喉元まで出掛かった(ことば)を寸での処で肚の底に呑み込み、稲生(いのう)下野守(しもつけのかみ)正武(まさたけ)は深く深く息を吐いた。
 江戸には三つの奉行が在る。
 町奉行。
 勘定奉行。
 寺社奉行――の三つが其れである。
 町奉行は其の名の通り、江戸の町で起こる揉め事を纏めるを役とした。
 勘定奉行は其の名の通り財政を取り仕切る(ほか)、関八州内()つ江戸外の揉め事を裁いた。
 寺社奉行は其の名の通り寺社を纏めて居り、寺社の持つ人別改帳(にんべつあらためちょう)(もと)庶民(たみ)を管理した(ほか)、寺社を介して関八州外の揉め事にも手を貸した。
 従って関八州(こおり)代官、関東郡代を担う伊奈忠逵の上役とは、取りも直さず勘定奉行、(すなわ)ち稲生正武を指した。
 詰まり――
 伊奈忠逵の下に届られた天一坊改行なる山伏に(まつ)わる厄介事は、其の(まま)稲生正武の下に持ち込まれたのである。
 云う(まで)も無い事ではあるが、最初(はじめ)は正武も真正面(まとも)に取り合う心算(つもり)は無かった。
 其の天一坊と云う山伏は、徳川吉宗公の御落胤を自称して居た。
 触れ込みに依ると何様(どう)やら此の男、紀州田辺は平沢村の生まれで、幼名は半之助と云ったらしい。母は名を沢の井と云い、徳川吉宗公が未だ加納将監方の部屋住みで徳太郎信房と名乗って居た頃に和歌山城に奉公に上がり、御手付きに成ったとの事であった。子を孕み、里へ帰され、産まれたのが(くだん)の改行なのだそうである。
 明然(はっきり)と云って仕舞えば、頭から鵜呑みには出来ぬ話である。
 (しか)()うは云っても、(ただ)捨て置く訳にも行かぬ。
 故に正武は、切れ者と名高い老中松平(まつだいら)和泉守(いずみのかみ)乗邑(のりさと)を間に立て、(おそ)(なが)らと吉宗公にお伺いを立てた。どうせ、知らぬと、出自の知れぬ無礼者であると、不届きな不心得者であると、成敗致せと()う返って来る物と思って居た。
 (しか)し――
 憶えが在ると、吉宗公は()う云った。
 吉宗公が紀州に在った頃の、目に余り、手に余る奔放振りは大層有名である。其の頃に手を付けられた情婦(おんな)は一人二人では無い。
 吉宗公とて流石に其の一人一人(まで)は憶えて居らぬ。
 だが、逆に云えば其の中に()を宿した者が居ても怪訝(おか)しくは無い。
 (いや)怪訝(おか)しくは無い所か、慥かに(はら)()を宿し、(いとま)乞いをした者が一人居た事を、吉宗公は明瞭(はっきり)と憶えて居たのである。
 ()う成って来ると話が違う。
 贋者(にせもの)と断ずる事が出来るのならば問題は無い。世を騒がせたる罪を問い、離島遠島乃至(ないし)は打首獄門で淡然(あっさり)と片は付く。(しか)し仮に真者(ほんもの)であったならば、一体如何(どう)()る。証拠(あかし)の品等が出て来よう物なら、一体何様(どう)成る。
 従って正武は、先ずは秘密裡に天一坊改行及び其の周囲の者共の素性を調べ上げ、真偽の程を明らかに()ねばならぬと()う決意した。
 真者(ほんもの)でも贋者(にせもの)でも(わざわい)の種と成る事は容易に知れる。
 なれば慎重に慎重を重ねて重ね過ぎると云う事は無い。
 黒い物を黒と断ずるには証拠(あかし)が要る。
 此の場合、事が事だけに、中途半端は赦されぬのである。
 (いや)()しか()ると最終的には白い物を黒と云わねばならぬ事態に成るのやも知れぬ。(しか)()う成れば猶の事である。対手(あいて)の取り出す物証(もの)対手(あいて)の持ち出す証言(こと)対手(あいて)の出方を(すべ)て見切った上で無ければ、切り崩す事等出来ぬのは火を見るより明らかであった。
 明らかであると、思って居た。
 (すく)なくとも、正武は。
 正武にとって誤算であったのは、吉宗公への取り次ぎを頼んだ老中松平(まつだいら)乗邑(のりさと)其の人であった。
 江戸幕府には(かつ)て、松平信綱(のぶつな)と云う老中が居た。三代将軍家光公に仕え、其の知恵者振りと、伊豆守(いずのかみ)と云う官位から付いた別名が知恵伊豆(いづ)。家光公自ら片腕と評し、周囲(まわり)には伊豆と知恵比べを()てはならぬ、()れは人間(ひと)では無いと(まで)云わしめた智の者である。
 松平乗邑(のりさと)は此の同姓の知恵伊豆に憧憬の念を抱いて居た。
 (いや)、其れが高じ、肥大し、(おのれ)も此の様に頼りに()れたい、()れるべきである、()れねばならない、()れて居らぬ等有り得ぬ事である、()れるに足る才が己には在る、()れて居らぬ理由が在るとすれば其れは機が与えられて居ないが故に過ぎぬ、と(まで)思って居た。
 自身の和泉守(いずみのかみ)と云う官位(なまえ)も其の(おもい)に拍車を掛けた。
 知恵伊豆に並び、知恵和泉と賞される己を夢見た。
 其の乗邑にとって、今回の一件は吉宗公に依り一層覚えを良くし、重用される又と無い好機に思えた。
 吉宗公が憶えが在ると云って居るのだから間違いは無かろう。其の意に沿うのが最善の道であろうと、打算含みで()う決め込んだ。
 結果、正武の調べが(おわ)らぬ内に、独断で松平和泉守邸にて天一坊吟味の場を開いて仕舞ったのである。
