最終電車

 がたん、がたん、がたん、がたん――

 等間隔に響くレールの音と、無感情に体を揺らす振動。
 年の暮れも押し迫ったこの時期、誰も彼もが遅くまでせわしなく働き、疲れ切ってこの電車で帰宅の途につく。一個上の先輩たちも、その前借りとでもいうわけでもないだろうに、人生における大勝負の一つに万全の準備で臨むべく、こんな日まで朝から晩まで参考書とにらめっこしているはずだ。
 その点、まだ俺たちは気楽なもので、動物虐待を生業とする赤服白ヒゲの不法侵入者を幻想の世界に叩き出して、スーツにネクタイの我が家の屋台骨からもらった現実的な夢溢れるプレゼント――具体的には数枚の紙幣――を社会に還元すべく、友人とつるんで街中に繰り出したりしていたわけだ。
 特に目的もなく駅前をぶらつき、デパートを徘徊し、マックで腹ごしらえをし、電器屋をひやかし、服屋を巡って、アクセサリー屋を覗く。コンビニで立ち読み、B級映画をバカ笑いしながら鑑賞、ファミレスで適当に腹を満たし、ゲーセンで時間を潰す。
 とまあ、そんな下らなくも充実した一日を過ごしたのはいいものの、気が付くともういい加減遅い時間で、慌てて家に電話してから電車に飛び乗ったのはもう数時間で日付が変わろうかという頃だった。
 我が家は実は、郊外と呼んでも差し支えない土地に位置する。その上、何の因果かローカル線の接続が悪く、しかも家に一番近い駅が終点というなかなか理不尽に社会的ハンデを背負わされまくった場所だ。そんなわけで、俺は飛び込んだ車内で、必要に迫られて頭に叩き込んだ時刻表と、現在の時刻とを照らし合わせて、何とか終電で家に帰り着けるかと、俺は安堵の息を漏らした。

 時折カーブに揺れながら、レールの上をひた走ること数十分。

 一緒に乗っていた友人たちはもういくつも前の駅で降りており、俺は一人、寂れた駅に降り立った。ここで乗り換えれば、後は家まで一直線だ。俺は、足音高く反対側のホームに渡る。
 足下のタイルで乗り降り口を確かめ、視線を前に転じた瞬間、ふいに背筋にぞくりと寒気が走る。師走、しかももう深夜に近い。そりゃあ、冷えようというものだ。
 視界の端を白いものがかすめて落ちたのに気付き、俺は空を見上げる。なんと、迷惑極まりないことに、雪が舞っている。しかも粉雪どころか、ぼた雪だ。そりゃあ、冷えるわけだ。ぞくぞくとふたたび寒気に体を震わせながら、朝の陽気と興奮にあてられて薄着で出て来たことを思い切り後悔した。
 この乗り換えにはせいぜい10分も待てば良かったはずだ。しかし、今はその待ち時間が、30分にも1時間にも感じられる。両肩を抱えてがちがちと歯を鳴らし、必死に足踏みをしながら電車を待つことしばし。ホームに滑り込んできた電車の乗り降り口にある【開】のボタンを震える指先で何とか押し込み、開くのを待つのももどかしく車内に転がり込む。できるだけ出入り口から遠ざかろうと、車両の中央部まで足早に進み、空席に体を押し込んでようやく人心地ついた。
 車内は暖房が効いており、外とは完全に切り離された別世界だ。窓の外を白く染めていく雪を、もう他人事のように眺めながら、俺はため息をつく。こりゃあ、駅に着いてからも苦労しそうだ。怒られるの覚悟で、家から車で迎えに来てもらった方がいいかもしれない。
 まあいいか、着いてから考えよう、なんて安易な選択肢を選んで、俺は椅子に深く座り直す。古い車両の割にはまだ十分に利いているシートのスプリングが柔らかく俺を受け止め、車内に満ちたぬくもりが俺をあたたかく包み込む。外は酷い有様だったが、この楽園はなかなかに快適だ。
 俺はコートのポケットから愛用のウォークマンを取り出してイヤホンをつけ、スイッチを入れる。耳慣れた流行りのJ−POPが、耳元に届き、俺は軽く伸びをしてから、くつろぎモードに入る。このまま1時間弱も乗っていれば、自動的に終点。気に掛けるべきことはもう何もないわけで、言ってしまえば、眠ってしまっても問題ない。幸い、ウォークマンの電池もそのぐらいはもちそうだ。これで、一人静寂の中、という最悪の事態は避けられたわけだ。
 気が抜けたのか、ふわあと大きなあくびが一つ漏れ、俺は疲れていることを自覚した。そりゃ丸一日うろついていればそうなるだろう。まあ、いい。後は家に帰って、風呂にでも入って寝るだけだ。
 手持ち無沙汰になった俺は、今日の戦利品を確かめるべく、手に提げていた袋を漁り始める。幸い元より人の少ないローカル線だし、時間のこともあり、この車両に乗っているのは俺一人。座席を少々占有したところで文句は出ないだろう。
 袋から新しく買ったサイフだとか、アクセサリーだとか、ゲームソフトだとかを並べてはいちいち悦にいる。
 これを選ぶ時にはずいぶんと悩んだとか、これは頑張って値切ったら半額になってびっくりしたとか、クレーンキャッチャーでこれが取れた時は爆笑したとか、このシリーズは前作が一番面白かったが今回はどうかとか、一人にやにやしながらそんな物思いに耽る。
 そうしてしばらくは時間を潰していたが、そのうちにそれにも飽きてきて、なくさないようにそそくさと袋に詰め直す。
 本当に手持ち無沙汰になってしまった。
 今どの辺だろうかと窓の外を見ると、ちょうど駅から走り出すところで、徐々に早くなる窓の外に終点にほど近い駅の名前を見つけた。もうそんなところか、と思ったその瞬間、視界を何か赤いものが通り過ぎた。
 なんだアレ、と思う間もなく、電車はホームを離れていく。
 そんなにはっきりと確認できたわけじゃなかったが、なんとなく、赤いスーツを着た女の人だったように見えた。
 振り返って見ようにも、電車の中から見える景色の視野角は意外に狭いもので、もう何も見えない。
 気付かなかったが、別の車両にでも乗っていたんだろう。こんなに寒いのに、こんな時間までご苦労なことだなあと嘆息する。その一方で俺は遊びほうけているんだから、世の中とは不公平にできているものだ。俺が言うのもなんだけど。
 ぼんやりと外を眺めつつ、耳元に流れる音楽に合わせて指で調子を取っているうちに、電車は次の駅に着き、そして発車する。終点まではもう10分ほどのはずだ。

