そいつの家に行ったのはもう数え切れないほどだった。
つい昨日、げほんげほん咳き込みながら、風邪引いたのかな、とか暢気なこと言ってた親友は今日、学校を休んだ。
でも理由は別に風邪が悪くなったとかじゃなくて、実家の方で誰かが死んだから法事だとかそんな話だった。
それで、家が近かった僕が、その日に配られたプリントを私に行く役に選ばれたというわけだ。
先生はすまなさそうな顔をしていた。
悪いけど、先生忙しくて持って行けないのよ、なんて眉をへの字にして先生は言った。
だけどこのプリント、ちょっと急ぐから。もしかしたら今日帰って来ないかも知れないし、手に渡るのは明日以降になるかも知れないけど、でも、早めに渡すだけ渡したいの。だから、ごめんね、お願いできるかな。
まぁ、別に、そいつの家にプリントの束を届けるだけなら大した仕事じゃない。だから、僕は簡単に請け負った。どうせ帰り道の途中にちょっと寄り道をするだけだ。
僕達はそうしていつもよく遊んでいた。
親の都合で中学校から引っ越す羽目になった僕に最初に出来た親友。
そいつの家に鞄だけ置いて近くの公園に行ったり、家に上がってゲームしたり、小説とか漫画とか読んだり。
そんな仲のヤツが学校を休んだってだけで僕にしてみればちょっとした大イベントで、今日は一日何となく落ち着かないような気分だった。
しかも家族の誰かが死んだらしい。
落ち込んでるだろうか。
そんな立場になったことがない僕にはどうにも想像がつかない。
もしもう帰って来てたら、ちょっとなぐさめてやろうか、なんてことも考えた。
そんなわけで、僕は、今こうして封筒を抱えて、夕暮れの袴田の家の前に立っているのだ。
二階建てのちょっとひしゃげたような日本家屋。それが袴田の家だ。
家の隣の車庫には車がない。ということは、まだ帰って来てないってことになる。
僕はちょっとだけ残念なため息をついて、玄関向かった。
念のため、呼び鈴を押してみる。
キンコーン、という味気ない音だけが家の中に響く。
ちょっとだけ耳を澄まして待ってみるけど、やっぱり誰かが出て来るような気配はない。
もう一回だけ、押してみる。
キンコーン、と虚ろに響いて、待ってみても、ただそれだけ。
僕はガラスの引き戸を叩いてみる。
ガシャンガシャン、と結構大きな音が鳴る。
それから、袴田さーん、と声をかけてみた。
返事はない。
もう一回、ガシャンガシャン。
袴田さーん。袴田さーん、いないんですかー。
やっぱり返事はない。
一応、ガラス戸を横に引いてみるけど、鍵が掛かってて開かない。
まぁ、考えなくても、当たり前の話だった。
僕は諦めて封筒を郵便ポストに入れた。
それからくるりと背を向け、玄関を後にする。
と、背中の方で、カチャンと、音がした。
なんだろう、と振り返って見ると、さっきまではぴったり閉まっていたはずのガラス戸が、ほんの少しだけ開いていた。
そんなはずはないと思う。
だってさっきまで鍵が掛かってた。
間違いない。
でも、今は、開いてる。
それも、間違いない。
ぼくは恐る恐る玄関にとって返し、隙間に指を差し込んでみる。
そしてそのまま力をかけると、カラカラとガラス戸は開いた。
僕はちょっと困った。
考えられることは、1つ目、実は鍵は最初から開いてた。引っ掛かってて、掛かってるみたいに思っただけ。法事だって慌てて家を出て行ったから、鍵をかけ忘れた。
2つ目、実は中に人がいた。で、開けてくれた。
とりあえず、2つ目は却下。だって、玄関を開けてみても、ガランとした、電気のついてない廊下が目の前に伸びてるだけで、人の気配なんて、ない。大体、誰かが開けに来てくれた様子だってなかったし、開けてくれたんなら僕に声をかけてくれればいいはず。だってもう何回も遊びに来てて、袴田の家族はみんな僕のことよく知ってるんだから。
でも、そうだとしたら、逆に困る。どうしよう。だって、鍵が開いてることに気付いちゃったら、このまま帰ることなんてできない。
とりあえず、中に声をかけてみる。
袴田さーん、いるんですかー。
しーん。
どうやらいないらしい。
もう一回声をかけてみる。
袴田さーん、いないんですかー。
しーん。
でも、ぎしり、と何かが軋む音がした。何となく、上の方から。
僕は廊下の脇から上に伸びる階段を見上げる。
親友の袴田康助の部屋は2階だ。
康助ー、いるのかよー。
しーん。
康助ー。
しーん。
なんだよー、やっぱりいないのかよ。
なんだよー、といきなり、返事があった。
僕の予想通り2階からだ。
なんだお前いたのかよー。
なんだよー。
法事じゃなかったのかよー。
なんだよー。
あ、そっか、お前、風邪引いてたから行かなかったんだなー。
なんだよー。
いや、プリント持って来たんだよー。ちょっと待ってろよー。
僕は玄関先に戻って、郵便受けに突っ込んだ封筒を引っ張り出した。
康助ー。
なんだよー。
プリント、玄関においとくなー。
僕がそう言うと、少しだけ、家の中は静かになった。
康助ー、分かったのかよー。
しーん。
分かったんならいいんだけどさー、先生がちょっと急ぐプリントあるって言ってたから、母ちゃんとか帰って来たらよろしくなー。
しーん。
じゃあ、僕は帰るぞー。
そう言っても返事がないから、しばらくして、僕は帰ることにした。
元気になったら学校に出て来いよー。こっちはお前がいなくて寂しいんだからなー。
しーん。
今日の体育で、僕、ハヤブサできたからまた縄跳びのランク上がったんだぜー。
しーん。
お前も早くここまで上がって来いよー。
早くここまで上がって来いよー、と、いきなり声が、背中を向けかけた僕目掛けて降ってきた。
ここまでって2階かー。
早くここまで上がって来いよー。
だってお前、風邪引いてるんだろー。
早くここまで上がって来いよー。
お前が来いよー。
早くここまで上がって来いよー。
何だよ、来れないぐらい具合悪いのかよー。
早くここまで上がって来いよー。
しょうがないなー、うつすなよー。
早くここまで上がって来いよー。
分かったからちょっと待ってろよー。
早くここまで上がって来いよー。
それにしてもお前、風邪でなんか声、変わってんなー。
言われるままに、靴を脱ぎかけて、ふと、気がついた。
確かめるために、声をかけてみる。
康助ー、ところで玄関開けっ放しは不用心だぞー。
早くここまで上がって来いよー。
うん、なんか、変だ。
お前、今、どこにいるんだよー。
早くここまで上がって来いよー。
うん、やっぱり、変だ。
お前、どっから呼んでんだよー。
早くここまで上がって来いよー。
おい、康助ー。
早くここまで上がって来いよー。
康助ー。
早くここまで上がって来いよー。
お前さー。
早くここまで上がって来いよー。
康助、だよなー?
「早くここまで上がって来いよー」
そいつの家に行ったのは、この日が最後になった。
[了]
|