趣味自慢

 人に誇れる趣味、と言えば何があるだろうかなどとつらつらと考えてみるに、そこそこ知名度と一般性があり、誰でも簡単に始められそうなわりに継続が難しく、従ってあまり他の人がやっておらず、しかも成果が目に見えて分かりやすく、健全で社会適合的で合法で、そしてある程度の実益を兼ねている、そういったものであれば誰からも文句のつかない、どこに出しても恥ずかしくない、誇れる趣味と言っても良いのではないかと、そういう結論を得るに至った。
 作曲に演奏、絵画に彫刻、写真やたとえ折り紙であってさえも、そういった芸術的な趣味ならば世間は大いに認めてくれるであろうことは想像に難くない。
 書物やレコード、骨董品の蒐集であっても、その広範な知識や膨大なコレクションによってもたらされる他者からの評価は、一定のものが保証されるだろう。
 料理、陶芸、木工細工、金属加工といった実益をも視野に入れた趣味ならば、折に触れての披露の機会も多くあり、自然、名声の糧となること請け合いだ。
 もちろん、誇るなら同好の士のみではなく世間一般に目を向けるべきで、同じ写真なら鉄道より風景、同じ蒐集ならアダルトビデオよりクラシックレコード、そして同じ組むならプログラムより家具を選ぶべきなのは当然の話だ。
 さてさて、かく言う俺は、自慢ではないが趣味がないことが自慢という、自他共に認める無趣味人で、何をはじめても飽きっぽく、編みかけのマフラーや描きかけの油絵、触っただけの英会話教材に一度使ったきりの一眼レフ、パッケージすら開けてない書道教材や鉄道模型なんかが、家中のあちこちに散在するという現状を鑑みるに、そもそもの生まれ育ちからどうにも趣味といったものを持つのに適した人間ではないのではないかと考えるほかないほどである。
 かく言う今も、日曜の昼間だというのに八畳の座敷にごろりと寝そべり、つい先ほど届いたばかりの手品の教本をぱらぱらと読むでもなく見るでもなくめくっているだけという体たらく。せめてトランプなりコインなり、あるいは紐なり用意して試みに一つ二つでも演じてみれば良いものを、それすらも億劫だという思考が先に頭を占めてしまって、結局はこうなる。この態度はいつか改めるべきだと分かっているつもりではいるだが。
 ふと耳に届いた機械音に視線を上げると、愛妻が笑顔で掃除機をかけていた。休日に畳の上でごろごろしている碌でなしはゴミであると断じたらしく、低い唸り声を上げながら這い回っていた掃除機が耳元に迫り、追い立てられるようにして俺は隣室へと避難した。連れ添って一年と経たないというのにつれないことだと首をすくめ、そっと後ろを伺うと、そんな俺を妻は笑顔で見送っていた。
 仏壇のある六畳間に、俺は再びごろりと身を横たえる。
 妻とは見合い結婚だ。
 親が持って来た、降って湧いたようなその話に、当初は難色を示したことを俺はよく憶えている。ところが、俺の両親のみならず、先方の両親や、何より妻となるその当人がやけに乗り気だったこともあって、あれよあれよという間にとんとん拍子で話が進み、気がつくと俺はこの一軒家で新妻と二人暮らし、と相成っていた。
 そうは言っても妻に対する愛情が無いというわけではまったくない。さすがに面と向かってそうと口にはしないが、気立てが良く、そこそこ美人で、料理も上手く、それでいて締めるところはきちっと締める、それにも関わらず俺をきっちりと立てて、いつも後ろでにこにこしている。そんな妻に不満などあろうはずもなく、上手く操られているような気がしながらも、なかなかに良い気分を満喫させてもらっているのも紛う事なき事実だ。ついでに言えば、向こうが不平不満らしきものを口にしたことも一度としてないわけで、そのことから鑑みるにどうやら俺自身も妻のお眼鏡にかなってはいるらしい。それだけは、俺のささやかな自慢だ。つまり、それを糧にそれなりに生きることが、趣味と言えば趣味になるのか。
 そういえば、と俺は思いつく。
 妻の趣味、とはいったい何だっただろうか。
 思い返すに、妻からは不平不満はおろか、何が欲しい何がしたいといった欲求要望の一つとして耳にしたことがない。良くできた妻だと言ってしまえばそれまでなのだが、頼りがいのない、それすら口に出来ない連れ合いだと思われているようで、それはそれで夫として少々情けないような気がしなくもない。
 少なくとも、見合いである以上、ご趣味は、なんて形式通りの遣り取りをしたのだったとは思う。俺は、お恥ずかしながら無趣味で、などと面白くもない返答をしたことだろう。しかし、その時の妻の返答がさっぱり思い出せない。
