窮
我慢がならぬ、と唸る様に男は云った。
「何と云う不遜、何と云う不敬。斯様な無礼、無道、無思慮、無分別が在ってなる物か。然うでは無いか。否、然うであろう」
抑えよ、大膳、と閑かに窘めたのは山内伊賀亮であった。
「声を荒げても何にも成らぬぞ」
「抑えられる物か」
と、赤川大膳は眉を逆立て怒鳴り返した。
「御主も憶えて居よう、彼の稲生下野は我等が主君を将軍の御落胤と認め、御親子御対顔に力の限りを尽くすと然う誓ったでは無いか。其れだと云うのに――」
何時迄経っても何時迄待っても音沙汰無き儘では無いか。
「よもや、彼れは嘘偽り、我等を謀ったとでも云うのか。であるならば此の不埒不届、如何に償わせて呉れよう」
喚き、気勢を揚げ、今にも暴れ込まん勢いで猛る大膳を見て、伊賀亮は小さく溜息を吐いた。
此の赤川大膳と云う男は元は四國伊予國の山賊の頭領であり、藤井左京とは義兄弟の間柄である。
身体は巨きく力も強く、知恵も人望も並以上には持ち合わせる。故に山中で十数人の荒くれを束ねて居た。其の実力を見込んで仲間に引き入れた。
気が短く、気性が荒いのが難点ではあるが、其処は諸刃の剣。却って御し易かろうかと考えたのは果たして正解であったか否か。
――否、加えた仔細は其れだけでは無いのではあるが。
「抑えよ、と云ったぞ」
伊賀亮は繰り返した。
「抑も前の再吟味、稲生下野が真実に恐れ入り、屈服した物と思って居たのならば傍痛し。無論あわよくば我等を云い伏せんと念って居たのではあろうが、其れが叶わぬと悟ったが故の偽りの降伏に過ぎぬ。然う為て猶予を稼ぎ、其の内に紀州を初め方々調べる心積もりであったのは明白であろうよ」
伊賀亮が大膳を仲間に引き入れた真実の仔細は、実は其処に在った。
大膳は野盗で在り乍ら、珍しく氏素性の明白な男である。
氏素性が知れれば、其処から何か手掛かりが得られぬ物かと人は考える。外の者の素性が知れぬ中、分かり易い手掛かりが一つ目の前に在れば、余所には目も呉れず思わず飛び付いて仕舞うのは仕方の無い話である。
詰まり赤川大膳とは、居るだけで見せ餌の役割を果たす、謂わば目眩ましであった。
無論、然うとは決して口には出さぬが。
「詰まり彼れは猶予を稼ぐ為の方便であったと」
「然様」
「面を伏せ乍ら肚の中では舌を出して居たと」
「如何にも」
「何故に然う云い切れる」
「知れた事」
事も無げに伊賀亮は云った。
「憶えて居よう、稲生下野は終始、此の山内伊賀亮を如何に云い伏せるか、其れのみに苦心惨憺為て居た事を」
「応とも」
「彼れは――」
彼れは意味が無いのだ、と云われ大膳は、其の様な訳が在るか、と反駁の声を上げた。
「吾にでも分かる。戦にも様々在るが、敵の首魁を落とすのが最も容易く勝敗を決する道であろう。なれば御主を真っ先に狙うが常套手段では無いか」
「御主の詞が正鵠しいのであれば、射るべきは天一坊であろうよ」
「然うでは無い」
天一坊は謂わば神輿では無いか、と大膳は更に云い返した。
「其の時々で狙うべき要所が変わる事等、云う迄も無かろう。幾ら戦が主君の命に依って起きるとしても、戦場から遠く離れた城内を狙い討つ訳には行くまい。戦を終わらせるには其の場の指揮を執る者を討たねばならぬ。将を射んとすれば先ず馬を射よの喩えも有る。前の再吟味で云えば、神輿を担ぐ要となる御主を狙うが定石。でなければ神輿は何時迄も落ちぬでは無いか」
「では訊くが」
と、伊賀亮は大膳を見据えて問いを発した。
「若し仮に拙者が云い伏せられて居たら何様成って居たと思う」
「其れは――」
云い掛けて、大膳の詞が止まる。
其れを見た伊賀亮は、見た事か何様にも成るまい、と嗤った。