 其処に集まったのは、松平和泉守を筆頭に、老中は酒井讃岐守、戸田山城守、水野和泉守。若年寄は水野壱岐守、本多伊予守、太田備中守、松平左京太夫。御側使用人は石川近江守。寺社奉行は黒田豊前守、小出信濃守、土岐丹後守、井上河内守。大目付は松平相模守、奥津能登守、上田周防守、有馬出羽守。町奉行は大岡越前守、諏訪美濃守。勘定奉行は駒木根肥前守、筧播磨守、久松豊前守。御目付は野々山市十郎、松田勘解由、徳山五兵衛等、数々の重鎮、諸役人が綺羅星の如くであった。勿論、其の中には稲生下野守正武も、勘定奉行として列席()て居た。
 対する天一坊の一行も、総勢二百六十余名の大所帯であった。天一坊自身は駕籠に乗り、前後に幾人かの腹心の部下で固め、幾多(あまた)の配下を引き連れて行列を成し、葵の御紋の旗印と証拠の品を収めたと云う触れ込みの長持を筆頭に、下に下にと触れ歩いての行軍は(さなが)ら大名行列の様であった。
 天一坊一行は松平和泉守邸に到着すると、駕籠を玄関に横付けに()た。其の内依り(しず)かに進み出た天一坊は、一行の殆どを門前に残し、()(すぐ)りの部下のみを連れて堂々と屋敷に踏み入った。
 天一坊は其の(まま)案内の公用人に()かれて広書院に通され、上段に設けられた席を進められた。又、付き(したが)って居た忠臣共は一つ下がった次の間へ着座を促された。
其方(そのほう)――」
 と、正面から口火を切ったのは此の場を(しつら)えた松平和泉守乗邑であった。
「天一坊改行に相違無いか」
 問われた天一坊は、(うん)とも(すん)とも応えずに無言で席を立った。
 慌てたのは乗邑である。
「待たれよ、此れは一体何様(どう)云う事か。立ち去るは(すなわ)ち、(いな)、と云う――」
「此れは異な事を」
 騒々(ざわざわ)と浮き足立つ空気に一石を投じる様に、低い声が其の場を制した。
 発したのは次の間に控えて居た(わか)い男であった。応じる様に、天一坊は足を止める。
 一転、水を打った様に静まり返る広書院に、朗々と男の声が響いた。
「此の度は松平和泉守様が御尋ねの儀が在るとての御召し出し。無論応じるに否やは御座候わぬが、其れも互いに礼を尽くしての上の事。()して此方(こちら)は御落胤と(いえど)も天下の将軍様の御子。其の様に居丈高に問われる筋合いは御座候わぬ。物を訊くにも其れ成りの場、其れ成りの態度と云う物が御座候。無礼、無体を働く様であれば此方(こちら)にも勘考(かんが)えが御座候程に」
 背筋を伸ばし、真っ直ぐに和泉守を見据え、()う云い切る姿に、乗邑は気圧(けお)された。
 ぐびり、と唾を呑み、唇を湿らせて、(ようや)く口を開く。
「失礼致し候。座に御戻り戴きたく存知候」
 好い、と鷹揚に云い、天一坊は踵を返して再び席に着いた。
 乗邑は、天一坊が機嫌を直した此の機を逃してはならぬと、口早に続けた。
「此の度は天一殿の関東御下向に付き、今日役人共と御対面願い、又役人共の立ち会いの下、幾つか(あらた)めたき儀在り、御足労を御掛け致し居り候。先ず御尋ねさせて戴き候。貴殿が天一坊改行殿に相違い御座候わぬか」
 如何(いか)にも、と天一坊は(しず)かに頷いた。
「其の後ろの者々(かたがた)は」
 問われて、先程の壮い男が平伏して応える。
山内(やまのうち)伊賀亮(いがのすけ)に御座候」
 続いて、伊賀亮(いがのすけ)依り(やや)年嵩(としかさ)の男が応える。
「赤川大膳に御座候」
 其の隣の、大膳と同じ位の年頃の男が続く。
「藤井左京に御座候」
 最後に、僧形の初老の男が応じる。
「常楽院天忠に御座候」
 乗邑は頷き、伊賀亮(いがのすけ)らに向かって尋ねた。
「天一殿御出生の地、並びに御成長の処は(いず)れの地であるか」
 問われて頷いたのは常楽院天忠であった。天忠は懐中より書き付けを取り出した。
「御身分の儀は委細此れに相(したた)めて御座候」
 差し出された其れを請け取り、乗邑は中を(あらた)める。其処には此の様に在った。
 佐州相川郡尾島村浄覚院の門前に、御墨付に御短刀相添えて捨て此れ在りしを、浄覚院先住天道拾い上げて弟子と()参らせし処、天道先年遷化(せんげ)の後、天忠(すなわ)ち住職仕り、其の(みぎり)に天一坊様をも付属致され、後年御世に出し参らすべしとの遺言なれば、天忠御養育()し参らせし処、其の後天忠、美濃国(みののくに)谷汲(たにくみ)長洞(ながほら)村常楽院へ転住せしに付き御同道申し上げ、同院にて御成長に御座候。
 乗邑は大きく頷いた。
成程(なるほど)、此の書面にて先ず御誕生後、御成長(まで)は能く分かりたれども、未だ如何(いか)なる御腹(おんぷく)に御出生ありしか不分明なり。此の儀は如何(いか)に」
 此れに頷いたのは伊賀亮(いがのすけ)であった。
