事の起こりは、私が小学校に入学した日のことだった。
「ねぇ」
私の隣の席に座っていた女の子が話し掛けてきたのだ。
「……なに?」
私は、きょろきょろとまわりを見回して、私に話し掛けたんだということを確認してから小さな声で返事をした。
私は、元来人見知りをするほうで、加えて、遠くからこの小学校に入ってきたから知った顔がなくて、緊張していたから。
「鉛筆」
「え?」
いきなりわけのわからないことを言われて、私は戸惑った。
それなのに、彼女はわかってないの?とでも言いたげな表情をして、もう一度、
「だから、鉛筆」
と言った。
「えと……鉛筆、貸してほしいの?」
「ちがう」
ふるふると頭を振って彼女は、足元を指差した。
「鉛筆が落ちてるの」
「え?あ……」
私は、自分の足元を覗き込んで、はじめてその鉛筆を見つけた。
それは可愛い花柄の鉛筆で、まだ新しいらしく、削りたてで長かった。鉛筆の先も綺麗に尖っていて、これからこの鉛筆を使うであろう人をじっと待っているようだった。
「それ、あなたの?」
「え?」
「だから、その鉛筆、あなたのもの?」
「ち、ちがう」
ぶんぶんと私は首を振った。こんな可愛い鉛筆だったら、私は絶対に落としたりしない。筆箱の奥にしまって、決して使わないと思う。
「そうなの」
彼女はちょこんと首をかしげて、
「それなら、私がもらっていいかなあ」
と言った。
「え、あ……いいのかな」
「だって、誰のだかわからないんだよ?」
「誰のだかわからないから、ダメなんじゃないかな」
「あ、そうか」
ぽんと手を打って、彼女はにっこりと笑った。
「それもそうだね」
「うん……」
私はうなずいて見せた。
「ねぇ」
彼女は、もう一度話し掛けてきた。
「な、なに?」
私が返事をすると、彼女は落ちた鉛筆を見ながらこう言った。
「その鉛筆、可愛いと思わない?」
「え、あ、うん」
「あ、やっぱり?私もそう思う」
彼女は嬉しそうにそういうと、ごそごそと筆箱の中をあさり始めた。
何を始めたのかと思ってみていると、すぐに見つかったらしく、何かを取り出して私に差し出した。
「はい、あげる」
「え?」
反射的に受け取ったそれは、私の足元に落ちている鉛筆と全く同じ物だった。
「これ?」
「うん、あげる」
「あ、ありがとう」
私がお礼を言うと、彼女はまたにっこりと笑った。
さっきからずっと思っていたんだけど、彼女の笑顔はとっても明るくて、私まで優しい気持ちになりそうな雰囲気がある。元気の素をもらってるという感じで、ふんわりと暖かくなる。
「あ、ちょっと待って」
ふと思いついて私がそう言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
私は自分の筆箱をひっくり返してみた。
そしたら、すぐに見つかった。
私が探していたのは、鉛筆。
それは、動物の絵が描いてある鉛筆で、その動物たちはとっても楽しそうに一列に並んで歩いていた。おしゃべりをしたり、何かを食べたりしながら。
「はい、お礼」
「え?くれるの?」
「うん」
「ありがとう」
今度は彼女がお礼を言った。
そして、にっこり。
心の底から嬉しそうにしてくれたので、私も嬉しくなった。
「それじゃあ、落ちてる鉛筆は先生にわたしてこよう」
私がそう言うと、彼女も賛成してくれた。
「うん、そうだね。私のと一緒にしてあげようかとも思ったけど、きっとそっちのほうがいいと思う」
そして、私たちは二人並んでその鉛筆を教卓に立つ先生のところに持っていった。
「ところで、私はフラウニー=バーレット。あなたは?」
彼女にそう訊かれて、私もにっこりと笑い返しながらこう言った。
「私は、カレン=ウッドストーク。よろしくね」
「うん、よろしく」
これが、私とフラウとの出会いだった。
そして、大学生に私にとってそれはもう十四年も前の話……
「カレン、カレン=ウッドストーク」
「は、はいっ」
呼ばれて、私は驚いて返事をした。ついでに勢いで立ち上がる。
しまった。講義中なのにぼんやりとしていた。
たとえ温和で優しいと評判のクラワルド先生の講義だとしても、それは何の助けにもならない。完全に私の落ち度だ。
「すみません、少し考え事をしてました」
素直に謝っておく。
ぺこりと頭を下げてから顔をあげると、クラワルド先生は不思議そうな表情をしていた。
「別に謝ることはありませんよ?もう講義は終わりましたから。ただ、みんなが帰ってしまったのにキミが一人で残っているから少し気になって」
余計なおせっかいでしたか?と訊いてくるので、慌てて周りを確かめる。
なるほど、だれもいない。
「お、おせっかいだなんて、そんな。とんでもありません」
ぶんぶんと片手を振って、ノートとテキストをまとめて鞄に詰める。
