祟りの――定めし(おそ)ろしき祟りのあらん。
 其れが宇和島藩領民の一致した見解(おもい)であった。
 余りに悪逆、余りに非道、そして余りに(むご)い行いであった。
 故に――
 故に、である。
 人々は其の報いを胸の(うち)に思い描いた。
 (いや)、其れが我が身に降り掛かる事を(おそ)れたのでは無い。
 考えて見れば、()しか()ると其の余波位は及ぶかも知れぬのは、(たし)かである。
 (たし)かではあるが――
 其処は怖れるには()たらぬ事は、誰もが(しっか)りと諒解()て居た。
 領民の(おもい)(むし)ろ、祟り位は有っても好い、(いや)、有って(しか)るべきだに近い処に在ったのであるから、いっそ望んでいたとすら云えよう。
 其れも仕方の無い話ではある。
 事は、奥州伊達家より伊達政宗公が長男、秀宗が宇和島藩藩祖として送り込まれた時に(まで)(さかのぼ)る。

 伊達秀宗は純粋な、忠義と義侠心とに溢れる男であったが、其れ以上に不運な男であった。
 奥州の独眼竜と名を馳せた豪傑である父、伊達政宗公。其の長男として生まれた秀宗は、出自は庶子(なが)ら、御曹司様と可愛がられ、家督相続の第一位として大切に育てられた。
 (しか)し、運命は秀宗を(もてあそ)ぶ。
 父の勢いが余りに過ぎた事が災いし、御齢(おんとし)(わず)か三歳にして豊臣秀吉の下に人質として取られ、父母から遠く離れた伏見城に置かれる事と相成った。
 (しか)し、仙台藩の家督相続権は変わらぬ(まま)であり、豊臣家には政宗の子と警戒されるよりは(むし)ろ大変に可愛がられて居た様であった。事実、伏見城に来て二年で秀吉の猶子(ゆうし)と成り、幼名兵五郎依り元服して秀宗と成ったは秀吉依り一字戴いた物。更に従五位下侍従に取り立てられ、豊臣姓(まで)貰ったと有れば、其の寵愛は並々ならぬ物が在ると云えよう。
 加えて、(おさな)き時、秀吉が実子秀頼と組討の遊びにて、秀頼を踏み付ける時に懐中より紙を出して足下に敷き、(じか)に踏まず淀君を感心させた逸話や、政宗に逆意有らば直ちに隠居し、秀宗に家督を譲る旨、秀吉の重臣十九名と政宗とが取り交わした誓約文を見るに、秀吉周囲からの信も篤かった事が(うかが)える。
 (しか)し、時代は豊臣から関ヶ原を経て徳川へと移り変わる。
 徳川幕府の下に在っては、豊臣からの篤き信は一転して枷と成る。
 間違っても野放しに(なぞ)()て措けぬ。
 ()()て秀宗は、次は徳川の人質に取られる事と成った。
 此の大人達の都合に唯々(ただただ)振り回された遍歴が、(おさな)き秀宗を()れ程(ねじ)けさせたか知れぬ。
 (さら)に悪い事に、()()()る内に父である政宗の正妻に男児が出来、頑健に育った後に元服()、二代将軍秀忠依り忠の字を貰い受け、忠宗の名乗りを許された。
 此れは事実上、徳川幕府が次の仙台藩主を、豊臣方の秀宗では無く、徳川方の忠宗と認めたと云う事である。
 最終的に秀宗は(かね)て依りの宛てが大きく裏切られ、仙台藩六十二万石の跡継ぎにでは無く、大坂冬の陣の折の参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島十万石を興した宇和島藩、其の藩祖として一小国の(あるじ)に封じられた。
 此れは豊臣との繋がりを考えれば已むを得ぬ話であり、仙台藩を継がせる訳には行かぬ(なが)ら伊達家を継がせたいと云う政宗の、秀宗に対する苦心の(おやごころ)である。
 (いや)、実情を見れば(むし)ろ秀宗は、政宗から破格の厚遇を受けて居たと云って好い。