「稲生下野が老中に依る吟味の直後に再吟味を願い出たは、先んじて他の動きを制する為。然れど、其れ故に下調べが叶わぬ儘に場に臨む事と成った。詰まり彼の再吟味の問答は破れ齧れの苦肉の策よ。拙者が参ったと音を上げれば其の先の尋問も容易くは進もうが、何れにせよ天一坊が真者か否かを問わねば何にも成らぬ。なれば――」
時を改めて当に其れを問う場を設けるは必定。
「詰まり――」
詰まり、次に呼び出され、浮々と出向いたら再々吟味と云う事も有る、と云う事か、と大膳が問うのと同時に、障子の向こうから声が掛かった。
「伊賀亮様」
其れは取り次ぎ役に玄関近くに置いた、中村市之丞の声であった。
伊賀亮は皆に動じるなと云う様に目配せを為て、其れから、何事も無かった様に応えを返した。
「如何した」
「只今、勘定奉行稲生正武様依り、御使者平石次右衛門が参って居ります」
「して、用向きは」
「其れが、天一様御重役山内伊賀亮様に御目通り致し、申し上げたき儀が御座候との事にて」
「相分かった」
伊賀亮は頷いて座を立ち、落ち着いて待てと云い置いて、次右衛門を使者の間へ通させた。
使者の間にて対座すると、次右衛門は深々と頭を下げた。
「拙者、勘定奉行稲生下野守正武様の代理にて、天一様御重役山内伊賀亮様にお伝え為る儀有りて斯く罷り越して御座候。主人の申し候事は、明日は吉日に付き、御親子御対顔の儀御取り計らい仕り候。重役和泉守、稲生役宅迄参られ、天一様へ御元服を奉り、其れ依り和泉守の御案内にて御登城の運びと成り候。西の御丸へ直らせられ候節は、酒井左衛門尉依り御槍一筋献上仕り候事吉例に候えども、左衛門尉は只今出羽國鶴ヶ岡に罷り在り候に付き、名代として和泉守依り猿毛の御槍一筋献上仕り候。上様依りは御祝儀として御先箱一つ、御打物一振り下賜候。打物は雨天に候節は御紋唐草の蒔絵柄、晴天に候えば青貝柄を御用意候。大手迄は御譜代在江戸の大名御出迎え、御中尺迄は尾州、紀州、水戸の御三方の御出迎えにて、御玄関依り御通り遊ばし、御白書院に於いて公方様御対顔、其れ依り御黒書院に於いて御台様御対顔、再び西湖の間に於いて御三方御盃事有り。其れ依り西の御丸へ入らせられ候。御石高の儀は、上野國二十万石、下総國十万石、甲斐三河二十万石、都合五十万石にて上野國左位郡厩橋の城主格に御座候。猶、申し遺しの儀在らば、明日成らせられ候節、勘定奉行直々に言上仕り候」
其の爽やかな弁舌は一点の非の打ち所無く、城中の事を詳しく知る伊賀亮の目からも一々理に適って居た。
伊賀亮は一旦奥へ下がり、皆々に此の趣を申し聞かせてから、再び使者の間へ戻った。
「前の段、上様へ申し上げ候処、御満足に思し召し、明日巳の刻に役宅へ参るべしとの上意なり。下野殿には能く能く御伝え下さる様」
「畏まり候」
次右衛門は厚く礼を述べ、暇を告げて八山旅館を後にした。
其れを玄関迄見送ってから奥座敷に戻った伊賀亮を、期待と不安の籠もった面々が出迎えた。
「此れは――」
と、大膳が口火を切った。
「事が成就せりと思って好いのであろうかな。其れとも、其方の云う様に――」
「扠な」
伊賀亮は然う暈かしたが、何も其れは悪意が有っての事では無かった。
真実に、判らなかったのである。
「寡なくとも、聞く限りの範囲では、何様やら事は上手く運んで居る様である」
併し――
「彼此半年も待たせて措いて、明日とは余りに性急。何か裏が有るのでは無いか、身支度、心支度を為せぬ策やも、と勘繰るも已む無しであろう。御対顔の儀と偽って油断させ、呼び出して策に嵌める心算なのかも知れぬ」
詰まり――
「詰まり、裏で事を為す準備が調った、と云う事か」
「然う、かも知れぬな」
深く思案為る様な口振りに大膳は、何を悠長に構えて居る、と声を荒げた。
「不味いでは無いか」
「何が不味い」
「慥かに我等が持つ御墨付、御短刀は紛れも無く真物。なれど天一坊は――」
「大きな声を出すな」
と、伊賀亮は閑かに制した。
「同じ事よ」
「何が同じだ」
