録
儂にゃあ――丁重と説明しやがれいと老爺は先行く男に云った。
「抑も今回の此奴あ一体何が何様だったんでえ、御行の」
五月蝿ェよと男は脚も止めずに応えた。
「片付いた話を今更になって蒸し返すんじゃねェや。其ンな事したって詰まらねェぜ」
何の得にも成りゃァしねェよとつれなく云う。
老爺は其の言葉に承伏しかねるのか、顎を撫でながら、お前は片付いたてえ云うがなと呟いた。
「真実に済んだのか」
「済んだろうがよ。疾うに喜助も島に着いてらァ。収まる処に皆収まったんだ、万々歳じゃねェか」
此れ以上に何が有るんでェと云われて、老爺は顔を顰めた。
「慥かに無いのかも知れねえがよ」
「なら好いじゃねェか」
第一、手前にゃァ楽な仕事だった筈だぜ。礼金も潤沢と弾んであらァ。其れで何の不満が有るンでェと男は云う。
「応、楽な仕事だったわい」
「然うだろう」
「不満もないわい」
「なら好いだろうが」
好くないわと老爺は抵抗した。
「老い耄れは頑固でいけねェな」
「其の老い耄れを、京に、信州にと連れ廻したのは何処の誰でえ」
「だから礼金は十分に出してるだろうがよ。其れでも文句が有るてェんなら――」
二度と仕事を引き受けなけりゃ好いじゃァねェかと男は吐き捨てる様に云った。
「此方ァ頭下げてまで頼んだ憶えはねェんだぜ」
「文句が有るとは云っとらんわ」
其の癖にやけに突っ掛かるじゃねェかと混ぜっ返され、老爺は又も顔を顰める。
「只お江戸から京に信州にと連れ廻された仕事仲間として、其の背景を知っときてえと、斯う云ってるだけじゃあねえか、なあ、おい、御行の」
云うなり、どっこいしょと道端の石に腰を下ろす。
其の声を聞いて男も脚を止めて振り返った。
「おい、置いて行くぞ爺ィ。手前の云う懐かしのお江戸ももう目と鼻の先じゃねェか。長閑してやがったら帰り着く前に彼岸からお迎えが来仕舞うぜ」
「其れ程急ぐ旅でもねえだろうが、年寄りは労れい」
然う云って老爺は懐から煙管を取り出した。此処で一服して行こうと云う積もりらしい。
「昨刻と云ってる事が違ェじゃねェか。手前で云ったンだろうが、楽な仕事だったてェのは。じゃァ元気が有り余ってる筈じゃねェのかよ」
耄碌したか爺ィと蹴りつける様に男が云うと、老爺は解っとらんなと嗜める様に応えた。
「此の老骨にゃあ仕事其の物よりも、此の旅路の方が堪える物だってえのよ」
然う云って煙管をふかし始める。ぷかあと白い煙が空へと昇って行く。
「抑も此の話の出処は何処なんでえ」
老爺が重い腰を上げる風も無い事を見て取って、男は不満そうな顔で近付き、立木に寄り掛かった。
「全く年寄りは頭が固く成っ仕舞って、手前で考えるてェ事をしねェからいけねェな。今回の件で一体何が収まったよ」
「然うさな」
と云って老爺は立ち上る煙を追う様に天に目を向けた。
「望月楼の吉次の生きる足場が定まったか」
「応よ」
と男は頷く。
「其れじゃァ京都の方はどうでェ」
「京か」
老爺は視線を其の儘に指折り始める。
先ずは火付けが止んだか。
其れから、弟殺しも片が付いたな。
天狗の噂も、天狗の子の噂も、全部無くなった。
天狗の松蔵も遂に沙汰が下って、京の町からは消え失せた。
「然うだろうが」
「後は鯖が売れたな」
其りゃァ関係ねェよと男は笑った。
「此れ位な物か」
「其ン位だな」
男は頷くと、何様でェと云った。
「何様も此様も有るかい。御行の、お前は一体何が云いてえんだ」
「解らねェか、望月楼の旦那の話を除きゃァ収まったのは全部、京に這入り込んだ厄介物だろうが。其れを追い出したてェのが事の始末。てェ事ァ出処は自ずと知れらァ。京の町の安らかなるを守るなァ誰の仕事でェ」