 何しろ、入部の際には政宗自らが選んだ五十七騎の重臣騎馬団、千二百名もの足軽や小者が秀宗に贈られ、更に藩政整備のための六万両の貸し付け、財政に明るく政宗も重用した山家(やんべ)清兵衛(せいべえ)公頼(きみより)の先述五十七騎とは別途の派遣が行なわれたのであるから、排斥された(など)と評するは事実無根である。
 (しか)し、此れで秀宗は完全に(ねじ)けた。
 仙台伊達家の為に、豊臣に、徳川にと身を尽くしたにも関わらず、長子で在り(なが)ら石高は弟の六分の一足らずの小国を(あて)がわれたと政宗を恨んだ。不幸な事に、封じられた宇和島は其の当時、領主藩主が僅か三十年程の間に繰々(くるくる)と五度も変わって居た為に領民は疲弊し切り、財政は逼迫()て居て、質素倹約を旨とせざるを得なかった。其れも(すなわ)ち、人質とは云え時の将軍の下で或る程度は贅を尽くし、或る程度は不自由無く暮らして居た秀宗にとっては、到底堪えられぬ仕打ちであった。
 結果、秀宗の(ねじ)けた性根は宇和島の地に節榑(ふしくれ)立った根を張り、梃子(てこ)でも動かぬ(いびつ)な幹と成った。理智聡明な筈の眸は曇り、耳は塞がり、(ただ)見目の好い、聞き触りの好い事(ばか)りを求める暗愚の(とばり)の内に閉じ籠った。
 其の様な秀宗にとっての最大の邪魔者は、政宗の息の掛かった山家(やんべ)清兵衛(せいべえ)、其の人であった。
 例えば、秀宗にして見れば、父政宗依り借り受けた六万両は、勝手に振り回された己の正当な取り分であり、返す必要等無い物と考えて居た。主立った家臣も其れに同調、(ある)いは父子の(よすが)にて永久借り受けで好いと賛同()た。
 (しか)し、藩の財政を預かる清兵衛は全く違う見解(かんがえ)であった。藩政を引き締め立て直し、秀宗の浪費を抑えるべしとの政宗の命を受けて送り込まれた清兵衛は、仙台藩、ひいては政宗との関係を重要視し、仙台藩の苦しい懐事情から厚意で捻出()て貰った借金は何様(どう)あっても早急に返すべしと考えて居た。
 (しか)し宇和島藩に金策の余裕は無い。
 其の為清兵衛は、政宗隠居料として毎年三万石を仙台藩へと納める事を唱え、又其の捻出の為には領民を更に疲弊させる年貢の取り立てでは無く、宇和島藩士を減俸とし其の分で賄うべしと主張()た。
 藩主を助ける為ならば藩士が進んで身を切るべしと云う其の(げん)、其の(ことわり)には逆らうべき点が無く、又、此れ以上に領民を締め付ければ一揆の勃発も避けられぬであろうと云う清兵衛の読みの正確(ただ)しさに、秀宗も他の家臣も――特に侍大将であった桜田(さくらだ)玄蕃(げんば)元親(もとちか)も――厭々ながら否を唱える事が出来なかった。
 ()う云った事から、清兵衛は領民からは神の如く慕われたが、宇和島藩士達からは恨みを買う事と成ったのである。
 山家清兵衛と桜田玄蕃との水面下での小競り合いは此処依り始まる。
 秀宗の母である竜泉寺殿の七回忌にて、法要の奉行を任されて居た清兵衛を、玄蕃一味が茶坊主を使って毒殺しようと()たが、未遂に終わったと云うは一例である。
 極め付けの一事は、幕命にて大阪城石垣の普請を請け負った時に起こった。
 十万石の宇和島藩。
 (しか)も其の内三万石は仙台藩へと差し出して、残りは七万石。
 其れにも関わらず、幕府の命じた石垣普請の想定総予算は十万石と、宇和島藩の備蓄を大きく上回った。
 其の様な状況下で、秀宗が総指揮を、財政を執り仕切る山家清兵衛に(ゆだ)ねたのは当然の事と云えた。
 清兵衛は普請を三班に分け、夫々(それぞれ)に監督役を置いて廻す策を立てた。
 一番衆の(かしら)に桜田玄蕃。
 二番衆の(かしら)に山家清兵衛本人。
 三番衆の(かしら)に粟野勝右衛門。
 と、()う据え、三、二、一の順に百日交代での勤めと()たのである。
