儂にゃあ――丁重(ちゃん)と説明しやがれいと老爺は先行く男に云った。
(そもそ)も今回の此奴(こいつ)一体(いってえ)何が何様(どう)だったんでえ、御行の」
 五月蝿(うるせ)ェよと男は脚も止めずに応えた。
「片付いた話を今更になって蒸し返すんじゃねェや。其ンな事したって詰まらねェぜ」
 何の得にも成りゃァしねェよとつれなく云う。
 老爺は其の言葉に承伏しかねるのか、顎を撫でながら、お(めえ)は片付いたてえ云うがなと呟いた。
真実(ほんとう)に済んだのか」
「済んだろうがよ。()うに喜助も島に着いてらァ。収まる処に(みんな)収まったんだ、万々歳じゃねェか」
 此れ以上に何が有るんでェと云われて、老爺は顔を(しか)めた。
「慥かに無いのかも知れねえがよ」
「なら好いじゃねェか」
 第一(でえいち)手前(てめえ)にゃァ楽な仕事だった筈だぜ。礼金も潤沢(たっぷり)と弾んであらァ。其れで何の不満が有るンでェと男は云う。
(おう)、楽な仕事だったわい」
()うだろう」
「不満もないわい」
「なら好いだろうが」
 好くないわと老爺は抵抗した。
()()れは頑固でいけねェな」
「其の()()れを、京に、信州にと連れ廻したのは何処の誰でえ」
「だから礼金は十分に出してるだろうがよ。其れでも文句が有るてェんなら――」
 二度と仕事を引き受けなけりゃ好いじゃァねェかと男は吐き捨てる様に云った。
此方(こっち)ァ頭下げてまで頼んだ憶えはねェんだぜ」
「文句が有るとは云っとらんわ」
 其の癖にやけに突っ掛かるじゃねェかと混ぜっ返され、老爺は又も顔を(しか)める。
「只お江戸から京に信州にと連れ廻された仕事仲間として、其の背景(うら)を知っときてえと、()う云ってるだけじゃあねえか、なあ、おい、御行の」
 云うなり、どっこいしょと道端の石に腰を下ろす。
 其の声を聞いて男も脚を止めて振り返った。
「おい、置いて行くぞ(じじ)ィ。手前(てめえ)の云う懐かしのお江戸ももう目と鼻の先じゃねェか。長閑(のんびり)してやがったら帰り着く前に彼岸(あのよ)からお迎えが来仕舞(ちま)うぜ」
()(ほど)急ぐ旅でもねえだろうが、年寄りは(いたわ)れい」
 ()う云って老爺は懐から煙管(きせる)を取り出した。此処で一服して行こうと云う積もりらしい。
昨刻(さっき)と云ってる事が(ちげ)ェじゃねェか。手前(てめえ)で云ったンだろうが、楽な仕事だったてェのは。じゃァ元気が有り余ってる筈じゃねェのかよ」
 耄碌(もうろく)したか(じじ)ィと蹴りつける様に男が云うと、老爺は解っとらんなと(たしな)める様に応えた。
「此の老骨にゃあ仕事其の物よりも、此の旅路の方が堪える(もん)だってえのよ」
 ()う云って煙管をふかし始める。ぷかあと白い煙が空へと昇って行く。
(そもそ)も此の話の出処は何処なんでえ」
 老爺が重い腰を上げる風も無い事を見て取って、男は不満そうな顔で近付き、立木に寄り掛かった。
「全く年寄りは頭が固く成っ仕舞(ちま)って、手前(てめえ)(かんげ)えるてェ事をしねェからいけねェな。今回の件で一体何が収まったよ」
()うさな」
 と云って老爺は立ち上る煙を追う様に天に目を向けた。
「望月楼の吉次の生きる足場が定まったか」
(オウ)よ」
 と男は頷く。
「其れじゃァ京都の方はどうでェ」
「京か」
 老爺は視線を其の儘に指折り始める。
 先ずは火付けが止んだか。
 其れから、弟殺しも片が付いたな。
 天狗の噂も、天狗の子の噂も、全部無くなった。
 天狗の松蔵も遂に沙汰が下って、京の町からは消え失せた。
()うだろうが」
「後は鯖が売れたな」
 其りゃァ関係ねェよと男は笑った。
「此れ(ぐれえ)(もん)か」
「其ン(ぐれえ)だな」
 男は頷くと、何様(どう)でェと云った。
何様(どう)此様(こう)も有るかい。御行の、お(めえ)一体(いってえ)何が云いてえんだ」
「解らねェか、望月楼の旦那の話を除きゃァ収まったのは全部、京に這入り込んだ厄介物(やっかいもん)だろうが。其れを追い出したてェのが事の始末。てェ(こた)ァ出処は自ずと知れらァ。京の町の安らかなるを守るなァ誰の仕事でェ」
「御奉行の仕事か」
()うに決まってるだろうがよ。其れも東町奉行を丸め込んで遣ったてェ(こた)ァ」