「天一様の御身分の儀、只今の書付にて詳しく御承知戴けたると存知候えども、御腹(おんぷく)御不審の儀も御尤(ごもっと)もに存知候。()れば拙者より委細申し上げ候。(そもそ)も当将軍様、紀州和歌山加納将監方に御部屋住みにて在らせ給う折、将監妻の召し使う腰元が一人、沢の井と申す婦女へ御情け掛けさせられて候。沢の井御胤を宿し奉りしが、将軍様に措かれましては生憎(あいにく)未だ御部屋住みの身分故に後々出世の暁には必ずや召し上げんとの御約束を致し遊ばされ、其れ(まで)何処(いずこ)へなりとも身を寄せ、時節を待つべしとの上意にて、御墨付、御短刀を後の証拠(あかし)として下し置かれ候。沢の井、元来佐渡出生の者故、老母諸共(もろとも)生国佐州へ帰り、間も無く御出産遊ばされしが、産後の血暈(ちのみち)にて肥立ちかね、(つい)には相果てられ候。其の後は老母の手にて養育申し上げしが、又老母も病み付き若君の御養育相届かず、浄覚院の門前に捨て子と致し候。右老母も恐らく死去致したるなり。浄覚院先住天道存命中の遺言()くの如し。依って常楽院初め我々御守護申し上げ、何卒(なにとぞ)御世に出し奉らんと、遙々(はるばる)御供申し上げ候なり」
 と、伊賀亮(いがのすけ)、弁舌立て板に水の如く滔々(とうとう)と申し述べた。
 此れには、松平乗邑初め、御役人方(いず)れも(ことば)無く、只頷く(ばか)りの有様(ありさま)であった。
成程(なるほど)、御出生、御身分の儀、詳しく相分かりたり。()く成る上は、御証拠(みあかし)の品を拝見致したし」
 ()う、畏れ畏まり(なが)ら乗邑が云うと、伊賀亮(いがのすけ)は天一坊に向かい深々と頭を下げた。
「御聞きの如く、御証拠(みあかし)の拝見を相願われ候。如何(いかが)計らい申さん」
 天一坊は短く、許す、と応えた。
 其れに応じて、今度は赤川大膳が懐中より鍵を取り出して長持を開き、先の御墨付、御短刀の二品を取り出した。此れ等を三宝に載せ持ち出し、重役、御役人の前に差し置くと、皆々手水(ちょうず)()て手に手に(あらた)めた。
 御墨付きには()う在った。

 其方(そのほう)、懐妊の由、我が血筋に相違此れ無し。()し男児出生に於いては、時節を以って呼び出すべし。女児たらば其方(そのほう)の勝手に致すべし。後日証拠(あかし)の為、我が身に添え、大切に致し候短刀相添え遣わし置くなり。依って(くだん)の如し。
 宝永二申年十月
 徳太郎信房
 沢の井女宛

 此れは紛う事無き直筆に相違無く、又、御短刀も一見して分かる間違い無き品であった。
 御老中、若年寄衆は愈々(いよいよ)将軍の御落胤に相違無しとの(おも)いを強くした。
 皆の総意が纏まった処で、松平乗邑は居住まいを正し、天一坊に深々と頭を下げた。
「先刻より一同、御身の上委細承知仕り、()くの如く確かなる御証拠(みあかし)在る上は、何を疑い申す事が御座候わん。将軍の若君に相違なく存じ奉る。此の上は一同篤と相談仕り、近々に御親子(しんし)御対顔に相成り候様取り計らい仕る。其れ(まで)は御逗留の八山旅館に御座成され候様、願い奉る」
 ()()て審議は決した。
 怪しげに思えた山伏は将軍の御落胤に相違無しと定まり、後は饗応の宴と相成ったのであった。

 云う(まで)も無く、稲生正武は違う考えであった。
 慥かに天一坊持参の御墨付、御短刀は紛れも無く吉宗公の下賜(くだ)された物なのかも知れぬ。
 知れぬが、其れを根拠(もと)(すべ)てを真実(まこと)と呑み込むは(いささ)か早計である。其の断を下すには未だ吟味が足りて居らぬ。
 (いや)(むし)ろ、先の審議にて山内(やまのうち)伊賀亮(いがのすけ)と名乗る男は油断ならぬ男に見えた。
 弁は立ち、舌は廻り、論は鮮やか、理は明らか。
 であるからこそ――
 鵜呑みに()るは危険、と正武は取った。
 故に翌朝、正武は誰にも先んじて松平乗邑の御役宅に参じ面会を願い出た。乗邑は如何(いか)な用件かと頸を傾げたが、先日自身が執り持った審議の成り行きに気を好く()て居た事も有り、快く招き入れた。
「して稲生下野守(しもつけのかみ)
 と、上座より和泉守乗邑は声を掛けた。
斯様(かよう)な朝早くから一体何用か」
「畏れ(なが)ら申し上げ候」
 正武は低頭して云った。
「昨日審議有りし天一殿の儀、御評議如何(いかが)候や、伺いたく参上致し候」
 其れを聞いて乗邑は嬉し気に呵々(からから)と嗤った。
然様(さよう)な事か、案ずるには(あた)らぬ」
「其れは詰まり――」
「無論の事」
 と、乗邑は胸を張る。
「天一殿の御身分の儀、昨日拙者共には御落胤に相違無きと存ずれば、依って上聞に達せし処、上様にも御覚悟有らせられ、速やかに逢いたしとの上意なり。近々吉日を選び、御対顏の儀取り計らい、其の上は上様の思し召しに任すべきと決したり」
 ()う聞いて正武は、平伏()て居た頭を(すこ)し上げ、乗邑に向かって()う云った。
「御重役方の御評議御決定(けつじょう)に相成り候を、斯様(かよう)に申し上げ候は甚だ恐れ入り候えども、少々思い付き候える仔細の御座候。此の儀、私事(わたくしごと)には候わず、天下の御為(おんため)、君への忠義にも御座候故、申し述べざるも不忠にこそ存知候え。慥かに持参せし御品は真実(まこと)なれど、御当人に於いては何とも怪しく存知候。愚案は御眼鏡には背き候えども、何卒此の御身の上は今一度吟味を御許し下されたし。我が手にて篤と相調べ、其の上にて御親子(しんし)御対顔の儀の御取り計らい在るとも遅かるまじく存ずる。此の段、願い奉る」
 乗邑は此れを聞くや否や怒髪天を衝かん(ばか)りに怒り狂った。
