月刊連載

 人に物を教えるというまさにその職でない限り、世に“先生”と呼ばれる職は医師か、代議士か、でなければ文章書き、あるいは漫画描きに限られる。
 奇妙なことに文筆家か漫画家でなければ、同じように手で何かを生み出していようと先生と呼ばれることはない。画家や華道家などを引き合いに出す手合いもあるだろうが、その辺りはそれこそ弟子を取る、つまり人に物を教える立場にあるからこそ、あるいは画商のような取引先であるからこその敬称であることがほとんどと言って良い。交渉のない一般人からも先生と呼ばれるとしたら、やはり前述の二者に限られるようだ。
 だからといって、その二つが他と比べて極めて優れている、秀でている、特別である、あるいは特殊であると主張したいわけでは、さらさらない。残念ながら、しがない食い詰め文筆家の自分という存在を知っている以上、そんな幻想は抱きようもないのだ。編集部からの電話に怯え、必死で文章を捻り出し、何とか口に糊をして生きているのが、他でもない先生であるところの、俺だ。
 ちらりと机の上に目をやる。
 そこに乗っている黒電話は、昼過ぎから不気味な沈黙を守っている。
 何を隠そう、今日は俺が細々と連載している“月刊サードフライデー”の締め切り日なのである。
 幸か不幸か俺を担当した編集者はしっかり者で、俺は原稿を落としたことが一度もない。幸いと言えるのは、おかげで細々とだが良い付き合いをさせてもらっているという点で、不幸と言うべきは、スケジュールを守るために毎月締め切り前はそれこそ死ぬような思いを強いられるという点だ。もちろん、後者は取材だなんだと執筆作業以外にかまけてばかりいる俺の方がほぼ全面的に悪いわけだから、文句を言う筋合いは無いわけなのだが、それでも愚痴ぐらいは許して欲しいものである。アシスタントもお手伝いも無しに何もかも一人でやるにしては作業が少々過酷だというのが一応の俺の見解だ。そう言うと、担当は時に優しく、時に厳しく叱咤激励してくれ、結果として俺は何とか食いつなげているわけだから、どちらかというと幸せだと言うべきで、そう言わないと罰が当たるというものだろう。
 さて、そんな優秀きわまりない担当が俺を外れ、別の新人を担当することになってしまったのが三ヶ月前の話である。よほどの大型新人なのか、手のかかる問題児なのか、その辺りはさっぱり見当もつかないが、元担当は、俺に直接面会して伝え、引き継ぎをやるべきなのだがそれもできなくて申し訳ないと散々電話口の向こうで謝り倒し、これからは別の者が原稿の受け取りも何もかもをやるからそちらと上手くやって欲しい。専属でないからできることに限界はあるが、もし何かあれば自分に言ってくれても構わないとまで言ってくれた。
 一年以上の付き合いでお世話になりっぱなしである俺としては、否の言葉を吐けるはずもなく、電話口ですら曖昧に笑って、へらへらと了承した。
 それでほっとしたのか、気が緩んだらしい元担当はとんでもないことを言い出した。曰く、次の俺の担当はまだ未定であるがすぐに決める。曰く、恐らく新人になる公算が高いが、俺の方からよろしく教育してやって欲しい。曰く、これまでの付き合いからその辺りも信頼している。
 買い被りだという言葉が喉まで出かかったが、よほど切羽詰まっているのだろう、向こうの言葉の端々に反論を許さない余裕のなさが感じ取れたので、俺はまた曖昧に笑ってへらへらと了承した。そうそうまずいことにはなるまいと踏んだのが正しかったのか、それとも間違っていたのかは、今のところ結論が出ていない。
 少なくとも大ハズレを引いたのではないというのが、現担当と最初に顔を合わせた時の感想だった。確かに新人らしい、着慣れないスーツを何とか着こなした風のひょろ長い、のっぺりとしたその男は菓子折を持って俺の前に現れ、奇特なことに俺の書いたもののファンだとのたまい、先生の担当になれたことは望外の喜びであると蕩々と語り、そのくせお邪魔してはなんだからとそそくさと退出した。