「ご心配をおかけしました。それじゃ、私は行きますね」
気まずくて、大急ぎでそう言ってから講義室を出ようとした私に、後ろから声がかかった。
「カレン、何か悩み事でもあるんですか?」
「え?」
驚いて振り返る。
そんなに思いつめた表情でもしていただろうか。
「え、いえ、そんな、ご心配には及びません」
と、謝意を示して会釈する。
「そうですか……」
ところが、クラワルド先生はそう言って、何事か考え込み始めた。
自然と私もその場を離れ難くなって、立ち尽くす。
しばしの沈黙の後、私がそろそろ行こうかと、その旨を伝える決心をしたその時、見計らったようにクラワルド先生が口を開いた。
「カレン、今日はこれからヒマですか?」
「はい?」
予想外のセリフに、私の思考が停止する。
「いえ、用事があるのなら、それはそれでかまわないのですが。どうですか?」
「え、ええと、今日はこの後の講義はありませんが、理由をお聞きしてよろしいでしょうか?」
そう訊ねた瞬間に、なんとなくイヤな予感はしていた。
そんな私の心を知るはずもなく、クラワルド先生は『あ、そうか』とつぶやいてからゆっくりとうなずいた。
「キミはこのキャンパスのカフェテリアを知っているでしょう?」
「はい」
「では、そのカフェテリアの裏メニューというものを知っていますか?」
「……まあ、それなりには」
確かにこの大学にあるセルフサービスのカフェには裏メニューと呼ばれる、メニューに載っていない品物がある。
私が噂で知る限りでそれは三つ。
一つ目は“カレーあんみつ”。あんみつとは、日本の甘味の一つなんだそうで、カレーとは言うまでもなくインド出身の有名な料理だ。ただし、それらを組み合わせたそれがおいしいのかどうかと訊かれると、私は食べたことがないからわからない。両方を別々に食べてみた感想から言うと、おいしくなさそうだと思うけど。
二つ目は“コーヒースープ”。スープのコンソメだしの代わりにコーヒー豆を煎って砕いたものを使っているとかいう噂で、それ以外は完全にコンソメスープと同じ。つまり人参やキャベツやたまねぎが入っているわけだ。コーヒー豆はブラジル産の高い豆だとかで、カフェで出すコーヒーと名のつくものの中で最も高級なんだという話を聞いたことがある。それに意味があるのかというのは、はなはだ疑問だけど。
三つ目は“バケツパフェ”。と言っても、バケツが入っているわけじゃない。バケツに入ってるけど。これは、比較的まともなメニューでただただサイズが大きいというだけのもの。そう考えて挑戦した人は後を絶たないらしいけど、結局成功した人の話を聞いたことはない。何しろ、普通のパフェを想像してもらえばわかるように、バケツの半分近くはアイスクリームなんだから。一応チョコとフルーツを選べるらしいけど、お勧めはチョコ。もしもフルーツパフェにすると、丸ごとの桃だとかパインだとかバナナだとかリンゴだとかが入っているらしいから。……チョコでも飽きてしまうという欠点があるにはあるんだけど。
噂の域を出ないけど、裏メニューは全部で10近くあって、全部を制覇した人だけに出される究極の裏メニューもあるとか、ないとか。
「それじゃあ、話が早いです」
嬉しそうにクラワルド先生は言う。それだけで、用件はほぼ見当がつく。
一方私は、その聞いた話を思い出しただけでげっそりしていた。それは純粋に裏メニューを食べたくないというだけでなく……
「食べに行きましょう」
「遠慮しておきます」
「……即答しましたね」
先生は残念そうに床を見つめる。
私は予想通りの展開に、ある種の鬱陶しさと疲労を感じていた。できれば放って置いて欲しい――
「おごりますよ?」
「結構です」
「……やっぱり即答しましたね」
予想できたと思うのだけど、先生はいじいじと指先で机をつつく。が、ふと顔を上げてまっすぐ私を見る。何をする気かと見る私に向かってクラワルド先生は『ああ、大丈夫ですよ』とわけのわからないことを言う。私が首を傾げて見せると、
「“ワニワニのレアステーキ・パパイヤソース”は注文しませんから」
もう食べたからですねー。と自慢げに言う。裏メニューの無駄な知識がまた一つ増えてしまった。名前を聞いただけでどんな料理か想像できる辺りが他のメニューに比べて生易しいところだと思うけど、食べたくないことには変わりはない。「ちなみにワニとは日本語でサメのことでもあって、ワニとサメの両方の肉が……」との説明に余計にげっそりしてしまう。このままではいけない。クラワルド先生の独特な空気に飲み込まれてしまう――
「あと、“108プリン”も注文しませんよ」
女の子と一緒に行くんですから。と、さも当然そうに言う。って、108プリン……?