「西か」
 ()うよと男は頷き、彼奴(あいつ)ァ切れるぜと続けた。
「切れるか」
(オウ)よ、出世やら金銭(かね)やらの欲ァねェが、菅沼定喜の(はら)(うち)も、市井の噂も、全部知って居やがった。如何(どう)遣ったのか知らねェが喜助の調べ書きの写し迄手に入れてやがったンだぜ。其の上、表向きだけじゃねェ、此方(こっち)の渡世にも繋ぎが有る。此奴(こいつ)ァ――」
 (てえ)した野郎だと男は息を吐いた。
「珍しいじゃあねえか、御行の。お(めえ)が其処まで人を褒めるなあよ」
「人を褒めちゃいけねェかい」
「いけなかないがよ」
 珍しいじゃあねえかと老爺は繰り返し、男は()うかもなと応じた。
「まァ別に手放しで褒めてる訳でもねェよ。町人の安心の為に私財を切り崩して小悪党を雇おうてェ(くれえ)だ、人が善いのは慥かだぜ。だが善過ぎらァ、ああ云うのは長くは保たねェ」
 保って後一年(ひととせ)二年(ふたとせ)てェ所だろうぜと男は云い切った。
「お(めえ)()う云うんなら、()うかもな」
 云って、老爺はまたぷかあと白い煙を吐き出した。
「まあ出処は分かったなあ好いとして、其れで御行の、今回の仕掛けだ。(あれ)一体(いってえ)何様(どう)成って居たんでえ」
手前(てめえ)一番近くで見て居て()だ解ってねェのかよ」
 と男は呆れたように云った。
「今回なァ仕掛けも何もねェよ。舌先三寸、口八丁、立たぬ四方を丸く収めて遣っただけの話よ」
「好い加減な事を()かすない、御行の。じゃあ何か、お(めえ)が口を開きゃあ火付けが無くなるとでも云うのかよ」
 お(めえ)に其んな法力が有ったたあ知らなかったぜと老爺が笑うと、男は有りゃァしねェよ其ンな(もん)と応じた。
第一(でえいち)、口を開いたなァ手前(てめえ)だ」
「其れこそ訳が解らねえ。儂が京都で遣った(こた)あ鯖食った鯖食ったてえ唄って踊っただけだろうが。其れで火付けが止むのかよう」
 其んなに霊験(れいげん)(あらた)かならお(めえ)も御行の格好なんざ止めて、陀羅尼の札の代わりに其のお題目を売って廻りゃあ好いだろうがよと老爺は声を上げた。
「莫迦な事云うねェ、()のお題目が効いたなァ、確乎(しっかり)理由(わけ)が有るンだよ」
(あれ)あ信州の天狗祓いの呪言(じゅごん)てなあ間違(まちげ)えねえんだろうが、てえ(こと)あ京の火付けは真実(ほんとう)に信州が大天狗が駆け回って、葉団扇で起こった火だったてえのかよ」
「まァ似た様な(もん)だ。今回の一件、頭から尻まで全部丸ッと天狗の野郎の仕業よ」
「おい御行の、儂あ此の歳まで生きて来て、未だ一度も天狗に会うた事がねえ。天狗攫いに遭ったてえ奴にも出会(でくわ)したことがねえ。だからまあ、天狗が居るの居ねえのてえ話あ知らねえよ。だが其処行くとお(めえ)、其の口振りじゃあ天狗を知ってやがるみてえじゃねえか」
 訊きてえ事は()だ有るぜと老爺は続ける。
「お(めえ)、東町奉行にゃあ殺したのが天狗攫いに遭った喜助、殺された吉次が天狗の子だってえ話をしたじゃねえか。(ところ)が望月楼の吉次にゃあ逆様(はんたい)に、殺したのが人の世の理を知らねえ天狗の子、殺された吉次が天狗攫いに遭って心を病んだ喜助だって云いやがった。此奴(こいつ)何様(どう)云う事だよ」
 男は小さく息を吐いて、つ離れしねェ餓鬼じゃねェんだ、何様(どう)して何様(どう)しててェ(なん)でも(かん)でも訊くンじゃねェよと毒突いた。
「大体、手前(てめえ)も天狗の野郎は知ってる筈だぜ。会った事ァねェかも知れねェがな」
「憶えがねえよ」
耄碌(もうろく)しやがったか(じじ)ィ」
 頭が回らねェのに口だけ回りやがるなァ面倒(めんどう)(くせ)ェやと男は空を見上げる。
「天狗の野郎は先達て彼岸(あのよ)に逝っ仕舞(ちま)ったよ。首ィ落とされてな」
「待て待て、御行の。詰まりは何か、此の度の一件、全ては天狗の松蔵がしでかした事だってえのか」
「一括りに云えば、()う云う事に成るンだろうぜ」
 (ちっ)とも解らねえなと老爺は(こぼ)す。男は天に向けた視線を緩慢(ゆっくり)と元の高さに戻した。
「仕様がねェ(じじ)ィだな、最初から順を追って説明して遣るから確乎(しっかり)聞いてやがれ」
