漆
勿論改めて云う迄も無い事ではあるが、伊奈忠逵は大層困惑為て居た。
伊奈家とは歴とした武家である。武家ではあるが、本来、遡れば東照大権現家康公に其の治水の腕を買われて江戸に迄引き連れて来られた伊奈忠次を始祖とする。則ち、身を立てたのは武の道、剣の道では無く、謂わば土木の路であった。
而も、偉そうに踏ん反り返って上から彼あ為ろ、斯う為ろと指図を為るだけの上役に収まる様では、斯う迄買われぬ。
伊奈家は、領民を見、伴に手を汚し、足を汚し、土と汗とに塗れる、泥臭い領主であった。現に武蔵国小室藩一万石の領主並びに関東代官に任じられ、事実上の関東郡代、則ち関八州の郡代官を務める様に成った伊奈忠次は、関東を中心に精力的に各地の検地、新田開墾、河川改修を行い、炭焼き、養蚕、製塩、桑、麻、楮の栽培法を農民に教えて廻ったのである。故に忠次は領民達には、伊奈様、伊奈様と、神仏の様に慕われて居た。
此の様な忠次に、関東平野を貫く利根川の付け替え普請の取り仕切りが命じられたのも、不思議は無い話であった。
家康公が江戸城に入城し、幕府を開いて依り、江戸に住む者は爆発的に増え続けて居り、此れを賄うには水運を始めとする物流の整備が必要不可欠であった。其処で、利根川を常陸川河道へと繋げる一大事業が持ち上がり、其の纏め役として白羽の矢が立ったのが、外でも無い伊奈忠次であった。忠次は此の大い成る自然の流れを捻じ曲げる難事に生涯を掛けて打ち込み、伊奈家三代に渡る尽力の末、見事関東平野の水運改革は成ったのである。
斯う云った歴史を持つ伊奈家、六代目当主が、伊奈忠逵であった。
忠逵は忠次の血を色濃く受け継いだ、泥臭く朴訥な人物で、放って措けば土でも弄って生涯を過ごし、而も其れを苦とも思わぬ様な男であった。
忠次依り代々受け継いで居る関東郡代と云う役職は、関東一円の政を執り、裁を量り、悪事を取り締まるのが本来の職務である。併し忠逵は、出来る事ならば然う云った面倒事は避けたいと、否、より正確しくは裃を着て偉そうに高みに踏ん反り返って民を見下ろす厄介な仕事に身を置く依りは、低く近く腰を屈めて民と伴に重荷を此の身に背負う己で在りたいと考える様な男であった。
故に、初代の例に倣い、名高い葛西用水を手掛け、見沼代用水に助力した事は関東に棲む者なら知らぬ者は無い。其れ許りか、用水を為した土地に、遙か南国依り甘藷を取り寄せ、植え付けを試み迄為たと云うのだから、将来を見通す眼が有ったと云うべきであろう。
甘蔗栽培は一筋縄では行かず、失敗の為通しではあったが、座して人の顔も見えぬ書き物に向かって居る依りは、忠逵にとっては随分と心持ちの好い仕事であった。
其の日も然うであった。
朝早くから作付けの様子を見に行った物の、矢張り育ちは芳しく無く、又も失敗かと落胆は為た。
為たが、其れだけでは終わらぬのである。
扠、気候が違うか、耕土が違うか、肥料が違うか、灌水が違うか、次は何を変えて見るか、と次なる工夫に頭を捻る。此の一手が、一歩が、慥かに何かを生み出す礎に成って居ると思えば、苦労も苦行では無い。沸々と思考を纏め乍ら屋敷に帰り着く。
門を潜り、上り框に腰を下ろし、草鞋に手を掛けた処で、何やら様子が平時と違うのに気が付いた。
否、此れ、と定かに云える訳では無いが、何とは無しに、違う様な気が為たのである。
忠逵は思考を一時止めて、周りを見回す。
見目には何も変わった様には見えぬ。
遠くに香るは朝餉の付汁の味噌。
其れとて、普段と何ら変わらぬ。
耳に届くは炊事の喧噪、婦共の聲――
――否。
忠逵は頭を振った。
違う。
聞こえぬ。
食器の鳴る音も。
食材を扱う音も。
調理を為る音も。
姦しい話し声も。
其れだけでは無い。
出迎えが来ぬ。
普段ならば己が帰った事にも誰かが気付き、出迎える筈。
其れが――
無い。