 此れは、大阪城普請監督の重責を藩の重鎮に置かずには措けない事情と、惣奉行と侍大将を同時に藩外に張り付け続ける訳に行かぬ内情の板挟み故であった。
 此処に更に幕命が下る。
 曰く、普請中の喧嘩口論は堅く禁じ、違反する者在れば双方とも死罪とする。荷担した者の罪は依り重く咎める。
 曰く、普請中の人返しは一切禁ずる。(ただ)し、申し出た者は許可の上認める。
 等の五箇条である。
 此れは普請を円滑に進める為の法規であったが、秀宗は好機と取った。
 粟野と交代に大阪へ赴く清兵衛に、此れは国の大事(だいじ)故、桜田玄蕃も付ける。二人は普請終わる(まで)大阪に留まるよう。と申し伝えた。
 此れは(すなわ)ち、清兵衛の監督の目を己から離し、更に逆態(はんたい)に清兵衛への監視の目を付けようと云う魂胆であった。
 清兵衛の目の無くなった宇和島藩で、秀宗は己の本性を剥き出しに()た。
 政宗は秀宗の浪費を憂いて居たが、秀宗が最も金銭(かね)を費やしたのは、実は、女であった。
 好色で名の知られる豊臣秀吉の下で育ったが故であったのだろうか、秀宗は数多くの側室を抱え、多くの子を為した。
 無論、清兵衛が目を光らせて居る間は過度に色に耽る事は出来無かったが、其の目が離れ、一度(たが)が外れて仕舞えば、もう止まらなかった。
 秀宗は此の時期には、領民に(まで)手当たり次第に手を出し、宇和島城を離れて領内を遊び歩いた。
 其れと同時に秀宗は、清兵衛の目の届かぬ内に抜け目無く其の勢力を弱めようとも画策()た。
 具体的には清兵衛の親類縁者や賛同者に対し次々と、放逐、或いは禄の召し上げと云った沙汰を申し付けたのである。
 ()うとは知らぬ清兵衛は大阪にて必死に普請を進めて居た。国元から送られた資金、資材は限られて居る。其れを如何(いか)に遣り繰り()るかに心血を注いだ。国元で大変な事が起きて居ようとも、其方(そちら)に目を遣る余裕等、在る筈も無かった。
 一方で、同時に大阪に送られた桜田玄蕃は秀宗の意図を瞭然(はっきり)と悟って居た。(いや)()うで無くても普請に掛かり切りでは無い今、余剰(あま)った耳目で国元の秀宗の乱行(らんぎょう)を聞けば、自ずと察せられたのである。
 玄蕃は、己が付けられたのは清兵衛の落ち度を見付ける為、見付けられなければ捏造(つく)る為と呑み込み、秘密裏に腹心の部下の清水茂兵衛に、出納帳の改竄等陥れる算段を云い付けた。
 清水茂兵衛は、普請に当たっては山家(やんべ)班に組み入れられては居たが、其の実、玄蕃の手の者の一人だったのである。
 ()()其処此処(そこここ)で阿吽の呼吸にて悪事が進む中、清兵衛宛てに秀宗から書状が届いた。
 書状の内容は()うであった。
 石垣が高く成った為、銀子が要るとの事だが、藩には米も大豆も送って仕舞って居り、秋(まで)は扶持方さえ足りぬ。両人知っての通り銀子も無い。春の間に何とか工面した銀子十貫目を送る。政宗依り下される筈の米も大阪へ送るよう手配した。其の上で更に銀子が要るのなら両人が京都で工面せよ。当地には何の在庫も無いと知り(なが)ら銀子、米、大豆等を送れと云う分別は理解し難い。
 清兵衛は驚いた。
 宇和島藩の国庫を空に()て託され、送り出された己の立場を清兵衛は分かって居る。
 (いや)、其れ(ばか)りでは無い。両人、(すなわ)ち、桜田玄蕃と山家清兵衛を指すと、文面から察する事は出来る。(しか)し、資金資材追加の要請等、己には何一つ身に覚えが無いのである。加えて、普請の責任者は今現在、桜田玄蕃では無く、己である。此処に玄蕃の名が出て来るのが了解出来ぬ。
 と、此処(まで)思い至って、真逆(まさか)と察した。
 桜田玄蕃が己の名を(かた)って虚偽の要求を(したた)めたのでは無いか。