 その物腰や気遣いから、好感というものを抱くほどではなかったが、何とかやっていけそうではあると俺は判断した。
 元来几帳面というよりは少々無精で飽きっぽいところのある俺としては、もう少し干渉の強い方がお互いに益があるようにも思ったが、俺一人だけにそこまで入れ込むよりは、バランスを憶えて上手くやりくりできるようになってもらう方が新人教育としては先々役に立つのではないかなどと自分らしからぬことまで考えて思わず苦笑したことも記憶に新しい。
 そう、そんな出会いから始まった関係ではあったが、お互いに取り立てて不都合も不具合も不整合もなく、それなりに上手くやって来れていたつもりだった。
 少なくとも今日までは。
 俺はもう一度、鳴らない黒電話に目をやる。
 本来ならばもう既に現担当は俺の前に現れていてもおかしくない刻限だった。
 ちなみに、今月分の原稿は既にできている。新担当に変わってはや三ヶ月で落とすようではさすがにお互いに面目が立つまいというのが一応の建前で、社交辞令であろうとはいえファンであると公言してくれた新人を苛めるのは忍びない、いや、有り体に言えば数少ないであろうファンであるところの現担当の存在に少なからず勇気づけられ、また嬉しく思っていたのだから、早く次を読ませてやりたい、いや、読んで欲しいという強い思いが執筆の原動力となったことは言うまでもないだろう。
 そういったわけで、こちらは早く来ないかと期待して待っているのであり、また向こうがこちらに顔を出しにくい、連絡を入れにくいなどということもないだろうとは思うのだ。
 もちろん、急な用件が入って出発や到着が遅れている可能性もあるわけであるし、そうそう気に病むほどのことでもないといわれてしまえばそれまでである。しかし、そうであるならば連絡の一つぐらいあっても良いのではないかと、そう思うのが人情である。編集会議が長引いて連絡を付けることすらしにくいのかもしれない、などと推測することは容易だが、何せ根拠が無く、読んでくれる現担当のためにと気合いを入れて書いている分だけ、こうも待ちぼうけを食わされると却って業腹である。理不尽とは知りつつもこういった感情は抑えるに抑えきれない。
 その一方で、こうも連絡もないまま到着が遅いのは尋常な事態ではない、まさか事故にでも遭っているのか、事件にでも巻き込まれたか、とこれまた根拠のない不安がむくむくと頭をもたげる。そうであったところで、またそうと知ったところで、俺に出来ることは何一つ無いにもかかわらず、厄介なことにこういった不安は一度心中に棲み着くとなかなか消え去ってはくれないものである。
 そんな期待と癇癪と心配とが三竦みの状態で渦巻いており、俺は結果、何も出来ないまま黒電話の前でかれこれ一時間ほど立ちつくしている。
 俺が、何はともあれ編集部へ一本連絡を入れようと思い切ったのは、さらに三十分ほどが過ぎてからのことだった。
 呼び出し音を十数えても誰も取る気配が無く、よほど人手が足りていないのか、それならば仕方あるまいと受話器を置こうとした瞬間、向こうの受話器が上がり、もしもしという声が耳朶に届いた。
 遅くなりまして申し訳ございません。月刊サードフライデー編集部です。とお決まりのセリフを聞いて、俺はとりあえず自分の名を名乗る。すると、畠山先生ですか、どうかなさいましたか、と訝しげな声が返ってきた。
 こちらも戸惑いつつ、かくかくしかじかと状況を説明し、現担当か元担当のどちらかはいないかと問い質す。すると、緊急の編集会議で連載の担当は全員会議室に缶詰め、会議は紛糾し、誰一人朝から身動きが取れない状態だと告げられた。