私の不思議そうな視線に気付いたのか、クラワルド先生は「百足と蜘蛛が入ってるんです」とこともなげに言い切った。「脚の数が合計108だからだそうですよ」……それはすでに裏メニューと言うよりただのゲテモノです、先生。
「冗談はさておき、一緒にコーヒーを飲むだけですよ。研究室に女の子がいないから機会がなくって、こういうのって少し新鮮なんです」
ニコニコしながら言う。そのくせ、
「だめですか?」
一転、寂しげな表情で訊ねてくる。
私は一つため息をつく。仕方がない人だなあ、そういうニュアンスで。だからといって了承はしがたいことも、分かってほしい。
「お断り……」
しますとは言えなかった。
言う前に、ぐっと引かれる私の右手。
「そうですね、そうしましょう。そう決めました。どうせ今日はもう講義がないそうですし、ちょっと付き合ってください」
そうまくし立てながらクラワルド先生は私の右手首を掴んで、ぐいぐいと引っ張っていった。
私は危うく体勢を崩して転びかけたが、必死で立て直す。
「ちょっ……やめっ……ころぶっ……まって……くださっ……あああっ……あーーーっ……」
かくして、私は無理やりにカフェテリアへと拉致された。
カフェテリアはピークと時間帯が微妙にずれたのだろう、意外と空いていた。
私たちは大して苦労もせずに、外の良い位置にある席に陣取ることが出来た。木陰ながら決して寒くも薄暗くもない、気持ちのいい木漏れ日の下。穏やかな風のそよぎに、波立ちかけていた心も今は静かに凪を取り戻しつつあるのが分かる。ちょっと悔しい。
クラワルド先生が一つのトレイにアイスティーを二つ乗せて運んできた。
「すみません。お手数をおかけして」
そう私が言うと、先生はいえいえ、と言った。
「私が誘ったんですから、気にしないでください」
皮肉も通じないらしい。
「そういうわけにも……それから、お金は」
「おごりますって言いましたから」
そう言ってそれすらも取り合ってくれない。
それなら、その好意に甘えてしまうことにしよう、と私も覚悟を決める。
大げさかもしれないけど、私にとっておごってもらうというのはそれくらいに重いことなのだ。
他の人にお金を出してもらうということは、とても重大なこと。それは昔、いやというほど思い知らされた。
「そんな表情してたら、せっかくのアイスティーがおいしくなくなりますよ」
また思考の淵に沈みかけた私をクラワルド先生が引きとめる。
そんなことはどうだっていいはずなのに。
それなのに、
「そうですね」
私は、そう返事をしていた。
「そうです。おいしく飲んでくれないと、私もアイスティーも悲しいですよ」
「はい」
めっ、とでも言うように軽くにらんでくる先生に頭を下げる。
最近、調子が狂っている。普段の私ならこういった強引な誘いでも断っただろうし、こんなところに座っていることだってなかっただろう。原因に心当たりはあるけど……
ストローをくるりとグラスの中で回すと氷がカランと音を立てた。
うつむいたまま、上目遣いに先生を見る。
光に透ける金髪。軽くウェーブのかかった柔らかなそれはふんわりと広がり、糸目と呼ばれるくらいに細い瞳は実は琥珀色だということを私は知っていた。
全体的にやせぎすの体つきは明らかに華奢だけど、弱々しい感じは受けない。むしろ、芯が一本通っているのが見えるくらいに、しっかりとしているようにすら思える。着ているスーツこそ高級品ではないけど、何を着てもそれなりに似合ってしまう先生は、きっと自分というものをちゃんと持っているのだろう。こうしてみると、実は格好良い方なのかもしれない。
私の視線に気付いたのか、先生は私のほうを見て首をかしげる。
慌てて私は視線を落とす。
落とした視線が、グラスに映る自分に焦点を合わせる。
そこに映るのは曲面の上の歪な私。でも、私自身のことを考えるとき、私は陰鬱な気分にならざるを得ない。私の心はグラスに映る顔のように、いびつに歪んでいるんだろうと思える――
「先生、犬って好きですか?」
沈黙に耐え切れなくなったのか、唐突に、そんな言葉が口をついて出た。
「犬……ですか?」
戸惑うように、先生は私の口にした単語を繰り返す。
しかし、その言葉に一番驚いていたのは私自身だった。どうして私はこんなことを話し始めようとしているんだろう――
私は返事を待たずに、半ば無意識にこう続ける。