「只今の申し条、過言なり。昨日拙者共重役並びに御役人一同相調べし御身分、将軍の御落胤に相違無しと見極め、上聞にも達したる儀を、其方(そのほう)一人此れを拒み、贋者(にせもの)と申し立て、確かなる証拠(あかし)も無く再吟味を願い(いづ)るは、拙者共が調べを不行き届きと申すに同じ。何分にも重役共を蔑ろに致す仕方、不届き至極なり」
御詞(おことば)(なが)ら此の正武、慥かに証拠(あかし)と云える証拠(あかし)は持ち候わねども、疑うに足る根拠(あかし)は御座候」
「云うたな、稲生下野(しもつけ)。なれば示してみよ」
「一つは御墨付、御短刀に候。慥かに真物(ほんもの)の如く在れど、今(まで)世に出ずに居た物が何故に今更出て参ったのか、怪しく覚え候」
「何を云うか。天一殿の御成長を待って居たに決まって居よう」
「今一つは従者、山内(やまのうち)伊賀亮(いがのすけ)に候。()の者、弁舌巧みにて、却って怪しく思われ候」
「何を云うか。云い掛かりに過ぎぬ」
「今一つは従者、赤川大膳に候。()の者、姓は違えど――」
 藤井紋太夫の実子に候。
「な、ふ、藤井」
 其の(ことば)に、流石に乗邑も絶句した。
「御承知の事と存ずるが、藤井紋太夫徳昭は水戸光圀公に手向かいを()し、無礼討ちに遭って候。其の末に出家を命じられし実子の一人が、赤川大膳に候。()の者、寺を出奔し、山賊(まが)いの事を()て居たとの話も御座候えば、間違っても信の措ける者には候わず。其れを従える天一殿も、信じて好い者か(いぶか)しく覚え候。(むし)ろ赤川大膳が水戸公を恨み、徳川を怨み、世を(うら)んで居ると()るならば――」
 ええい黙れ、と乗邑は怒声を発した。
 其れは自身の吟味の不行き届き、気付いても居なかった事実を、遠回しに指摘されたが故の羞恥の発露であった。
()れも此れも(こじ)付け、難癖、云い掛かりに過ぎぬでは無いか」
 と、覆い隠す様に、振り切る様に、乗邑は叫ぶ。
()うは(おお)せ候えども、()し将軍家相談役にして水戸光圀公が跡継ぎ、徳川綱條(つなえだ)公が御存命であったなら一体何と(おお)せかと考えますれば、間違い無く再吟味をと云うに違い御座候わぬ」
「仮の話は要らぬ。其方(そのほう)()(まで)()て拙者共を虚仮(こけ)()たいか。拙者共を蔑ろに()たいか」
()には御座候わぬ。(そもそ)も己の了見を立てんのみにて御重役を蔑ろに等致し候わぬ。此度(こたび)の再吟味の儀、御定法に背き候事は、(いや)しくも此の正武、御役を相勤むる身分成れば(わきま)え居り候えども、唯々天下の御為(おんため)国家の大事と存知、忠義忠節と心得候えばなり。何卒(なにとぞ)()げて御身分調べの事、御許し下されたし」
(くど)いぞ稲生下野(しもつけ)其方(そのほう)は拙者共の吟味を(もど)き、再吟味を願い、()し将軍の御胤に相違無き時は、如何(いかが)致す所存なりや」
 ()う云われては、正武ももう後には退けぬ。
「云う(まで)も無き事に候。再吟味願いの儀は我が身に替えての願いに御座候えば、万一天一殿の将軍様が御子に相違無き時は、我が知行は元依り、家名断絶、切腹も覚悟の上に御座候」
「能くぞ云うたな、其の(ことば)憶えたぞ」
 乗邑は面目を潰され、口惜しさに歯噛み()(なが)()う云った。
其方(そのほう)然程(さほど)に再吟味致したく在れば勝手にせよ」
 ()()て、立腹の(てい)で立ち上がり、跫音(あしおと)高く座を後に()た。
 遺された正武は、其れを見送ってから、(しず)かに和泉守邸を辞した。恐らく乗邑は、此れから将軍に讒言(ざんげん)に行くのだろう、と容易に知れた。
 (しか)し構わぬ。
 売り文句(ことば)に買い文句(ことば)とは云え、当人には其の心算(つもり)は無かったのだろうとは云え、再吟味()て好いと、言質だけは取れて居るのだから。
 功を焦って先走った凡愚(おろかもの)が。
 喉元まで出掛かった(ことば)を寸での処で肚の底に呑み込み、稲生(いのう)下野守(しもつけのかみ)正武(まさたけ)は深く深く息を吐いた。

 ()()て、勘定奉行稲生正武邸にて、天一坊改行の再吟味の運びと成った。
 奉行役宅は罪人(ざいにん)科人(とがにん)の出入りする(けが)れの地にて、然様(さよう)な不浄の処に天一様には入らせられまじ。仮令(たとえ)御入りなさるるとの御意ありとも、屹度(きっと)(とど)め申すなり。と云って伊賀亮(いがのすけ)最初(はじめ)は再吟味に難色を示した。
 其れは警戒()て居た所為(せい)でもあろうし、又将軍の御落胤と云う箔を穢さぬ為でもあったろう。
 (しか)し、何が何様(どう)伝わったか、上意にて再吟味を許す、と云う下達が有り、故に伊賀亮(いがのすけ)も断り続ける訳には行かなかった。
 正武は取り調べの準備を着々と進める(かたわ)ら、其の裏では、赤川大膳の素性を足掛かりに天一坊の出自と足取りを洗うよう、同心与力に云い付けて居た。
 逆態(はんたい)に云えば、他の常楽院天忠、山内(やまのうち)伊賀亮(いがのすけ)、藤井左京らは素性が知れなかったと云う事でもある。
 (しか)し、謂わば赤川大膳は動かし難い明白(あきらか)な素性の者。故に此の穴を突き、一人なりとも尻尾を掴めれば後は芋蔓式に分かるのでは無いかと、正武は考えて居た。
