家庭菜園

 ――たしか、妻がいなくなったのも、こんなやけに蒸し暑い日のことだったように思う。

 余りの蒸し暑さと寝苦しさに、僅かな涼を求めて一晩中畳の上を転げ回った末、明け方近くになって漸く瞼の重さが、渋々と睡魔に白旗を揚げた。そういった訳で、俺はぎらぎらとくっきりはっきり照り輝く太陽とは対照的に、眠るとも起きるともなくまどろみの縁を曖昧にたゆたっていた。
 これでもう三日になる。
 皮膚にまとわりつく湿気は未だいささかも衰えず、むしろ強く当たり始めた、昇りつつある日のおかげで意識は覚醒へと向かわされるのが通常なのだろう。だが、三晩も禄に眠れぬ夜が続けば、おのずと体力もその極限を迎える。従って、俺は熱に浮かされているのか、それとも眠りに沈んでいるのか、それすらも分からぬまま、ともかく茫洋と畳の上に寝転がっていた。
 目の前には縁側。その向こうに板塀が見えるが、そのさらに外はもう夏の日差しの中に溶け、俺の目に映るものは何一つ無い。ゆらゆらと立ち上る陽炎だけが、そこにまだ世界が続いていることを朧気に告げていた。
 いや、陽炎のベールを一枚隔てたその外側に、本当に世界が在るのかどうかなんて、今の俺には確かめる術がない。だから、もしかすると、この冷房も扇風機もない、広いだけが取り柄の一軒家を残して、世界は全部溶けてしまっているのかも知れないのだ。
 思考すらも真っ白に塗り潰す夏の日に、俺は眩々と眩暈を覚える。いかんせん寝不足の頭は一向に働いてはくれないのだ。そうなると、呆っと眺めるともなく外を眺めること以外できることなど、俺には何一つ無いのである。
 この家と同じく図体ばかりが無駄にでかく、実のところその体を活かすこともできず、何とかかんとか文章を捏ね繰り回してやっと糊口を凌いでいる程度なのが、この俺だ。唯一の、取り柄とも言えない、冴えない頭が働かないのであれば、俺はその存在自体が既に無意味と言わざるを得ない。
 また、うつらうつらと眠りの縁に沈みかけた俺の意識に、小さく、カタンと鳴る音が波紋を投げかけた。どうやらこの家より外の世界は、まだ溶けて無くなり切ってはいなかったようである。俺はよく知っている。この音は、玄関に郵便物が届いた音だ。
 起き上がるのも億劫だったが、時として急を要するものが含まれていることもあり、決して侮れないのが我が家に届く手紙である。俺は胡乱な頭を振りながらのそりと立ち上がる。
 そういえば、今日は編集者が原稿を受け取りに来る日だったのではなかったか。約束は午後だったように思うが、いかんせん俺の頭は一切働いていないのだから、確証はない。また今日手渡すべき原稿など一枡も埋めてはいないのだから、その言い訳なども考えておかねばなるまい。
 宙を踏むような心地で玄関にたどり着くと、果たして下駄の上に数葉の葉書が散乱していた。それを一つ一つ丁寧に拾い上げ、内容を確認する。電気料金、ガス料金、水道料金、暑中見舞い――面白くもない葉書を拾い終え、ふと顔を上げると、玄関の磨りガラスに人影が在るのに気付いた。
 誰だろうか。背格好から考えるに、子どものようである。さて、近所の子か。いったい何の用であろうか。
 誰か、何用か、と問い掛ける俺の言葉に返ってくるものは、何一つ無い。
 無視してくれようかとも一瞬だけ考えたが、まあ良いと思い返す。木陰か何かが磨りガラスに映り込んでいるだけかも知れぬ。だが、試しに開けてみても罰は当たるまい。
 カチャンと錠を外し、建て付けの悪い扉をガラガラと開く。そこには、年端もいかぬ少年が一人、立っていた。
 俺はその少年をよく知っていた。近くに住んでいた、妻がまだ家にいた当時から、よく遊びに来ていた彼は、何も言わずにじっと俺を見つめる。
 どうした、ケンジ。そんなにぐっしょり濡れて。それは汗か、それとも通り雨にでも降られたか。
 そう、尋ねようとして、ふと脳裏に『海』という単語が浮かぶ。そうか、そう言えば、もうそんな季節か。海ならば、仕方がなかろう。
 上がって行くかと尋ねると、ケンジは小さく頷いて、勝手知ったる我が家の庭へと外回りに駆けて行った。俺はのそのそと、拾い上げた葉書の束を抱えて、家の中を庭へと進む。先ほどまで転がっていた和室に戻り、葉書を机の上に放り投げると、縁側へと視線をやる。ケンジは既にそこに腰掛けていた。
 足をぶらぶらとさせるケンジの隣にあぐらをかき、俺も見るともなしに庭を眺める。
 手狭な庭だが、持てるだけマシなのだろう。庭の隅には小さな物置、その後ろから続く板塀に沿って、いくつかの赤や緑。小さな家庭菜園が、そこに在った。
 日当たり良好とは言い難いが、よほど庭土の栄養状態が良かったのだろう。決して大きくはないが、瑞々しさがぎゅうっと凝縮されたような小降りのトマトやキュウリが、日差しになど負けはせぬとばかりに精一杯夏を歌っている。その足下には人の頭ほどの西瓜もいくつか転がっている。近所にも見事だと評判で、乞われていくらかお裾分けしたことも一度や二度ではない。