 何となく、読書だとか、旅行だとか、そんなありきたりの返答だったということだけは憶えている。しかし、具体的にはどう答えたのだったか――
 ぷぇー、と、間抜けな音が耳に届き、俺の思考はふつりと途切れた。
 音のした方に視線をやると、妻にしては小柄な人影がそこにあった。目をこらして見上げれば、口元には俺がかつて購入し、箱を開けてすぐに放置していたブルースハープ。見知った少年はこっちを見下ろし、もう一度ぷぇーっと妙な音を鳴らす。それから、何が気に入ったのかぷぇーぱーぽーぷーぱーと出鱈目にやり始めた。
 そこからしばらくは節も調子もない出任せのアドリブをだらだらと続けていたが、そのうちに飽きたのか音は鳴り止んだ。
「よう、ケンジ。今日はどうしたんだ」
 ぷぇー、と声ならぬ返事がかえってくる。と同時に、どさどさと何かが畳の上に落ちた。音の重さやその見た目から、そこそこ分厚い数冊の本らしいと分かる。
 見れば、ケンジはその脇にまだ数冊の本を抱えているようだった。その状態でブルースハープを吹いていたんだからまともに音階が出せようはずもなく、ちょっと気を抜けば脇に挟んだそれらが落下するのも当然の話だった。
 俺は特に意味もなく、転がったそれらに手を伸ばす。
「――アルバム?」
 それは何の変哲もない数冊のアルバムだった。
 俺が撮った、あるいは撮ってもらった写真をひたすらに挟んだだけの。
 懐かしさも手伝って、俺はそっとその一冊を手に取る。
 開いてみて、まず目に飛び込んできたのは緑の山をバックに微笑む妻の姿だった。
 新婚旅行で行った箱根での写真だということは、一目で分かった。芦ノ湖や彫刻の森美術館、ガラスの森美術館といった観光地で撮った写真や、箱根峠、温泉街の何気ない写真など、どうしてこれほどと自分で思うほどの写真が数ページにわたって散りばめられている。被写体はほとんどが妻で、俺自身が写っているものがほとんどないことから推測するに、当時の俺はらしくないことに新妻によほど浮かれていたんだろう。
 写真を眺めつつ、俺はその当時のことを思い出す。
 趣味と呼べるほどのことはないのだが、俺はどうにも人をじっと観察するクセがあるらしい。よく憶えてはいないが恐らく中学生ぐらいの頃からのそんな妙なクセは、この歳になってもどうにも抜けない。だがそのおかげで妻がいつどこでどんな表情で何を言ったか、何をしたかは、この写真を見るだけでかなり鮮明に思い出せる。
 例えば、行きの電車の中で、俺が薦めた作家の文庫本を開いていたこと。後で感想を訊ねると、どうやら気に入ってくれたようだったこと。
 例えば、浴衣を纏い、下駄を履いた妻に箱根温泉の道端でカメラを向けると、恥ずかしそうに笑っていたこと。和服は体型を誤魔化してくれるから助かるわなどと冗談めかして言っていたこと。
 例えば、彫刻の森美術館で、俺が指差した巨大な野外彫刻を見上げて感嘆の息をもらしていたこと。こんなに大きなものをじっくり作るっていうだけですごいことね、と呟いていたこと。
 例えば、旅館で向かい合わせに座ってお膳を頂きながら、目が合う度にどちらともなく笑い交わしたこと。別におかしなことなど何一つ無いのに、何故かそれがおかしくて、二人でくすくすといつまでも笑っていたこと。
 ぺらりぺらりとページを繰るに従って年代はどんどんと遡っていく。
 就職が決まって半年ほどしてから式を挙げたため、俺一人で写っている、社会に出てからの写真は意外に少ない。せいぜい飲み会での写真だとか、会社の前で気取って撮ってみた写真だとか、その程度だ。
 ぷぇーっと気の抜ける音が頭の上から降ってきて、細い指が一枚の写真を指し示す。
 それは確か、新入社員歓迎会の直後に行われた新人研修の時の写真だ。
 貸し切りバスで少し離れた山奥の研修施設に連れて行かれ、丸二日かけて色々と叩き込まれたことを憶えている。
 俺の反応が芳しくないことに気付いたのか、ケンジの指は写真の上でぐるぐると円を描く。写っているのはバスの座席に腰掛ける俺の横顔だが、ケンジが何か伝えようと指しているのはその鼻先を掠めた窓の外――
「――あっ」
 思わず声が出た。
 ピントが合っておらずハッキリそうであるとは言えないが、窓の外に佇む一人の女性、それは何となく、妻に似ていた。
 俺の反応に気をよくしたのか、ケンジはアルバムから指を離すと、再びぷぇーぷーとやり始めた。
 しかし、何という偶然だろうか。俺が新人研修に出発するそのバスから撮られた写真に妻が写っているなんて。