「御奉行の仕事か」
「然うに決まってるだろうがよ。其れも東町奉行を丸め込んで遣ったてェ事ァ」
「西か」
然うよと男は頷き、彼奴ァ切れるぜと続けた。
「切れるか」
「応よ、出世やら金銭やらの欲ァねェが、菅沼定喜の肚の裡も、市井の噂も、全部知って居やがった。如何遣ったのか知らねェが喜助の調べ書きの写し迄手に入れてやがったンだぜ。其の上、表向きだけじゃねェ、此方の渡世にも繋ぎが有る。此奴ァ――」
大した野郎だと男は息を吐いた。
「珍しいじゃあねえか、御行の。お前が其処まで人を褒めるなあよ」
「人を褒めちゃいけねェかい」
「いけなかないがよ」
珍しいじゃあねえかと老爺は繰り返し、男は然うかもなと応じた。
「まァ別に手放しで褒めてる訳でもねェよ。町人の安心の為に私財を切り崩して小悪党を雇おうてェ位だ、人が善いのは慥かだぜ。だが善過ぎらァ、ああ云うのは長くは保たねェ」
保って後一年か二年てェ所だろうぜと男は云い切った。
「お前が然う云うんなら、然うかもな」
云って、老爺はまたぷかあと白い煙を吐き出した。
「まあ出処は分かったなあ好いとして、其れで御行の、今回の仕掛けだ。彼は一体何様成って居たんでえ」
「手前一番近くで見て居て未だ解ってねェのかよ」
と男は呆れたように云った。
「今回なァ仕掛けも何もねェよ。舌先三寸、口八丁、立たぬ四方を丸く収めて遣っただけの話よ」
「好い加減な事を吐かすない、御行の。じゃあ何か、お前が口を開きゃあ火付けが無くなるとでも云うのかよ」
お前に其んな法力が有ったたあ知らなかったぜと老爺が笑うと、男は有りゃァしねェよ其ンな物と応じた。
「第一、口を開いたなァ手前だ」
「其れこそ訳が解らねえ。儂が京都で遣った事あ鯖食った鯖食ったてえ唄って踊っただけだろうが。其れで火付けが止むのかよう」
其んなに霊験灼かならお前も御行の格好なんざ止めて、陀羅尼の札の代わりに其のお題目を売って廻りゃあ好いだろうがよと老爺は声を上げた。
「莫迦な事云うねェ、彼のお題目が効いたなァ、確乎と理由が有るンだよ」
「彼あ信州の天狗祓いの呪言てなあ間違えねえんだろうが、てえ事あ京の火付けは真実に信州が大天狗が駆け回って、葉団扇で起こった火だったてえのかよ」
「まァ似た様な物だ。今回の一件、頭から尻まで全部丸ッと天狗の野郎の仕業よ」
「おい御行の、儂あ此の歳まで生きて来て、未だ一度も天狗に会うた事がねえ。天狗攫いに遭ったてえ奴にも出会したことがねえ。だからまあ、天狗が居るの居ねえのてえ話あ知らねえよ。だが其処行くとお前、其の口振りじゃあ天狗を知ってやがるみてえじゃねえか」
訊きてえ事は未だ有るぜと老爺は続ける。
「お前、東町奉行にゃあ殺したのが天狗攫いに遭った喜助、殺された吉次が天狗の子だってえ話をしたじゃねえか。所が望月楼の吉次にゃあ逆様に、殺したのが人の世の理を知らねえ天狗の子、殺された吉次が天狗攫いに遭って心を病んだ喜助だって云いやがった。此奴あ何様云う事だよ」
男は小さく息を吐いて、つ離れしねェ餓鬼じゃねェんだ、何様して何様しててェ何でも彼でも訊くンじゃねェよと毒突いた。
「大体、手前も天狗の野郎は知ってる筈だぜ。会った事ァねェかも知れねェがな」
「憶えがねえよ」
「耄碌しやがったか爺ィ」
頭が回らねェのに口だけ回りやがるなァ面倒臭ェやと男は空を見上げる。
「天狗の野郎は先達て彼岸に逝っ仕舞ったよ。首ィ落とされてな」
「待て待て、御行の。詰まりは何か、此の度の一件、全ては天狗の松蔵がしでかした事だってえのか」
「一括りに云えば、然う云う事に成るンだろうぜ」