「私は……嫌いです」
「なぜです?」
「犬は、私に懐くから」
「懐くから?」
「お節介に、私を一人にしてくれないから。どこにでも首を突っ込みたがって、要らない物まで掘り返してしまうから。隠したはずの、見つからないはずのものまで丁寧に探し出して、私のところに持って来るから」
だから……嫌いです。
そう、言う。
「何を隠したんですか?」
「え?」
冷静に、淡々と訊ねるその声に私は反射的に疑問を返していた。
「何を隠したかったんですか?何を抱えていたんですか?何を……後悔していたんですか?」
先生は畳み掛けるように質問する。
最初に口を開いてしまったのは私だから、私に逃げ道はないのかもしれなかった。
それでも私は、
「いいえ、特に意味はありません。ただの世間話です」
それ以上話すつもりはなかった。
忘れてはいけない。私が私に課したはずの戒律を。
「何を、裏切ったんですか?」
「っ!?」
唐突なクラワルド先生の一言。それに私は身体を震わせる。
まさか、知っているはずがない。わかるはずがない。そう、それは思い過ごし。先生のあてずっぽう――
「そうやって、誰とも関わらないつもりですか?」
「っ!!?」
「自分の殻の中に閉じこもって」
「……先生には関係ないことのはずです」
「“一方的に関係を切らないでください”」
何気ない一言のはず。そこには作為的なものは何ら存在しないはず。何も含意はないはず――
それでも、私の心にとってその一言は受け止めるにはあまりに大きすぎた。
「私は、貴女の心配をしています。私はあなたの講義を担当する教官の一人です。それだけでは不十分ですか?」
「わざわざプライベートなことを語る必要はない関係だと思います」
「語る気がないのなら、どうしてカフェテリアにまでついて来たのですか?」
「それは……先生が無理やり」
「手を振りほどくことはできたはずです。大声を出すことだって、その前に逃げることだってできたはずです。違いますか?」
「う……っ」
それは……その通りだった。
実際に、それは今からでも遅くはない。アイスティーの代金をテーブルに叩きつけて走り去ればいい。そうすれば、私はこれ以上話す必要はなくなるし、これからも平穏な暮らしを続けられるだろう。次回からのクラワルド先生の講義は見つからないように隅に座って、見つからないようにさっさと帰ってしまえばいい。それだけでいいのに。
それなのに、私は何もできずに黙って座り込んでいた。
私は混乱していた。
それもこれも全部、あの犬のせいだ。あの犬が要らないことをしたせいで、私はペースを崩している。
この崩れたペースはなかなか元には戻せない。それなら、逆に話してしまってすっきりしてしまった方がいいのかもしれない。
いつもなら決して考えないような、そんな案が浮かぶ。そして、それは今の私にはあまりに魅力的だった。心の平穏のためなら、まずは全てを告白して、全てを壊してしまって、一から作り直したほうがいいのかもしれない。ほら、昔からそうじゃない。イエス=キリストのまします教会では、罪の懺悔に来る人が後を絶たない。懺悔してしまえば全てはなかったことに。そして新たな一歩を踏み出せるに違いない。Amen。
私はなかばそれにすがるような想いで、半ば無意識の内で口を開いていた。
「私は幼いころ、友人を裏切りました」
そう言ってから、まるで走馬灯のようにその頃の思い出が次から次へとよみがえる。
そう、私は友人を裏切ってしまった。
私の親友だったはずの彼女を。
フラウニー=バーレットを。
いまさら何を言っても、ただの言い訳になってしまう。
「私は、絶対に裏切ってはいけないはずの友人を裏切ってしまったんです」
自分のセリフが、自分の古傷を抉る。だけど、もうとめられない。
「その人は、私の小学校時代からの親友でした。けれど、私たちが中学生になってから、彼女はいじめられ始めたんです」
理由は、ほんの些細なこと。フラウが体育祭実行委員になった。そしてそれが、“名家”とあだ名されていた女の子の機嫌を損ねたという、ただそれだけの。
そのいじめは陰湿なものから明らかな暴力まで多種多様で、尽きることなく続いた。二年生になっても。
「私は、どんなときも彼女の味方でいなくてはいけなかったのに、私は彼女を裏切りました」