 ()しか()ると玄蕃の力を削ぐ為と敢えて己の配下に置いた清水茂兵衛が、己の花押(かおう)を盗み出して真似たのでは無いか。
 無論、証拠(あかし)は無い。
 かと云って、大阪(ここ)で二人を問い詰める訳にも行かぬ。
 揉め事を起こせば共に死罪である。
 思い余って清兵衛は、己の担当である普請の第二期終了時に釈明の為の帰国を願い出た。
 此れは、当初の予定通りの帰国に充たると解釈すれば、幕命の禁止事項は辛うじて回避(さけ)られ無くも無い。
 とは云え、藩命には背く物である事は、疑いようも無い。
 無論、秀宗は承知()ない。
 (ようや)く監視の目を離れたのである。承知()る訳が無い。
 (しか)し――
 清兵衛は自身の任期を二月(ふたつき)過ぎても許しが下りぬのに業を煮やし、無理を押して宇和島へと帰還した。
 其の上で、普請を開始(はじ)めて依り九月(くつき)の時点で八分程迄仕上げた旨、石や資材は調達出来た故、此の上は大した金銭(かね)は要るまいと云う見込み、先の書状は誤解である事を、秀宗に言上()た。
 (ところ)が時を同じく()て、大阪の玄蕃から秀宗に更なる費用工面の要望の文書が届いた。
 秀宗は此の齟齬に悩んだ末、()う返した。
 清兵衛は此方(こちら)にて、大石小石(いず)れも調べ渡した。(しか)し今、能くは分らぬが米や金銀が要ると云う報せ。最早此れ等が要る等と云う事は有り得ぬ、と申して居る。
 (すく)なくとも表向き清兵衛の意を採ったのである。
 とは云え、藩命に背いた清兵衛も其の(まま)には()て措けぬ。
 故に秀宗は、清兵衛には蟄居を申し付けた。
 清兵衛は其れには反抗する事無く、諾と従った。
 (さて)、事は大阪へと戻る。
 剣術には明るいが算術に暗い玄蕃には仕方の無い話ではあるが、秀宗からの書状は玄蕃の面目を丸潰れに()た。
 と解するのが普通であろうが、事此処に至って玄蕃は違う様に取った。
 (すなわ)ち此れは、秀宗からの、申し開きしたいならばせよと云う(てい)を装った、此方(こちら)調(ととの)った故、此れを機に出したい物を出せと云う指示であろうと捉えたのだ。
 元依り山家清兵衛は仙台藩に措いては千石の微禄の者であり、千七百石の由緒正しき桜田家とは格が違う。(しか)し、可惜(あたら)政宗公の覚えが好いが為に惣奉行として己と肩を並べて居るのが気に食わぬ。我が物顔で藩政を取り仕切ろうと()るのが気に入らぬ。()して主君に、其の拝命を受けた己に逆らうとは不敬であると考えて居た玄蕃には、断る理由は無かった。
 玄蕃は清水茂兵衛に(あらかじ)改竄(つく)らせて措いた出納帳を根拠に、清兵衛に横領有り、其れ故に大坂城普請の金子が足りぬとの讒言状を秀宗宛てに(したた)めた。更に、清兵衛は其の金子で軍備を調(ととの)えて居り、謀反の企てが有るのでは無いかと証拠(あかし)無き邪推を述べた。
 正面(まとも)に考えれば、如何(いか)に出納帳に不備が在ろうとも、此れは理に(かな)わぬ話である。
 横領()て居るのであれば、(むし)ろ普請は遅々として進んで居らぬ筈。金銭も未だ未だ要る物と告げる筈。清兵衛の進言は真逆である。
 (いや)()う考える事も出来る。(すなわ)ち清兵衛が横領()たが為に、次の担当たる玄蕃が実際に使える資金、資材が不足した、其れ故の訴状だと。
 (しか)()うであるならば、其の(わず)か一度の横領を()て何に成る。出来ても精々(せいぜい)玄蕃への嫌がらせの域を出ぬ。(しか)も清兵衛は自ら秀宗に掛かった費用と進捗を報告()て居るのである。()し其の清兵衛の算用通りに進まねば、其れだけで、財政を任される為に送られた自身の面に泥を塗りたくる愚行である。