些とも解らねえなと老爺は溢す。男は天に向けた視線を緩慢と元の高さに戻した。
「仕様がねェ爺ィだな、最初から順を追って説明して遣るから確乎聞いてやがれ」
「応よ」
事の起こりは喜助が天狗攫いに遭った事だろうがと男は云う。
「其れが何様した」
「何様したじゃねェよ、真実に喜助は天狗に攫われたンだよ。天狗の松蔵にな」
何だとうと老爺は声を上げた。
「松蔵の野郎は何だって其んな事しやがったんでえ」
「知らねェよ」
松蔵一味の隠れ家に喜助が迷い込ん仕舞ったのかも知れねェし、松蔵の一人息子の遊び相手にてンで攫ったのかも知れねェ、其処ン所は死ん仕舞った松蔵に訊いてみるしかねェだろうよと男は投げ遣りに云った。
「兎に角、喜助が松蔵に攫われたなァ慥かな話だ」
じゃあ何かいと老爺が後を継ぐ。
喜助と吉次が小せえ頃に使い走りみてえな事してたてえのは――
「其の頃から盗っ人の片棒を担いでたてえのか」
「応よ」
或る程度歳が行ってからァ先に商家に這入り込んで手引きする様な役も遣ってただろうぜと男は続ける。
「其奴が天狗の松蔵は手前の一粒胤を先に潜ませとくてェ噂の出処だ」
「てえ事あ喜助って野郎、飛んだ悪党じゃあねえか」
否、其りゃァ違ェよと男は首を横に振った。
「喜助ァ其ンな積もりは些とも無かっただろうぜ。彼奴ァ嘘を吐ける様な性質じゃァねェ。調べ書きに有る通り、手前で語った通りに喜助は思って居やがったンだよ」
「てえ事あ何だ、真逆喜助は松蔵の餓鬼を自分の弟だと思い込んでやがったてえのかよ」
「ああ然うだ。其奴を隠れ蓑に松蔵の餓鬼の方が専ら手引き役を遣って居たてェ訳よ」
天狗だけに隠れ蓑たァ気が利いてらァと男は鼻で笑う。
「能く考えてみりゃァ解る事だぜ、喜助の野郎は飛んでもねェ位に器用な野郎なんだ。其れで彼れ程貧乏をする筋がねェだろうが。だとしたら、何様為たって何か背後が有らァ」
「何様云う意味だよ、御行の」
老爺が問うと、男はおいおいと呆れた様に云った。
「真逆たァ思うが、手前空引てェのが何んな職なのか知らねェて事ァねェよな」
「其の真逆だわい」
ふんと鼻から息を吐いて見せる。
「儂あな、お前みてえに何でも彼でも知ってる訳じゃあねえ」
「何でもは知らねェよ、要る事だけァ知ってるだけだ」
好いか、教えて置いて遣るから耳の穴掻っ穿って聞いてやがれと男は云った。
「空引てなァ、西陣織の中でも一番てェ位に難しくて大事な仕事よ。西陣織て事ァ織物だ。織物て事ァ其の紋様が肝要だろうが。織物の紋様は縦糸と横糸の組み合わせで出来てンだよ。其奴を作る為にゃァ、機ァ織る織師と息合わせて、縦糸を上げて横糸を通す空きを作る奴が居なきゃならねェ。其れが空引よ」
「じゃあ偉え大事じゃねえかよ」
だから然う云ってるだろうがと男は応えた。
「而も縦糸ァ普通に織る分だけで五千から八千。絡み糸てェ金箔や色糸を押さえる細い奴まで勘定すりゃァ八千から一萬六千位有る。此奴を全部、要る時見計らって上げたり下げたり、織り上がるまでの長ェ事するンだから長年連れ添った夫婦じゃなきゃァ出来ねェとも云われるのが空引と織師てェ職だ。殊、空引てなァ仕込みは餓鬼の時分から始まるとも云うぜ。偶々西陣に来た野郎がおいそれと出来る筈がねェだろうが」
でも出来たんだろうと老爺が云うと、応よと男は頷く。
「だから云ってンだよ。容れて貰えたなァ喜助の人柄も有るンだろうが、其りゃァ器用じゃなけりゃァ務まらねェ。其ンな野郎が給料を右から左へと渡すだけの、借財だらけの暮らしを続けて来た筈がねェってな。第一空引は其れだけの難しい仕事だぜ。毫なくとも男二人が荒ら屋で暮らすにゃァ十分過ぎる位の稼ぎになってた筈だ。其れでも然うだったンなら――」
