特撰醤油

 大学進学を期に実家を離れてから、あと一ヶ月ほどで半年になろうとしていた。

 風も徐々に冷たくなり、着るものも半袖のTシャツでは少々つらいと感じるような、夏ももう終わるそんな頃。俺の状況を察したのかなんなのか、実家から冬物衣料メインの荷物が届いた。届いたと言っても、届いたのは一昨日。受け取ったのは、今日だ。いつも思うんだが、予告なく平日の昼間に荷物を持ってくるのはどうにかして欲しい。そんな時間帯に家にいるわけがないとは思わないのだろうか、宅配業者は。もちろん、大学はまだ夏休み期間中ではある。とは言え、昼間は買い物なりなんなりと、外に出る用事は多いのだ。どうして一回目の配達の前に一本連絡を入れるという行程を惜しむんだろうか、と本気で思う。
 実家を離れる時はあまり荷物を多くし過ぎないようにしようというコンセプトの元に荷造りをしたわけだし、その時から冬物はあとで送るという約束だったのだから、これは予定の内であったということとか、到着予定日を知らせる電話が実家から前もって来ていたのだが、それを綺麗さっぱり忘れていたということとかは、とりあえず伏せたい事実なので、無かったことにする。
 段ボール箱を開き、ぎゅうぎゅうに詰められた、俺の愛用していた服を取り出して、タンスに詰め直す。実家の俺のどこのタンスの何段目に入ってるのをまとめて送ってくれ、と前もって指示しておいたのが功を奏したらしく、そのラインナップに文句はない。
 一緒にインスタント食品や、切り餅や、ホッカイロが詰められているのは、両親なりの気遣いだと見える。俺の好きな袋ラーメンも入っていたので、心底ありがたく受け取っておくことにする。
 ところが――綺麗にたたまれていた服の中に、たった一つ丸めて詰め込まれたセーターの中から、ラベルのない500mlのペットボトルを見つけて、俺は途方に暮れることになった。
 中には黒色の液体がなみなみと満たされている。軽く揺らしてみるが、粘度は低いらしく、さらさらと波を立てるということと、どうやら固形物が混じっているとか、沈んでいるとか、そういうこともなさそうだ、という二点以外、何も分からない。実家から送られてきたものだから、開けたら爆発するとかそういうことはないとは思うが、開けてみて舐めてみるのは、何となくイヤだ。墨汁だったり、苦かったりしたら泣きたくなるし。
 しばし首を捻ってから、諦めて実家に電話を掛けてみようと受話器を取ったところで、ふと思い出した。
 そう言えば、荷物を送ったとの電話を受けた時に、おふくろが何か言っていたような気がする。雑談の中に紛れていたおかげで、それこそ荷物の到着日よりも深い記憶の奥底に沈んでいるが。
 俺は懸命にそれを掘り起こそうと努める。
 確かあの時は荷物を送ったから、という所から話は始まったんだった。

 このタンスのこの段に入ってた冬物衣料でいいんだったよね、
 そう言えばその服の中に懐かしいのを見つけたのよ、
 あの服、あんたがタマを拾ってきた時に着てた服だったよね、
 袖を齧られてちょっとほつれてて、捨てようかと思ったけどとっといたんだよね、
 そういえばタマが子ネコを産んだよ、しかも5匹、
 一匹はとっとくけど、他の子はもうもらい手が決まったし、残念だけどあんたは会えないね――