(おう)よ」
 事の起こりは喜助が天狗攫いに遭った事だろうがと男は云う。
「其れが何様(どう)した」
何様(どう)したじゃねェよ、真実(ほんとう)に喜助は天狗に攫われたンだよ。天狗の松蔵にな」
 何だとうと老爺は声を上げた。
「松蔵の野郎は何だって其んな事しやがったんでえ」
「知らねェよ」
 松蔵一味の隠れ家に喜助が迷い込ん仕舞(じま)ったのかも知れねェし、松蔵の一人息子の遊び相手にてンで攫ったのかも知れねェ、其処ン(とこ)は死ん仕舞(じま)った松蔵に訊いてみるしかねェだろうよと男は投げ遣りに云った。
「兎に角、喜助が松蔵に攫われたなァ慥かな話だ」
 じゃあ何かいと老爺が後を継ぐ。
 喜助と吉次が小せえ頃に使い走りみてえな事してたてえのは――
「其の頃から盗っ人の片棒を担いでたてえのか」
(オウ)よ」
 或る程度歳が行ってからァ先に商家に這入り込んで手引きする様な役も遣ってただろうぜと男は続ける。
其奴(そいつ)が天狗の松蔵は手前(てめえ)の一粒胤を先に潜ませとくてェ噂の出処だ」
「てえ(こた)あ喜助って野郎、飛んだ悪党じゃあねえか」
 (いや)、其りゃァ(ちげ)ェよと男は首を横に振った。
「喜助ァ其ンな積もりは(ちっ)とも無かっただろうぜ。彼奴(あいつ)ァ嘘を吐ける様な性質(たち)じゃァねェ。調べ書きに有る通り、手前(てめえ)で語った通りに喜助は思って居やがったンだよ」
「てえ(こた)あ何だ、真逆(まさか)喜助は松蔵の餓鬼を自分の弟だと思い込んでやがったてえのかよ」
「ああ()うだ。其奴(そいつ)を隠れ蓑に松蔵の餓鬼の方が専ら手引き役を遣って居たてェ訳よ」
 天狗だけに隠れ蓑たァ気が利いてらァと男は鼻で笑う。
「能く考えてみりゃァ解る事だぜ、喜助の野郎は飛んでもねェ(ぐれえ)に器用な野郎なんだ。其れで()れ程貧乏をする筋がねェだろうが。だとしたら、何様(どう)()たって何か背後(うら)が有らァ」
何様(どう)云う意味だよ、御行の」
 老爺が問うと、男はおいおいと呆れた様に云った。
真逆(まさか)たァ思うが、手前(てめえ)空引(そらびき)てェのが()んな(しごと)なのか知らねェて(こた)ァねェよな」
「其の真逆(まさか)だわい」
 ふんと鼻から息を吐いて見せる。
「儂あな、お(めえ)みてえに(なん)でも(かん)でも知ってる訳じゃあねえ」
「何でもは知らねェよ、要る事だけァ知ってるだけだ」
 好いか、(おせ)えて置いて遣るから耳の穴()穿(ぽじ)って聞いてやがれと男は云った。
空引(そらびき)てなァ、西陣織の中でも一番てェ(ぐれえ)(むつか)しくて大事(でえじ)な仕事よ。西陣織て(こた)ァ織物だ。織物て(こた)ァ其の紋様が肝要だろうが。織物の紋様は縦糸と横糸の組み合わせで出来てンだよ。其奴(そいつ)を作る為にゃァ、機ァ織る織師と息合わせて、縦糸を上げて横糸を通す()きを作る奴が居なきゃならねェ。其れが空引(そらびき)よ」
「じゃあ(えれ)大事(でえじ)じゃねえかよ」
 だから()う云ってるだろうがと男は応えた。
(しか)も縦糸ァ普通に織る分だけで五千から八千。絡み糸てェ金箔や色糸を押さえる細い奴まで勘定すりゃァ八千から一萬六千(ぐれえ)有る。此奴(こいつ)を全部、要る時見計らって上げたり下げたり、織り上がるまでの(なげ)ェ事するンだから長年連れ添った夫婦(みょうと)じゃなきゃァ出来ねェとも云われるのが空引(そらびき)と織師てェ(しごと)だ。(こと)空引(そらびき)てなァ仕込みは餓鬼の時分から始まるとも云うぜ。偶々(たまたま)西陣に来た野郎がおいそれと出来る筈がねェだろうが」
 でも出来たんだろうと老爺が云うと、(オウ)よと男は頷く。
「だから云ってンだよ。()れて貰えたなァ喜助の人柄も有るンだろうが、其りゃァ器用じゃなけりゃァ務まらねェ。其ンな野郎が給料を右から左へと渡すだけの、借財だらけの暮らしを続けて来た筈がねェってな。第一(でえいち)空引(そらびき)は其れだけの(むつか)しい仕事だぜ。(すく)なくとも男二人が(あば)ら屋で暮らすにゃァ十分過ぎる(ぐれえ)の稼ぎになってた筈だ。其れでも()うだったンなら――」
 何か裏が有ったに(ちげ)ェねェだろうが。
