新聞配達

 三丁目の配達には気をつけろ、と先輩にはきつく教えられた。

 大学に入って、入部するつもりもなかった軽音部に入る羽目になったのは入学式の時にたまたま近くに座った可愛い女の子を新歓の席で見かけたからで、ついでに同じ高校の先輩が入部していたから逃げられなくなったせいだ。
 二年生になっていくつか単位を落とし、いくつか単位を取り、その差し引きでどうやら三年生に上がるのは難しそうだと分かった時に新聞配達のバイトを勧められた、というか拝み倒して頼まれたのも、既に同級生だったその先輩からだった。
 俺は渋りに渋ったが、最終的に『週に一回はメシをおごる』『半年に一回は焼肉をおごる』『テストの過去問を可能な限り回してやる』という3つの条件で合意した。どうも配達員をしていた高校生がいきなり辞めてしまって、どうしても早急に代わりを見つけなければならなかったらしい。
 ちなみに3つの条件は全部先輩からの発案で、こっちから要求したものは1つもない。つまりそうまでして俺に頼む先輩の姿を見ると流石に心が痛み、仕方がないと諦めて引き受けたのが本当のところだ。
 そんなわけで始まった俺の4時起き生活なわけだが、それに先だって先輩に最初に教えられたのが例のヤツだ。

 三丁目の配達には気をつけろ。

 なんでですか、と当然俺は訊いた。すると先輩は何故か言葉を濁し、面倒なことがあるんだよ、詳しくは事務所の人に訊いてくれ、とだけ言ってこれ以上話すことはないとでも言うように顔を背けてしまった。
 俺は首をかしげながらも先輩からは聞き出せそうにないと悟って、いつか事務所の人に確かめてみようと心に刻むことにした。

 バイトが始まってから一ヶ月は、正直言って眠くて仕方がなかった。
 なんで引き受けてしまったのかと、後悔してばかりだった。
 それでも、人間何事も続けていれば慣れてくるもので、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた頃には目覚ましが鳴るより先に目を覚ますことができるようになっていた。夏が近いのにまだ肌を刺すような冷気も、日が顔を覗かせすらしない頃の深い闇も、眠りを邪魔された腹いせにでも発するのか不意に投げ付けられる犬の吠え声も、いつしか馴染みのものとなり、俺は事務所の人とも結構遠慮なく話が出来るようになっていた。
 そんな頃に、再び耳にしたのが、例のヤツだった。

 三丁目の配達には気をつけろ。

 新聞配達のバイトが始まって三ヶ月目に入ろうかという時期に、事務所の所長からちょっと配達範囲を広げても構わないかと訊かれた。
 理由を尋ねた俺に告げられたのは、実はこれまでの俺の配達範囲は本来のものよりも狭く設定されていたのだという話だった。
 朝早くに呼び出して、慣れない道を原付で走り回らせる、なんて仕事をやらせるに当たって、いきなりあまりに広い範囲を任せるのは、する側もさせる側もともに不安である。だから、ある程度仕事に慣れてもらうまでは配達範囲を周りの人で少しずつカバーして、少し狭めに設定してあげよう。という心遣いだったらしい。だがもう二ヶ月が過ぎ、特に苦情もなく、予定通りの時間でこなせているのを見るに、できれば範囲を元に戻したいのだ、というのが提案の主旨だった。
 それを聞いた俺は一も二もなく頷いた。
 自分のせいで他の人にしわ寄せが行っているなんて状況に甘んじるのは流石にプライドが許さなかったし、自分の仕事を他の人に押しつけておきながら同じバイト料をもらうというのは流石に悪いと思ったからだ。
 俺がそう答えると、事務所の所長はほっとしたように、では頼むよ、と頷いた。
 そうして、元に戻った俺の担当範囲の中に、例の三丁目が含まれていた。
 俺は先輩の話をふと思い出し、所長にその件について尋ねてみた。
 所長の返答はこうだった。
 確かに三丁目の配達には気を遣っていただきたい。何故なら、三丁目のとあるアパートの住人が非常にくちうるさいからだ。
 くちうるさいとは具体的にはどういうことなのか、と重ねて問う俺に、所長は困ったように眉根を寄せた。
 その部屋は妙に住人の出入りが激しくてね、と所長は呻くように言った。
 だから、新聞の配達が必要かどうかがコロコロ変わるし、必要な時に届いていなければここに矢のような催促の電話が掛かってくるのだよ。
 俺が、分かりましたと頷くと、所長は事務所に掛かっているホワイトボードの隅を指さした。
 ここに三丁目と特別枠があるだろう、ここをチェックして、配達するようになっていたら忘れず配達してくれたまえ。
 俺はもう一度、分かりました、と頷いた。
 ――ああそうだ、そのアパートの部屋っていうのは?