 それならば仕方ないと小さく息を吐き、次いで原稿をどうしようかと電話越しに問い掛けると、交通費は持つから申し訳ないがタクシーで自社ビルまで持って来てもらえないかとの恐縮しきった返答で、俺は気にしないで下さい、そうしますと曖昧に笑って了承した。
 身支度を整え、タクシーを呼んで、何とも久し振りに“月刊サードフライデー”編集部へと向かう。自社ビルなどと呼べば聞こえは良いが、要は雑居ビルのワンフロアである。ただ、多角的に営業している一企業の持ちビルで、その一部門である出版部門が抱える月刊誌の一つが月刊サードフライデーであるに過ぎない。そのまたごく一部に原稿を載せてもらって食いつないでいる俺がどれだけちっぽけな存在なのかは、言うまでもない。先生なんて呼び名は相応しくないにも程がある。
 街中ではあるものの、大通りから二、三本裏に入った細い路地に沿うように建っている小汚いビルの守衛室に顔を出し、念のため上に確認をとって、入れてもらう。半年前ぐらいまでは、新人である俺は自分で原稿を持って来るべきとの思いからここに通っていたのだから、当時と変わらぬ守衛とも顔馴染みで、すまないねこれも規則で、なんて恐縮する彼に気にしてないと告げ、俺はエレベーターで編集室の階へと向かう。
 俺が到着すると同時にどうも長引いていた編集会議が終わったらしく、奥の会議室の扉が開いて中からぞろぞろと疲れ切った人々が流れ出てくる。その中に、俺は見知った顔を見つけた。
 元担当の名を呼ぶと、向こうも俺に気付いたらしく、畠山先生ご無沙汰しておりますと相変わらずの調子で近寄ってきた。
 今日はどういったご用件で、と尋ねる元担当にかくかくしかじかと状況を説明し、封筒に入った原稿を手渡す。申し訳ありませんと謝りつつ、確かに、と受け取り、少々確認させていただいてもよろしいでしょうかと問うので、俺は首肯する。すると、ここで立ち話もあれだからソファに行きましょうと誘われた。
 向かい合ってソファに腰掛け、原稿を捲る元担当の表情をじっと眺める。ふむふむと意識せずに口に出すその癖も、一度過ぎた文章を少しおいて見返すような読み方も、親指で眼鏡を押し上げる仕草も、三ヶ月しか経っていないというのに妙に懐かしい。俺は淹れてもらったコーヒーに手をつけることもせず、理由の知れない感慨を抱きつつその姿を見詰めていた。
 しばらくして、結構です、ページの抜けもありませんし、お疲れ様でした、お手数をおかけしました、と声を掛けられ、俺はほっと一息つく。
 次いで、ふと気になったことを尋ねる。
 先ほど、会議室から出てくる顔の中に、現担当のものがなかったように思える。彼は今日は休みなのか、だとしたらどういった理由で。そして今日原稿を取りに来るはずだったのに何故連絡すらこないのか、と。
 元担当は驚いたような表情を見せ、確認してきますと席を外した。
 またしばらく俺はソファで待ちぼうけの憂き目に遭う。今日は散々待たされる日らしい。
 忙しそうな編集部を見回しながら、ちびちびと冷めたコーヒーを舐めていると、元担当が訝しげな表情で戻って来た。
 曰く、非常に申し訳ない話なのだが編集部のゴタゴタのせいで引き継ぎが上手くいっておらず、俺の担当編集者は未定のまま宙に浮いていた。曰く、原稿だけは締め切り日に届いていたから俺本人が持って来ていたと思っていた。曰く、現担当であるはずという俺が告げた名の社員は存在しない。
 何を馬鹿な、と一笑に付したが、元担当は真剣だった。そしてその場で新たな担当を指名し、次回からはこいつに行かせますからと強く強く念を押した。
 そんなわけで、俺は腑に落ちない思いをしながら、編集部を後にしたのである。

 ――ところで、今、玄関の前に立っている見憶えのあるスーツの男は、いったい誰なのだろうか。

[了]


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