木馬(新)

 目を覚ましてみると、見知らぬ場所だった。
「ここ……どこだ……?」
 思わず声に出していた。その瞬間、ずきん、と頭の奥に鈍い痛みが走る。
「んぐっ……」
 呻いて、頭を抱える。そのまま頭痛が治まるのを待って、それからゆっくりと、辺りを見回す。見知らぬ天井に、見知らぬ壁。妙に固い枕も、ベッドも、掛けられた布団にも憶えはない。
「どこ……だ……?」
 誰かに尋ねようにも他に人は見当たらない。仕方なくもう一度自身に問い掛けてみた。言うまでもなく、答は出ない。
 とりあえず、もう一度辺りを見回す。
 どうやらおれは木造の小部屋の中でベッドに寝かされているらしい。枕元にはサイドテーブル。その上の花瓶には名前も知らない花がいくつか。サイドテーブルやおれが寝ているベッドを取り囲むように正体不明の木箱がいくつも積まれていて、それらの向こうに壁が見える。壁には色褪せたカレンダー。持ち主が無精でなければ今はどうやら9月らしい。
 反対へと目を移すと、そこには大きな鏡台が一台。その周りにはやはり木箱が散乱していて、その向こうに壁。斜めに傾いだような窓と、その隣に壁掛け時計が一台。止まっていなければ今は8時を過ぎたばかりのようだ。
 窓の外や、足の方向にある木製のドアの半開きになったその隙間から差し込んでくる光を見るに、どうやら朝らしいと分かる。
「で、おれはどうして……こんなところにいるんだ?」
 こんなところも何も、まずここがどこだか分からない。
 とりあえず、額に手を当てて少し思い起こしてみる。
「ええと、おれは……昨日、何してたんだっけ……?」
 目を閉じて、こめかみをぐりぐりしながら思い出そうとしてみるが、まるで頭に靄でもかかったようにはっきりしない。
「昨日……何をしてた……?……っていうか、今日はいったい何日だ?」
 もしかすると二日酔いとはこんな気分だろうか、何か考えるだけで胸がむかむかするし、視界はなんだかふらふらして定まらないし、頭はぼんやりしてちっとも働いてくれない。
「確か、昨日の夜は……んー、何だっけ……」
 ダメだ、何も出て来ない。飲み過ぎたのかも。おれってこんなに酒に弱かっ……
「んんっ!?」
 はたと思い至った一つの事実に反射的に目を見開いて体を跳ね起こしかけて――
「痛ッ!」
 走った頭痛にそのままベッドに再び倒れた。
 おれはベッドの上で頭を抱える。
 全身を包む倦怠感と疲労に困惑しながら、おれは言葉を吐き出す。
「おれ、酒、飲んだことあるのか?昨日、飲んだのか?強いのか?弱いのか?」
 思い出せない、何一つ。いや、そんなことより――
「っていうか……おれは……いったい……誰なんだっ!?」
 そう。気がつけばおれは、わけもわからぬまま見知らぬベッドの上に寝ていた。
 ぎぎーっとドアがきしむ音におれははっと振り向いた。半開きだったドアを押し開いて、一人の男が入ってきた。黒いゆったりとした服。牧師のローブのようにすら見えるそれをまとったアジア人らしいその男は、人懐こい笑顔をおれに向ける。
「どうやらお気付きのようですね」
「あ……ああ」
 おれの曖昧な返事にも、その男は笑顔を崩さない。
「では、軽い食事でもお持ちしましょうか。食欲はおありですか?」
 おれとさほど歳は違わないように見えるのに、馬鹿に丁寧な口調でそう尋ねられ、おれはまたも曖昧に頷いた。
 どう見ても、病院にも食堂にも見えないこの屋敷の主らしい彼はふむふむと首肯し、それだけで満足したのか部屋を出て行こう踵を返した。
「……すみません。あの……」
 思わず呼び止めていた。
「なんでしょう?」
 笑顔でさらっと返され、逆におれは言葉に詰まる。