「大方、弟の吉次に上手い事云い(くる)められて全部()られてたンだろうぜ」
「吉次が肺病病みだったのは何様(どう)なんでえ」
 其れに金が掛かってたんじゃねえのかよと老爺が問うと、肺病なんかねェよと男は答えた。
「其れが喜助から金を巻き上げる口実だったのかも知れねェが、まァ、()りゃァ狂言だ。喜助は信じて居たんだろうぜ。だから血に(まみ)れた弟を見て、血でも吐いたのかてェ言葉が直ぐに出たんだ。でもな、感染(うつ)ってねェだろう」
 何年も一緒に暮らしてる兄貴によと男は云う。
「好い隠れ蓑だったンだろうぜ、喜助って奴ァ。周りの奴らァ見ねェ。揃いも揃って、喜助の(こた)(やまい)持ちの弟を能く助け、身を粉にして働く健気な野郎だと()う云ってやがったじゃねェか。喜助の方は本気だ。喜助しか他人(ひと)と関わらねェなら疑う奴ァ誰一人居ねェ。寧ろ弟も不憫にと情を掛ける。()うたァ云っても人に感染(うつ)るかも知れねェ(やまい)持ちの弟となりゃァ、町中にゃァ住めねェ。町外れに住んだ所で人も寄り付かねェ。病弱を装った弟が悪巧みをするにゃァ打って付けだ」
「てえ事あ、真実(ほんとう)に喜助こそが天狗攫いに遭った喜助で、死んだ吉次が天狗の松蔵の餓鬼だってえんだな」
()うよ。其処を引っ繰り返す為に手前(てめえ)(つか)って態々(わざわざ)細工()て貰ったってェ訳だ」
 男が()う云うと、老爺はああ()れだなと応えた。
(あば)ら屋引っ繰り返して三十年程(めえ)に信州で手に入る糸、織り方、模様の布切れ一枚手に入れろ、(おんな)(もん)で着物に仕立てろ、三十年分草臥(くたび)れさせろ、胸元を血で汚せ、てえなあ訳の分からねえ細工だと思ったがよ、彼奴(あいつ)()う云う理由(わけ)だったのか」
(オウ)よ。まァ()だ手も目ェも衰えてねェみてェで好かったぜ」
商売(しょうべえ)道具の細工に目利きが出来なくなっ仕舞(ちま)ったらお払い箱だろうが。まあ、お(めえ)みてえな若僧に心配(しんぺえ)される様になっちゃあお(しめ)えだな」
 呵々(かか)と笑う老爺に男は云ってやがれと舌打ちをした。
「で、話を戻すがよ。云っ仕舞(ちま)やァ喜助と吉次は二人組の手引き役だ。喜助が西陣の織場に入り込んだてェ事ァ、次の狙いは其処だったてェ事だろうぜ」
 男が()う云うと、老爺は表情を改め(ちっ)と待てよ御行のと口を挟んだ。
怪訝(おか)しいじゃあねえか。吉次は松蔵の餓鬼で、肺病病みじゃなかったんだろうが。盗人の仕込みを遣ってて、今からってえ時候(ころ)。其れなら――」
 何で死ぬ必要が有ったんでえと老爺が問うと、男は別に必要はねェよと素っ気なく云った。
「何も()もが上手く行く訳じゃァねェ、折悪く先に松蔵が奉行所に捕まっ仕舞(ちま)ったのが運の尽きだ」
 と男は溜息と共に吐き出した。
「松蔵の餓鬼の外にも幾人か既に京都の町にゃァ潜り込んで居やがった。松蔵が捕まっ仕舞(ちま)った所為(せい)で、其奴(そいつ)()の手綱を上手く捌ける奴が居なくなっ仕舞(ちま)ったのよ。集められたは好いが仕事にならねェと来ると、荒くれ共だって鬱憤が溜まるぜ。其処で、只の松蔵の餓鬼だってェだけで親分風を吹かされたら何様(どう)でェ」
「なら()れあ只の仲間割れだってえのか」
()うよ、天狗の一党の遣った事よ」
 其ンで偶々(たまたま)喜助が(けえ)って来る刻限が(ちけ)ェってんで置いて逃げたンが真相だ、と男は云い切った。
「朝に兄貴が出て行って直ぐなら兎も角、態々(わざわざ)兄貴が(けえ)って来る頃合い見計らって手前(てめえ)で喉笛掻っ切らなきゃなンねェ理由(わけ)なんか有る筈ねェだろう。見せつけて、手ェ貸させて、罪の意識でも植え付けようてェのか。お笑い種だ。有り得ねェよ」
 成程(なるほど)なあと老爺は感心した様に呟いた。
「喜助の天狗攫い、京の弟殺しと此処(まで)あ天狗の仕業てえ理由(わけ)あ納得したぜ。じゃあ火付けは何様(どう)でえ」
 老爺の問に男は詰まらなさそうに、火付けも(おんな)じよと応じた。
「吉次は肺病病みじゃァなかったんだぜ、だとしたら妙な女郎(めろう)が一人噛んでやがるじゃねェか」
「女あ」
 と老爺は首を傾げる。
「居たかよ、其んな女」