 そんな風に教えられたものだから、俺がその部屋を変に意識してしまったのも仕方のない話だと思う。
 初めてその部屋に新聞を配達する日、俺は緊張しながら階段を上った。
 同じ建物の一階にも二階にも顧客はいるし、最上階の三階にもいる。単純に配達する部屋が増えただけで、大したことじゃない。落ち着け。冷静に仕事だけをこなせばいい。そう自分に言い聞かせながら。
 カツン、カツン、と妙に甲高く靴音が響く。
 はぁ、はぁ、と自分の呼吸音が耳障りだ。
 ジジ、と廊下を照らす蛍光灯が音を立てて瞬く。
 俺は震える手で新聞を一部、鉄製の扉の新聞受けに押し込んだ。
 ガコンガコン!と夜の静寂にヒビを入れるような音が響き渡った。
 一瞬、息を呑む。
 何かまずいことでもしてしまったかのような、そんな気がして。
 1秒、2秒、3秒待って、何事も起きないことを確認して、ほっと息をついた瞬間――ずずっと扉に突き立った新聞が動いた。
 思わずびくりとからだが震える。
 ずずっ、ずずっ、と新聞は中に引き込まれていき、やがて、新聞受けはバチンと閉まった。
 1秒、2秒、3秒待って、もう一度ほっと息をつく。
 どうやら中の人は起きていたらしい。
 俺は詰めていた息を大きく吐き出し、部屋の前を後にした。
 建物を離れ、原付にまたがって走り出す。
 ぐるぐると三丁目中を走り回って新聞を届け、次の地区を確認して、アクセルをふかす。
 ふと脇を見ると、遠くに、例の部屋のベランダが見えた。
 こんな時間だというのに、奥さんだろうか、ベランダに出て洗濯物を干しているようだった。
 働き者なんだな、と感心するとともに、お互い頑張ろうぜ、と心の中でエールを送って、俺は三丁目を後にした。