「如何に稲生下野が手を変え、品を変えようと、当方に又其の裏を掻く策有り、詮方有り」
寧ろ再々吟味と成るならば却って好機、逆態に利用し押しも押されもせぬ真者の御落胤に祭り上げて見せよう、と伊賀亮は云った。
「案ずるな、此方には切り札が、有る」
然う云って伊賀亮は、閑かに嗤った。
無論山内伊賀亮には知る由も無い事ではあったが、稲生下野守正武、ひいては八代将軍吉宗公にも切り札は有った。
切り札と云うのは、名奉行と名高い大江戸南町奉行、大岡越前守忠相其の人である。
只、其の大岡越前は――
有り体に云って、大層困惑為て居た。
時の大将軍、徳川吉宗公依りの召し出しの文に応じて、何事かと殿中に上がれば奥に通され、扠は余所には漏らせぬ密談か、厄介な案件かと覚悟を決めて見れば突然顔も名も知らぬ男に引き合わされた。
然う為て、本多儀左衛門と名乗る其の男から聞かされた話が、件の御落胤騒動であった。
聞き終え、忠相は咳払いを一つ為た。
其の意を汲んで吉宗は儀左衛門を下がらせた。
併し、居住まいを正し、口を開こうと為た忠相の機先を制する様に、吉宗は嗤い乍ら、何様だ、と逆態に尋ねた。
「興味深かろう」
「興味深い、では済みませぬ」
呆れた様に忠相は返した。
「先ず、いの一番に伺いたき儀が御座居ます。上様に措かれましては、よもや御心当たりが有る、等とは仰いますまいな」
「其れが、有る、と云ったら如何致す」
若し然う仰せならば、と忠相は首を振った。
「此れは天下の一大事に御座居ますれば、忠相一人の手には余りまする」
「では、何様為る」
「――と、仰いますと」
問い返されて、吉宗は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「手に余るならば、手は出さぬのか。此の場で見聞きした事を忘れ、何も為ず、只事の成り行きを眺めて居る心算かと尋ねて居る」
「其れは――」
問われて答えは一つしか無い。其れは到底出来ぬ相談であった。
忠相自身でも云った通り、此れは天下の一大事である。
知って仕舞った以上は調べ上げ、真偽の程を明らかに為ずには措けぬ。
否、其の上で若し誤った方へと事が進む様であれば、手出し口出しを為ずには居られぬ。
忠相の内心の動きを見透かした様に、吉宗は、然うであろう、と頷いた。
「此れ依り老中共の吟味が行われると聞く。其れに御主も列座致せ」
「宜敷いので御座居ますか」
「許す」
と、吉宗は短く応えた。
「予と御主の間柄は皆の知る処。予の命と云えば如何に老中格、若年寄格より劣る町奉行と云えど、列席に否哉は唱えられまい」
「恐悦至極に御座居ます」
忠相は深々と頭を下げた。
此れは便宜に対する当然の返礼であった。
此度は斯う為て吉宗公の手引きで忠相の知る処と成ったが、若し然うで無ければ忠相の耳に入るのも遅れたであろうし、老中共の吟味にも立ち会えずに居たであろうし、一件に手を出す事も赦されずに居たであろう。抑も事の管轄が町奉行の域を超えて居り、手出し口出しは無用と云われて仕舞えば何も出来ぬのである。出来ぬのではあるが、遅れ馳せ乍らも知って仕舞えば放って措く事も出来ずに悶々と為て居たであろう。若しか為ると管轄違い筋違いを侵して迄横車を押していたやも知れぬ。
詰まり、此の忠相の召し出しは、寧ろ吉宗の気遣いであったと知れた。
「其れで、次に」
と、忠相は二つ目の問いを口にした。
「上様の御考えは如何に」
「扠、一体何に就いての考えであろうか」
「では、違う訊き方にて。上様は、彼の者が真者で在って欲しいとお思いか、或いは、贋者で在って欲しいとお思いか、其れを御聞かせ戴きたく存ずる」
「成程」
と、吉宗は頷き、何方でも好い、と至極淡然と云った。
「予には未だ児が居らぬ。故に若し真実に予の児であるならば、此れ程喜ばしい事も在るまい。併し予を謀らんと為る企みならば、乗って仕舞っては取り返しが付かぬ」
