携帯電話

 シノ、そろそろゲームやめて、もう帰れよ、と僕が言ったのは、別に親友の篠崎が邪魔だったからとか、ウザかったからとかそんな理由じゃなく、ただ単にもうだいぶ遅い時間だったからだ。だから、シノに対して何かしようとか、何かの目に遭わせようとか、そんな気持ちは、誓って、欠片もなかった。
 えー、ヤだよ−、とシノは答えて、ゲームを一時停止させてから、首から提げていた携帯をぶらぶらと振った。シノの家は結構なお金持ちで、クラスでも携帯を持っていたのはシノだけだった。だから僕はそれがちょっと羨ましかった。
 シノは携帯をぶらぶらさせながら、だってさー、と言ったまま黙り込んだ。でも、何が言いたいのかは、僕にはちゃんと分かってた。
 シノの家は結構なお金持ち、だけど、そのお金を稼ぐのに父ちゃんも母ちゃんも一生懸命働いてて、家に帰ってもシノはひとりぼっちなんだ。たぶん、そんな風に家にいれないっていうのもあって、シノは携帯を持たされてるんだと思う。
 妙に広い家の中、ぽつんと独りでいるのが寂しいとか、心細いとか、じゃなくても不安だとか、なんか落ち着かねえとか、シノはよくそんなことを言ってた。
 その話を聞くたびに僕らは、家の中で一人とか自由で、やりたいこと好きに出来ていいじゃん!と羨ましがったんだけど、そのたびにシノは真剣な表情で、じゃあ代わるか。代わってやるよ。代われるもんならな。代わってくれよ。なんて言うもんだから、その内、どちらからともなくその話題には触れないように気を遣うようになった。
 だからと言っていつまでもウチには居られない、もう時間が時間だと、僕は時計を見上げる。
 でもさー、お前の家、こっからバス乗っても一時間ぐらいかかるじゃんかよ、と僕が言うと、シノは、そうだけどさー、とやっぱり携帯をぶらぶらさせながら答える。
 それにさー、知ってるだろ、ウチの周り田舎だから夜になると一時間に一本ぐらいしかバス来ねーし、今のタイミング逃すとまたどんどん遅くなるぜ、と畳み掛けると、そうなんだけどさー、とやっぱり気乗りのしなさそうな声で答える。
 黙りこくっててもしょうがないから、僕は、じゃああと一戦な、一戦したら、お前帰れよ、と言って、シノのコントローラーをひったくると一時停止を解除した。
 シノはしばらく、えー、だの、ぶーぶー、だのと文句を垂れてたけど、すぐにゲームにのめり込んで、わーわーとしばらく騒いで、それから、大人しくなった。
 よし、終わり、と僕が宣言すると、シノはまた携帯をぶらぶらさせながら、なー、やっぱ帰んねえとダメかなー、とぼやく。
 当たり前だろ、お前、家に帰んないなんて選択肢があると思ってたのかよ、と思わず突っ込むと、だよなー、と力なく笑って返された。
 ソウの家はいいよなー、とシノは言う。
 なんでだよ、と僕は答える。
 だってもうすぐ帰って来るんだろ、とーちゃんとかーちゃん、とシノが言う。
 帰って来たらゲームやめて宿題しろってうるさく言われるぞ、と僕は答える。
 それでも、いるだけマシだろ、とシノが言って、
 いない方がいいって、と僕が答えたところで、玄関の開く音がした。
 ただいまー、と玄関から声がして、おかえりー、と僕が返して、シノは諦めたように立ち上がった。
 外はもう日がほとんど落ちていて真っ暗。バス停までは歩いて十分もあれば着くけど、足下はそろそろ危ないかもしれない。
 やっぱ、もう帰るわ、とシノが言う。と同時にビニール袋を抱えた母ちゃんが居間に入ってきた。
 あら、篠崎くん来てたの、と母ちゃんが言うと、お邪魔してます、でももう帰ります、とシノは他人行儀に答えた。そうね、もう遅いし、送っていってあげようか、という母ちゃんにシノは小さく首を振って、いいです、大丈夫です、と言ってから僕にじゃあなと手を振って、携帯を握りしめて居間を出て行った。
 僕は思わずシノを追いかけていた。
 シノ、大丈夫か、と靴を履こうとするシノに問い掛けると、シノは首をかしげて、何が、と問い返した。
 そう言われて、気が付いた。
 僕は、いったい何を言おうとしてたんだか自分でもよく分かってなかったってことに。
 ちょっとだけ迷って、いや、バスがさ、とよく分からないことをぼそぼそと呟くと、シノは笑った。
 まだ大丈夫だろ、乗れなかったら、おばさんに送ってもらおうかな、電話していいか?なんて言うもんだから、いいぜ、なんて勝手に請け負って、僕はウチの電話番号を教えた。シノはそれをやけに丁寧に携帯に登録して、オッケー、じゃあ何かあったらかけるわ、と言って、軽く手を振って出て行った。
 僕は閉まる玄関のドアをじっと眺めてから、居間に戻った。
 母ちゃんは買ってきた夕飯の材料を台所で袋から出してるところで、篠崎くんは帰ったの、とこっちを見ずに尋ねた。
 僕がそうだよと答えると、母ちゃんは、そう、と小さく頷いてから、篠崎くんも可哀想にねと呟いた。母ちゃんもシノの家がどうなってるのか大体知ってる。だから、シノが遊びに来た日はいつもよりちょっと長くゲームしてても怒られない。それが嬉しくて僕はシノをよく家に呼ぶんだけど、今日に限っては、何だか悪いことをしたような気になった。シノだって喜んでるから、誰にも悪いことないはずなのに。なんでだろう。
 そんなもやもやとした僕の心の中を見透かしたわけでもないとおもうけど、母ちゃんは、ほらさっさとゲームを片付けなさい、と変わらない調子であっさりと言った。