“メイカ”は、地元の名家の出を鼻に掛けたイヤな子だったけど、確かにそれだけの力を持った子だった。だから、彼女に目を付けられると、彼女の両親ににらまれると、その町で小さな商店を営む私の両親は商売ができなくなるのは間違いなかった。だけど、そんなことは関係なかった……はずだった。確かに両親が仕事ができなくなると私も困ることになる。だけど、親は親。子どもは子ども。そう思っていたから。
それに、私はフラウの友達だったから。
ただ、私の両親の商店は両親が始めたばかりのものだったから、営業が軌道に乗るまではいろいろなところから借金をしていた。それらを一本化してくれた人が、悪質な金貸しだった。最初の数年はほとんど取り立ててもこなかったけど、今思えばそれが布石。その数年で借金は金利だけで元金の数倍に膨れ上がっていたのだから。ある時を境に掌を返したように酷な取立てが始まった。少しでも期日を遅れると毎晩店の前に押しかけて怒鳴り散らし、シャッターを殴りつけ、金目の物を売り払ってでも金を返せと。
両親も私も、表情がだんだんと暗くなっていった。学校に来た時が私にとって唯一の楽しみだった。それなのに、それも長くは続かなかった。
学校で突然、男の人に声を掛けられた。そして、振り向いた先に見知った顔を見つけたとき、私は絶望した。例の借金取りが学校にまで押しかけてきた。そういうこと。取立人は『子どもをこんな私立の良い学校に通わせる金があるのなら、借金を返せ』と大声でがなりたてた。それこそ学校中に響き渡るくらいの声で。
そのとき、現れたのが“メイカ”だった。『お黙りなさい』と一睨みして、『部外者は立ち入り禁止のはずの校内で、こんな恥知らずな真似をしているのはいったいどこの鉄砲玉ですか?』と言ったかと思うと、『今すぐに出てお行きなさい』とけんもほろろに突き帰した。その場の雰囲気に呑まれたのか、取立人はやけにあっさりと退いた。
そして、資金繰りと悪質な取立てと返済のための新たな借金に四苦八苦していた私の家のすべての借金を、驚くほどの低金利で一本化してくれたのが“メイカ”の家だった。しかも、法外な金利分は支払う必要はないとまで言ってくれて。
結局、“メイカ”の通う学校の中の不祥事と“メイカ”が住む街の品のない借金取りが許せなかっただけなのかもしれない。だけど、両親はそれ以来、口癖のように『ベルベット家には頭が上がらない』と繰り返すようになった。
両親が“ベルベット家には頭が上がらない”のだから、私も“ベルベット家には頭が上がらない”のだ。
だから、私が“メイカ”に頼まれたときも断ることは出来なかった。
やってもいない罪をフラウにかぶせる。その証人に私は選ばれたのだ。私がフラウと最も仲の良い友人だったからこそ、適任だと“メイカ”は考えたらしい。
何より、偶然にせよ衆人の目の前で“メイカ”に助けられた私には選択の余地はなかった。
「私は、カレン=ウッドストークは、彼女の友人の私は、そのときに死にました」
そのときの彼女の表情を、私は一生忘れられないと思う。
全てを失った、虚ろな表情。
悲しいという仮面を貼り付けた、虚無。
そのとき、私は心底後悔した。
フラウが全てを失ったとき、私も一緒に全てを失ったんだと思う。
「でも、私がそのときに死んでしまったのなら、私はいったい誰なんでしょうか」
そして、私が全てを失って、それでも何とか生きていたその間にフラウは全てを取り戻していた。
いつの間にか“メイカ”と仲直りをしていて、そうなった時に裏切り者の私の居場所は、どこにもなかった。
今さら友達面してフラウのところには戻れなかった。
フラウを排斥していた“メイカ”もフラウと仲良くなってしまったから、私はそこにもいらるはずがない。
皮肉だとでも言うべきなのか、あれだけ悩みの種だった“メイカ”とフラウの問題が片付いたせいで、私は完全に居場所を失ってしまったことになる。
ううん、違う。きっと取立人の男が学校に押しかけてきたあの日から、学校は私にとってつらいだけの場所に変わってしまっていたのだと思う。
意味も価値も居場所もそこにはなくて――
かつてカレン=ウッドストークだった私はそこにはいられなくて――
「最初は、悩みました。誰でもない私は、本当にここにいるんでしょうか?いてもいなくてもいいんじゃないでしょうか?どちらでも、変わらないのではないでしょうか?」
――そう、私は、本当にここにいていいのでしょうか?