故に何方でも好い、と吉宗は繰り返した。
「只、真実を見誤らねば其れで好い」
「承知致し申した」
では最後に、と忠相は三つ目の問いを発した。
「上様は何か動かぬ証拠と成る様な物に御心当たりは御座居ますまいか」
問われて吉宗は、口を閉ざして腕を組んだ。
「何でも構いませぬ。見目形、身体の特徴、或いは余人の知り得ぬ記憶等、何か一つでも然う云った物は御座居ますまいか」
吉宗は暫し黙考為て居たが、軈て顔を上げ、忠相を真っ直ぐに見据えて斯う云った。
「無い」
其の瞬間の忠相の落胆は、口では云い表せぬ程であった。声が細り、震えるのを押さえ込んで、忠相は問いを重ねた。
「御座居ませぬか」
其れでも、其の声は呟く様にか細い物であった。
「何れ程些細な事でも構いませぬ。何か一つ位は」
「――無いな」
寡なくとも思い出せはせぬ、と潔然と吉宗は続けた。
「忠相」
薄情だとは思って呉れるな、と云った吉宗の声は、忠相同様、喉の奥から絞り出した様に力無く、苦々しげであった。
「予とて、我が子かも知れぬ男、我が妻であったかも知れぬ婦に何も思わぬでは無いのだ。併し――」
思い出せぬのだ。
「慥かに彼の時分に予の児を孕み、暇を乞うた婦が居た事は憶えて居る。若し男児が生まれれば名乗り出よと書付と守り刀を呉れて遣った憶えも在る。併し其れが何処の何様な婦であったか、容貌、背格好、生まれ育ち、声の調子とて瞭然とは思い出せぬのだ。余りに数多くの婦に手を付けた故か、丸で霞が掛かった様に薄模糊として、幾つもの記憶が重なり合って、何れが誰か全然分からぬ。其の児となれば最早逢うてすら居らぬ。知る由も無い」
赦せよ、と云う吉宗に、成程、と忠相は頷いた。
「詰まりは逆に」
「然う、逆に」
「余人は疎か上様自身とて知らぬ、動かし難い証拠を持って参ったならば」
「其の時は、我が子として疑い無く認めざるを得まいよ」
在れば、の話だがな、と吉宗は結んだ。
「承知致しまして御座居ます」
忠相は深々と頭を下げた。
「此の大岡越前守忠相、身命に代えましても必ずや真実を見付け出して参ります」
其れではと御前を辞そうと為た忠相に、然うだ、と吉宗から声が掛かった。
「先程の男」
忠相は顔を上げ、眉根を寄せて、毫しの間記憶を辿って居たが、直に思い出し、噫、と手を打った。
「慥か、本多儀左衛門と申しましたな。彼の男が、何か」
「何、御主の評を聞きたくてな」
辞す際を失った忠相に、吉宗は又も悪戯っぽく嗤って然う云った。
「評――と申しますと」
「御主、彼の男を何様見た」
何様見たか、と云われても曖昧過ぎて何様答えたら好いのかが分からぬ。
毫しだけ思案して、忠相は、少々妙な男で御座居ますな、と云った。
「見た処、江戸城に相応しい男とは到底。恐らくは何処ぞの素浪人に違い有るまじく思えまするが、如何に」
「其れだけか」
「其れ以上の評は持ちませぬ」
然うか、と吉宗は含み嗤いで云った。
「なれば問いを変えようか。御主は件の天一坊とやらを知って居ったか」
「――否、耳に為たのは只今が最初にて」
「其処よ」
と、吉宗は膝を叩いた。
「何故聞いた事が無い」
「報せた者が居りませぬ故」
「何故居らぬ」
矢継ぎ早の問いに忠相は声を詰まらせた。
何故報せた者が居ないのか。
報せるに値せぬと思ったか、或いは、報せぬ方が得と思ったか。
何方かは分からぬ。
分からぬが――
――否。
此処に来て忠相は思い至る。
何方でも同じなのだ。
報せるに値せぬと誰もが考えた事を。
或いは報せぬ方が得だと誰もが考えた事を。
何故、彼の男は報せに来たのか。
其れは則ち、報せるに値し、報せた方が得だと、然う考えたからに相違無い。
外の誰一人として然うは考えなかったにも関わらず、である。
気付いたか、と吉宗は嗤った。