 再吟味は其の為の時間稼ぎでもあった。
 勘定奉行の召喚に、天一坊一行は(くだん)の如き煌びやかな行列にて参上した。
 先触れを勤める赤川大膳は、徒士(かち)四人、先箱(さきばこ)二つ、駕籠の先へ推し立てたは烏毛の一本道具、長棒の駕籠に陸尺八人、侍六人、後箱二つ、牽馬(ひきうま)一頭、長柄、草履取り、合羽駕籠等を引き連れて居た。
 行列の本陣は、先ず真っ先に葵の紋を染め出したる萌葱(もえぎ)緞子(どんす)油単(ゆたん)を掛けた長持二棹、黒羽織の警護八人、長持預かり役は熨斗目(のしめ)麻裃の侍一人。其の後ろは金葵(きんあおい)の紋付けたる栗色の先箱(さきばこ)に紫の化粧紐を掛けて雁行(がんこう)に並べ、絹羽織の徒士(かち)が十人ずつ二列に並ぶ。続いて金の葵唐草の高蒔絵にて飾った長柄は、黒天鵞絨(びろうど)金葵(きんあおい)の紋を縫い出した袋を掛け、紫縮緬(ちりめん)の袱紗にて熨斗目(のしめ)麻裃の侍が持ち行く。次に麻裃にて股立を取った侍が十人ずつ二列に並び、縮熨斗目(のしめ)に紅裏の小袖麻裃にて股立を取った何阿弥とか云う僧が続く。天一坊は飴色網代(あじろ)蹴出(けだし)付き黒棒の乗り物にて、熨斗目(のしめ)麻裃にて股立取った駕籠脇十四人、(くつ)台持ち一人を従え行く。追うは、紫の化粧紐を掛けた黒塗りに金門付きの後箱(あとばこ)。乗り物の上下には朱の爪折傘(つまおりがさ)二本を差し掛け、簑箱一つ、各々(それぞれ)に虎の皮の鞍、黒天鵞絨(びろうど)に白く葵の紋を切り付けた鞍を背負わせた牽馬(ひきうま)二頭、供槍三十本。其の外に両掛、合羽駕籠等が付き(したが)った。
 続く常楽院天忠和尚は、四人の徒士(かち)にて金十六菊の紋を付けた先箱二つに打ち物を持たせ、朱網代(あじろ)の乗り物に乗り、陸尺六人、駕籠脇の侍四人、紫の化粧紐を掛けた後箱二つ、黒羅紗の袋を掛けた爪折傘(つまおりがさ)に、草履取り、合羽駕籠等を引き連れて居た。
 更に其の後の藤井左京も徒士四人、長棒の駕籠に乗り、若党四人に黒叩きの十文字槍を持たせ、長柄傘、草履取り、合羽駕籠等の列であった。
 少し遅れて山内(やまのうち)伊賀亮(いがのすけ)は、白摘毛(つみげ)の槍を真っ先に押し立て、大縮(おおちぢみ)熨斗目(のしめ)麻裃にて馬上の人と成って居た。若党四人、長柄、草履取り、合羽駕籠等が此れを追った。
 ()くの如き大行列が八山を出で、下に下にと呼ばわり(なが)ら江戸の町を練り歩く様は、人々に此れは紛う事無き将軍様の御落胤であろうと思わせるには十分であった。
 其れでも、正武は動じなかった。門前に近付いた天一坊一行が大声で、只今天一様入らせ賜えり、開門せよ、と呼ばわったのを聞き付けても自若とし、門番に()う告げた。
「天一は我が吟味を受ける身分故、開門は相()らず。潜戸(くぐりど)依り入るが好いと申し伝えよ」
 将軍の血筋も何()る者ぞと云う不遜な振る舞いに門番は肝を潰したが逆らう訳にも行かず、恐れ入り畏まって一字一句狂い無く(ことば)通りに伝えた。
 聞いた一行も肝を潰し、如何(いかが)()た物かと供頭(ともがしら)伊賀亮(いがのすけ)へと有りの(まま)に伝えた処、伊賀亮(いがのすけ)は、此れぞ稲生(いのう)下野(しもつけ)常時(いつも)()り口よ、と云って呵々(からから)と嗤った。()()て、天一坊の乗り物の傍へ寄り、奉行は将軍様の御名代なれば、開門致さぬとの事、潜戸(くぐりど)依り御通り在るべく存知候、と事も無げに云った。
「父君の名代と有れば是非に及ばず。潜戸(くぐりど)依り廻るべし」
 天一坊は()う応えて乗り物を降り、沓を履いて立ち上がった。其の衣装(よそおい)は葵の紋を織り出した白稜の小袖の下に柿色稜の小袖五つを重ね、紫の丸帯を締め、古金襴(こきんらん)の法眼袴を穿ち、上には顕紋紗の十徳を着用し、手に金の中啓を持ち、頭は惣髪の撫付にて、威風堂々たる姿であった。其れは潜戸(くぐりど)に身を屈めても品位を僅かも損なわぬ、其れ所か却って傷一つ付ける事の叶わぬ風格を見せ付ける様であった。
 其の(まま)一行五人は寂々(しずしず)潜戸(くぐりど)依り入り、玄関敷台の真ん中を悠然と歩み進んだ。
 奥に目を遣れば、一段高い床の上に正武が座して居り、左右に召し捕り手の役人を幾多(あまた)並べ、一行を威圧せんと()るは明白(あきらか)な様であった。
 正武は五人を(きっ)と睨み据え、声を張った。
「天一、下に直れ。山伏崩れの売僧(まいす)坊主風情に、余人は欺けようとも、此の稲生下野守(しもつけのかみ)正武を欺くは叶わぬ話。不届き至極である」
「待たれよ」
 其の(ことば)に真っ先に応じたのは常楽院天忠和尚であった。
下野守(しもつけのかみ)殿の只今若君に対し売僧(まいす)坊主、贋者(にせもの)なりとの讒言(ざんげん)()されたは何故(なにゆえ)か。大坂、京都及び老中の役宅に於いて、将軍の御落胤に相違無しと確認の付きしを然様(さよう)に云わるるは如何(いかが)な物か」
仮令(たとえ)大阪御城代並びに御老中(まで)も将軍の御落胤なりと申されようとも、此の眼には贋者(にせもの)に相違無しとしか見えぬ故」