帰宅の時刻は、平時と変わらぬのである。
其れなのに。
丸で誰も彼もが消え失せて仕舞ったかの様に。
忠逵は、何事が起きた物かと気を張り詰め、人の気配のする方へ、小さな話し声のする方へと、閑かに歩みを進めた。
気配を殺し、吐息を殺し、跫音を殺し、辿り着いた先は、炊事場であった。
覗いて見ると、婦共は皆手を止め、食い入る様に、魂を奪われた様に、勝手口に立つ男の噺に聞き入って居る。
怪しい男であった。
身形は見窄らしく、手足は薄汚れて居る。伸び放題の月代、軽そうな腰の物を見るに、何処ぞかの食い詰め浪人であろう事は容易に知れる。
併しである。
其の氏素性も知れぬ食い詰め浪人風情が、此処で一体何を為て居るのか。
此処に一体何を為に来たのか。
婦共に何を吹き込んで居るのか。
忠逵は肚に力を込め、えいやと許りに声を張る。
「御主何者だ、此処で何を為て居る」
「やや、此れは此れは、関東郡代、伊奈忠逵様に相違御座居ますまいか。某は一介の素浪人、本多儀左衛門と申しまする。何様為ても伊奈様の御耳に入れたき儀が御座居まして、斯く罷り越して御座居ます」
其の怪しげな男は拍子抜けする程に素早く低く腰を屈めて平伏し、然う云った。
然う為て――
聞かされた話は、扠、忠逵には何とも判断の付かぬ話であった。
本多儀左衛門と名乗った其の男が云うには、南品川宿に一人の山伏の装束をした男が居り、人を集めて何かを企てて居る、と云う話なのである。
聞いて、正直、其れが何様した、と思った。
其れが何故に是非とも耳に入れたい儀であるのか、と。
思っただけで無く、事実然う云った。
「山伏なのであろう」
「左様で御座居ます」
「なれば、人を集めても何の不思議も有るまい」
忠逵が然う云うのも当然であった。
山伏とは山中に籠もって修行に明け暮れる修験道の行者、或いは僧の事である。頭に頭巾を冠り、手には錫杖、腰には法螺貝。袈裟と篠懸を身に纏い、修行の為に山野を駆け巡るのが世に知られた姿と云って差し支え無かろう。又、其の中には山岳自然の神威を宿し、験力法力、加持祈祷に依って摩訶不思議、神妙不可思議な霊験を示す者も居ると聞く。
則ち有り体に云えば、山伏は本来山中に籠もって居る者であって町中に見る事は無く、町中に居るとすれば其れは山伏を語って人を寄せ、霊験を騙って見世物を営む紛い物が殆どなのである。
であるならば――
「其の何が怪訝しいと云うのか」
江戸の町は広い。
各國から有象無象が寄って集る。
人を集めて一儲けを企む輩等巨万と居る。
町中に芸事、商売、奇品、珍品が目白押しである。
故に其処此処で日々物珍しさに人集りが出来上がる。
其の中に在って、山伏の装束での見世物商売等、今時珍しくも無い。
而も、然う云った物の多くは長くは保たずに消え失せる。
新し物好きの江戸っ子は、直に別の物に目移りする。
其の目移りをさせるだけの物が江戸には溢れて居るのである。
なれば――
「何ら気に病む必要等在るまい」
直に飽きられよう。
「否、其れが――」
見世物では無いので御座居ます、と儀左衛門は云った。
「見世物では、無いのか」
「勿論、山伏の装束で刀を飲む、刃の上を歩く、細い綱を渡ると云った一芸、軽業を披露する流れ者なれば某とて観た事は御座居ます。然う云った類ならば、成程、一時の座興と一々目角を立てる程の事も御座居ますまい。慥かに面白がって人も集まるやも知れませぬが、仰る通り捨て置いても直に人は離れ、忘れられ廃れて行くのは目に見えて居ります」
併し――
「此の山伏が供して居るのは、違う、ので御座居ます」
「忘れられ廃れぬ物、と云う事か、否、見世物では無いのであったな」
なれば――
「真実の法力験力を顕わして居るとでも云うか」
「然う云う訳でも、御座居ませぬ」