「故に、態々殿中に呼び寄せ、話を聞いたのだ。正解であったぞ。身形こそ見窄らしく、口調こそ頼り無く、態度こそ自信無い様ではあるが、一度口を開けば知識は深く広く、万事に精通し、話は大層興を惹く。彼れ程目端が利く者も然うは居らぬ。只の流れの素浪人に為て措くには余りに惜しい」
其処迄聞けば、忠相にも吉宗の云いたい事が能く分かった。
「成程、では、彼の男も吟味に列席させよ、と云う事で御座居ますな」
「其の通り」
と、吉宗は大きく頷いた。
「然う為て措いて、決して損を為る事は在るまいよ」
「御意に御座居ます」
然う云って忠相は頭を下げた。
御対顔の儀の当日。
夜明け辰の上刻に天一坊ら一行は八山を、勘定奉行役宅に向けて発った。藤井左京、赤川大膳らを先頭に、行列は以前に増して華美に装い、以前にも増して人を並べ、当に五十万石の大名に相応しき様であった。徳川家の参勤交代も斯くやと云う大行列に無礼失礼が在ってはならぬと、途中の横町横町は木戸を閉め切り、町内町内の自身番屋には鳶の者共が火事装束にて詰め、家主等も代わる代わる訪れては様子を窺って居た。数寄屋橋御見付へと入れば普段よりも人出は夥しく、天一坊の供が残らず繰り込むのを待ち、御門をはたと閉め切った。
一行が稲生御役宅へ到ると、大門が開いた。其の儘敷台迄駕籠を横着けにすると、公用人平石次右衛門、池田大助等が平伏して出迎えた。
「天一様に措かれましては、一先ず奥の間にて暫く御休息遊ばされたく。山内伊賀亮様、赤川大膳様、藤井左京様も供に――」
云い掛けて、詞が止まる。
「はて、常楽院天忠様は何処に」
「天忠殿は」
と答えたのは、赤川大膳であった。
「昨晩依り俄に癪気差し起こり、全快覚束ぬ故、宿にて憇み居り候」
「成程、畏まりまして御座居ます」
云、と大膳も伊賀亮も鷹揚に頷いたが、此れは策でも何でも無かった。只、昨晩天忠が然う訴え、万端宜敷く御頼み申すと云い送って引き籠もって仕舞ったのである。事が成就する其の刻に立ち会えぬは哀れなれど、病とあれば仕方の無い事であった。
斯く為て、天一坊を筆頭に、山内伊賀亮、赤川大膳、藤井左京らは次右衛門の案内で奥へと通された。
長き廊下を抜け、此方で御座居ます、と次右衛門が襖に手を掛け押し開く。
開いた途端に、黒と緋色の斑が目に飛び込んだ。
其処に広げられていたのは在ろう事か、血塗れの着物であった。突然の事に怯とした天一坊等一行ではあったが、部屋の中に居た者共も怯とした様に目を剥いた。
「やや、仕舞った」
慌てた様に声を上げたのは、襖を開いた当の次右衛門であった。
「申し訳御座居ませぬ。部屋を間違いまして御座居ます。此方、人を殺めし証拠の品の吟味中に御座居まして」
云って、急いで襖を閉じた。
「見苦しい物を御目に掛け、詫びの詞も御座居ませぬ。天一様の御出でに成る日であるとは知り乍ら、外の御役目も蔑ろには出来ませぬ故、平に御容赦を」
床に額を擦り付ける次右衛門に、余りの事に色を失っていた天一坊らであったが、軈て、気を取り直し、絞り出す様な声で、好い、と云った。
「確乎と役目に励めよ」
「有り難き御詞に御座居ます」
次右衛門は顔を上げ、すっくと立ち上がった。
「斯様な物が近くに御座居ますれば気も休まりますまい。今毫し奥の部屋に」
「相分かった」
誰からとも無く頷いて、導かれる儘に役宅の奥へ奥へと誘われた。廊下を曲がり、濡縁を抜け、屋敷の最奥の襖を押し開く。
其の先には――
「能くぞ参ったな、宝沢」
勘定奉行稲生下野守正武では無く、大江戸南町奉行大岡越前守忠相が待ち構えて居た。
度重なる不意打ちに、流石の伊賀亮も心が揺れるのを抑えられなかった。稲生正武を相手取る心算で居た。勝てぬとも思って居なかった。併し、対手が将軍の懐刀、名奉行と名高い大岡越前であったならば、多少は話が変わって来る。切り札は有る。準備も為て来た。なれど、寡なくとも、大岡越前を相手取るだけの備えが、心構えが在ったかと問われれば、答えは否である。