何か裏が有ったに違ェねェだろうが。
「大方、弟の吉次に上手い事云い包められて全部奪られてたンだろうぜ」
「吉次が肺病病みだったのは何様なんでえ」
其れに金が掛かってたんじゃねえのかよと老爺が問うと、肺病なんかねェよと男は答えた。
「其れが喜助から金を巻き上げる口実だったのかも知れねェが、まァ、彼りゃァ狂言だ。喜助は信じて居たんだろうぜ。だから血に塗れた弟を見て、血でも吐いたのかてェ言葉が直ぐに出たんだ。でもな、感染ってねェだろう」
何年も一緒に暮らしてる兄貴によと男は云う。
「好い隠れ蓑だったンだろうぜ、喜助って奴ァ。周りの奴らァ見ねェ。揃いも揃って、喜助の事ァ病持ちの弟を能く助け、身を粉にして働く健気な野郎だと然う云ってやがったじゃねェか。喜助の方は本気だ。喜助しか他人と関わらねェなら疑う奴ァ誰一人居ねェ。寧ろ弟も不憫にと情を掛ける。然うたァ云っても人に感染るかも知れねェ病持ちの弟となりゃァ、町中にゃァ住めねェ。町外れに住んだ所で人も寄り付かねェ。病弱を装った弟が悪巧みをするにゃァ打って付けだ」
「てえ事あ、真実に喜助こそが天狗攫いに遭った喜助で、死んだ吉次が天狗の松蔵の餓鬼だってえんだな」
「然うよ。其処を引っ繰り返す為に手前を遣って態々細工為て貰ったってェ訳だ」
男が然う云うと、老爺はああ彼れだなと応えた。
「荒ら屋引っ繰り返して三十年程前に信州で手に入る糸、織り方、模様の布切れ一枚手に入れろ、同じ物で着物に仕立てろ、三十年分草臥れさせろ、胸元を血で汚せ、てえなあ訳の分からねえ細工だと思ったがよ、彼奴あ然う云う理由だったのか」
「応よ。まァ未だ手も目ェも衰えてねェみてェで好かったぜ」
「商売道具の細工に目利きが出来なくなっ仕舞ったらお払い箱だろうが。まあ、お前みてえな若僧に心配される様になっちゃあお終えだな」
呵々と笑う老爺に男は云ってやがれと舌打ちをした。
「で、話を戻すがよ。云っ仕舞やァ喜助と吉次は二人組の手引き役だ。喜助が西陣の織場に入り込んだてェ事ァ、次の狙いは其処だったてェ事だろうぜ」
男が然う云うと、老爺は表情を改め些と待てよ御行のと口を挟んだ。
「怪訝しいじゃあねえか。吉次は松蔵の餓鬼で、肺病病みじゃなかったんだろうが。盗人の仕込みを遣ってて、今からってえ時候。其れなら――」
何で死ぬ必要が有ったんでえと老爺が問うと、男は別に必要はねェよと素っ気なく云った。
「何も彼もが上手く行く訳じゃァねェ、折悪く先に松蔵が奉行所に捕まっ仕舞ったのが運の尽きだ」
と男は溜息と共に吐き出した。
「松蔵の餓鬼の外にも幾人か既に京都の町にゃァ潜り込んで居やがった。松蔵が捕まっ仕舞った所為で、其奴等の手綱を上手く捌ける奴が居なくなっ仕舞ったのよ。集められたは好いが仕事にならねェと来ると、荒くれ共だって鬱憤が溜まるぜ。其処で、只の松蔵の餓鬼だってェだけで親分風を吹かされたら何様でェ」
「なら彼れあ只の仲間割れだってえのか」
「然うよ、天狗の一党の遣った事よ」
其ンで偶々喜助が帰って来る刻限が近ェってんで置いて逃げたンが真相だ、と男は云い切った。
「朝に兄貴が出て行って直ぐなら兎も角、態々兄貴が帰って来る頃合い見計らって手前で喉笛掻っ切らなきゃなンねェ理由なんか有る筈ねェだろう。見せつけて、手ェ貸させて、罪の意識でも植え付けようてェのか。お笑い種だ。有り得ねェよ」
成程なあと老爺は感心した様に呟いた。
「喜助の天狗攫い、京の弟殺しと此処迄あ天狗の仕業てえ理由あ納得したぜ。じゃあ火付けは何様でえ」
老爺の問に男は詰まらなさそうに、火付けも同じよと応じた。