「なんて、そんな答えの出ないことをずっと考えて、難しい本を読んでみたり、思いつくことを片っ端から紙に書き綴ってみたり。おかげで紙という紙が真っ黒になって、毎日の広告の裏さえも塗りつぶされて、鉛筆という鉛筆がもう使えないくらいに短くなって。それでも答えは出なくて」
ふと顔を上げると、窓の外は夜だったなんてことは珍しくなかった。
真っ暗な夜を映した窓ガラスは、私の顔も映していて。
まっすぐに自分を覗き込む自分自身の視線にすら耐えられなくて、目線を落とす。
手にした、先の丸くなった鉛筆をもう一度削ろうとした瞬間に気がついた。
もう、削れないくらいに短くなってしまったその鉛筆。
そこには見覚えのある“可愛い花柄の模様”が見て取れた。
――初めて友達と呼べる人ができた。
――友達の証に鉛筆を交換した。
――鉛筆を宝物にして、使わずに大切に取っておこうと思っていた。
それなのに、私はこんなことでその鉛筆を使い切ってしまったのだ。
ぽつり、とくしゃくしゃになった広告に涙が落ちた。
これで本当にフラウと友達じゃなくなってしまった気がして。
それなのに、私の唇は弧を描いていた。
両目から涙をこぼしながら、おかしくもないのに自嘲めいた笑いが漏れる。
友達を裏切った私が、それでも友達が欲しいだなんて、何たる皮肉。
私は広告を震える手で広げた。
そして、しわを伸ばしたその隅に小さく一言だけ――
『私はいったい誰なのでしょう?』
−Do you know me?−
誰に宛てるでもなく、そう書き付けた。
私は、私が誰だかわからない。
私は、私がどこにいるのかわからない。
私は、私が生きていていいのかがわからない。
――それなのに、私は今でものうのうと生きている。
そうして、気付いた。
生きていくのは本当に簡単なことだと。
何もしなければいいのだと。
何とも関わらなければ、傷つくことも傷つけることもない。
何もしなくても、人は安楽に生きていける。
でも、それって本当に生きていると言えるの?私がもう死者であると言うのなら、それもふさわしいと思うけど――
そんな思考すら、もうこうなっては意味のないこと。
「それ以来、本当の私を知っている人はいないんです。私はただ呼吸をして、食事をして、学校に通って、夜は眠る。それだけの人形。いてもいなくてもかまわない。私は本心から笑うことも、泣くこともない。でもそれでかまわないと思いました。だから、未練がましい『Do you know me?』の手紙はビンに詰めて山の中に埋めてしまったんです。犬が掘り返すことさえなければ、私はこれからもこのままでいられたのに――」
そう言って、私はスカートのポケットから小さな黄色の小壜を取り出した。
硝子で出来たそれは、薄い黄色で中が透けて見える。
中には、折り畳まれた広告の切れ端。手紙とも呼べない手紙が一枚。
「ですから、この手紙はもう一度埋めてしまおうと思います。そうすれば、私はまた元通りに戻れると思いますから」
そう。私は、その決心がつかなくて、ずっと迷っていた。と言うより、この小壜をどうしたらいいのかわからなくて、ずっと悩んでいた。でも、これで心は決まった。
「話を聞いてくださって、どうもありがとうございました」
私は、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで頭を下げた。
それから、手に持った小壜を何の気なしにテーブルの上にことんと置いた。
その瞬間に冴え渡る頭。まるで話す前の逡巡も混乱も全てが嘘だったとでも言うように。
ふと我に返ってから、少し恥ずかしく思えた。自分の過去を話すだなんて。半分照れたような気持ちで、私は口を開いた。
「聞いてもらうだけで、結構すっきりしますね。ご心配をおかけいたしました。明日からは、いつもどおりの私でお目にかかります」
そして、一礼。
「――それが本当に、できると思っているのですか」
「――え?」
私が驚いて頭を上げると、クラワルド先生はいつになく厳しい瞳で私を見つめていた。まるで私の迷いを見抜いているかのようなその視線に、私はたじろぐ。
「そんなこと本当に出来ると思っているのですか、いえ、はっきりと言いましょうか。それは、無理だと」
重ねて、言う。
「元通りになんてなるわけがない。そんなことは貴女が一番良くわかっているはずでしょう」