「女たァ云っても、(ばば)ァだ(ばば)ァ。喜助が吉次の喉笛掻っ捌いた所に出会(でくわ)した女郎(めろう)が居たろうが。喜助の話に拠りゃァ、留守の間に吉次に薬を飲ませたり()るてェんで頼んであった(ばば)ァてェ事だが此奴(こいつ)怪訝(おか)しい。吉次は肺病病みじゃァねェし、第一(でえいち)喜助が留守の間に吉次の世話()るてェのが其の(ばば)ァの仕事なら、常時(いつも)通りの刻限に(けえ)って来た喜助より後に来たんじゃァ役に立たねェだろうが」
「じゃあ其奴(そいつ)あ何なんでえ」
手前(てめえ)(ちっ)たァ頭使えよ、其の内錆び付いて使い(もん)にならなく成るぜ」
 と男は悪態を()いた。
昨刻(さっき)から云ってる通り、(くだん)(あば)ら屋を出入りしてたなァ全部天狗の一味だ。此の(ばば)ァも()うよ。此奴(こいつ)ァな、捕まった天狗の松蔵からの繋ぎだ」
 出入りする口実に喜助の留守居(るすい)てェのを使ってただけよと云うと、老爺はじゃあ(おでれ)えただろうなあと他人事の様に応えた。
(オウ)よ、或る日来て見たら繋ぎ付ける相手が死んでやがる。(しか)()ったなァ見た処、拾い育てて遣った野郎だ、此奴(こいつ)ァ手酷い裏切りだぜ。(ばば)ァは慌てて松蔵に御注進に行った筈だ。で、気付かねェか」
「何にだ」
(ばば)ァは吉次を()ったなァ喜助だと思ってやがる。松蔵にも()う云った。(ところ)が喜助の奴ァさっさとお縄に就い仕舞(ちま)った。となると松蔵の思いの向く先は何処でェ」
「まあ向ける先あ、ねえわな」
「其処よ」
 先がねェなら、(はら)()せに当たり散らすが悪党の常だろうがよと男は云った。
(しか)手前(てめえ)じゃァ手は下せねェ。其の鬱憤も手伝って、松蔵の野郎ァ繋ぎを(つか)って、忍び込ませてた手下共に、京中に火を付けて廻れ、京を恐怖のどん底に突き落として遣れと命じたのよ。()うたァ云っても、松蔵も気付いてなかった事だが、捕まっ仕舞(ちま)った(もん)だから其の影も随分と薄くなっ仕舞(ちま)って居やがった。手下も愛想を尽かし掛けてた所に此の話だ。真実(ほんとう)を云やァ手前(てめえ)()が吉次を手に掛けたてェ後ろめたさも有る。下手を打って捕まっ仕舞(ちま)ったら一巻の終わりだってェんで――」
 ()小火(ぼや)騒ぎよ。
「一ツも大火に成ンなかったなァ(わざ)とだ。親分の云い付けを守ってるてェ(てい)を装っちゃァ居(なが)ら、誰一人本気で遣ろうたァ思ってなかった訳よ」
 何様(どう)でェ天狗の仕業だろうがと男が云うと、老爺は慥かになあと顎を撫でた。
「其れじゃあ鯖食ったてえ天狗祓いが効く訳よな」
(オウ)よ、信州生まれの天狗の松蔵一味ァ、其の親分の二ツ名にあやかって其奴(そいつ)を符牒に(つか)ってやがったのよ。鯖てなァ信州の天狗が嫌う(もん)だ。鯖食ったてなァ頃が(わり)ィ、場所が(わり)ィ、相手が(わり)ィてェんで引き上げの合図だ。其奴(そいつ)が京中に流行ったとなっちゃァ、鬼魅(きみ)(わり)ィだろうが」
 其れに誰が流行らせたのか知らねェが、引き上げの合図があったんなら京を、未練のねェ親分の居る所を離れる好い口実にゃァ成らァと男は口元に笑いを浮かべ(なが)ら云った。
成程(なるほど)なあ」
 と老爺は深く息を吐いた。
「聞いてみりゃあ何様(どう)って(こた)あねえが、何とも七面倒(くせ)え仕掛けを(かんげ)えた(もん)だな、御行の」
 もっと簡単にゃあ行かなかったのかよと老爺が云うと、男はじゃァ手前(てめえ)で図面引いてみやがれと返した。
「下手打ちやがって此方(こっち)に迄迷惑掛けねェなら好きに()て構わねェんだぜ」
()う云う積もりじゃあねえよ」
 と云って老爺は又白煙をくゆらせた。
「只よう、態々(わざわざ)信州くんだりの天狗を持ち出して、喜助と吉次を天狗の餓鬼と繰々(くるくる)入れ替えてよう、真実(ほんとう)に其んな事()る必要が有ったのかよ」
「有ったんだよ」
 其処が分からねェんだったら黙ってやがれと男は云った。
「依頼の筋ァ京に這入(へえ)り込んだ厄介祓いだろうが、じゃァ何追い出しゃァ片付くンでェ」
 云われて、老爺はううむと唸る。
「ひとツあ喜助だな」
「まァ弟殺してェ兇事を起こしてやがンだからな」