「吉次は肺病病みじゃァなかったんだぜ、だとしたら妙な女郎が一人噛んでやがるじゃねェか」
「女あ」
と老爺は首を傾げる。
「居たかよ、其んな女」
「女たァ云っても、婆ァだ婆ァ。喜助が吉次の喉笛掻っ捌いた所に出会した女郎が居たろうが。喜助の話に拠りゃァ、留守の間に吉次に薬を飲ませたり為るてェんで頼んであった婆ァてェ事だが此奴ァ怪訝しい。吉次は肺病病みじゃァねェし、第一喜助が留守の間に吉次の世話為るてェのが其の婆ァの仕事なら、常時通りの刻限に帰って来た喜助より後に来たんじゃァ役に立たねェだろうが」
「じゃあ其奴あ何なんでえ」
「手前も些たァ頭使えよ、其の内錆び付いて使い物にならなく成るぜ」
と男は悪態を吐いた。
「昨刻から云ってる通り、件の荒ら屋を出入りしてたなァ全部天狗の一味だ。此の婆ァも然うよ。此奴ァな、捕まった天狗の松蔵からの繋ぎだ」
出入りする口実に喜助の留守居てェのを使ってただけよと云うと、老爺はじゃあ驚えただろうなあと他人事の様に応えた。
「応よ、或る日来て見たら繋ぎ付ける相手が死んでやがる。而も殺ったなァ見た処、拾い育てて遣った野郎だ、此奴ァ手酷い裏切りだぜ。婆ァは慌てて松蔵に御注進に行った筈だ。で、気付かねェか」
「何にだ」
「婆ァは吉次を殺ったなァ喜助だと思ってやがる。松蔵にも然う云った。所が喜助の奴ァさっさとお縄に就い仕舞った。となると松蔵の思いの向く先は何処でェ」
「まあ向ける先あ、ねえわな」
「其処よ」
先がねェなら、腹癒せに当たり散らすが悪党の常だろうがよと男は云った。
「而も手前じゃァ手は下せねェ。其の鬱憤も手伝って、松蔵の野郎ァ繋ぎを遣って、忍び込ませてた手下共に、京中に火を付けて廻れ、京を恐怖のどん底に突き落として遣れと命じたのよ。然うたァ云っても、松蔵も気付いてなかった事だが、捕まっ仕舞った物だから其の影も随分と薄くなっ仕舞って居やがった。手下も愛想を尽かし掛けてた所に此の話だ。真実を云やァ手前等が吉次を手に掛けたてェ後ろめたさも有る。下手を打って捕まっ仕舞ったら一巻の終わりだってェんで――」
彼の小火騒ぎよ。
「一ツも大火に成ンなかったなァ態とだ。親分の云い付けを守ってるてェ体を装っちゃァ居乍ら、誰一人本気で遣ろうたァ思ってなかった訳よ」
何様でェ天狗の仕業だろうがと男が云うと、老爺は慥かになあと顎を撫でた。
「其れじゃあ鯖食ったてえ天狗祓いが効く訳よな」
「応よ、信州生まれの天狗の松蔵一味ァ、其の親分の二ツ名にあやかって其奴を符牒に遣ってやがったのよ。鯖てなァ信州の天狗が嫌う物だ。鯖食ったてなァ頃が悪ィ、場所が悪ィ、相手が悪ィてェんで引き上げの合図だ。其奴が京中に流行ったとなっちゃァ、鬼魅が悪ィだろうが」
其れに誰が流行らせたのか知らねェが、引き上げの合図があったんなら京を、未練のねェ親分の居る所を離れる好い口実にゃァ成らァと男は口元に笑いを浮かべ乍ら云った。
「成程なあ」
と老爺は深く息を吐いた。
「聞いてみりゃあ何様って事あねえが、何とも七面倒臭え仕掛けを考えた物だな、御行の」
もっと簡単にゃあ行かなかったのかよと老爺が云うと、男はじゃァ手前で図面引いてみやがれと返した。
「下手打ちやがって此方に迄迷惑掛けねェなら好きに為て構わねェんだぜ」
「然う云う積もりじゃあねえよ」
と云って老爺は又白煙をくゆらせた。
「只よう、態々信州くんだりの天狗を持ち出して、喜助と吉次を天狗の餓鬼と繰々入れ替えてよう、真実に其んな事為る必要が有ったのかよ」
「有ったんだよ」
其処が分からねェんだったら黙ってやがれと男は云った。
「依頼の筋ァ京に這入り込んだ厄介祓いだろうが、じゃァ何追い出しゃァ片付くンでェ」