「其れは下野守(しもつけのかみ)殿の若君を詳しく承知されぬ故なり。兎角知らぬ事は疑心の起こる物。()らば拙僧が詳しく御教え致さん。(そもそ)も若君は佐州相川郡尾島村浄覚院門前に――」
「知って居る」
 と、正武は遮った。
(さき)の老中役宅にての吟味、此の正武も同席の上。然様(さよう)な事再三云わずとも知れて居る。下らぬ事を諄々(くどくど)申すな」
 斬り付ける様な其の物云いに天忠は押し黙る。
成程(なるほど)此れが稲生下野守(しもつけのかみ)殿の御得意の()り口に御座居ますな」
 と、其処に、伊賀亮(いがのすけ)(ことば)を差し挟んだ。
「大上段に振り(かぶ)り、威厳と重圧を織り重ね、不自由と不都合を無理に強い、拷問と責苦(せめく)にて口を割らせるが常套手段。流石は苛烈と噂の稲生下野(しもつけ)(しか)此度(こたび)は絵島生島の如くは参りませぬぞ。如何(いか)に拳を振り上げて見せようと、()う易々と振り下ろせは致しますまい」
 見透かした様に()う云われ、場の空気が一変する。主導権は飽く(まで)正武が握って居る。(しか)し手の内は知られて居り、握った手綱には綻びが有ると暴露(ばら)された。(いや)、握りの隙間に遊びを捻じ込めると、証明(しめ)された。
 伊賀亮(いがのすけ)(ことば)で常楽院初め、皆落ち着きを取り戻し、其の中で天一坊は穏やかに笑った。
何様(どう)やら稲生殿は逆上(のぼ)せ上がっておいでの様。三千石の高禄を得、勘定奉行を勤め、人々の尊敬を受け、慢心増長致したか。()し予が紛う事無き将軍の御子と明白(あきらか)に成らば、不憫や其方(そのほう)切腹()ねば成るまいに。只今は聞き流して遣わす故、篤と勘考致せ」
 ()う云って、悠然と控えた為、皆々も続いて着座した。
 正武は追い込む心算(つもり)期待(あて)が外れて(ほぞ)を噛む思いであったが、何はともあれ伊賀亮(いがのすけ)が鍵であると()う睨んだ。詰まり、此の男を捻じ伏せぬ内には何事も上手くは廻らぬと考えたのだ。
「御城代、所司代並びに御老中の役宅にて滔々(べらべら)(しゃべ)りし者は此の場に居るや」
 と、正武は遠回しに伊賀亮(いがのすけ)を呼んだ。
「罷り出でよ、吟味の筋有り」
 呼ばれて伊賀亮(いがのすけ)は進み出た。
「京都、大阪並びに老中の役宅にて取り仕切って応答せしは拙者なり」
其方(そのほう)なるか。(しか)らば手札を見せよ」
 ()う云われて伊賀亮(いがのすけ)は懐中依り手札を差し出した。
 正武は手に取り、能く能く見て推し返し、山内(やまのうち)伊賀亮(いがのすけ)とな、と唸る様に云った。
 伊賀亮(いがのすけ)は手札を仕舞い(なが)ら、如何(いか)にも、と応えた。
伊賀亮(いがのすけ)と云う文字は、其方(そのほう)心得て付けたるか、或いは心得ずして付けたるか」
「其の儀、如何(いか)にも心得有って付けし文字なり」
「心得有りて付けたるならば、尋ねる仔細有り。(すけ)と云う文字は(すなわ)(かみ)と云う文字と同じにて、取りも直さず其方(そのほう)の名は山内(やまのうち)伊賀守(いがのかみ)と成る。未だ官位無き天一の家来にて、何を以って(かみ)と名乗るか」
「能く聞かれよ。此の伊賀亮(いがのすけ)の身分は、浪人は疎か、如何(いか)に零落()るとも、正四位上中将の官は身に備わりたる故、守を名乗るに不足等無し」
 此れを聞いて正武は大音声を張り上げた。
「黙れ伊賀亮(いがのすけ)其方(そのほう)(かつ)ては正四位上中将の官爵を身に帯びしやも知れぬが、退身すれば官位は差し置かねばならぬ筈なり。(しか)るに今天一の家来なりとて正四位上中将の官位にて伊賀守(いがのかみ)と名乗るは不届き千万」
 ()う叱り付けられたが、伊賀亮(いがのすけ)呵々(からから)と打ち嗤った。
下野守(しもつけのかみ)殿は御承知無き故、疑い有るも(もっと)もなり。此の伊賀亮(いがのすけ)の身分に正四位上中将の備わり有る次第を御話し致さん。拙者(かつ)ては九条家の家臣なり。公家方は官位高く禄低き者故、役に立つ者有れば諸家方依り臨時御雇いに成る事有り。拙者九条家に在勤中は、北の御門(みかど)へ御笏代わりに雇われ参った事折々なり。此の北の御門(みかど)とは有栖川宮(ありすがわのみや)桂宮(かつらのみや)閑院宮(かんいんのみや)伏見宮(ふしみのみや)の四親王の内、伏見宮(ふしみのみや)を称す名なり。又、御笏代わりとは、参殿の節の供なり。禁中の間毎間毎に垂れ在る御簾(みす)は笏にて揚げて御通り在らせられるが因習(ならわし)。なれど笏は(かつ)ての帯刀の代わり故、畏れ多くも竜顔を拝し賜う時は笏を持つ事叶わぬ。依って代わって笏を持ち、御裾の後に控え居て、余所(よそ)(なが)ら玉体を拝するを得る者を、御笏代わりと云う。御門の御笏代わりを勤むる者は、正四位上中将の官ならずして能わず。拙者多病にて勤仕()り難き故、九条家退身の節、北の御門へも奏聞に参った処、御門は御目通りへ召され、()う仰せた」
 伊賀亮(いがのすけ)其方(そのほう)は予が笏代わりを幾度も勤め、竜顔をも拝せし者なれば、仮令(たとえ)九条家を退身し何処(いずく)の果てへ行くとも、存命中は正四位上中将の官依り下らず。死後の贈官正二位大納言たるべし。
