収【表】
理解が沁み通るのを待つ様な沈黙が其の場を満たした。
顔や手足とは違い、左の肩甲骨の下等、対手を裸に為ねば見えた物では無い。
他ならぬ天下の大将軍の其れを知る者となれば、限られる。
乳母か、身内か、で無ければ、睦言を交わし合った仲か。
其の中で、特徴を他言する様な者が居たとすれば――
「成程」
と、得心行ったと云わん許りに吉宗は頷いた。
其れは、此の場に居る者達の内心をも代弁為て居た
すう、と吉宗は大きく息を吸い込む。
然う為て――
「者共出会えい、曲者なるぞ。此奴等は贋者じゃ、今直ぐ引っ捕らえい」
大音声に呼応為て、奥の間の襖を蹴破る様に大勢の捕り手が傾れ込む。
何事かと焦り、戸惑う暇も在ればこそ、小突かれ、撲られ、組み付かれ、捻じ伏せられ、圧し掛かられ、後ろ手に縛り上げられる。
其の儘白洲に蹴り転がされ強かに頭を打付ける。
目の前に火花が散る。
繰々と廻り、纏まらぬ頭の中で、次々と思考が浮かんでは消える。
嵌められた。
真逆。
何様遣って。
騙された。
何の為に。
一体誰が。
妖物遣いか。
否、違う。
頭目は殺した筈。
ならば。
外に。
不意に頭を過る。
彼奴は云った。
船は何時か引っ繰り返される、と。
斯うも云った。
得体の知れねェ――
海座頭の野郎は――
思いも為ねェ目的で――
手前を好い様に使い――
最後にゃァ――
塵芥の如く掃き捨てる心算なンじゃァねェのか。
詰まり嵌めたのは。利用したのは。裏切ったのは。
決まって居る。
「謀ったな海座頭おおおおおおお」
男の絶叫が木霊し――
りん
と鈴が鳴った。
「御覧の通りに御座居ます」
其れ迄の喧噪が、狂乱が、丸で潮が引く様に静まり返る。
「問うに落ちず、語るに落ちる、とは此の事で御座居ましょう。最早云い逃れは出来ますまい。彼の者共は間違い無く、御落胤に成り済まそうと為た、贋者に御座居ます」
人垣の向こうから閑かに姿を現したのは、裃に身を固めた壮い男であった。着慣れて居らぬのか何処と無く様に成らぬ風ではあるが、其れでも確乎と天一坊等一行を見据えて詞を続ける。
「仮に真者であったならば未だ違った反応が在った筈。併し、今の様を見れば、誰が何様考えても、贋者である事疑い無しに御座居ましょう。此の者達は、天邪鬼――否、依り旧き記録に在る、天逆毎に御座居ます」
聞き慣れぬ称に、場に戸惑いが流れる。天邪鬼は誰もが知る処、併し、天逆毎とは。
皆が頸を傾げるのを見て、男は咳払いを為て斯う続けた。
「慥かに、人の心を裏切り、欺き、弄び、皮を被っては他人に成り済まし、嘘を吐いては他人を騙くらかし、悪事を働き、厄事を行なう者を、天邪鬼、と呼び慣わすのを皆様も御存知で御座居ましょう。天逆毎とは其の原型と成ったと云われる一柱の神に御座居ます」
或る書に曰く、と男は唱える。
「素戔嗚尊が胸に満ちた猛気を吐き、其の猛気が形を取り一柱の神を生した。人の身に獣の首。鼻は高く耳は長く。大力の神と雖も鼻に懸けて千里を投げ飛ばし、強堅の刀と雖も噛み砕いて段々と作す。天逆毎姫と名付けられた。此の者、天の逆気を呑み込み、独身にして児を生み、天魔雄神と名付けたと云々。此の天逆毎、自身の念の儘に成らねば荒れ狂う悪神で在ったとか。輪を掛けて厄介な事に、物事を逆態に為ねば気の済まぬ性質で、前の事を後ろ、左の事を右と云ったり為たと伝わって居ります。又其の児の天魔雄は後に九天の王と成り、荒神、逆神、悉くが此の神に随ったとか。天魔雄率いる悪神共が人に憑くと、賢き者も愚鈍な者も皆、一様に心を乱され、辻褄の合わぬ逆態の事を遣って仕舞ったとされて居ります。詰まり――」