 ()して、誰が見ても明白(あからさま)な出納の不備等と云う財政の基礎を疎かに()る様な真似、誰かが捏造(つく)りでも()ぬ限り在ろう筈が無い。
 (すなわ)ち、証拠(あかし)と示された物まで含めて、(ことごと)くが有り得た話では無いのである。
 (しか)し秀宗は玄蕃の言を汲み、清兵衛に謹慎を命じた。口(うるさ)い清兵衛を(わずら)わしく思って居た鬱憤が、此処に来て噴き出して来たかの様な沙汰であった。
 讒言状を鵜呑みにせず清兵衛を庇おうとする家臣も有ったが、清兵衛自身は(かね)て依り蟄居()て居た事も合わせ、義士たる誇りに懸け、疑われるも己の罪と潔く服命()た。
 此れが全ての引き金を引いたのである。
 水無月の末。
 雨夜に紛れ、四十数名の影が、清兵衛の屋敷を襲った。
 集結()たは、清水茂兵衛、三上善蔵、鈴木軍治はじめ、巳上源蔵、松浦弥市兵衛、八尾勝蔵、三好兵馬ら桜田玄蕃の手の者である。
 刺客隊は三手に分かれた。
 表門の方依り塀を乗り越えて襲撃に掛かる者、裏門を固めて一人も逃さぬよう張る者、近隣からの助成乱入を防ぐ者の三つである。
 人員も充分に有り、固めは周到であったと云って好かろう。
 当時、屋敷に居たのは、山家清兵衛、其の次男治部、三男丹治、四男美濃、並びに下僕三名である。惣奉行の屋敷にしては(すく)なくも見えようが、質素倹約を旨とするにあたり、己が身依り引き締める清兵衛の人柄が覗える。
 そして此の殆どが、此の時兇刃に倒れた。
 財政を取り仕切るが役目とは云え、清兵衛も一介の武士である。只殺されたとあっては名折れに相違無い。無論、清兵衛は寝所に忍び入る跫音(あしおと)に気付き目を覚ましたものである。(しか)し、清兵衛がおのれ奸賊と叫ぶや否や枕辺の大刀を手に取り蚊帳から躍り出ようと()た其の刹那、吊って居た蚊帳の四方が落とされた。進退の自由を失って藻掻く清兵衛に、逆賊清兵衛、上意によって討ち果たす、覚悟、との声と供に無数の白刃が降り注いだ。
 ()()(あわ)れ山家清兵衛は齢四十二にして冥府へと召されたのであった。
 子らも、下男も、(すぐ)に同様に其の後を追った。
 又、騒ぎを聞きつけた、隣家に棲む清兵衛が娘婿塩谷内匠(たくみ)、其の長男帯刀(たてわき)、次男勘太郎も、駆け付けたは好いが力及ばず露と散った。
 最も惨い仕打ちを受けたのは清兵衛の四男、美濃であった。
 身の(ちい)ささを活かし、騒ぎが起こると同時に蚊帳から抜け出し、屋敷を飛び出した処で見張り役に見つかり、捕まった挙げ句、邸内の井戸へと釣るし斬りにされたのである。
 一夜にして屋敷は血に染まり、生き延びたのは床下に逃れ、震えて居た下男の吉蔵独りであった。
 夜が明け、賊が去ったのを確かめて、吉蔵は伊方屋仁左衛門の別宅へと走った。
 伊方屋仁左衛門とは、市井の商人(なが)ら清兵衛の信篤く、何時(いつ)此の様な事が起こるか知れぬと思って居た清兵衛が(ひそ)かに老母高女、妻すみ子、末子小千代、乳母生田を預けて居た先である。
 報せを受けた高女やすみ子は、一時は動転したものの、如何(いか)なる危険を押しても夫や子の死に目に一目なりとも会わんと覚悟を決め、支度を始めた。
 其処へ顔を出したのが、(くだん)の別宅の(あるじ)、伊方屋仁左衛門であった。本宅にて騒ぎを聞きつけた仁左衛門は、清兵衛の腹心の土居勘左衛門を引き連れて別宅を訪れ、己が身命を尽くしても必ずや清兵衛()を弔うが故、遺児小千代の為にも危険を冒して呉れるなと懇願した。
 高女、すみ子は中々(うん)とは云わなかったが、粘り強い説得に遂には折れ、乳母である生田の郷里(さと)である蕨生に、生田の兄である金谷彌平を頼って身を潜める事に同意した。