 ――え、と思わず声が漏れそうになった。

 今、ホームに、赤いスーツの女の人が、また、立っていた。
 そんな偶然ってあるもんなんだなあ、となんとなく苦笑がこみ上げる。二駅続けて赤いスーツの女の人。赤なんて派手な色のスーツ、着てる人そんなにいないと思うんだが、もしかして制服なんだろうか。いや、ありえないな、そんな非常識な制服。だとしたら、やっぱり偶然なんだろう。
 二駅続けてそんなのがいると、またいそうな気がして、俺は次の駅を発車する時にはホームに目を配り、その姿を探してみることにした。

 ――いた。

 やっぱり赤いスーツの女の人が一人、ホームに立っている。
 今度は目をこらしていたおかげで、ばっちり見えた。赤いパリッとしたスーツ姿で、俯き加減で、長い髪を垂らして、ホームの端に、立って――

 ちょっと、待て。

 そんな偶然って、あるか。
 三駅続けて、赤いスーツの女が立っているだなんて。
 赤いスーツってことは、上にコートも何も着ていないってことだ。こんなぼた雪が降っている真冬の深夜に。
 それだけじゃない、俯いているってことは、電車の方に向かっているってことだ。今、降りたんじゃなく。これは終電だっていうのに乗る気配もなく。
 ぞくり、と、背筋に悪寒が走る。
 いや、あり得なくは、ないだろ。ほら、見送りだって可能性も、ある。
 ――見送りなら、ホームにまで出て来る必要はないだろ。
 いや、できるだけ近くで見送りたかったとか。
 ――なら、手を振るとか何とかあるだろ。
 いや、悲しみとか切なさで顔を上げられなかったとか。
 ――それでも、進行方向に体を向けるぐらいはするだろ。なんで車両に真っ直ぐ頭を下げてるんだよ。
 ぞくぞくといやな寒気が全身を震わせる。まるで暖房が一切効いていないかのように錯覚する。そんなに気になるなら、確かめてみればいい。他の車両に他の客が乗っているかどうかを。そんなことは分かっていたが、できるはずがなかった。
 そうこうする内に電車は次の駅へと滑り込む。そして、発車。真っ直ぐ見ることはできずに、横目でホームを見ていた俺の視界をまたも赤いものが横切る。

 ――いる。間違いなく、いる。

 次も、次も、その次の駅にも、その女は俯いてじっと立っている。
 もう音楽なんて聴いていられる状態じゃなかった。それでも、目を閉じ、両耳をイヤホンの上から押さえ、荷物を抱えて、窓から見えないようにできるだけ体を縮める。音楽だけに意識を集中させる。早く時間だけが過ぎて欲しかった。誰かに助けて欲しかった。何とかなるものなら、それこそ何でもするつもりだった。やがて、耳慣れた車内放送が告げる。『間もなく××〜、××〜。その次は終点、△△です』あと一駅『発車します』徐々に駅を離れていく電車の中で、俺はおそるおそる顔を上げて、そっとホームに視線を送る。

 ――え?

 一瞬見間違いかと思った。見落としただけかと思った。
 しかし、その駅のホームに、その女は、いなかった。
 俺は知らずに詰めていた息を思い切り吐き出した。
 全身が弛緩する。
 なんとも酷い偶然があったもんだ。
 独り相撲とは言え、結構怖かったぞ、いやマジで。
 緊張から解放されたせいか、なんとも理由の分からない笑いがこみ上げ、俺は一人座席の上で体を震わせる。
 ひとしきり笑ったところで、さて、そろそろ着く頃か、と俺は腕時計で時刻を確認する。

 ――ブツッ

 折しも、ウォークマンの電池が切れ、静寂がその場を支配するその一瞬。

「――見てたでしょ」

 耳元で誰かが囁き、俺を乗せた電車は終点のホームへと滑り込んで行った。

[了]


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