 正直、特別な意図を持って、始めようとしたわけではなかった。別に家庭菜園なども興味はなかったし、植物を育てるなどということは、生来ずぼらな俺には夢のまた夢、不可能な絵空事に違いない、などと思っていた。
 だから、半ば妻のためのように始めたこの家庭菜園が、このような評価を受けるに至るとは、世の中分からないものである。
 妻がいなくなってからは、余り家を離れる気になれなかった。それ故に、手持ち無沙汰な時間を何とか埋めようと、家庭菜園に割く時間が増えた。それが良かったのかも知れぬ。などと、最近になって思う。
 ふと、ケンジの視線がその菜園の隣に止まった。そこには、小さな盛り土がある。その上には、木片が一枚、立っている。
 シロか、と誰にともなく呟いた俺に、ケンジは小さく頷き返す。
 家庭菜園の隣には、我が家で昔飼っていた犬が眠っている。
 あれは、もう、二年ほど前になるのか。
 その当時の俺は、就職して約一年。職場の業務にもようやく慣れてきた頃だった。
 ある朝、目を覚ました俺は、自分の体が動かないことに気付いた。いや、動かないなどという生やさしい状態ではない。起き上がろうとしてもガンガンと鳴り響く頭と、こみ上げる吐き気に、声さえも出せないような状態であることに気付いたのだ。最初は風邪でもひいたのかと思い、妻に会社の方に連絡を入れてもらい、休暇を願い出た。これまで休みらしい休みを取っていなかったことを鑑みたのか、会社からの許可は思ったよりあっけなく降りた。
 そしてその日の昼には、朝の症状が嘘であったかのように、けろりと完治している俺がいた。
 俺は安堵した。明日からまた仕事に戻れるだろうと。
 ところが翌朝、俺は再び耐え難い頭痛と嘔吐感に襲われ、立ち上がることすらできなくなっていた。妻は会社に連絡を入れてくれ、会社の方も大事を取れともう一日休みをくれた。俺は感謝し、早く治そうと努めた。昼にはもう良くなっていたが、昨日のように無理に立ち歩くこともせず、布団の中でじっとしていた。妻も気を遣って、極力邪魔をしないようにしてくれた。
 しかし、この症状は一週間続いた。
 一週間が過ぎ、さすがにおかしいと病院へと出向いた俺に、医者はこう宣告した。
 曰く、これは精神的な疾患であるから、治療の仕様がない、と。
 俺はその日、病院からどのように帰り、妻とどのような会話をし、そしてどのように床に就いたのか、まったく記憶にない。
 悪い事とは重なるもので、翌朝、俺は家の庭で血まみれになって死んでいるシロを見つけた。おそらく、夜中の内にタチの悪い連中に、遊び半分に叩き殺されたのだろう。
 その当時から我が家に遊びに来ていたケンジは、シロの死に酷く落胆したものだった。
 そしてシロを庭に埋めている最中の俺に、会社から電話があった。内容は、俺を全ての企画から外すとの通達。それは、事実上の解雇通知であった。
「――シロは」
 ぽつりと、ケンジが、呟く。質素な墓標を見つめながら。
「――元気だよ」
 そうか、と、俺は返す。ケンジがそう言うのなら、そうなのだろう。ケンジは小さく頷く。
「元気に、走り回ってるよ」
 そうかもな、そうだろうな、と俺は返す。
 向こうでは、どうだ、と尋ねた俺に、ケンジは、別に、とだけ答えた。あまり変わらない、ということなのだろうか。
 ケンジは視線を家庭菜園に移す。
 そして呟く。
「――美智子おばさんも」
 ケンジは俺の妻を美智子おばさんと呼ぶ。美智子もケンジのことを気に入っており、何かにつけ家に呼んでいたから、ケンジは我が家のことをよく知っている。三年前にシロが死んだことは当然。その後、職を失った俺が荒れに荒れて、美智子に酷く八つ当たりしていたことも、誰も面と向かって教えてはいないが、知っているのだ。
「それなりに、元気みたいだったよ」
 そうか、と俺は返し、さらに、何か言っていたかと尋ねる。ケンジはまた、別にと答えた。でも、近い内にこっちに来るかもね、と、小さく告げる。
 俺は、特に感慨も浮かばない自分に軽く驚きながらも、そうか、と返した。
 二人でじっと、家庭菜園を見つめる。
 じーわじーわと鳴く蝉の声が、辺りを満たす。
 ぎらぎらと輝く日の光だけが、全てを塗り潰す。
 ふと、一陣の旋じ風。
 部屋の中に吹き込み、玄関から持って来たばかりの葉書の束を吹き飛ばす。
 その一枚が俺のすぐそばに舞い降り、何の気なしに拾い上げた俺は、そう言えばと言葉を続ける。
「ケンジ、お前の一周忌って……」
 顔を上げたその先には、もう誰もいなかった。
 手の中の葉書は、去年の夏、海で溺れ死んだケンジの一周忌の期日を知らせていた。
 俺は、夏の日の中にぽつりと佇む家庭菜園に、さっきまでのケンジがやっていたように、黙って視線を戻した。

 ――たしか、妻がいなくなったのも、こんなやけに蒸し暑い日のことだったように思う。

[了]


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