と、男は此処で間を置いた。
「傍若無人に意の儘に、本能と欲望の向くが儘、暴れ廻って荒れ狂う天逆毎こそが常楽院天忠。其の薫陶を受けて導かれ、手塩に掛けて育てられ、幾多の天魔を引き連れた天魔雄こそが其方。然うであろう山内伊賀亮、否――弦右衛門」
真名を呼ばれ、凡てを諦めたかの様に伊賀亮、改め弦右衛門は力無く項垂れた。
「――其処の山内伊賀亮は、真実は、弦右衛門と云うのか」
と、吉宗が問うと、男は、然様に御座居ます、と大きく頷いた。
「其の者は九条家家臣、伏見宮御笏代わり等、真っ赤な偽り。摂家、宮家に確かめる事等出来まいと踏んでの、驚く程剛胆な詐称。真の名は弦右衛門。通称、殺され六部の弦右衛門と申す野盗の類に御座居ます」
「して、常楽院天忠とは」
「弦右衛門の親代わりにして野盗の頭領。海座頭の竹治と申す者に御座居ます」
「成程」
と、吉宗は頷く。
「処で、其の海座頭とやらは何様した」
「分かりませぬが、何様やら姿が見えぬ様子」
「然様か――其処な下郎」
吉宗は上から声を投げる。
「親代わりの海座頭は何処に行った」
併し問われた弦右衛門は顔も上げず俯いた儘であった。
上様がお尋ねである、答えぬか、と背後から責め立てられても無言を貫く弦右衛門に代わって、赤川大膳が、知らぬ、と吐き捨てる様に答えた。
「来て居らぬ」
「来て居らぬとは何様云う事か」
「来て居らぬ物は来て居らぬのだ。昨晩俄に癪気差し起こり、全快覚束ぬ故、宿にて憇み居ると前に伝えた筈」
「成程――逃げたか」
没然と吉宗が然う零したのを聞き咎め、屹と弦右衛門は顔を上げた。
「逃げぬ」
歯を食い縛り、隙間から熱い息を吐く。眦を吊り上げ、目を血走らせる。肩を怒らせ、背筋に力を込める。
「然うだ、親父殿は逃げて等居らぬ。逃げる筈が無い。甘く見るな貴様等。此れも何かの策に違い無いのだ。独り残ったは其の為。裏切ったのでは無い。今に見て居るが好い。必ずや此の極面とて覆して――」
と、其処で幡々と足音を立てて与力同心共が白洲へ駆け込んで来た。
「騒がしいぞ。吟味中である。如何した」
吉宗に一喝され男達は驚き立ち止まったが、直に其の場に膝を着く。
「申し上げます。八山の旅館依り先程火の手が上がりまして御座居ます」
思わぬ報に、其の場の全員が色めき立つ。
「何と、其れで何様為た」
「勢いが余りに強く火消しにも難渋致して居る次第。八山の宿は昨晩依り猫の仔一疋通さぬ布陣にて囲み居り、逃げ出した者、助け出した者、悉く具に検め居る処なれども、中には常楽院天忠は居らず、奥座敷故助けにも入れぬ状況に御座居ます。否、寧ろ――」
云い掛けた言葉が其処で止まる。が、意を決した様に、与力は続けた。
「火元は何様やら其の奥座敷の様にて、若しか為ると囲みを破るは不可能と知り、最早此れ迄と悟って火を掛け、中で自害為されて居るのやも」
此れが止めと成った。
嘘だ、嘘だと譫言の様に呟いて、弦右衛門の全身からどっと力が抜けた。
巫山戯るな、今の今迄上手く運んで居た。大名浪人商人を誑かし、老中若年寄を手玉に取り、難敵稲生下野や大岡越前迄も鮮やかに捻じ伏せ、後一歩という処迄来て居た。其れなのに。何故斯う成った、何を間違った、何処から狂った。