 女三人に末娘と吉蔵が発つのを見送り、仁左衛門と勘左衛門が(さて)と弔いの算段を始めた処へ、此れ又清兵衛と縁深い日振島の庄屋、清家久左衛門が姿を現した。
 偶々(たまたま)前夜に海を渡って宇和島に来て居た久左衛門も、話を聞き大層心を痛めたが、昼間の明るい内は向こうも下手に手を出し難くもあろうが、此方(こちら)も動きが筒抜けと成る。遺骸の始末(まで)邪魔をされては面倒だ。夜を待つが好かろうと云う事に落ち着いた。
 夜の(とばり)が降りるのを待ち、小雨降りしきる宵闇に紛れて屋敷を訪れた三人は、其処で大いに戸惑った。
 屋敷の周りを黒い影が四つ五つ右往左往()て居るのである。
 ()しや此の様な刻限(まで)悪事を働かんと()るか、と(おのの)く三人に、待てい何者か、と誰何(すいか)の声が浴びせられた。
 最早此れ(まで)と肚を決め、問われるが(まま)に氏素性、目的を神妙に答えると、黒き影は(しず)かに頷き、案ずるで無いと応えた。
 聞けば、見えた黒影は皆、宇和島藩筆頭家老であり河原渕領七千石の河後森(かごもり)城城代、秀宗の後見を務め、数少ない清兵衛の賛同者である桑折(こおり)左衛門(さえもん)景頼(かげより)の内命を受けた家来であり、清兵衛()の遺骸の片付けに寄越(よこ)された者だとの事であった。一時は死も覚悟した三人は筆頭家老の後ろ盾を得て安堵の涙を流し、山家清兵衛を始めとする九人の遺骸を(ひそ)かに西の谷へと葬った。
 (さて)、此の一件の当時、桜田玄蕃は大阪にて普請の最中であったが故に、直接手を下しては居らぬ。居らぬが、領民は皆、玄蕃の命を受け、清水茂兵衛が指揮して()った事と噂した。玄蕃の命で清兵衛を陥れようと働いたのも此の清水であったのだから、其の根拠無き推量も中たらずとも遠からずではあったのだろう。
 生き延びた高女、すみ子は、生田、小千代と共に、一人故郷仙台藩に残り、山家(やんべ)家を守って居る長男喜兵衛の下へ早く逃れ、報せに行きたいと思って居たが、文月の半ばに初盆を迎え、其れ依り発つが好かろうと頃合いを決め、準備を始める事と()た。
 文月十三日、蕨生にて心(ばか)りの供養を営んだ後、高女とすみ子は最後に、夜陰に紛れ清兵衛の墓を参る事を思い立った。仙台に発つ事を告げて措こうと、()う考えたのだ。生田に小千代を任せ、二人は夜の山道を西の谷へと向かった。墓とは云っても名(ばか)りの木碑である。とは云え、領民が忍び忍び参る為、墓の辺りは麗しく清められて居た。二人は線香を立て、暫しの黙祷を捧げた。
 四ツの鐘が鳴り、ふと、二人が何やら気配を感じて振り返ると、遙か森陰依り月光を浴びて駆けて来る男が目に入った。逃げるべきか隠れるべきか(いや)其の暇も無いと二人は身を固く()て居たが、見れば近付く男は生田の兄、彌平であった。彌平は息せき切って()う告げた。
 二人が出て暫く()ると、屈強な武士が四五人乱入し、生田と小千代、彌平の女房を斬り伏せた。己は二人に大事有っては成らぬと陰から抜け出し、報せに来た。
 高女もすみ子も、余りに打ち続く不幸に打ちのめされたかの様であった。其れも仕方の無い話である。高々(たかだか)二月(ふたつき)も経ぬ間に夫子供を(ことごと)く失い、(しか)も一人として今際の際に立ち会う事すら出来なかったのである。(しか)し、何時(いつ)(まで)()()ては居られぬ。裏径(うらみち)山路(やまみち)獣道(けものみち)は彌平の得意。故に先回りも出来たが、何時(いつ)兇刃が追い(すが)るとも知れぬ。となれば彌平独りでは心許(こころもと)無い。如何(どう)()るべきかと悩む処へ(くさむら)を揺らして現われたのは、同じく初盆参りに忍びでやって来た日振島の清家久左衛門であった。話を聞き久左衛門は、最早宇和島界隈に安全な場所等無く、早急に仙台へ発つより他無いと告げ、急仕立ての船便にて日振島へ、日を改めて仙台へと二人を送り届けた。