云われて、老爺はううむと唸る。
「ひとツあ喜助だな」
「まァ弟殺してェ兇事を起こしてやがンだからな」
「後あ、火い付けて廻ってる天狗の一味か」
「其奴等の仕業だってなァ町の連中は知らねェがな」
未だ有るのかようと老爺が声を上げると、男は有るだろうが一番厄介なのがよと応えた。
「京の町にゃァ天狗の松蔵が疾に手前の一粒胤、潜り込ませてあるてェ噂が有ったろうが」
「其れか」
「然うよ、じゃァ此奴等を何様始末したよ」
「応、天狗の松蔵の一粒胤の噂あ、本物の信州の大天狗の餓鬼の話に掏り替えたわな。其んで其奴を更に殺された吉次と掏り替えた。正体の分からねえ付け火を天狗の仕業に仕立て上げて、天狗祓いで追い出したわ。最後に、残った喜助を遠島として放逐して、終えだわいな」
解らねェかと男は問う。
「京に真実に天狗の一粒胤が這入り込んで居やがったと知れたら何様成る。其奴の外にも手下が潜んでやがるかも知れねェと考えるだろうが。然う成ると血眼になって一人、二人、見つけて追い出した所で終わりじゃァねェ。十か、二十か、否、百か二百か――幾ら追い出した所で、未だ居るかも知れねェてェ不安は何時まで経っても追い出せねェ」
実体がてンで見えねェからなと男は云う。
「火付けも同じよ。態々天狗の一味の仕業だってェ明かして何様成る」
だからよ――
「実体のねェ、見えねェ物を全部天狗に引っ被せ仕舞ったのよ。最初から天狗の一粒胤なんか居ねェ。天狗の一味も潜り込んでなんか居ねェ。棲み着いてやがったなァ大天狗の餓鬼だ。火付けは餓鬼を追って来た大天狗の仕業だ。其の大天狗の餓鬼ァ死ん仕舞った、大天狗も天狗祓いで追い出し仕舞った。実体のねェ物は実体のねェ儘に京の外にてェ案配よ。逆様に、大天狗の餓鬼を殺めた奴ァ居る。此奴ァ確乎と実体を持って居て貰わなきゃァならねェ。だから喜助に引っ被せた」
「喜助を死なせて、天狗の餓鬼を追い出すんじゃいけなかったのかよ」
吉次にゃあ然う説明したろうがと老爺が云うと、男はいけねェよと応えた。
「好いか、京の町に這入り込んだ厄介物を追い出すてェのが依頼の筋だって云ったろう。天狗の餓鬼てェ妖しげな物を遠島にした所で、不安だろうが。何時ふと宙を踏んで舞い戻って来るか知れねェ。だから妖しげな物にゃァ確乎と死んで貰う必要が有ったのよ」
吉次ァ、物の序でだ、放って置いても好かったんだが、美味い昼餉を馳走になったからなと男は笑った。
「吉次にして見ちゃァ京から追い出されたのが天狗でも一向に構わねェ。逆様に手前の名前で手前に成り代わって死ん仕舞った奴の実体が知れねェ方が不安でならねェ。だから、喜助と吉次を入れ替えて、吉次にゃァ確乎と実体を持って死んで貰う必要が有ったのよ」
まァ、後ァ手前の実の兄が人を殺め仕舞って、離れ島で何時終わるとも知れねェ苦役に就いてるってェよりも、最期まで手前の事を思いながら死ん仕舞ったと信じて、菩提を弔ってる方が幾らかましだろうしなァと男は憐れむ様に云った。
其れを見て、老爺も遣る瀬ない溜め息を吐いた。
「其れにしても憐れな野郎だな喜助てえのはよ」
「何様為て然う思うンでェ」
「何様為ても此様為ても有るかよ」
憐れに違えねえだろうがと憤る様に老爺は云った。
「小せえ頃に実の弟と生き別れ、然うとは気付かずに弟だと信じ込んだ他人の為に尽くして、謀られたと知らぬまま借財まみれの暮らしを続けた挙げ句、謂れのねえ罪をおっ被せられて遠島の沙汰。此奴が憐れでなくて――」
何が憐れなんでえと云って老爺は白煙を吐き出した。
然う聞いて男は此れだからくたばり損ねえの考えは休むに似たりてェんだと云って肩を揺すった。
「喜助の野郎は倖せだったンだよ」