虚ろに浮付き彷徨う眸が、一人の男に吸い寄せられた。
然うだ此奴だ。
我等親子を天逆毎と天魔雄と喝破して見せた彼の口振り。則ち、此奴こそが裏で策を練り、影から入れ知恵を為た張本人に違い無い。
遣り口、語り口は、妖物遣いの一味にも似るが――其の様な筈は無い。
何しろ、妖物遣いの頭目は己の手で殺したのだから、間違いは無い。
方々で起きる怪しげな事件に、手を変え品を変え形を変え姿を変えて屡々顔を出す、顔も素性も知れぬ妖しげな連中。中心と成るのは三人。年嵩の男と、壮い男と、女と聞く。なれば、年嵩の男こそが頭目であろうと容易に察しは付く。
故に、其の老爺には、以前に直接一度逢いに行き、態々顔を確かめて措いたのだ。
此れが功を奏して、事を構えるに当たって人相書きが用意出来、首尾良く捕まえる事が出来たのだ。
彼の時の不貞不貞しい態度は敵乍ら堂に入った物であった。絶体絶命の危地に在り乍ら我が身を顧みず、寧ろ此方を嘲嗤い、舌鋒鋭く、情け容赦無く、遠慮会釈無く、問い詰め、追い詰め、責め立てた。最期の時迄余裕の姿勢を貫き通した。丸で此の先斯う成る事を知って居たかの様に。
彼れこそ、彼の老爺の姿こそ、当に妖物遣いの頭目に相応しい様で、いっそ感服為た物であった。
其処を行くと――
此の男は顔に見覚えは無い。
逢った事も無い。
では――
其れでは――
「貴様、一体何者だ」
と唸る様に、弦右衛門は云った。
眸はひたりと一人の男に据えられて居る。
捕り手と吉宗を除けば、此の場で唯一立ち上がり、此方を睥睨為て居る其の男に。
「今毫しで國が手に入る。國が引っ繰り返る。國が革えられると云う処迄来て居たと云うに」
貴様、何を以って此の大事の邪魔立てを為るッ、と吠え声を上げる。
男は閑かに嗤った。
其れは此の場には到底似付かわしく無い、人を小莫迦に為た様な、低い嗤い声であった。
きゅう、と目が細く成る。
獣の如く瞳が輝る。
にたあ、と口が三日月に裂ける。
火焔の如く舌が蠢く。
かはぁ、と男は息を吐いた。
大義も太鼓も知った事かよ。
巨大ェ企み、矮小せェ企て、事の軽重関係在るか。
至極単純、至極当然。
餓鬼でも知ってる当たり前の事だ。
人を呪わば陥穽二ツ。人を殺さば墓碑二ツ。
因果応報、自業自得。
手前の尻は手前で拭け。手前の附は手前で払え、てェ然う云う事よ。
其奴を横目に素知らぬ顔で
見て見ぬ振り為て遣り過ごそうてェ
其の手前の賺した蕩笑け面が気に入らねェ。
好いか冥途の土産に御題目を一ツ教えて遣らァ。
道を通せば角が立つ。
倫を外せば深みに嵌る。
立たぬ、成らぬの四角四方。
収めて渡すが裏の径。
邪心、野心は闇に散り。
塵も芥も風に消え。
残るは巷の怪しい噂。
得体の知れぬ妖物語――
――御行奉為。
りん、と鈴が鳴る。
あれぇ、と女の悲鳴が空気を劈く。
見れば役宅の塀の上には並ぶ狐火、踊る鬼火。其れが刹那に目映く天を焦がす。誰もが思わず目を閉じる。
皆が目を瞬かせ、何とか視力を取り戻した頃には、男の姿は疾うに消え失せて居た。
消えた、と誰かが云った。
一体、今のは、と呆然と誰かが然う云う。
何が起きたのか誰も分からぬ。
分かって居る事と云えば、塀の上の狐火に目が眩んで居る内に、男が一人消え失せた、と云う事だけである。