「ど、どうしてですかっ!?そんなはず、そんなはずはないですっ!」
私は思わず叫び返していた。それなのに、私の勢いを受け流すようにクラワルド先生は冷静に言葉を紡ぐ。
「埋めてしまえば全てが無かったことにできる。なんて本気で思っているわけではないでしょう?それができるなら、貴女はこんなにも他人との接触を避けるようにはならなかった」
「そ、それは……」
それは……否定できなかった。
「懺悔でも告白でも、過去を清算することはできない。ましてや隠蔽でなど、無理に決まっています。むしろ、過去の過ちを抱えて生きていくだけの覚悟を決め、その手助けを求める懺悔の方が幾分かましでしょう。貴女は表層だけにとらわれすぎている」
「え……」
「人とふれあい、傷つけあうのがそんなに恐ろしいのですか?」
人との関わりを全て絶ってしまうほどに。
押し黙ってしまった私を見つめ、クラワルド先生はふと空に視線を転じた。
「私は、一人の青年を知っています。彼も人との関わりを絶ってしまった人で、彼は他者と付き合うために演技をし続けていました。他者と関わり、傷つけあうことが怖くて、変わってしまうことが怖くて、変わってしまった自分を受け入れてくれないかもしれないことが怖くて、彼は常に演技をし続けていた。けれど、彼は自分を見失うことはなかった。なぜだかわかりますか?」
返事をしない私を気にしてなどいないかのように、クラワルド先生は言葉を続けた。
「人とは、“知られること”で初めて存在できるんですよ。それは“視る”ことでも“聴く”ことでも“話す”ことでも構わない。誰の視界にも入らない、誰の意識にも上らない、誰とも関わりを持たない。それはすでにいないのと同じです。彼は演技という形であっても他者との関わりを完全に断ち切ったわけではなかった。そして、それ以上に、演技をしている自分自身を心の奥底の自分自身が常に見つめ続けていた。結果として演技の自分と奥底の自分のその両方が強化されてしまい、逆にある種、乖離性同一障害にも良く似た症状を見せていましたが。
彼と貴女の大きな違いはそこにあります。
貴女は他者との関わりを完全に断ち切ってしまったのみならず、貴女自身が深く殻に閉じこもってしまっているおかげで貴女の中に貴女は存在しなくなってしまっているんですよ。貴女は自分が誰だかわからないと、自分が生きているのかどうかがわからないと言いましたね?わかるはずがないのです。存在しないものが理解の対象になるはずがないのですから。私の言っている意味、わかりますか?」
残念ながら、私にはよく理解できていた。
“人は知覚されることで初めて存在できる”
それならば、私は確かにいなかったのだろう。確かに、私は私自身に目を向けることすらなく、ひたすらに自分の殻に閉じこもっていたのだから。
最初は確かに、私の居場所がなくなってしまうという事件がきっかけだったのかもしれない。だけどその後、自分の居場所を探すことも、求めることもせずに自分の中に篭もっていったのは全て自分の責任。自分から全てを投げ出し、全てから逃げ出し、全てを諦め、気がついたときにはその“全て”の中に“自分”も入っていたなんて。
私は自分自身を守るつもりで、どんどん自分自身を失くしていっていたんだ。
なんて、皮肉。
「私って、いったい誰なんですか?」
思わず口をついて出た一言に、クラワルド先生は苦笑した。
「今の話の彼も、まったく同じことを訊きました。私は、そのときと同じ答えをかえすしかありません」
そう言って、一拍置く。そして、
「そんなこと、わかるはずが無いでしょう?」
予想通りとも思える言葉。それは、私にとってそれほど衝撃的でもなかった。そう、きっとクラワルド先生ならそう言うと思っていた。
だけど、クラワルド先生はさらに言葉を続けた。
「貴女が誰であるか、貴女が何者であるのか、それを本当の意味で決めることができるのは貴女だけです。
ですが、確かに決してそれだけではない。人は知覚されることで初めて存在できる。ということは、知覚している人の数だけ貴女は存在しているということです。ですからですね……」
そう言って、いたずらっぽく片目をつぶってみせてから、