 確かに俺と妻の勤め先は非常に近い位置関係にある。そう考えると、こんなことが起こっても何ら不思議はないのかもしれない。ないのかも知れないが、こうなる確率はかなり低いんじゃないだろうかと思う。
 小さく息をついて、俺はさらにページに指をかける。めくってから気付く。これは、新入社員歓迎会を会社近くの飲み屋で開いてもらった時の写真だ。手前から二人目に写っているのが俺で、奥には衝立を挟んで隣の座敷が写っている。そっちは確か別の会社の新歓が行われていたように記憶している。
「――あっ」
 またも、声が漏れた。
 まさかと思い、穴が開くほどにその写真をじっと見詰める。
 だが、恐らく、間違いない。
 この写真の中、俺たちの席の奥、衝立の向こう、店員に注文を伝えようとしたのか、振り返り、衝立から覗く女性の横顔、それは――紛れもなく、妻のものだった。
 妻と俺の勤め先は近い、従って、偶然にも同じ店で新歓をやるなんてこと、あり得ないとは言い切れない。言い切れないが、偶然とは恐ろしいものだ。
 その写真を改めてまじまじと見詰める。小さすぎてよくは分からないが、そこに写る妻の姿は、何故かあまり楽しそうには見えない。新歓なんだから主役の一人のはず。それなら少しは愛想良くしても罰は当たらないと思うのだが。正直言って、何事もそつなくこなす妻の姿と、この写真の姿はあまりしっくりとはこない。確かに酒好きとは言わないが、まずまず行けるクチのはずだ。緊張でもしていたのだろうか。
 ぷぇーっと上からケンジが覗き込み、俺は妻らしき人影を指差す。ぷぇぷぇぱ、と妙な音を鳴らしてケンジは頷く。どうやらそれを伝えたかったらしい。それにしても――
「なんだ、今は人の写真でウォーリーを探せをやるのが流行ってるのか?」
 ぱーぱー、とケンジは横に首を振る。
「……ところで、なんで声を出さないんだ」
 ぷー、と音を出しつつ、首を傾げる。
「趣味か」
 ぱーぱー。
「じゃあケンジの趣味は何だ。例えば、今は学校で何が流行ってるんだ」
 ぷー。
「ちなみに、俺は自他共に認める無趣味人だぞ」
 ぷー。
「…………」
 何なんだろうか、この状況は。
 戸惑う俺を尻目に、ケンジはパタパタと仏間を出て行った。
 俺は首を傾げつつ、アルバムのページをめくる。次に出て来たのは、会社の広報にも載った入社式の写真。俺は隅の方に写っている。
 さらにめくると、次に卒業式の写真が登場した。この辺りから大学時代へと入ってくるらしい。卒業証書を片手に、桜の下、友人と肩を組んでVサインを決める俺。大雪にはしゃいで雪合戦に興じる俺。サークルの旅行で行ったキャンプ場で薪を割っている俺。水着で海にダイブする俺。文化祭で出店を巡り、焼きイカを頬張る俺。満開の桜の下、花より団子より酒とバカ騒ぎをする俺。
 何枚も何枚も何枚もの写真。
 幾度も幾度も幾度もページをめくる俺の手が止まる。
 それは決して懐かしさから、じゃない。
 見つけてしまったからだ。
 写真の中に。
 桜の木の陰に、雪だるまの後ろに、ロッジの向こうに、パラソルの裏に、屋台の隅に、人混みの中に――探そうとしなければそれと気付かないほど自然に、“それ”は溶け込んでいた。
 ぞくり、と背筋を冷たいものが伝う。
 ぱたぱたと足音を鳴らしてケンジが戻って来る。脇に数冊の本と、紙と鉛筆を挟んで。
 どさどさと俺の目の前に本を落とすと、ケンジは紙に何事か書き込んで俺に見せる。
『べつにシュミじゃないけど、なんとなく』
 どうやらそういう遊びをしているだけらしい。
「……なぁ、ケンジ」
 ぷぇー、と声ならぬこたえ。その意味するところを量ろうともせずに、俺はこう続ける。
「美智子の趣味って、知ってるか」
 ぱーぱー、と返ってくる。だから、俺は、こう口にする。
「ちょっと訊いてみたらどうだ」
 俺の目の前から紙と鉛筆を拾い上げ、ケンジは再びパタパタと仏間を出て行く。
 向こうから聞こえてくる掃除機の音が止まり、なぁに、と問い掛ける妻の声。恐らくケンジが、質問を書いた紙を見せているんだろう、私の趣味が知りたいの、などと言う声が聞こえてくる。
 俺は聞き耳を立てつつ、何気ない振りをしてケンジが新たに持ってきた本に手を伸ばす。
 そうねぇ、趣味と言えるほどの趣味はないけれど、強いて言うなら――

「人間観察かしら」

 それが俺の中学・高校時代の卒業アルバムであることを確認して、俺は開くのを止めた。

[了]


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