「とは云っても、山伏に出来る事と云えば精々の処が加持祈祷。悩み、惑い、迷う者共が縋り付き、得るは嵩々一時の安寧。詰まりは辻占か、で無ければ呪詛でも遣って居るのか」
呪詛であるならば、捨て置けぬ気はする。
「其れが、噂が噂を呼び、人が人を喚ぶ程に当たる、或いは利く、と云う事か」
「其れも違うので御座居ます」
「又違うのか」
「左様に御座居ます」
「では何様違う」
忠逵は、此の一向に正答を得ぬ問答に徐々に心を乱されつつある己を自覚し乍ら、然う問い返した。
山伏の装束である。
併し、見世物では無い。
法力験力を顕わすでも無い。
加持祈祷を為すでも無い。
では、何故に其の周りに人が集まるのか。
――否。
抑も実際に何れ程の人が集まって居ると云うのか。
所詮は出自の知れぬ山伏風情。人を集めた処で一体何が出来ようか。
集まった者とて、何れ程の力を持って居るのであろうか。
力無き烏合の衆では集めても何の意味も在るまい。
然う考えれば、当然の疑問に打突かる。
此れは、真実に気に掛けるべき事なのか。
則ち、詰まる処、儀左衛門と名乗る目の前の男の肚の内が、未だ一向に読めぬのである。
此の男が何を畏れ、又何を考えて此の場に居るのかが分からぬのである。
抑もの話、と儀左衛門は膝を正した。
「件の山伏の下に集まって居るのは、其処等の町人や商人では御座居ませぬ」
「で無ければ何者だと云うのだ」
「商分からは大店の主人。農分からは地主、名主。士分からは素浪人も勿論乍ら、名の有る武家の当主、大名迄が其の名を連ねて居ります」
「其れは一体何の為に」
「ひとことで申すならば、身を立てる為に、で御座居ます」
「立身出世の為、と」
其れは理解し難い話であった。
一介の山伏如きが、身を立てるに足る程の伝手等、持ち合わせよう筈が無い。
否、仮に何らかの伝手が有った処で、其処に大名迄が集まると云うのは了見が分からぬ。
真逆其処等の武家よりも大名よりも頼り縋るだけの甲斐が有る、と斯う云う事なのであろうか。
「人は多く集まって居るのか」
「勿論に御座居ます。此の山伏、数々の武士、僧侶を引き連れて只今は旅籠に逗留為て居るので御座居ますが、噂が人を喚び、又人が噂を呼んで、山伏率いる一団は今や小さな大名行列の様相。加えて其の滞在費等は、出世を求めて面会に来る者達に依って賄われて居ります」
「此処で恩を売って措けば、将来の役に立つと然う云う事か」
「左様に御座居ます。山伏の下には豪商、豪農、武家大名が日毎引っ切り無しに面会に訪れて居ります。此方も門前市を成す勢いに御座居ます」
話は聞けば聞く程、慥かに捨て置けぬ。
併し、只鵜呑みにも出来ぬ。
忠逵は真意を確かめる様に、確と儀左衛門を見据えた。
見詰められた男は、真面目腐った顔で忠逵を見詰め返す。
其の眸は巫山戯て居る様にも、揶揄って居る様にも、莫迦に為て居る様にも、騙そうと為て居る様にも見えぬ。
何様やら本気で云って居る様である。
忠逵は小さく息を吐く。
其れは其れで奇妙な話としか思えぬ。
と云うのも、未だ其の山伏の導きで出世した者は誰一人居らぬのである。
寡なくとも然う触れ回る者は誰一人聞かぬ。
証拠か、でなければ噂話の一つでも無ければ、人寄せには成らぬ筈である。
其れなのに、立身出世の為に山伏の元に続々と人が集まると云うのは到底理解出来ぬ事である。
或いは逆態に、加持祈祷にて政敵を失脚させでも為たのであろうか。
其れならば表沙汰に成らぬのも分からぬでは無いし、耳に入れねばならぬと考える道理も理解せぬでは無い。
否。
加持祈祷は為ぬのであったな。
然う、忠逵は思い返す。
忠逵は一を聞いて十を知る程聡い男では無い。
寧ろ不器用に丁寧に一つ一つ地道に積み上げるを得手と為る気質である。
其れ以外の生き方を知らぬ。
其れ以外の生き方は出来ぬ。
併し、愚直なれど愚鈍では無い。