 いつもなら、えー、とか一言ぐらい反抗してみるんだけど、今日はなんとなく、僕は黙って素直にその言葉に従う。
 カセットを抜いて他のと一緒に並べて、本体をテレビの下の台に突っ込んで、ケーブルをまとめて本体の隣に突っ込んで、テレビの電源を切る。
 ふと、ガラス戸から外が見えて、僕は何の気無しに空を見上げる。
 シノはちゃんとバス停に着いて、バスに乗れたんだろうか。もう、真っ暗だけど。
 そう思ったのが通じたみたいに、ウチの電話がジリリリリリンと鳴った。
 料理中の母ちゃんが、聡ちゃん出てー、なんて言うもんだから、代わりに受話器を取る。
 よー、ソウか、オレだけどさ、という声はシノだった。
 シノどうした、バスに乗れなかったのか、と言うと、いやあタッチの差で行かれちまった、とあっけらかんと答える。大丈夫かよ、と訊くと、ちょっと待て、時刻表見る、あー、ダメだ、今の最後で次は一時間コースだ、なんて電話の向こうで言っている。しょうがないな、こっち一回戻って来いよ、と言いかけた僕を遮るようにして、シノは、あっと声を上げた。
 バス来たわ、とシノは言う。
 おいおい、最後じゃなかったのかよ、と僕が言うと、シノは、おっかしいな、見間違いじゃねえと思うんだけどな、ま、いいや、こっから街に向かうバスは一本だし、人いっぱい乗ってるし、大丈夫だろ、これ乗るわ、じゃあな、と言う。それから、五秒ほどして、電話は切れた。しょうがないから僕も受話器を下ろす。
 台所から、母ちゃんの声がする。誰からだったか、と訊かれて、僕は素直に、シノからだと答える。それから、バスには乗れたみたいだと言うと、母ちゃんは少しほっとしたような声で、そう、よかった、と言った。
 母ちゃん、準備手伝う、と言ってみると、あら珍しい、と笑われた。
 でも今はしてもらえることないから、宿題でもしてて、あとでお箸とか運んでもらうから、その時に声かけるから、と言われ、僕はしょうがなくテーブルの上に算数の教科書とノートを広げる。さて、問題を解こうかと鉛筆を持ったところで、また電話がジリリリリリンと鳴った。
 またも僕が取りに行くことになって、受話器を持ち上げたら、またシノだった。
 ソウ、ソウだよな、なんて妙なこと言うから、そうだぜ、なんちゃって、と答えるとシノは小さく笑った。
 ところでシノ、お前バスの中じゃないのか、電話なんかしてていいのか、と訊くと、それなんだけどさ、と囁くような声でシノは答える。
 お前の家の近くのバス停から街の方に向かうバスって一本しかねえよな、と言うから、そのはずだけどちょっと待ってろ、と言って、僕は台所に向かう。でも、母ちゃんの返事も同じだった。そんなわけで、僕はそう、シノに伝える。シノは、だよなー、と言って、分かった、サンキュー、と電話を切った。
 僕はわけが分からないと首を捻ったけど、まあいいかと、宿題に戻った。
 宿題を半分ぐらい片付けて、夕飯の準備を手伝って、帰って来た父ちゃんと三人でテーブルについたところで、また電話がジリリリリリンと鳴った。
 何となく予感がして、僕は急いで受話器を取った。
 ソウだよな、と言うのはシノの声で、僕は、どうしたシノ、と答える。
 何か、変なんだよ、とシノは言う。人がいっぱいでほとんど身動き取れねえんだけど、人の間からちらちら見える外の景色が、なんか見たことねえんだよ、とシノは続ける。それから、携帯で話してても誰も注意しねえし、こっち見もしねえし、何か、とにかく変なんだよ。
 気にしすぎだろ、と僕は笑ってやった。シノは、そうだよな、と小さく笑った。それから、何かあったらまた電話するわ、と言って、切れた。
 テーブルに戻ると、母ちゃんが、シノからの電話だったのかと訊いてきたから、僕は頷いた。何か妙なこと言ってた、と言うと、母ちゃんは、どんな、と食べる手を止めて訊いてくる。しょうがなく、僕はこうこうと説明すると、確かに妙な感じね、と母ちゃんは頷いた。でも、だからといって何か出来るわけでもなく、僕は何となく手が進まないままいつもよりゆっくりと、いつもより少なめな夕飯を食べて、宿題の残り半分に取りかかった。
 でも、シノのことが気に掛かって、やっぱり何となく手が進まない。何かあったら電話するって言ってたから、電話がないってことは何事もないってことだ、と自分に言い聞かせる。だいたい、もうウチをでて二時間ぐらい経ってる。だからとっくにシノも家に着いてるはずなんだ。
 ……電話がないってことは、“家に着く”ってことも、まだないんじゃないよな。
 そんなことをふと思いついたところで、電話がまたジリリリリリンと鳴った。
 思わず駆けていき、勢い込んで受話器を取る。
 ソウか、という声はやっぱりシノの声で、僕は、ほっと息をついた。なんだシノか、どうしたんだ家に着いたのか、僕がそう言ってもシノは、あ、いや、と曖昧に言葉を濁しただけで、あとはじっと黙ったまま答えはない。
 しばらく、しーんと静まりかえった時間が過ぎて、黙っているのに耐えられなくなった僕が何か言おうと口を開きかけた時、ぼそりと、電話口の向こうでシノが呟いた。

「――バス、止まらねえんだけど」

 プツンと電話は切れて、それ以来、シノからの連絡はない。

[了]


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