 そんな長話を聞き流している中に、

 そう言えば、最近お友達から分けてもらったお醤油がとっても美味しいのよ

 そんなことを言っていた、気がする。
 なんでもどこかの農家が細々と身内用に作っているのを分けてもらったんだとかなんとか。
 送ってやるとかなんとか。

 つまりは、それか。
 正体が知れて、俺はようやくペットボトルを開けてみる気になった。まずはもう一度ペットボトルを振ってみる。蛍光灯に透かしてみると、醤油のようだ。蓋を開け、匂いを嗅いでみると、確かに醤油だ。蓋にほんのちょっとだけ移し、指先につけて舐めてみるが、間違いなく醤油だ。
 昼飯は既に食べたあとだったがちょうど小腹がすいてきたこともあり、服と一緒に送られてきた餅を四つほど、渡りに舟とばかりにオーブントースターに放り込み、焼き餅に仕上げる。その間に、小皿に例の醤油を注ぎ、チーンという焼き上がった音がするやいなや、熱々の餅をそれにつけて、口の中をやけどしないように気を付けながら、かぶりつく。
 衝撃だった。
 それはこれまで味わったことのない、至高の味だった。言葉が出なかった。口の中で齧りとった餅がワルツでも踊っているようだった。呑み込むのももどかしく、二口齧って、至福に包まれた。三口齧って、正に天に昇るようだった。四口齧って、涙が溢れた。五口目で、餅は喉の奥に消え去っていた。
 俺は誰かにとられまいとするように、次の餅に手を伸ばした。醤油に浸し、貪るように口の中に押し込む。
 二つ目の餅は一つ目どころじゃない破壊力だった。耳元で荘厳なクラシックが奏でられているような。指の先、体の隅々まで活力が行き渡るかのような。それでいて全身のが優しく温かい何かに包まれ、全ての疲れが癒されるような。心の奥底まで慈悲と慈愛が染み込むような。それでいて燃えたぎる炎のように熱く猛々しい力を与えられているような。
 いつ食べ終わったのか分からないままに俺は三つ目の餅に手を伸ばす。一つ目、二つ目でこうなのだ、三つ目はどうなってしまうんだろうと、微かに恐怖も覚えたが、それも三つ目を口に放り込んだ瞬間に、綺麗さっぱり消え去っていた。そこにあるのは永遠に身も心も委ねてしまいたいような幸福感と絶頂感。
 瞬く間に四つの餅を胃の腑に送り込んだ俺は、次なる獲物を求めて荷物を漁る。食べれば食べるほどに心も体も癒されて、満たされていくのに、なんだろう、食べれば食べるほどに飢えと言うより渇きに似た衝動に突き動かされ、もっともっとと求めてしまう。
 結局、実家から送られてきた二十あまりの餅を残らず平らげてしまい、次は冷蔵庫に眠っていたレタスにそのままかけてサラダのように食べる。
 半玉のレタスを食べ尽くしてもまだ足りない。
 チーズを出してきて、醤油をかけて食べる。
 足りないので、キャベツ、ニンジン、タマネギ、タマゴ、豚肉を合わせて炒め、それにかけて食べる。
 まだ足りないのでベーコンをバターで炒め、醤油をかけて、食パンに乗せて食べる。
 まだまだ足りないのでもやしとジャガイモとハムを刻んで炒めて醤油をかけて食べる。
 まだだ、まだ足りない。
 気が付けば冷蔵庫の中は空になっており、俺は戸棚から引っ張り出したポテトチップスを醤油につけて食べていた。ポッキーをつけて食べていた。クッキーをつけて食べていた。カロリーメイトをつけて食べていた。
 一週間分の食料、非常食、おやつの全てを醤油と一緒に消費してしまっても俺の食欲は止まるところを知らなかった。次に俺の目に止まったのは、袋ラーメン。そうだ、スープの粉の代わりに醤油を使えばいいんじゃないか。そう気付いた俺は即座にお湯を沸かしにかかる。大鍋に2Lほども水を入れ、火に掛ける。まだか、まだ沸かないか。まだなのか!!
 どんっ!!
 思わず調理台を殴ってしまう。いかん、こんなに苛立ってどうするんだ。気を落ち着けよう。そうだ、落ち着けるためにあの醤油を舐めよう。ほんのひと舐めだ、それできっと落ち着ける。ほんの一滴、手のひらにとって、そっと、舐める。ああ、幸せだ。うん、もう一滴。もう一滴だけ。ああああ、天国のようだ。もう一滴、いや足りない、一口、いや一杯、いやいや一皿、いやいやいやいや……あれ、もう無い。もう無いぞ。なんで無いんだ。おかしいぞ、なんでペットボトルの中にもう醤油が無いんだよ!!なんでなんだよ!!誰が盗った!!誰が盗ったんだよ!!!返せよ!!!!早く俺に醤油を返せよ!!!!
 ……ああそうか、おふくろだな、おふくろが隠したんだ。そうだ、間違いない。おふくろが隠してるんだ。俺にもう醤油をくれないつもりなんだ。なんだそうか。
 そっちがそういうつもりなら!!!!
 あは、あははははは、あはははははははは、早く出ろ。早く電話に出ろ。ほら、ほら、ほら、ほら!!!