動揺為乍らも伊賀亮は気取られぬ様、虚勢を張る。
「此れは何様云う事か。何故、下野守殿が居られぬ。其れに、宝沢とは一体」
云い募る伊賀亮に、忠相は嗤って応えた。
「稲生正武殿は急病にて出仕致しかね、手前が代理を仰せつかった次第。名乗りが遅れて申し訳御座らぬが、手前は南町奉行大岡越前守忠相である。又、宝沢とは――」
手前が云わずとも能く御存知であろう。
「知らぬ、知らぬ。如何に南町奉行、如何に稲生殿が代理とは云え、無礼を働けば赦さぬぞ」
伊賀亮の怒声も何処吹く風と受け流し、忠相は、未だ云い逃れが出来ると御考えか、と応じた。
「此の半年、紀州表を調べ尽くすには充分な猶予であった。故に御主達の悪巧みは悉皆此方に見透かされて居るぞ。観念致せ」
「此れは異な事。悪巧みとは聞き捨てなるまじ。当方は将軍様の御胤として逃げも隠れも致す要無し。然う迄仰せならば其の儀、存分に語り尽くすべし」
「吠えたな伊賀亮、ならば聞け。御主の持つ御墨付は慥かに将軍の直筆。信の措ける品。故に、吉宗公が徳太郎信房と名乗り措いた時分の紀州表に、沢の井なる女中が居らぬか探させた。沢の井なる名は滝津、皐月と供に加納将監宅に於ける女中の通り名にて、真名も知れず、調べは難航したが、探しに探し、訪ねに訪ねた末、平沢村のお三婆、其の娘のよしが嘗て沢の井の称にて加納家に勤め、児を生して郷帰りを為たと知れた。併し――」
と、忠相は此処で詞を切り、皆の反応を窺う様に見回した。
「其の児もよしも産後に相果て、村に弔われて居る」
何様だ。
「此れが真相ならば、御主達の掲げる御落胤は真っ赤な贋者では無いか」
「成程の御詞には聞こえるが」
と、伊賀亮は口を開いた。
「拙者、生憎見聞きはせぬが、慥かに御奉行の仰せの通り、平沢村のよしなる女と其の児は果敢無く御成りやも知れぬ。併し、其れと此れとは関わりの無き話。全くの別人にや在らん。此れなる天一様の出自を疑う理由には成り得ませぬな」
「では此れは何様か」
と、忠相は動じた風も無く続けた。
「可愛い我が子と我が孫を喪ったお三婆は悲しみの余りに気触れ為て、村中を罵り叫び廻る故に村を追われ、隣村の平野村預かりと成って居る。其の後に正気を取り戻し、平野村にて産婆を為て糊口を凌いで居たが、或る大雪の晩、強かに酒に酔い、囲炉裏に転び落ちて相果てた。扠其の当時、此の村に感応院なる山伏と其の弟子が居た。お三婆の命を奪いし元凶は此の弟子の届けし酒肴。又山伏感応院は同年暮れに毒に中たって死せるものなり。双方に深く関わるであろう此の弟子は、感応院亡き跡を継ぐべしと村人に求めらるるも、山伏は難行苦行を為る者にて、未だ己は修行足らず、暫く他國を流浪し、難行苦行を修めし後に跡を継がんと応え、旅に出て居る。併し、其の先で野盗にでも遭ったか、血に濡れた笠、衣類のみを遺して行方を眩ました。此の弟子、九州の浪人原田何某の倅にて、幼年の頃両親に別れ感応院に預けられし由来、名を宝沢と云う」
然う云って、忠相は再び天一坊一行を睥睨した。
「天一坊、御主こそが、お三婆を殺して御墨付と御短刀を奪い、師匠たる感応院を殺して村を出る大義名分を作り、死したるを装って行方を眩ました宝沢に外なるまい」
「其処迄仰せに成るからには、何やら確かな証拠が在るに違い無し。ならば是非とも御見せ願いたし」
と、伊賀亮は低い声で云った。
「天一様を贋者と疑うだけならば未だしも、人殺しの汚名を着せるとあれば、若し違った時には只では済まぬぞ」
「強気で居られるのも今の内だけだと知るが好い、伊賀亮。先程御主達は間違った部屋へ通され掛けたであろう。彼の部屋の中に居た者達を憶えて居るか」
問われて、伊賀亮は眉を顰める。
憶えて居る訳が無い。
彼の時は血塗れの着物に目が吸い寄せられ、其の廻りに居た者達等、目に入りはしなかった。