 訊こうとしたことは明らかで、訊きたかったことははっきりしているのに、口に出すことが躊躇われる。だから、おれは口の中で、えっと、と呟いたまま次の言葉が継げなくなる。そんなおれの様子を見て、彼は興味深げに目を細めた。
 瞬間、背筋に何か冷たいものが走る。びくりと、身体が震えた。
 光の具合だろう、彼の瞳が、一瞬、琥珀色に見えたなんてのは。だってほら、改めて見る彼は黒髪黒瞳のありふれた姿。
「ここはプリンストン街のウェストストリート35−7番地にある私の自宅、ですよ」
「……え?」
「違いました?」
 笑顔で問い掛ける彼の雰囲気が、さっき感じた妙な恐怖感はただの錯覚だったのだと感じさせた。
「ち、違いません」
 慌てて答えると、彼は笑顔で続けた。
「ああ、ついでに言っておきますけど、あなたと私はこうして顔を合わせるのは初めてで、昨日の夜が初対面です。あなたは昨晩、居酒屋で酔っ払って喧嘩を起こして2、3人掛かりで袋叩きにされて、裏路地の小さな川に投げ込まれたんですよ。幸か不幸か川にはほとんど水がなくて、あなたは溺れることもなく引っかかってましてね、その時ちょうど通り掛かった私が、見捨てるのも忍びなかったのでマイホームにご招待した、と、こういうわけです」
「それは……ええと、どうもありがとうございました。お礼も言わぬままで……失礼しました」
 彼は「いえいえ」と手を振って、「それでは少々お待ち下さい」と、またドアをきしませながら扉の向こうに消えていった。そこでおれは始めて、“おれ自身”についてまだ何の情報も得ていないことに気付いた。
「まぁいいさ、まだ訊ねるくらいの時間はいくらでもあるだろうし」
 それに、彼はこの手のことに慣れているように見えた。
 彼は3、40分してから戻ってきた。その頃にはおれの半分寝惚けていたような頭もだんだん冴えてきた。
「つまり、この頭痛は……二日酔いですかね」
 ベッドに起き上がり、寄ってきた彼にそう問い掛ける。
「いえ、ただの二日酔いではないと思いますよ」
 ところが、彼は湯気の立つお皿を乗せたお盆を持ったままやんわりと否定した。ついでに、ちょっと持っててもらえますかとお盆をおれに手渡し、部屋の隅から机を寄せてくる。
「第一あなた、記憶がないでしょう?いえさっき、『ここはどこ?私は誰?』と仰っていたじゃないですか」
 聞いていないような振りをしてしっかり聞いている。……と言うか、どこから聞いていたんだろう。
 そうこうしているあいだに男はテーブルに布をかぶせ、おれからお盆を受け取ってその上の皿を机に置く。見る間にトーストとコーンスープ、トマトののったシーチキンサラダが並ぶ。最後にバターのビンとナイフ、スプーンを置きながら口を開く。
「きっと川に投げ込まれたときにぶつけた、それから記憶を失ったことの影響。そういったところが主な理由でしょう」
「へぇ、わかるんですか」
 そういうと、「私はコレが仕事ですから」と彼は澄ました顔で言い切った。
「へえ、カウンセラーとか精神科医とかいうヤツですか」
 人は見かけによらない、と重ねて言うと、
「いえ、“記憶掃除屋”もしくは“記憶管理人”“記憶番”などと呼ばれる者です」
 自信たっぷりに断言され、おれは開いた口が塞がらなかった。記憶掃除屋?なんだそれ。
「はい、き・お・く・そ・う・じ・や、です。聞き間違いではありませんよ」
 なんて茶目っ気たっぷりに追い打ちを掛けてくる。
「よろしいですか?ははぁ、信じていらっしゃいませんね、まぁ、身分証明書にもそう書いてあるワケじゃないですし……。かと言って記憶は普通の人の目には見えませんしねぇ」
 ぶつぶつと言い始める。何か変なヤツと関わってしまったらしい。命の恩人らしいんだが、それ自体もよく考えれば定かじゃないわけだし、あまり深入りすべきじゃない……か?