 がちゃり

「おふくろ!!俺の醤油早くよこせよ!!」
『………………』
「醤油だよ、醤油!!」
『………………』
「聞こえてるんだろ!!無視してんじゃねえよ!!」
『………………』
「俺の醤油、どこにやったんだよ!!」
『………………』
「黙ってちゃわかんねえよ!!答えろよ!!」
 ざり、と、受話器の向こうで音がした。まるで回線に砂でも入り込んだかのような、異質な雑音が、届いた。
『ショウユ……』
 ざりざりという雑音が混じりながら、途切れ途切れに、遠い声が聞こえる。
「そうだよ!醤油だよ!!俺の所に送っただろ!!」
『オクッタ……ヨ……』
「だからそれどこに隠したんだよ!!見当たらないんだよ!!おふくろが隠したんだろ!!」
『……ショウユ……』
「そうだよ、醤油だ!くっそ、ふざけんなよ」
『…………ショウユ……』
「なんだよなに言ってんだかよく聞こえねえよ」
『………………ショウユ……』
「だから醤油がなんなんだよ!!どこにやったかだけ言えよ!!」
『………………』
 ふつりと沈黙が訪れ、俺は、ふと我に返る。な、なんだ、これ。なにやってんだ俺。高鳴る鼓動と、額を流れ落ちる汗。荒くなった息を落ち着け、受話器の向こうに意識を向ける。きっとおふくろも困惑してることだろう。謝らなきゃ、と思った瞬間。
『…………オイシカッタ?』
 耳慣れない声が受話器の向こうから届いた。
 誰だ、コイツ。
 今の今まで感情が高ぶってたから気付かなかったが、何か、妙だ。大体、俺のあんだけの激昂を受けて、この対応。混線しているのかも知れないが、だからと言って俺のあの感情の爆発に気付いてないはずがない。
『…………オイシカッタ?』
 受話器の向こうの声はまったく同じ質問を繰り返す。
『…………オイシカッタ?』
 まるで壊れた機械のように。
『…………オイシカッタ?』
 その言葉だけを。
『…………オイシカッタ?』
 延々と。
『…………オイシカッタ?』
『…………オイシカッタ?』
『…………オイシカッタ?』
『…………オイシカッタ?』
『…………オイシカッタ?』
『…………オイシカッタ?』
「――お前、誰だよ」

 がちゃん

 唐突に、電話は切れた。
 反射的にリダイアルボタンを押していた。不安だった。何が起きたのか分からなかった。ただただ声が聞きたかった。掛け直せば混線も直っていると信じた。でも、何度呼び出し音が鳴っても、相手が出る気配はない。
 呼び出しが10を超え、20に届こうかという時、不意にがちゃりと受話器が持ち上がった。

『はい、もしもし……』
「お、おふくろっ?」
『なあに、あんたどうしたの急に電話してくるなんて』
「なんで出なかったんだよ!それから、さっきなんでいきなり切ったんだよ!」
『な、なんのこと?わたしはさっき買い物から帰って来たところなんだけど』
「…………え?」
 何を言っているのか分からなかった。じゃあさっき電話に出たのはいったい誰なんだ。頭の中身がぐるぐると回りだし、俺はへたり込みそうになった。
「ウ、ウソだろ。だってほら、さっき醤油の話で……」
『醤油?ああ、あの美味しいよーって教えたヤツ?』
「そう、それだよ!!」
『次の荷物送る時に一緒に送ってやるって言ったでしょ。それともなに、今すぐに欲しいの?』
「…………え?」
 俺は腰が砕けてしゃがみ込んだ。
『え、じゃないよ。あんたこないだ電話した時、あんまり興味なさそうだったし、次の時にでも気が向いたら送ってやろうかねって言ったでしょ。忘れたの?』
「じゃ、じゃあ、今回は醤油は……」
『送ってないよ』

 それで、醤油、要るの?要らないの?と訊くおふくろに、俺はずっと要らないとだけ答え、受話器を置いた。

[了]


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