「彼処に居たは平沢村の百姓善兵衛、平野村名主の甚左衛門。両名とも宝沢の顔を能く知り措く者達なり。二人は供に斯う云って居る。天一坊と名乗る彼の男の顔は、感応院の弟子宝沢に相違無しとな。何様だ此れでも認めぬか」
「愚鈍な」
「未だ云い逃れを為るか」
「云い逃れ等ではない」
其の宝沢とやらが平野村に居た年の頃は幾つ位であったか、御奉行は御存知か、と伊賀亮は冷たく云った。
「十二、三程であろうか」
「然うであろう。其の年頃の男児は一年も有れば見違え、背丈も風貌も大きく変わる物。似て居る、似て居ないの詮議は意味無き事にて。其れで好いのならば、先達ての吟味の際にも申し措きし、天一様は将軍様に能く似て御座候故、御落胤に相違無し、で宜敷かろうと存ずる」
と、伊賀亮は嘲る様に云った。
「似て居るだけでは無い。宝沢の顔、下唇に小さき黒子一つ、又左の耳の下に大きなる黒子有り。此れは、其処なる天一坊の顔にも見て取れよう」
「其れが如何したと」
「未だ認めぬか、此れぞ其処の者が宝沢に相違無き動かぬ証拠であろう」
「動かぬ証拠、と申されるか」
伊賀亮の声音は呆れた様であった。
「ならば逆態に御尋ね致す。今御奉行の示された宝沢とやらの顔の特徴、書き残しか、描き写しか、何か証明す物が御在りなので御座ろうな」
「――何と申した」
「御分かりに成らないのであらば今一度明瞭と申し上げる。只今御奉行は、十二、三の頃の面影が在る、証拠の品は無いが顔に特徴が有るとの儀にて、在ろう事か、将軍様御下賜の御墨付、御短刀と云う証拠の品を持って名乗り出た御落胤に、人殺しの濡れ衣を着せようと為て居られる事を御自覚されるが宜敷かろうと存ずると、斯う申し居る」
顔の特徴とて、見れば外から見える物。真逆、此れで襤褸を出さぬかと鎌を掛けたのではありますまいな、と睨み付ける。
忠相は詞に詰まった。
其処なる天一坊は宝沢で間違い無かろう。
筋は通る。
証言も在る。
併し――
慥かに伊賀亮の云う通り、動かぬ証拠は何処にも、何一つとして、無いのである。
其の理由の一つは、伊賀亮の目論見通り赤川大膳の出自を辿る事に相当な時間と労力を浪費って仕舞ったからでもある。
併し、其れを差し引いても、矢張り無いのだ。筋書きは読めた。間違いは無かろうと思えた。其れでも、御落胤であると云う主張を覆すだけの、御墨付、御短刀以上の説得力を持つ動かぬ証拠は、見つからなかったのだ。
「なれば――」
と、忠相は攻める向きを変えた。
「逆態に問うが、其方には在るのか。動かぬ証拠が」
「御墨付と御短刀は間違い無く真物と誰もが御認めに成って居りまするが、其れでは足りぬと」
「然様」
と、忠相は頷いた。
「慥かに御墨付、御短刀は真物なれど、前にも申した通り、天一坊自身には疑いの儀在り」
「云い掛かりとしか思えぬが」
「疑いは疑いなり」
其れ以上は退かぬらしいと見て取って、伊賀亮は黙って続きを促した。
「故に、天一坊自身が間違い無く将軍の御落胤であると云う証拠を、御見せ戴きたし」
「成程」
と、伊賀亮は顎を撫でた。
「其れは――」
出来かねますな。
「伊賀亮、其方、今何と申した」
「早合点はなさらぬよう」
伊賀亮は閑かに忠相を制した。
「動かぬ証拠が無い、とは申して居らぬ。只――」
此処で御目に掛けるのは出来ぬ相談と、斯う申して居る次第。
「では、何時何処ならば」
「――本日は、御親子御対顔の儀と聞き及び、罷り越して居る」
と、伊賀亮は唐突に云った。
「其れが、何様したと云うのか」
「御親子御対顔の節には、御見せ出来ようかと」
「其れは則ち――」
「然様」
動かぬ証拠は――
「将軍様御自身が御持ちに御座る」
座が寂と静まり返った。
「其――」
其の様な事が在るか、と震える声で忠相は云った。
吉宗は無いと云った。
云ったのに。
在ってはならぬ。