「あ、失礼ですねえ、私は『変なヤツ』じゃないですし、そんなに怪しくないですよ。それから、あなたを川から助け上げたのもそれ以前のいきさつも本当ですよ。酒場のご主人にも確認しましたし。ええと、深入りも何もあなたは記憶が戻るまで当分はここから動けないと思うのでそれは我慢してもらいますけど」
「は?」
 しまった!?気付かないうちに口に出してたんだとしたらそれこそかなりの失礼に当たる。
「いえ、あなたは口に出してはいませんよ。私が読み取っただけです」
 ……この人、心を読むのか?それともおれが顔に出やすいのか?と、一瞬考え込む。
「ああ、今のは無理ですね。思考した瞬間にその語句を忘れてしまうような一時的なのものならすぐに読み取れるんですが、熟考されてしまうと頭の中に残ってしまうので外では読めないんです。ちなみにさっきまでのが記憶の一部なんですが、これで証明になりますか?」
 彼の言葉が正しいならば、無意識に口に出していたのでないならば、おれは、今、自分の考えていたことが言い当てられたことになる。
 そんな常識的に有り得ない事態に半ば呆気にとられる。傍から見ていた人がいたらさぞかし間抜けな顔が、そして少しこわばった顔が観察できただろう。
 彼はふふん、と笑っておれの顔をぴたりと見据える。
「あなたの名前は“マイケル”ですね?」
 おれははっとした。
「そうです!おれは“マイケル=コールストン”です」
 そういった瞬間にするすると記憶が紐解けていく。まるで“マイケル”というキーワードに付属していたように。
「歳は十六!」
 その後を男が続ける。
「誕生日は6月3日」
「血液型はAB型!」
「性格は短気で直情径行」
「むっ」
 なんだかさらっとひどいことをいわれた気がする。
「素直だって言ったんですよ。そんなことより、朝ご飯を早めに食べちゃってください。冷めるとおいしくなくなるので。消化に悪いものはなるたけ避けたつもりですけど、もしかして、食べられないものとかありました?」
「……憶えてません」
「ええ、知ってます」
 澄ました顔でそう言われた。この人、ちょっと性格悪い。
 ……とりあえず用意してもらった朝食に手を付けながら、少し考える。
 今のところ最低限のプロフィールは思い出せたようだ。が、まだ肝心なことは思い出せない。思い出せたのは情報だけで、おれ自身の経歴についてはまったくの闇の中。思い出そうとしても何も出てこない。
「食べてる間に記憶についてもお話しておきましょうか。人間ってモノは、生まれてから全ての物事を覚えてはいられないし、忘れたい記憶というものも確かに存在するんです。そういった忘れられた記憶は人から抜け落ちて、地面に転がっているんですよ。それを回収するのが私の仕事です。
 それを選別して、それが忘れてしまった方がいい記憶であるならば、あるいは持ち主が既に亡くなっている記憶であるならば、こちらで処分させてもらいます。  反対に、それがもし忘れてはならないはずの記憶であった時には、失ってしまった人にこっそり記憶を戻してあげます。絶対に忘れてはいけないはずの大切なことを、例えば幼い頃の約束を忘れてしまっている人に、例えば優しかった両親の思い出を忘れてしまっている人に。ですから、記憶喪失の人がここに運び込まれて来ることもあります。そう、今回のあなたのようにね。
 これが、私が記憶掃除屋、記憶番と呼ばれる所以です。
 ……しかし、残念ながら、今手元にはあなたの記憶だと確証のある記憶はありません。記憶は時によっては持ち主を追ってきますから少しずつ記憶も戻るかも知れませんけど。それから、さっきのように何かキーワードがあれば驚くべきスピードで戻ってくることもありますよ。まあ、焦らず気長に過ごすことですね」
 そうは言うが、おれ、そんなに悠長にしてていいんだろうか。
 と、思うがおれには他に出来ることがあるでなし、仕方なく黙々と目の前の朝食を腹に詰め込む。意外に美味しい。
「……さて、朝御飯も粗方片づいたようですので、そろそろ片付けて、私は仕事に行ってきますので、後をよろしくお願いしますね」
 そう言ってお盆を持ち去り、おれはそのまま一人でその部屋にぽつんと取り残された。