「私にとって、貴女は大切な教え子の一人です。名前も顔もちゃんと覚えています。道端で会っても間違えずに声をかけられる自信もあります。他の誰でもない貴女が悩んでいるようなら、貴女を誘って気を紛らすために一緒のカフェでお茶会をすることもできます。私はそのための時間も、労力も、お金も惜しいとは思いません。それがたとえ失敗に終わったとしても、誘ったことを後悔することだけは、関わったことを後悔することだけは絶対にしません。貴女は、そういう相手ですよ」
ですが、と先生は続ける。
「結局、貴女が何者であるかを決めるのは貴女以外いません。何者であるか、これから何を為すのか、何を望むのか、それを知っているのは貴女だけなのですから」
「私が誰であるのかは、私が決めるしかない……」
「そうです。……忘れようとしたわけじゃない。けれど、手元においておくにはつらすぎたもの。無邪気な犬が掘り返して持ってきてしまったもの。それは……」
言いながら、クラワルド先生はテーブルの上の黄色い小壜を取り上げて、栓を抜いた。
「貴女の心。貴女が貴女であるために必要な物。違いますか?」
「……」
私は静かに首を縦に振った。
かつて、もう動かすまいと思った私自身の心。
封じられた栓は、今ふたたび開かれた。
ぽつり、とテーブルの上に雫が散った。
そしてまた一つ、私の瞳から頬を伝い、落ちる。
私が心の底から欲しかったもの。
そして一度失ってしまったもの。
かつては持っていたもの。
心を通わせる友人。
存在を許してくれる居場所。
決して私は強いわけじゃない。だけど、傷つくのは怖くない。
本当に怖いのは、もう決して取り戻せないくらいに傷つけてしまうこと。
消えることの無い罪悪感。
そして、手に入れた居場所を失うこと。
途方も無い孤独感。
人なんて、本当に弱い物。
すぐに自分を見失ってしまう。どこにいるのか、足場を無くしてしまう。後悔の渦にとらわれれば、全てを無かったことにしてしまいたいと願う。出会ってしまったことすら後悔してしまう。煌く楽しかった日々も、真っ黒に塗りつぶしてしまう。
だけど、人は支えながらなら生きていける。支え合えるなら、きっとつらい思いでもいつか笑い合える日が来る。
でも、それを選ぶのは自分自身。
逆に、支えることをやめ、一人で何も抱えることなく――全てを抱えている事を選ぶのも自分。
私は――
「ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
今度こそは、選ぶことができそうだった。
間違わないように、私の本当に欲しいものはもうわかったから。
私がどうありたいのか、私は知っているから。
私が誰であるのか、私は教えてもらったから。
自分自身と、そして、クラワルド先生に。
人生を生きる以上、決断は自分でしなければならない。でもそれを支えてくれる人はいる。
疲れたときは、休んでもいい。
元気になれば、進もうと思えれば、それから、また少しずつ歩き出せるはずだから。
私は、もう少しわがままに、自分に正直になることに決めた。
それが、私の決断。
遅すぎたと思う。
なにせ、六年も経ってしまっている。
けれど、どんなに遅くても私はこの胸の痛みをまっすぐに見つめる覚悟を決めた。
そういう、私になると。
私は栓の開かれた小壜をふたたび手に取ると、中から手紙を取り出し、もう一度きれいに畳み直して詰め直し、栓をした。
決意を込めて。
「それじゃあ、アイスティーを頂きしょうか」
私が黄色い小壜をポケットにしまうのを確認して、クラワルド先生はそう言った。
「はい」
私はそう答えて、私も自分のアイスティーに視線を転じる。
「あ」
「どうしました?」
「あ、いえ、なんでもありません」
どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだろう、とおかしくなって私は一人でくすくすと笑い始める。
けど、先生は首を一度傾げただけで、追求しようとはしなかった。
グラスに映った私の顔は歪だったかもしれない。けれど、アイスティーの水面はまっすぐに私を映していたんだ。見方を変えただけで、私はずっとそこにいたんだ、と気付いた。水面の私は、ほんの小さな風で波立って、乱れることもあるかもしれない。けど、いつかはそれも穏やかになるときは来る。私を見失っても、きっといつかもう一度、私を見つけることは出来る。
アイスティーに浮かぶ氷のように、私の心の中の氷は、もう、溶けていた。
[了]
|