追っ手を掛けるべきか。
否、併し此の場を此の儘には為て措けぬ。
然う考え、同心与力の間にざわめきが拡がり始めたのを見て取って、吉宗は一言、好い、と云った。
「追わずとも好い」
「真実に宜敷いので」
と、訊ねたのは用人、平石次右衛門であった。
「彼の者の名は本多儀左衛門と申す素浪人に御座候。将軍様の一命在れば今直ぐにでも」
続いて関東郡代、伊奈忠逵が詞を繋いだ。此の場に件の男が居合わせる凡ての端緒を作ったのは己であると、然う解しての詞であった。
其れに吉宗は、好いのだ、と短く応えた。
「喃、越前」
「御意に御座候」
吉宗の其の表情を見れば、真意は容易に知れた。
其の嬉しげな笑顔は、要は、其の方が面白い、と思って居るのだ。
而も、誤魔化し、取り成し、理由付けは凡て此方任せ。
忠相は誰にも気取られぬ様、息を吐いた。
「本多儀左衛門と云ったな」
と、忠相は確かめる様に云った。
「誰でも好い、彼の男を見知る者は居るか」
問われ、同心与力を始め、皆が顔を見合わせ、頸を傾げる。
「誰でも好いぞ。遠慮為る事は無い。居らば名乗り出よ。慥かな話ならば褒美も取らせよう。誰ぞ居らぬか」
然う迄云われても、手を挙げる者は一人として居ない。
其れを見て、忠相は気分を害する所か、満足そうに笑みを浮かべた。
「見ての通り、彼の者は何処の誰とも知れぬ様である。扠、本多と云えば有名な三河武士、本多忠勝殿が御座る事は皆の知る処。其の三河には、彼の有名な豊川稲荷が御座る。我が私邸にも豊川稲荷依り荼枳尼天を勧請し、祀って朝晩参じて御座る。稲荷とは、旧くは伊奈利、或いは稲生とも書いたと云う。義に依って、関東郡代、伊奈忠逵に利し、勘定奉行、稲生正武を佐けた、三河に通じる本多姓と来れば、此れぞ正しく豊川稲荷の御遣いに相違在るまい。狐火と伴に去ったならば、礼を尽くし、義を尽くし、追わぬが宜敷かろうと存ずる」
忠相の論説に、誰もが成程と頷いた。
「寧ろ、本多儀左衛門には褒美を取らすべきに候」
難題を押し付けて来た吉宗に軽い意趣返しの心算で、忠相は云った。
「其れは尤もなれど、如何に為て」
と、目論見通り悩んだ風に吉宗が問うと、忠相は事も無げに云った。
「只今申した通り、彼の本多儀左衛門は豊川稲荷の御遣いにて、寄進奉納為れるが宜敷かろうと存知候」
「なれば如何程が適当か」
「銀五枚程かと」
「其れは余りに廉過ぎぬか」
将軍の御落胤の嘘を暴いたのだ、何かの役目を貰っても構わぬ位である。其れに相応となれば生半では無い。
故に然う云った吉宗に対し忠相は、其れで充分に御座候、と応えた。
「狐に人間の価値は当て嵌まり候わぬ。将軍様が大上段に構え、威儀を正して位を呉れて遣った所で鼻にも掛け候わぬ。其れ依りも、油揚げ十貫目程も寄進すれば殊の外御歓びで御座候わん」
其の代金として、銀五枚。
「成程な」
云って、吉宗は破顔した。
「ならば然う為よう。越前――」
万事宜敷く取り計らうよう。
「畏まりまして御座候」
忠相は深々と頭を下げた。
大岡越前守忠相は、其の後も生涯に渡って豊川稲荷を信仰したと云う。
大岡家の庭を借り受けて正式に江戸参詣所が作られ、元在った屋敷稲荷が奥の院と呼ばれる様に成り、江戸の民が日参為る様に成ったのは、後の世の話である。
海座頭の行方は誰も知らない。
[了]
|
|
|