 はっきり言って、そーとー妙な人だった。性別は男、血液型は見た限りA型っぽい、年齢不肖、性格はお節介で理屈っぽい。そしてよく喋る。……よく考えたら名前、あだ名すら知らない。『記憶掃除屋です』と言っていたけど結局どうやってお金を稼いでいるのかは不明。
「ほんっとワケわかんない人だ……」
 怪しいこと限りないが、現状において自分の記憶がないわけで、仮にも記憶掃除屋と名乗るあの男しかあてになる人間はいない。とすると、まずは信用しておくしかなさそうだ。……たとえそれが振りだとしても……。
 などなど、サスペンス気味の考えから今日の夕飯までといったとりとめの無い思考を走らせていたが、気がつくと夕方になっていた。彼は、昼頃に一度戻って二人分の昼食を作った他はずっと外出していた。一方、おれはずっとベッドから動かなかったわけだから、足して二で割るとちょうどいい一日だったのかもしれない。……って、われながらよくわからないことを考えてるな。
 夕食はおれ達二人だけでいただいた。両親兄弟はおろか、他の同居人もいないようだ。そのわりには家が広い。
「いただきます」
 二人で黙々と食べ続ける時間が十数分。不意に彼が口を開いた。
「ああ、そういえばあの君が寝てる部屋、ずいぶんと掃除した憶えがないので夕食の後片づけましょうか」
「あの……ということはおれはその間に溜まったゴミの中に寝てたわけですか……?」
「はい」
「あの……病人……っていうか、まあ、人をそんな所に寝かせてたわけですか……?」
「はい」
「あの……いいんですか?そんなことで……?」
「はい。何か問題でも?」
 きっぱりとうなずかれてしまった。こうなったらもうどうしようもない。良い生活環境を勝ち取るためには、男に泣く泣く同意するしかなかった。
 そして夕食後。
「……いい気なもんだよ。人にいろいろ言いつけやがって。まぁ、命の恩人の言うことだ、手伝ってやらなきゃいけないのはわかってるんだけどさ」
 彼におれは勝手にミスターと名付けた。ムッシューなんかと同じイメージだ。そのミスターは嬉々として箒を掛け、雑巾を掛けている。夕食の後になんと呼べば良いか訊ねたところ、好きなように呼んでいいですよとあっさりと言われ、ミスターという呼び名は気に入られてしまったのだ。おれにしては、歳はあまり変わらないように見えるのに妙に自立していることへの羨望と皮肉を込めたつもりだったのだが……
 一方おれの方は部屋の隅に積み上げられた荷物を一個一個整理しては戸棚にしまっていた。コレが意外と重労働だ。ベッドに寝ている時から気になっていたが、要するに天井まで届くような木箱の山ができているようなものだ。しかし、嫌がらせのように続いた山も、2時間かければほとんど片づいてきた。コレが最後の大箱だ。と一つ残った1m余りの木箱を引っ張り出し、開けてみた。中には……古ぼけた木馬が一つ。ぽつんと取り残されたように入っていた。
 おれはそのまま動きが凍りついた。時間が止まったようだった。何も言えない。何も言わない。何か言いたいけれど……そして最初に口を衝いて出たのは、
「な……何ですか?コレ……?」
「……?」
 ミスターはゆっくりとこちらに歩いてきた。そしておれが指さしているものを見ると、事も無げに
「……木馬……以外の何に見えます?」
 と逆に尋ねた。
「……いや、木馬ですよ木馬。誰が見ても誰に訊いても木馬だと言うでしょうよ。だけどっ、おれが言いたいのは……そうじゃなくて……」
 おれがうまく言えずに口ごもっているとミスターはからかい半分の笑みを浮かべて
「そりゃあ生まれたばかりの赤ん坊や“木馬”という単語を知らない人でもない限り木馬だと言うでしょうね。ええ、わかってますよ。つまり、コレが何となく君の過去に関係がありそうな気がする、というわけでしょう?」
「……っそう、その通りです」
「じゃあ、今日はこの木馬はここに出したままでいいことにしておきます。もう大体片付きましたよね?それじゃ最後に箒で掃いて、今日は遅いからここらへんで寝ることにしましょう。箒もちり取りもゴミ箱も部屋の端です。それでは後よろしく、お休みなさい」
「……は、はぁ。あの……お休みなさい」
 ミスターは終始マイペースでおれにひらひらと手を振って、あくびをしながら部屋から出ていった。
 おれはその晩ベッドからろうそくの火でその木馬をずーっと眺めていた。気がつくと何かを思い出しそうな感じがしていて、気がつくことでそれが逃げてしまったような感じを繰り返し……いつしかおれは眠っていた。