「其んな訳が有るかい、御行の」
厳く云い掛けた老爺に、好いかと諭す様に男は云った。
「手前は其の歳に成っても解ってねェ様だから教えて遣るがよ、倖せの形てなァひとツじゃァねェ」
手前で云ってて怪訝しいと思わなかったのかよと男は続ける。
「何で喜助の野郎は手前の弟でもねェ奴を然う思い込ん仕舞ったのかってェ事をよ」
爺ィみてェに耄碌してる訳じゃァねェんだぜと云われて、老爺は五月蝿えよと応じた。
「其りゃあ些たあ妙だと思ったがよ、思い込ん仕舞った物は仕様がねえじゃねえか、其の松蔵の餓鬼――」
「乙松だ」
「然う乙松を――何だとう」
「松蔵の一粒胤の名前よ」
其奴ァ乙松てェんだと男は云った。
「何様云う意味だよ、御行の」
「言葉通りだ、耳が悪ィのか、其れとも頭か何方なんでェ」
「何方も未だ現役だわい」
併し乙松てなあと老爺は呟く。
「吉次じゃあねえのかよ」
「違ェよ」
面も些とも似ちゃァ居ねェと男は判然と云った。
「好いか爺ィ、喜助てェ野郎はな、箱ン中に住んで居たのよ」
「箱てなあ何でえ」
「箱が分かり難けりゃァ、器でも好い。喜助は最初から手前の役割を決め仕舞って、其ン中だけで生きて居やがったンだ」
周りになんか目も呉れずによと云う男の声には険が籠もって居た。
「何でえ御行の、お前喜助の野郎が嫌えなのか」
仕事にゃあ私情は御法度だろうがよと老爺が云うと、男は莫迦云うねェと応じた。
「好きも嫌えもねェよ」
只なァと男は云い澱む。
「お前らしくねえなあ、明瞭云いやがれ」
然う発破を掛けられて、男は五月蝿ェよと小さく笑った。
「此の件なァ、若しかすると吉次を殺したなァ天狗の仕業で、喜助を望月楼に遣って、生き別れた兄弟を一緒にして遣るてェ落とし所も有ったんじゃァねェかと考えた事も有ったのよ」
だが其奴ァ難しい相談だったなァと男は地に目を落とす。
「肝心要の喜助が如何為ても其の図面に乗りゃァしねェ」
「おい小股潜りが聞いて呆れるぜ」
「五月蝿ェ、もっと時間と大掛りな仕掛けを遣って真実に乗せようと思やァ乗らねェ事ァねェよ。其れが依頼の筋なら何んな手ェ遣ってでも然う為らァ。只、今回は然うじゃァねェ。成る丈早く京の町を平らげて呉れてェ話で、時間もねェから其処まで為なかったてェだけの話よ」
何方にしたって喜助にとっちゃァ同じ事だったろうしなァと男が云うと、老爺は其んな筈有るかいと反駁の声を上げた。
「遠島の沙汰を受けるか免れるかてえなあ大違えじゃねえか」
「違わねェから箱住まいだってェのよ」
好いかと男は続ける。
「喜助の野郎ァ乙松の事を正真正銘手前の弟だと信じ込んで居やがったのよ。其の理由ァ村を離れる時の親の言葉だ」
喜助より幼え吉次だって確乎憶えてたンだぜ、喜助が憶えてねェ訳がねェと男が云うと、兄弟で助け合えてえ奴かと老爺が後を受けた。
「然う其れよ。其れで喜助の奴ァ手前の役目を弟の為に尽くす事と定め仕舞った。所が喜助は其の後直ぐに天狗攫いに遭った。斯う成ると、喜助には弟が、いる」
「居ねえだろう」
解らねェ爺ィだと男はぼやいた。
だから――
「要るンじゃァねェか」
其処で目の前に居た、弟と同い年位の乙松を手前の弟だと信じ込んだのよと男が云うと、然う云う事かいと老爺は頷いた。
「応よ、其処から先の喜助の暮らしァ全部弟の為。手前の役割を只淡々とこなして其れ以上の事を何ひとツ望まねェんだ。其れさえこなしゃァ十分てェ満ち足りた暮らしだ、其りゃァ――」
倖せだっただろうぜ。
「歪な倖せでもか」
「歪な倖せでもだ」
「まあ、其りゃあ分からなくはないがよ」
じゃあ矢っ張り憐れじゃねえかと老爺は同じ詞を持ち出した。