「此の尊命を(こうむ)れば、伊賀亮(いがのすけ)この末、非人、乞食(こつじき)と成り果てるも官位は身に備わる故、伊賀亮(いがのすけ)(すけ)の字も心得て用い候なり」
 と、弁舌滔々(とうとう)と述べられては、正武も返す(ことば)が見つからず、黙り込んだ。
 正面から伊賀亮(いがのすけ)を打ち崩すのは難しいと見た正武は、緩急織り交ぜ、謀略の手に打って出る事に()た。
成程(なるほど)其方(そのほう)の身分、詳しく聞けば(もっと)もなり。(しか)し天一は贋者(にせもの)に相違無い故、召し捕らん」
下野守(しもつけのかみ)殿、何故(なにゆえ)に天一様を贋者(にせもの)と仰せか」
「此の度、将軍へ伺いし折、(すこ)しも憶え無しとの上意故、天一は贋者に紛れ無しと云うて居る」
 云う(まで)も無く、嘘である。(しか)伊賀亮(いがのすけ)を含む天一坊一行は其の様な事は知らぬ。故に、動揺を誘えるのでは無いか、切り崩す糸口が掴めるのでは無いかと云う虚態(はったり)であった。
 伊賀亮(いがのすけ)は其れをも見透かしたか、(わざ)とらしく頸を傾げて見せた。
「将軍には憶え無しとの上意とは、合点参らず。(まさ)しく徳太郎信房公直筆の御墨付き、及び御証拠(みあかし)の御短刀在り」
「其れは慥かに不可解なれど、憶え無き事は憶え無し」
「御戯れを。天一様の将軍の御落胤に相違無き証拠(あかし)に、其の御面相は瓜を割ったが如く在る(ばか)りか、御音声(おんじょう)(まで)も其の(まま)なり。此れぞ御親子(しんし)に相違無き証拠(あかし)であろう。今一度将軍へ御伺い下されたし。能く能く御勘考遊ばされれば、屹度(きっと)御憶え有るに違い無し」
 其れを聞いて正武は膝を打った。
伊賀亮(いがのすけ)、天一の面体()く将軍の御幼年の面影に似るのみならず、音声(おんじょう)(まで)其の(まま)とは偽りを申すな。其方(そのほう)、紀州徳川家の浪人ならばいざ知らず、九条家の浪人にて将軍の御音声(おんじょう)を知るべき筈は無し」
 (しか)伊賀亮(いがのすけ)(いささ)かも動じず、高らかに嗤った。
「当将軍吉宗公は、紀州大納言光貞卿と、九条(さき)の関白太政大臣の姫君お高の方の間の子なり。御幼名を徳太郎信房(ぎみ)と申せし(みぎり)、拙者は虎伏山竹垣城へ九条殿下の使者にて参り、御手習い、和学の御教導をも()せし故、御面相は勿論、御音声(おんじょう)(まで)()く承知致せばこそ、将軍の御子に相違無しと云うなり。如何(いか)下野守(しもつけのかみ)殿、御疑いは晴れしや」
 ()り込めたと思った刹那に()り返され、正武は又(ことば)を失った。一度ならず二度(まで)も云い伏せられ、正攻法も搦め手も通じぬ手詰まりの(てい)であった。
 何か無いかと(しば)し思案()て居た正武であったが、ふと天一坊の乗り物に目が止まった。此れならば、と正武は考えた。此れならば、一矢報いる事が出来るやも知れぬ。
「天一は将軍の御子であるならば、官位は如何(いか)程が相応(ふさわ)しいとお勘考(かんが)え成りや」
「最初の官なれば、宰相辺りが当然に候わん」
「宰相は東叡山の宮様と如何(いか)程の相違が在ろうか」
「宮様は一品(いっぽん)親王なり。一品(いっぽん)御位(みくらい)は官外にして、國中三人の(ほか)無し。先ず天子の御隠居遊ばされしを仙洞御所と称し、一品(いっぽん)親王なり。又、天子御世継ぎの太子を東宮と云い、此れも一品(いっぽん)親王なり。又、当代の東叡山の宮様は一品(いっぽん)准后(じゅごう)であり、准后(じゅごう)とは天子の后に准じる故に准后(じゅごう)の宮様と云うなり。宮様の御沓を取る者の位さえ、左大臣、右大臣で無ければ取る事叶わぬ程の尊い御方。対する宰相は左大臣、右大臣に劣る位。宮様は官外故官位とは(すこ)しく違いは在るも、宰相とは主従の如き間柄なり」
 其れを聞いて正武は大きく頷いた。
(しか)らば矢張り天一を召し捕らねばならぬ」
「お待ち下され、何故(なにゆえ)に天一様を召し捕れと仰せられるか」
「知れた事。飴色網代蹴出し黒棒の乗り物は勿体無くも、我が國広しと(いえど)も東叡山御門主に限るなり。然程(さほど)に官位に隔たる天一が、宮様に等しき乗り物に乗りしは不届き至極。故に召し捕ると云った(まで)
 (しか)伊賀亮(いがのすけ)(ひる)む所か又も呵々(からから)と嗤って()う云った。
下野守(しもつけのかみ)殿、(すべ)てを心得て居られるならば、敢えて尋ねるには及ばぬ事。何も知らざれば其の問いも無き筈の事。中途に知って居るが故の問いならん。今、伊賀亮(いがのすけ)が此処にて飴色網代の御噺を申し上げるには、先ず将軍の官職依り説き出さねば理解し難し。(そもそ)も将軍に三の官有り。一は征夷大将軍。二百十余の大名へ官職を取り次ぎ賜う官なり。二は淳和院。國中の武家を支配する官なり。三は奨学院。総公家を支配する官なり。(しか)し、江戸に在りて京都の公家を支配するは目が行き届かぬ。天子が()し京から反旗を翻しては徳川の天下は永くは続かぬ。故に家康公は京の鬼門を守る比叡山を江戸へ移し、江戸の鬼門除けに()んとお考え遊ばされた。(しか)し此の企ては上手くは行かず、成ったは二代秀忠公が姫君於福の方を後水尾院の皇后に奉り、其の末の太子を御門主に立てて東の比叡山、(すなわ)ち東叡山寛永寺を建立せし時。三代家光公の御世なり」