「後あ、火い付けて廻ってる天狗の一味か」
其奴(そいつ)等の仕業だってなァ町の連中は知らねェがな」
 ()だ有るのかようと老爺が声を上げると、男は有るだろうが一番厄介なのがよと応えた。
「京の町にゃァ天狗の松蔵が(とう)手前(てめえ)の一粒胤、潜り込ませてあるてェ噂が有ったろうが」
「其れか」
()うよ、じゃァ此奴(こいつ)等を何様(どう)始末したよ」
(おう)、天狗の松蔵の一粒胤の噂あ、本物の信州の大天狗の餓鬼の話に掏り替えたわな。其んで其奴(そいつ)を更に殺された吉次と掏り替えた。正体の分からねえ付け火を天狗の仕業に仕立て上げて、天狗祓いで追い出したわ。最後に、残った喜助を遠島として放逐して、(しめ)えだわいな」
 解らねェかと男は問う。
「京に真実(ほんとう)に天狗の一粒胤が這入(へえ)り込んで居やがったと知れたら何様(どう)成る。其奴(そいつ)の外にも手下が潜んでやがるかも知れねェと(かんげ)えるだろうが。()う成ると血眼になって一人、二人、見つけて追い出した所で終わりじゃァねェ。十か、二十か、(いや)、百か二百か――幾ら追い出した所で、()だ居るかも知れねェてェ不安は何時(いつ)まで経っても追い出せねェ」
 実体がてンで見えねェからなと男は云う。
「火付けも(おんな)じよ。態々(わざわざ)天狗の一味の仕業だってェ明かして何様(どう)成る」
 だからよ――
「実体のねェ、見えねェ(もん)を全部天狗に引っ被せ仕舞(ちま)ったのよ。最初(はな)から天狗の一粒胤なんか居ねェ。天狗の一味も潜り込んでなんか居ねェ。棲み着いてやがったなァ大天狗の餓鬼だ。火付けは餓鬼を追って来た大天狗の仕業だ。其の大天狗の餓鬼ァ死ん仕舞(じま)った、大天狗も天狗祓いで追い出し仕舞(ちま)った。実体のねェ(もん)は実体のねェ(まま)に京の外にてェ案配よ。逆様(はんたい)に、大天狗の餓鬼を(あや)めた奴ァ居る。此奴(こいつ)確乎(しっかり)と実体を持って居て貰わなきゃァならねェ。だから喜助に引っ被せた」
「喜助を死なせて、天狗の餓鬼を追い出すんじゃいけなかったのかよ」
 吉次にゃあ()う説明したろうがと老爺が云うと、男はいけねェよと応えた。
「好いか、京の町に這入り込んだ厄介物(やっかいもん)を追い出すてェのが依頼の筋だって云ったろう。天狗の餓鬼てェ妖しげな(もん)を遠島にした所で、不安だろうが。何時(いつ)ふと宙を踏んで舞い戻って来るか知れねェ。だから妖しげな(もん)にゃァ確乎(しっかり)と死んで貰う必要が有ったのよ」
 吉次ァ、物の(つい)でだ、放って置いても好かったんだが、美味い昼餉(ひるげ)を馳走になったからなと男は笑った。
「吉次にして見ちゃァ京から追い出されたのが天狗でも一向に構わねェ。逆様(はんたい)手前(てめえ)名前(なめえ)手前(てめえ)に成り代わって死ん仕舞(じま)った奴の実体が知れねェ方が不安でならねェ。だから、喜助と吉次を入れ替えて、吉次にゃァ確乎(しっかり)と実体を持って死んで貰う必要が有ったのよ」
 まァ、後ァ手前(てめえ)の実の兄が人を(あや)仕舞(ちま)って、離れ島で何時(いつ)終わるとも知れねェ苦役に就いてるってェよりも、最期まで手前(てめえ)の事を思いながら死ん仕舞(じま)ったと信じて、菩提を弔ってる方が幾らかましだろうしなァと男は憐れむ様に云った。
 其れを見て、老爺も遣る瀬ない溜め息を()いた。
「其れにしても憐れな野郎だな喜助てえのはよ」
何様(どう)()()う思うンでェ」
何様(どう)()ても此様(こう)()ても有るかよ」
 憐れに(ちげ)えねえだろうがと(いきどお)る様に老爺は云った。
「小せえ頃に実の弟と生き別れ、()うとは気付かずに弟だと信じ込んだ他人の為に尽くして、謀られたと知らぬまま借財まみれの暮らしを続けた挙げ句、(いわ)れのねえ罪をおっ被せられて遠島の沙汰。此奴(こいつ)が憐れでなくて――」
 何が憐れなんでえと云って老爺は白煙を吐き出した。
 ()う聞いて男は此れだからくたばり(ぞこ)ねえの(かんげ)えは休むに似たりてェんだと云って肩を揺すった。
「喜助の野郎は倖せだったンだよ」
「其んな訳が有るかい、御行の」
 (きつ)く云い掛けた老爺に、好いかと諭す様に男は云った。