然うで無ければ土木治水は成らず、作付栽培は生らぬのである。
「成程」
と、忠逵は頷いて見せた。
「話は概ね諒解した」
併し未だ分からぬ。
「其の山伏の男、一体何の様に為て人を集めて居るのだ」
「と申しますと」
「所詮は山伏、立派な装束とは云い難い。又、加持祈祷も為ぬ、身を立てた者も未だ居らぬと有れば、此の男、如何に為て信用出来ようか。何様遣って出世を援けると云うのか」
「真に御耳に入れたき儀と申しますのは、其処に御座居ます」
と云って、儀左衛門は幾分声を潜めた。
「斯様な事を申しますと御手討ち無礼打ちも免れ得ぬやも知れませぬが――」
此の山伏、将軍家の血筋を標榜して居るので御座居ます、と儀左衛門は云った。
思わず忠逵の身体が傾ぐ。
「御、御主、其れは――」
「真実か何様かは分かりませぬ。真相が何様かは知れませぬ。併し、其の触れ込みを信じて人が集まって居るのも又事実。否、翻って云えば、全くの偽物で、証拠も根拠も無いのであれば、斯うも人が集まりましょうか」
儀左衛門の云い分にも一理在り、忠逵は云と唸って口を閉ざした。
「件の山伏は、此れ依り徳川将軍家に謁見し、行く行くは大名に、将軍に取り立てられる事間違い無く、今依り我に仕えれば先々で必ずや恩に報いよう、と云って、方々から人を集め、金銭を蒐めて居るので御座居ます。又、謁見の際には此れ以上無い慥かな証拠を御目に掛けると申して居ります」
「証拠とは」
「其れは定かでは御座居ませぬ。と申しますのも、其れを直に眼にして居るのは信の措ける腹心の部下のみなので御座居ます」
成程、と忠逵は頷いた。
漸く事の全貌が見えて来た。
則ち、此の山伏、真実に将軍家の御落胤成りや、と斯う云う事なのである。
「本多儀左衛門と申したな」
肯と男は居住まいを正した。
「好く報せて呉れた」
然う、忠逵は先ず労った。
「併し、事は流石に我の手に余る。故に――」
上役に諮ろうと思う。
「其方、我に同行し、今一度同じ話を為て貰えるか」
「関東郡代、伊奈忠逵様に然う仰られては、否哉は御座居ませぬ」
「其れでは先ずは当家にて身支度をせよ」
云うなり、忠逵は手を叩き、誰か在る、と呼ばわった。
程無く一人の下女が現れ、忠逵に彼れや此れやと云い付けられ、其れでは、と立ち上がった。釣られて儀左衛門も立ち上がる。
「然う云えば、一つ聞き忘れて居たが」
と、思い出した様に、忠逵は付け加えた。
「其の山伏、名を何と云う」
「申し訳御座居ませぬ、悉皆忘れて居りました。其の山伏は天一坊改行、或いは源氏坊天一と、斯う名乗って居ります」
然らば失礼致します。
云って、男は婦に連れられて座敷を後にした。
遠離る跫音を聞き乍ら、残された忠逵は見るとも無しに、つい先程迄男が座っていた座布団を眺め、話を思い返していた。
話は分かる。
理解出来ぬ事では無い。
併し――
厄介な事に成った、と忠逵は思った。
天下の大将軍の御子を名乗る者が居る。証拠の品も有ると吹く。尽くせば報いると金銭も人も集めて居る。
無論此れが贋者であったら不敬極まり無いし、真者であっても捨て置けぬは当然の話。
望むと望まざるとに関わらず、関八州の郡代官と云う役職に在れば、此の様な案件が持ち込まれるのも仕方が無い。仕方が無いが――
思わぬ内に、飛んでも無い巨きな流れに、知らぬ間に、何様為ようも無く巻き込まれて仕舞って居る自分に、今更乍らに気付いて、忠逵は大きな溜息を吐いた。
己は只、土を弄って生涯を終えたかったのだが。
話に未だに現実味が持てず、何やら腰の据わりが悪い様な心持ちがする。
狐狸妖精にでも誑かされて居るのでは無いかと云った莫迦気た考えも浮かぶ。
綺羅と、座布団の上で獣の体毛が光を反射した様な気がした。
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