「或る日帰って見りゃあ目の前で其の些ぽけな満ち足りた倖せが無惨に打ち壊されて居たんだぜ、憐れだろうが」
「能く考えやがれ、喜助は何で捕まったンだよ」
「ああん、其りゃあ弟殺しで、喉笛を剃刀で掻っ切ったからだってえんだろ」
「じゃァ打ち壊したなァ手前じゃねェか」
「然うじゃねえ。吉次、否、乙松を抉ったなあ天狗の手下だろう。其んで苦しい息の下、いっそ殺して呉れてえから刺さってる剃刀で喉笛を――」
「悪党が其ンな潔い物かよ」
と男は嘲笑う様に云った。
「抑も然うだとすりゃァ天狗の手下ァ態々切り難い剃刀で乙松に斬りつけたてェのかよ。加えて喜助の奴ァ、肺病病みの弟が迷惑を掛けたくねェから手前で剃刀で命を絶とうと為たが死に切れねェ、後生だから殺して呉れと頼んだてェ云ってやがるんだぜ。如何考えたって辻褄が合わねェじゃァねェか」
「じゃあ――」
じゃあ何だってえんだよと老爺は上擦った声を出した。
「手前ももう大体察しがついてるんじゃァねェか。乙松の首筋を最初に抉ったなァ匕首か何かだろうぜ。其ンで天狗一味が去っ仕舞って、死に掛けてる処に喜助が帰って来た。乙松は兄ちゃん助けて呉れとか何とか云った筈だ。所が――」
喜助の目にゃァもう弟は何様見たって死に体だったてェ訳よ。
「喜助の役割ァ弟に尽くす事だ。其の当の弟が死ん仕舞っちゃァ元も子もねェ。喜助の倖せは二度と還っちゃ来ねェ。だが放って置いても、否、救けようと手ェ尽くした処で弟は死ん仕舞う。真実は何様か知らねェが少なくとも然う見える。喜助にとっちゃァ目の前で今、息絶えようとしてンなァ弟でもあるし、手前自身でもある。じゃァ、如何為る」
「如何――為たんでえ」
「知ってンだろうが」
然う粗雑に男は云った。
「喜助は弟の最期の願いを叶えて遣ったてェ思いを背負おうとしたのよ。弟の最期の願いを叶えて命を絶って遣りゃァ、最期まで弟に尽くしたことに成らァ。手前が弟を手に掛けたてェ罪と罰を背負って居りゃァ――」
償い続ける限り、其の先もずっと弟と一緒に、弟の為に暮らせるだろうがよ。
「其れ迄と一緒だ。真実が何様かなンて関係ねェ。其ン時にゃァ疾くに喜助の頭ン中に新しい筋書きと手前と弟の収まる箱が出来上がっ仕舞ってたのよ。実の弟を殺した時の話が実に立ち過ぎてる位に条理が立ってるなァ道理だ。立つ様に条理を引いたンだから当たり前よ。喜助の奴ァ、苦しい息の下、助けて呉れ助けて呉れと云う弟の声を背中に聞き、助けて遣る助けて遣るぞと云い乍ら、薄暗い家の中を引っ繰り返して剃刀を探し出し、両眸からぼたぼた泪を溢し、はあはあと熱く荒い息を吐き、既にぽっかり口を開いた創に躊躇い無く剃刀を突っ込んで、がちがちと歯を鳴らし乍ら、溢れる感情に顔を引き攣らせ乍ら、震える手で力任せに真一文字に喉を切り裂いたのよ」
何様でェ倖せな野郎だろうがと男は吐き捨てる様に云った。
「其れが、倖せかよ」
「云ったろうが、倖せの形ァ何もひとツ限りじゃァねェのよ。欲を持たず、在るが儘に満足するてなァ、ひとツの倖せの形である事ァ間違えねェンだぜ」
喜助の奴ァ足る事を知ってンだ、其りゃァ倖せだろうぜ、此れから先も永劫なと男は云う。
「然うかも知れねえがよ、御行の」
と老爺は沈んだ声で呻く様に云った。
「儂あ其んなのが人間の仕業たあ思いたかねえなあ」
気持ち悪いじゃねえかよと溢す老爺に、男はだからよと応じた。
「今回の一件てなァ頭から尻まで全部丸ッと天狗の仕業なのよ。吉次に説明した通り、弟想いの喜助は天狗攫いに遭って病ん仕舞い、其の後死ん仕舞ったんだ――」
其れで好いじゃァねェかと結んで、男は
りん
と鈴を鳴らした。
[了]
|
|
|