 そうこうするうちに数日が過ぎた。おれはいまだに記憶が戻らないまま、ただただぶらぶらしていた。しかし、なんといってもずっとミスターに迷惑をかけ続けるわけにはいかない。何か手伝えるようなことはないものか思ったおれは、ある日の朝、ミスターが出掛ける前に仕事の手伝いを申し出た。ミスターの返事はこうだった。
「……あぁ、そうですか?それは助かります。なんといいましてもウチは零細企業なもので深刻な人手不足に困っていたんです」
 そう言ってくすっと笑う。彼なりの冗談だったのか。
「それではですね、マイケル、接客業のご経験は?」
「ありません、記憶に」
「そうですよね。大丈夫です。全部教えますから」
 またくすくすと笑う。
「記憶掃除屋業だけだとさすがに食っていけませんので、細々と喫茶店などを営んでいるのです。そこでちょっと働いていただけますか」
「え、わ、分かりました」
「いいお返事です」
 満足そうにミスターは言うけど、いや、ちょっと待って。
「いや、あの、分かりましたけど、それって役に立つんですか?だって、ミスターが営業してる喫茶店なんですよね、バイト代出したらミスターの損になるだけじゃ……」
「なりませんよ」
 あっさりとミスターはそう言う。
「オーナーは別の人なんです。むしろ私が雇われの身です。ですから、マイケルは私の代わりにそこで働いて下さい。私はその間、別の仕事してますから」
「……雇い主兼社員みたいなものですか?」
「まあ、そんなものです」
 なんだかよく分からないが、それで助けになるのならいいか、と思うことにする。あ、ふと思いついた。
「ところで、あの木馬ですけど」
「木馬がどうかしましたか?」
 首をかしげるミスターに、おれは、思わず言いかけた言葉を飲み込む。
 いや、思いついたけど、さすがにこれはいくら何でも非常識じゃないだろうか。
「あの、マイケル、思ったことは全部口に出してみてください。そうでないとこちらも何ともしようが……あの、別に笑ったり馬鹿にしたりしませんし、記憶を戻すためのお手伝いなら何でもしますから、とにかく」
 そう言われて、おれは覚悟を決める。
「あの木馬、持って行っちゃダメですかね」
 ミスターは一瞬ぽかんとした表情を見せた。
「持って行くって、これから働く喫茶店にですか?」
「あ、はい」
 ミスターの目が細められる。
「一応、理由をお訊きしてもよろしいですか?」
 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「え、あの、いや、えっと……」
 思わず、言葉に詰まる。でも、何とか伝えようと、口を開く。
「何日か経ちましたけど、全然記憶戻って来ないですよね、でも、あの木馬だけは何か関係あるような気がして、それで、ここに来てからずっと、見てたんですよ。だから、いきなり近くになくなると何か、落ち着かないというか……」
 言ってから、なんて馬鹿げた理由なのかと我ながらあきれる。
 それなのに、ミスターは笑いもせず、真剣な表情でおれの顔をぴたりと見据えたまま視線を外さない。
 心の奥底まで覗き込まれるようなその力強い目に耐えられなくなって、おれの方が目をそらしかけたその瞬間、
「ええ、いいですよ」
 と、ミスターは了承した。
「そこまで言うということは、もしかするとあなたの過去において……」
「そうなんです!小さい頃、こんな木馬と毎日毎日楽しく遊んだんじゃないかと思うんです!だから、これをできるだけ手元に置いておけばそれだけ早く記憶も戻って来るんじゃないかって!」
 我が意を得たりとまくし立てる。そんなおれを見て、ミスターは複雑な表情で笑った。
「分かりました。向こうには私から話を通しておきます。そういうことで、よろしくお願いしますね」

 ◇

 “メルヴェーダ”という名前のその喫茶店で働くようになって、二ヶ月が過ぎた。
 最初の半月はミスをしてばかりでミスターにも迷惑をかけたが、その内に仕事にも慣れ、ここ一ヶ月は仕事をしながら顔馴染みのお客さんとちょっとした会話を出来るぐらいまでにはなった。
