなかったのである。
故に――
疎んじた。
否が応でも目に入る、目に付くのだから、何時か潰して遣ろうと昏い炎を燃やした。
併し――
虚勢を張り、見下して遣ろうと背伸びを為れば為る程に巨きく成る。
張り合おうと、負けまいと見詰める程に何処迄でも背が伸びる。
其れが秀宗にとっての清兵衛であったが――
詰まり此れは伸上りに他ならぬのでは無いか。
則ち其の最後には、見上げて居る此方の身を滅ぼして仕舞うのでは無いか。
故に。
若しか為ると、見上げて仕舞った己の喉笛を食い千切る迄清兵衛の祟りは終わらぬのでは無いか。
然う思ったのである。
怯えた様の秀宗を見て宗頼は、小さく頭を振った。
真逆、真実に清兵衛殿は理の通じぬ御方であったと、然う仰せで御座居ますか。
違う、と秀宗は小さく答えた。
違うのだ。
然うでは無いのだ。
然う云う話では無いのだが――
此れは如何に理を尽くしても、宗頼に理解かって貰う事は出来そうに無かった。
喃、宗頼。
と秀宗は再び呼び掛けた。
一つ、願いを聞いて貰えぬか。
何なりと、と宗頼は応えた。
秀宗は宗頼の握った手に更に力を込め、百助を、と口にした。
百助を、養子に貰っては貰えまいか。
百助とは、秀宗殿の四男の、彼の百助様で御座居ますか、と宗頼は応じ、秀宗は左様と頷いた。
何を仰いますか、と宗頼は云った。
気を確かにお持ち下され。
確かじゃ、と宗頼は半ば狂気に冒され掛けた、ぎらつく眼差しで応えた。
好いか、此れは思い付きで云って居るのでは無い。最善を考えた上で云って居るのだ。
最善とは、と問われ、秀宗は手に更に力を込めた。
一つは、伊達の血を絶やさぬ為じゃ。
仮に清兵衛の祟りが我が身に、伊達の家に降り掛かろうとも、其方の家に血筋が遺って居れば何様とでも成ろう。縦令我が係累が奇禍に遭おうとも、血を散らして措けば何処かには遺ろう。伊達の名が消え掛けようとも、桑折に百助さえ遺れば宇和島伊達家は其処から屹度立て直せよう。
二つは、御主の家との繋がりを猶強固める為じゃ。
儂の伊達の血が遺ったとて、家臣に信が措けねば何にも成らぬ。併し、筆頭家老たる桑折家と血縁が在れば又話は別。血は水よりも濃いの例えも在ろう。藩主と家老の立場の違いは在ろうとも、兄弟一致団結し此の宇和島藩を護って行く事こそ、肝要であろう。
何様じゃ。
然う問われて、宗頼は、仔細承知仕り申した、と頷いた。
成程、秀宗殿の仰る事にも一理御座居ましょう。
併し、百助様も未だ生まれた許り。養子に取るには時期尚早かと存じます。又、秀宗殿が清兵衛殿の祟りに遭うと決まった訳でも御座居ませぬ。故に、斯う云うのは如何で御座居ましょう。
秀宗殿に何か思わぬ事があった時に、此の話を推し進めると云う約定を、今此処で交わすと云うのは。
勿論、此の約定が在ろうと無かろうと、桑折家は藩の為、全てを擲つ所存に御座居ますが、と宗頼が云うと、秀宗ははらはらと涙を流した。
儂は此の様な忠義の者を得て仕合わせじゃ。必ず、必ずや其の様に、宜敷く頼むぞ。
秀宗が狂おしい迄に最も懼れて居たのは、己が死す事其の物では無かった。己が死した後の宇和島藩、宇和島伊達家の行く末をこそ、最も懼れ、案じて居たのであった。
此の約定が効を発するか否かは誰一人知る由も無かったのだが――
秀宗が中風に倒れ、其の子、宗時に藩の実権を譲ったのは此の二年後の事であり、更に二年して秀宗が六男、徳松が夭逝為たのを享け、約定通り四男、百助は桑折家に養子に入る事と成った。
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