手前(てめえ)は其の歳に成っても解ってねェ様だから(おせ)えて遣るがよ、倖せの形てなァひとツじゃァねェ」
 手前(てめえ)で云ってて怪訝(おか)しいと思わなかったのかよと男は続ける。
「何で喜助の野郎は手前(てめえ)の弟でもねェ奴を()う思い込ん仕舞(じま)ったのかってェ事をよ」
 (じじ)ィみてェに耄碌(もうろく)してる訳じゃァねェんだぜと云われて、老爺は五月蝿(うるせ)えよと応じた。
「其りゃあ(ちっ)たあ妙だと思ったがよ、思い込ん仕舞(じま)った(もん)は仕様がねえじゃねえか、其の松蔵の餓鬼――」
「乙松だ」
()う乙松を――何だとう」
「松蔵の一粒胤の名前(なめえ)よ」
 其奴(そいつ)ァ乙松てェんだと男は云った。
何様(どう)云う意味だよ、御行の」
「言葉通りだ、耳が(わり)ィのか、其れとも頭か何方(どっち)なんでェ」
何方(どっち)()だ現役だわい」
 (しか)し乙松てなあと老爺は呟く。
「吉次じゃあねえのかよ」
(ちげ)ェよ」
 (つら)(ちっ)とも似ちゃァ居ねェと男は判然(きっぱり)と云った。
「好いか(じじ)ィ、喜助てェ野郎はな、箱ン中に住んで居たのよ」
「箱てなあ何でえ」
「箱が分かり難けりゃァ、器でも好い。喜助は最初から手前(てめえ)の役割を決め仕舞(ちま)って、其ン中だけで生きて居やがったンだ」
 周りになんか目も呉れずによと云う男の声には険が籠もって居た。
「何でえ御行の、お(めえ)喜助の野郎が(きれ)えなのか」
 仕事にゃあ私情は御法度だろうがよと老爺が云うと、男は莫迦云うねェと応じた。
「好きも(きれ)えもねェよ」
 只なァと男は云い澱む。
「お(めえ)らしくねえなあ、明瞭(はっきり)云いやがれ」
 ()う発破を掛けられて、男は五月蝿(うるせ)ェよと小さく笑った。
「此の件なァ、()しかすると吉次を殺したなァ天狗の仕業で、喜助を望月楼に遣って、生き別れた兄弟(きょうでえ)を一緒にして遣るてェ落とし所も有ったんじゃァねェかと(かんげ)えた事も有ったのよ」
 だが其奴(そいつ)(むつか)しい相談だったなァと男は地に目を落とす。
「肝心要の喜助が如何(どう)()ても其の図面に乗りゃァしねェ」
「おい小股潜りが聞いて呆れるぜ」
五月蝿(うるせ)ェ、もっと時間(とき)と大掛りな仕掛けを(つか)って真実(ほんとう)に乗せようと思やァ乗らねェ事ァねェよ。其れが依頼の筋なら()んな手ェ(つか)ってでも()()らァ。只、今回は()うじゃァねェ。成る丈早く京の町を平らげて呉れてェ話で、時間(とき)もねェから其処まで()なかったてェだけの話よ」
 何方(どっち)にしたって喜助にとっちゃァ(おんな)じ事だったろうしなァと男が云うと、老爺は其んな筈有るかいと反駁の声を上げた。
「遠島の沙汰を受けるか免れるかてえなあ大(ちげ)えじゃねえか」
「違わねェから箱住まいだってェのよ」
 好いかと男は続ける。
「喜助の野郎ァ乙松の事を正真正銘手前(てめえ)の弟だと信じ込んで居やがったのよ。其の理由(わけ)ァ村を離れる時の親の言葉だ」
 喜助より(おさね)え吉次だって確乎(しっかり)憶えてたンだぜ、喜助が憶えてねェ訳がねェと男が云うと、兄弟(きょうでえ)で助け合えてえ奴かと老爺が後を受けた。
()う其れよ。其れで喜助の奴ァ手前(てめえ)の役目を弟の為に尽くす事と定め仕舞(ちま)った。(ところ)が喜助は其の後直ぐに天狗攫いに遭った。()う成ると、喜助には弟が、いる」
()ねえだろう」
 解らねェ(じじ)ィだと男はぼやいた。
 だから――
()るンじゃァねェか」
 其処で目の前に居た、弟と同い年(ぐれえ)の乙松を手前(てめえ)の弟だと信じ込んだのよと男が云うと、()う云う事かいと老爺は頷いた。
(オウ)よ、其処から先の喜助の暮らしァ全部弟の為。手前(てめえ)の役割を只淡々とこなして其れ以上の事を何ひとツ望まねェんだ。其れさえこなしゃァ十分てェ満ち足りた暮らしだ、其りゃァ――」
 倖せだっただろうぜ。
(いびつ)な倖せでもか」
(いびつ)な倖せでもだ」
「まあ、其りゃあ分からなくはないがよ」
 じゃあ矢っ張り憐れじゃねえかと老爺は同じ(ことば)を持ち出した。