此程迄に贋者と疑わしいにも関わらず、若し在れば、御落胤と認めねばならなく成る。
「在るか何様かは、将軍様に直接確かめる依り外、御座らぬ。御親子御対顔が叶い候えば、今直ぐにでも」
「な、ならぬならぬ。出来る筈が無い。御親子御対顔と成れば、其れ則ち天一坊を実子と認めたに同じ。其の吟味が未だ済んで居らぬのに、御対顔等」
「然うは仰せなれども、抑も拙者共は本日、御親子御対顔の儀整いし報を受け、参じて御座る。若しや彼れは嘘偽りであったと」
忠相は再び詞に詰まる。
抑もを云えば、此の騙し討ちも同然の再々吟味とて、天一坊側に付き合う義理は無いのである。虚を突いて強引に流れを引き込んだが故に忠相の思惑通りの論争と成ったが、決定的な証拠も証言も出せぬ儘、徒に時が過ぎ、今や伊賀亮も自失から立ち直って居る。
此処迄に切り崩せ無かった忠相は、完全に手詰まりであった。
何か無いか、と忠相は内心歯噛みする。
何でも好い。
此の場を動かせるだけの何か。
状況を一変させるだけの何かが。
其の時、襖が音を立てて開いた。
力一杯に、両の手で大きく襖を押し開いた其の人影は、高らかに斯う云った。
「御対顔、御対顔と、其れ程予の顔が見たいか」
一瞬の自失の後、な、なりませぬ、と狼狽した声で忠相は云った。
慥かにたった今、場を動かす何かを欲した。
併し其れは此れでは無い。
終わりだと思った。
其処に在ったのは、見間違える筈も無い、能く知った八代将軍徳川吉宗の顔である。
吉宗と天一坊は未だ会わせてはならぬ。
御対顔の儀を果たして仕舞えば、天一坊が御落胤であると公に認めた事に成る。
「好いでは無いか」
と、吉宗は云う。
「江戸城にて対顔為る予定だったのであろう。なれば、此処での顔合わせは非公式と云う事に為て、世に出さぬ様に為れば好い。何依り、予が居らねば慥かな証拠が見られぬのであれば是非も無い。予も、大層興味が有るぞ」
突然の闖入者に驚いたのは天一坊一行も同じであった。
余りの成り行きに詞も発する事が出来ず、只呆然と事を見守る。
「して、其方等」
水を向けられ、我に返り、天一坊一行は此処で初めて畳に額ずいた。
「大変な御無礼を致し候。申し訳御座候わぬ」
「好い好い」
気に為た風も無く、吉宗は嗤った。
「処で、何やら動かぬ証拠を予が持って居ると、然う申して居ったな」
「然様に御座候」
深く平伏した儘に、伊賀亮は応える。
「予は心当たりが無いぞ」
「恐れ乍ら、将軍様御自身が背負われて居る物にて、御存知無くとも、慥かに其処には御座候」
「背負うと云うが、予は只今身一つで此処に居る。何も持って来ては居らぬぞ」
「否、御詞を返す様では御座候えども、目には見えずとも間違い無く将軍様が御持ちに御座候」
「其れは、面白いな」
吉宗は心の底からの笑みを浮かべた。
「予が何を持って居ると云うのだ」
「其れは、天一様の御口依り」
代わって、天一坊改行が顔を上げた。
「母は、徳太郎様との幾度と無い逢瀬を心待ちにし、又其の一時を一息を忘れぬ様心に深く深く刻み候。母は此の天一を産みし後、肥立ちが悪く病み付き、今一度徳太郎様に御目に掛かりたいと願い続けて身罷り候。其の間際迄、母は身の証明と成る様、天一に寝物語に云い聞かせ続けた事が御座候。其れが幼心に焼き付いて、今も忘れ得ぬ大切な思い出として思い起こされ候」
「其は如何に」
「則ち――」
徳太郎様の背には星が御座る。巨きく立派に張り出した、左の肩甲の屋根の下。三つ並んで星が御座る。丸で父御と母御と児の様に。
「故に御確かめ戴きたく候。吉宗様の左の肩甲骨の下に三つ並んだ黒子が御座候えば、其れこそ吉宗様と天一が母の情愛の動かぬ証拠。此れ以上無き、此の身の慥かな証明に御座候」
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