 そうして一ヶ月もすれば、また俺は広がった担当地区にも慣れていた。
 最初は変に意識していたアパートもその内に何も感じなくなっていた。
 毎朝新聞を届け、それが部屋の中に吸い込まれる音を背中に聞き、三丁目に一通り配ってから遠目に洗濯物を干す奥さんを眺めて、隣地区へ。それが完全に俺のルーチンの中に組み込まれていた。
 そんな俺の毎日に変化が訪れたのは、7月の半ばだった。
 俺が新聞配達のバイトをしているという噂を聞きつけた大学の友人たちが、どの辺なんだ、なんて興味本位で訊いてきたものだから、俺は包み隠さず話してやった。すると、その中の一人が、おー、なんて妙な声を出した。
 なんだ、俺の担当範囲に住んでんのか?と訊くと、そうだとそいつは頷いた。
 どこだ?と訊いて返って来た住所は、あろうことか三丁目の例の部屋の隣だった。
 そうか、お前あんなところに住んでるのか、俺、お前の部屋の隣の部屋に届けてるぜ、と言うと、そうだったのか全然気付かなかったな、とそいつは答えた。
 そう言えばお前の隣の部屋に住んでるヤツってどんなヤツだ?ほら、奥の305号室のヤツだよ、と俺が言うと、そいつは変な顔をした。
 いや、お前が隣って言うから303号室のことだと思ってたんだけどよ、305号室は今は誰も住んでないはずだぜ。
 そんなはずはない、と俺が言うと、間違いない、とそいつは答える。
 だって新聞を毎朝届けてる、と俺が言うと、でもいないはずだ、とそいつは答える。
 だって洗濯物を干す奥さんを毎日見てる、と俺が言うと、でもいないはずなんだ、とそいつは答える。
 だいたい洗濯物をそんな時間に干すなんて非常識じゃないか。
 いいだろ、忙しいんだろうよ、きっと。
 そういう意味じゃない。
 そう言って、そいつは首を横に振った。
 オレ、兄貴と一緒に住んでるんだけどよ、最初に言われたんだよ、夜中に洗濯機を回すんじゃないぞってな。夜の静かな時間にそんな騒音を立てる真似するなよ、隣近所に迷惑だからなってな。
 言われて、ようやく分かる。そんな時間に洗濯物を干しているというのは、そんな時間に洗濯機を回している、ということに他ならない。
 なんだお前、洗濯機を回してる騒音でも起きないのかよ、と茶化すと、ふざけんな、と返された。
 だいたいなんでそんなに毎日干す物があるんだよ。
 いいだろ、赤ちゃんのおむつでも洗濯してるんじゃないのか。
 そりゃアパートだから赤ちゃんの泣き声がすることぐらいあるぜ、でも隣じゃないはずだ、隣には誰も住んでないはずだ。
 そんな感じでどっちも譲らず、どこまで行っても平行線で埒が明かない。だからそいつに、大家さんに電話させてみた。
 返って来た答は――305号室に今、借り手はいないということだった。
 ほら見ろ、と勝ち誇る友人に、俺は、でも毎日新聞届けてるし、毎日奥さん見てるんだぜ、となおも食い下がると、ならこれ貸してやる、と隣から双眼鏡が差し出された。
 なんだよ、と見上げると、野鳥観察が趣味だと公言してるヤツが立っていた。
 郵便受け覗くのは流石にマナー違反だから無理だろうけどさ、奥さんが立ってるのが本当に君の言ってる部屋かどうか、これでちゃんと確認すると良い。どうせ部屋の見間違いとかそんなんじゃないの。
 俺は渋々それを受け取り、ポケットに入れた。

 その日のバイトで、俺は初めて305号室に新聞を届けなかった。もちろんホワイトボードは『配達』となっていることは確認済みだ。でも、俺は敢えてそうした。
 三丁目中をぐるぐる回り、隣地区に出る前に、いつもベランダを見ていた角で原付を止める。その瞬間、胸ポケットの携帯が着信を告げた。
 発信主は、新聞配達事務所。
 はい、畠山です、と出ると、お前今どの辺だ、と訊かれた。
 三丁目です、と答えると間髪入れず、じゃあさっさと例の部屋に新聞届けろ!と怒鳴られた。
 いや、でもその部屋、空き部屋なんですよ、大家に確認とったから間違いないです、と答えると、ンなことは知ってンだよバカ!いいからさっさと届けろよ!と怒鳴られ、一方的に電話を切られた。
 俺は腹立ち紛れに携帯をポケットにねじ込み、代わりに双眼鏡を取り出した。
 それを目に当て、ベランダに視線を向ける。
 倍率を調整して、一階、二階、三階、と下から数える。
 それから、左から301号、302号、303号、304号、と数え、一拍おいて、意を決して305号室に目をやった。
 ほら、女の人がちゃんと立っていて、何となく楽しげな笑顔を浮かべて、シーツをパタパタと振って――
 ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
 間違いない、ベランダで女の人が笑顔でシーツを広げて振っている。
 それは間違いない、間違いないのに――
 どうして、彼女の表情はちっとも変わらないのだろう。
 どうして、広げたシーツを掛けようともしないのだろう。
 ――いや、あれはシーツじゃない。
 白いワンピースを着ているだけだ。
 それがはためいているからそう見えるんだ。
 そしてまるで手招きをするように手を振っているから――

 ポケットの中で、携帯がまた震え始めた。

[了]


top


novel (tag)
※message
inserted by FC2 system