「或る日帰って見りゃあ目の前で其の(ちっ)ぽけな満ち足りた倖せが無惨に()ち壊されて居たんだぜ、憐れだろうが」
「能く(かんげ)えやがれ、喜助は何で捕まったンだよ」
「ああん、其りゃあ弟殺しで、喉笛を剃刀で掻っ切ったからだってえんだろ」
「じゃァ()ち壊したなァ手前(てめえ)じゃねェか」
()うじゃねえ。吉次、(いや)、乙松を()ったなあ天狗の手下(てか)だろう。其んで苦しい息の下、いっそ殺して呉れてえから刺さってる剃刀で喉笛を――」
「悪党が其ンな潔い(もん)かよ」
 と男は嘲笑(あざわら)う様に云った。
(そもそ)()うだとすりゃァ天狗の手下ァ態々切り(にき)い剃刀で乙松に斬りつけたてェのかよ。加えて喜助の奴ァ、肺病病みの弟が迷惑を掛けたくねェから手前(てめえ)で剃刀で命を絶とうと()たが死に切れねェ、後生だから殺して呉れと頼んだてェ云ってやがるんだぜ。如何(どう)(かんげ)えたって辻褄が合わねェじゃァねェか」
「じゃあ――」
 じゃあ何だってえんだよと老爺は上擦った声を出した。
手前(てめえ)ももう大体察しがついてるんじゃァねェか。乙松の首筋を最初に抉ったなァ匕首(あいくち)か何かだろうぜ。其ンで天狗一味が去っ仕舞(ちま)って、死に掛けてる処に喜助が(けえ)って来た。乙松は兄ちゃん助けて呉れとか何とか云った筈だ。(ところ)が――」
 喜助の目にゃァもう弟は何様(どう)見たって死に体だったてェ訳よ。
「喜助の役割ァ弟に尽くす事だ。其の当の弟が死ん仕舞(じま)っちゃァ元も子もねェ。喜助の倖せは二度と還っちゃ来ねェ。だが放って置いても、(いや)(たす)けようと手ェ尽くした処で弟は死ん仕舞(じま)う。真実(ほんとう)何様(どう)か知らねェが少なくとも()う見える。喜助にとっちゃァ目の前で今、息絶えようとしてンなァ弟でもあるし、手前(てめえ)自身でもある。じゃァ、如何(どう)()る」
如何(どう)――()たんでえ」
「知ってンだろうが」
 ()粗雑(ぞんざい)に男は云った。
「喜助は弟の最期の願いを叶えて遣ったてェ思いを背負おうとしたのよ。弟の最期の願いを叶えて命を絶って遣りゃァ、最期まで弟に尽くしたことに成らァ。手前(てめえ)が弟を手に掛けたてェ罪と罰を背負って居りゃァ――」
 償い続ける限り、其の先もずっと弟と一緒に、弟の為に暮らせるだろうがよ。
「其れ迄と一緒だ。真実(ほんとう)何様(どう)かなンて関係ねェ。其ン時にゃァ(とっ)くに喜助の頭ン中に新しい筋書きと手前(てめえ)と弟の収まる箱が出来上がっ仕舞(ちま)ってたのよ。実の弟を殺した時の話が実に立ち過ぎてる(ぐれえ)に条理が立ってるなァ道理だ。立つ様に条理を引いたンだから当たり(めえ)よ。喜助の奴ァ、苦しい息の下、助けて呉れ助けて呉れと云う弟の声を背中に聞き、助けて遣る助けて遣るぞと云い(なが)ら、薄暗い家の中を引っ繰り返して剃刀を探し出し、両眸(りょうめ)からぼたぼた泪を溢し、はあはあと熱く荒い息を吐き、既にぽっかり口を開いた創に躊躇い無く剃刀を突っ込んで、がちがちと歯を鳴らし(なが)ら、溢れる感情(おもい)に顔を引き攣らせ(なが)ら、震える手で力任せに真一文字に喉を切り裂いたのよ」
 何様(どう)でェ倖せな野郎だろうがと男は吐き捨てる様に云った。
「其れが、倖せかよ」
「云ったろうが、倖せの形ァ何もひとツ()りじゃァねェのよ。欲を持たず、在るが儘に満足するてなァ、ひとツの倖せの形である(こた)間違(まちげ)えねェンだぜ」
 喜助の奴ァ足る事を知ってンだ、其りゃァ倖せだろうぜ、此れから先も永劫(ずっと)なと男は云う。
()うかも知れねえがよ、御行の」
 と老爺は沈んだ声で呻く様に云った。
「儂あ其んなのが人間(ひと)の仕業たあ思いたかねえなあ」
 気持ち(わり)いじゃねえかよと(こぼ)す老爺に、男はだからよと応じた。
「今回の一件てなァ頭から尻まで全部丸ッと天狗の仕業なのよ。吉次に説明(はな)した通り、弟想いの喜助は天狗攫いに遭って病ん仕舞(じま)い、其の後死ん仕舞(じま)ったんだ――」
 其れで好いじゃァねェかと結んで、男は
 りん
 と(れい)を鳴らした。

 
[了]


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