 二人は喜兵衛の屋敷へ着くと、委細の顛末を喜兵衛へ、そして伊達政宗公へと言上した。
 其処で人心地着いたのか張って居た気が緩んだのか、余りの激動が祟って老母高女は衰弱し、年の瀬を越える事無く身罷(みまか)った。
 一人生き残ったすみ子は、()く成る上は失う物はもう何も無い。ならば成丈(なるたけ)、夫公頼の(そば)に庵を結んで余生を送りたいと願い、海路陸路から土佐に(まで)は至ったが、途上で疝痛を病み、治療の甲斐無く生涯を閉じた。
 ()()て、桜田玄蕃、其の配下の者の手に依って、宇和島の山家(やんべ)の血統は途絶えた。
 (いや)、事は其れだけに留まら無かった。
 山家清兵衛の成敗と前後して、其の親類縁者も多くが頓死或いは脱藩()て居り、禄召し上げ、士分剥奪を合わせれば排斥を受けたのは三十名近くにも上ったと云うのだから、確かな証拠(あかし)こそ無い物の、其の背後には秀宗自身が糸を引く何らかの政治(まつりごと)に関わる謀事(はかりごと)も在るは明白(あからさま)であった。
 更に、清兵衛亡き後の大阪城普請に措いては、秀宗は先の叱責を忘れたかの様に、続く玄蕃の要請通り米も銀子も送り、更に出来の速さが他藩を上回ったと褒めそやし、其の名目で褒賞(まで)呉れて()ったのだから、其処にも裏の繋がりが在る事を勘繰らぬ者は無かったのである。

 (さて)、事の次第を聞いた政宗は激怒した。
 父の命にて付けた補佐役である清兵衛を、何の過ちも無く私怨で討ち果たした桜田、清水らを不問とし、あまつ、上意討ち等と吹聴するは言語道断である、秀宗を勘当し、向こう三年は口も利かぬし耳にも入れぬと気炎を吐いた。
 其の上で幕府に、大(うつ)けである秀宗は、到底十万石の藩を治める器にあらず勘当した。領地を召し上げて貰いたいとの書状(まで)書き送った。
 慌てたのは秀宗である。勿論、此処で家臣の独断に依る暴走であると云い逃れを()れば、ならば何故悪漢を処断せぬかと問い詰められる。家臣を御せぬは藩主の器に在らずと猶更(なおさら)に咎められる。故に秀宗は、政宗や幕府宛てに、三十五箇条書きの清兵衛の悪行書きを送り、如何(いか)に己に理の在る己の沙汰であったかを説く釈明の使者を送った。其の上で、妻である徳興院の実兄、彦根藩の井伊直孝及び、自身の目付役である家老、桑折左衛門景頼に取り成しを頼んだ。釈明は政宗には用を()さなかったが、其の様に手を尽くした甲斐あって、最終的に話は老中、土井利勝の処で止まって将軍の耳には入らず、又、柳生又右衛門並びに内藤外記の政宗の説得に依り、領地召し上げは立ち消えと成った。
 ()()て、足掛け二年程は掛かった物の宇和島藩は何とか改易を免れた。

 話は此処からである。

 山家の屋敷の襲撃依り只一人難を逃れた吉蔵は、清兵衛が斬られ(なが)らに()う叫んだのを聞いて居た。
己等(おのれら)大奸(たいかん)()れ者、武士を討つに闇討ちとは卑怯なり。公頼(きみより)此処に死するとも、七度(ななたび)生まれて護国の鬼と成り己等(おのれら)に思い知らする。誓って此の怨みは報いるぞ。覚悟致せ』
 故に――
 故にである。
 改易騒動が燃え盛る其の年の末に傷寒が流行り、桜田一派六十四名(ことごと)くが此れに罹ったが為に正月の宴に出る事が出来なかった事を指して、祟りの始まりでは無いか、此れ依り始まる事の先触れでは無いか、罹った者は覚悟せよと云う警告では無いかと、領民は噂し合ったのであった。


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