 事の次第は、此の初代東叡山御門主に在り、と伊賀亮(いがのすけ)は続けた。
一品(いっぽん)親王たる東叡山の宮様の御身分や如何(いか)に。今にも天子に成らせ賜うや、将又(はたまた)御一生を御門主にて在らせられるや。御乗り物の中を朱塗りに()し、其の上黒漆を掛けるは、日輪の光に叢雲の掛かりし姿を表したる物にて、定め無き御身の上の映し見なり。此れを飴色網代蹴出し黒棒の乗り物と云う。今、天一様の御身(おんみ)も同様なり。御親子(しんし)対顔の上は、西丸へ迎えられるや、御三家格を戴けるや、会津家越前家同様、(いや)(そもそ)も御譜代並の大名に成らせ賜うや、定め無き御身分故、此の伊賀亮(いがのすけ)が計らいし事なり。如何(いか)下野守(しもつけのかみ)殿、此の儀、咎めらるるべき事か」
 逆に問い詰められ、正武は(ことば)無く、無念に思えども(ことわり)の当然なれば、歯を食い縛って耐える依り(ほか)無かった。
 (やや)在って――
(しか)らば最後に証拠の御品拝見せん」
 と絞り出す様な苦しげな声で正武が云うと、伊賀亮(いがのすけ)は何事も無かったかの様に穏やかに天一坊に向かい、声を掛けた。
「奉行下野守(しもつけのかみ)御証拠(みあかし)の御品拝見願い奉る」
「好い、拝見許す」
 其の声に応じて、藤井左京が長持の錠を開けて二品を取り出し、正武の前へと差し出した。
 正武が近く依り凝々(まじまじ)と拝見するに、御墨付きは将軍の直筆に相違無く、又御短刀はと云えば、縁頭(ふちがしら)は赤銅斜子(ななこ)に金葵の紋散らし、目貫(めぬき)は金無垢の三疋の狂い獅子、金細工は後藤祐乗の作にて、鍔は金の(はみ)出し、鞘は金梨子(なし)地に葵の紋散らし、中身は一尺七寸、銘は志津三郎兼氏と、天下に三品しか無き短刀に相違無かった。疑問を差し挟む余地等何処にも無い、完璧な証拠(あかし)の品であった。
 ()く正武は拝見し終えて元へ収め、(にわか)に高き床依り飛び降り平身低頭声を張った。
()くの如き御証拠(みあかし)在る上は疑いも無く将軍の御息男に相違在るまじ。正武、役儀とは申し(なが)ら上へ対し無礼過言を働き、恐れ入り奉る。何卒(なにとぞ)彼方(あちら)へ入らせ賜え」
 家来が襖を開ければ其の向こうは、上段に錦の(しとね)を敷き、前には御簾を垂れて天一坊が為の座が設けて在った。求めに応じて天一坊は御簾の奥に足を進め、御簾の左右に伊賀亮(いがのすけ)、常楽院、其の次に大膳、左京らが並び座した。
 正武は遙か末席に(ひざまず)き、今一度平身低頭した。
「上へ対し無礼過言の段、重ね重ね恐れ入り奉る。此れ依り正武差し控え、余人を以って吉日を選び、御親子(しんし)御対顔の御式(おんしき)を取り計らい申すべく尽力致す所存にて」
「稲生下野(しもつけ)
 御簾の内より、天一坊は(しず)かに声を発した。
(はい)
「目通り許す」
 きりきりと御簾が巻き上がる。
 天一坊は堂々と正武に向かい、落ち着いた風情で()う云った。
其方(そのほう)の予に対し無礼過言せしは、父上の御為(おんため)を思いて故、差し控えるには及ばぬ。下野(しもつけ)とて我が家来なり。此れ(まで)の無礼は赦す」
 又続けて、
()く成る上は、片時も早く父上に対面の儀、取り計らうべし」
 と告げた。
 正武は、有り難き上意を蒙り、冥加に存知奉る、と平伏した。
「必ずや近々御対顔の儀取り計らい申す故、其れ(まで)は今(しばら)く八山旅館にて御(やす)み在る様願い奉る」
「委細承知」
 と、今度は伊賀亮(いがのすけ)が応じた。
(しか)下野守(しもつけのかみ)呉々(くれぐれ)も取り急ぎて、御親子(しんし)御対顔の儀、頼み入る」
「畏まりまして御座居ます」
「其れでは――」
 此れにて罷らん、と天一坊一行は稲生邸を後にした。
 正武は徒跪(はだし)にて門際まで出て平伏し、其れを見送った。

 天一坊らの影すらも見え無くなると正武は顔を上げ、事も無げに、忠相を呼べ、と云った。
 忠相とは云う(まで)も無く、当代きっての名奉行、南町奉行所の大岡越前守忠相の事である。
 配下の同心与力は驚いた。
 つい今し方負けを認め、其れ所か御親子(しんし)御対顔の儀に全力を尽くすと(まで)云った、其の舌の根も乾かぬ内に(すべ)て覆そうと云うのか、と。
 (しか)し、正武は苦々しげな表情(なが)ら、案ずるな、と云った。
「御落胤当人依り無礼過言は赦すと云われたのだ、外が何を云おうと切腹に等成らぬ。(そもそ)も此れ依り天一の対手(あいて)()るのは忠相である故、儂は約定(やくじょう)反故(ほご)には()て居らぬ。何依り――」
 上様には再吟味は何回(まで)、或いは何時(いつ)(まで)と云う限りを付けられて居らぬしな。
 ()う云って稲生正武は、何を思うか(くら)く嗤った。
「名奉行の御手並み、()せて戴こう」


  top  
prev index next


novel (tag)
prev
index
next
※message
inserted by FC2 system