 おれが持って来た木馬は意外に好評で、それ目当てに通ってくる子ども連れもできたぐらいだ。毎朝毎晩ミスターの家と喫茶店とを重たい思いをしながら抱えて移動している甲斐があるというものだ。
 そう誇りを感じるとともに、おれの内心に複雑な思いが芽生えていることに、おれは気付いていた。
 おれは、焦っていたのかもしれない。
 喫茶店での技能の上達に比べて、おれの記憶の回復は遅々として進まなかった。
 だからだろう、最初は、仕事を憶え、こなすことで手一杯だったおかげで気にもならなかったことが、最近やたらと目につくようになってきた。
 木馬目当てで遊びに来る子ども連れが増えたのは、喫茶店としては間違いなく良いことだと思う。
 親がコーヒーや紅茶を飲むのはそれが目的だったとしても、ついてきた子どもがパフェやパンケーキを親にねだり、それがたまに成功すると喫茶店の売り上げに繋がるわけだし、また子どもが木馬に乗りたいとせがむことで親が喫茶店に現れる確率が上がることだって十分期待できる。
 だから、子どもが木馬に触ること、それは絶対的に歓迎すべきことだった。
 それなのに、そんな光景を見るたび、おれの心に言いようのない、やり場のない怒りがこみ上げてくることを、おれは自覚した。
 『それはおれの木馬だ』
 『お前らは触るな』
 『勝手に乗るな』
 『紅茶をこぼすな』
 『クリームのついた手でこするな』
 『ああ、それは、それは、おれの木馬なんだぞ!!』
 このままではいつかどこかで破綻することは分かっていた。それでも、おれは、木馬を置いてくることも、喫茶店に勤めるのを辞めることもできず、ただ黙々とさらに一ヶ月を過ごした。胸の内の思いに蓋をして、押し込めたまま。
 カシャーン、とカップの割れる音がして、おれははっと我に返った。同時に、うわああああん、という子どもの泣き声が耳に届く。
「だ、大丈夫で……」
 音の方に振り向き、言いかけた言葉が、そこで途切れた。
 一目見て、分かった。
「な、何をしているんだっ!!」
 思わず怒鳴っていたが、何をしているもなにもない。木馬に乗って遊んでいた子どもが勢い余って引っ繰り返り、近くのテーブルを蹴り上げて、まだ熱い中身の入っていたティーカップを頭から被ったんだ。つまり、つまり、それは――
 『木馬を引っ繰り返しただけじゃなく、そこに熱い紅茶をぶちまけやがったってことだ!!』
「おれの――」
 理性がダメだと叫んでいた。そんな場合じゃないと喚いていた。やるべきことは他にあると金切り声を上げていた。それでも、止まらなかった。
「おれの木馬に何をしやがったあっ!!」
 怒声を上げて、はっと我に返った。
 あまりの剣幕に、泣いていた子どもも驚きに声を失っている。
「あ、ち、ちが……」
 何が違うというんだろうか。
「あ、ああ……」
 口からは意味のない音だけが漏れる。
「うわああああああああっ!!」
 そしておれには、その場を逃げ出す以外、できることはなかった。

 ◇

 どこをどう走ったものか、気がつくと日はとっぷりと暮れていて、おれはどこともしれない裏路地を一人、とぼとぼと足取り重く歩いていた。向こうから陽気な声を上げる酔っぱらいが近付いてくるのが分かり、ふらつく足で体をかわしたつもりが、どういった弾みか相手の足を引っかけてしまい、そこから揉め事が始まった。
 とにかくひどく酔っ払っていたそいつら二人組は無抵抗でも謝りもしないおれがどうにも気にくわなかったらしく、揃って悪態をつくと、拳を固めておれの腹に打ち込んだ。
 おれは身体を二つに折って地面に倒れた。
 胃液が逆流して喉を焼く。
 口の中にすっぱい味が広がり、つばのつもりで吐き出した液体は黄色かった。
 そんなおれの上から足が降ってきた。二人が両側からおれを蹴り、踏みつけているのだと、すぐに分かった。
 背中と、石畳にぶつかってこすれる両肘、両膝が痛む。
 時間感覚があいまいになっていてよくわからなかったが、何時間続いたのか、それとも何秒間だったのか、背中の衝撃が去り、最後に脇腹に一発食らわして二人は去ったようだった。
 蹴り飛ばされたおれは、壁に背中からぶつかった状態でうめく。
 起き上がろうとした瞬間、背骨を激痛が駆け抜けた。
 おれは立ち上がることもできず、ごみごみした裏道の道端に再び倒れた。何もできないまま薄れる視界の中で、目の前にかじりかけのリンゴが間抜けに転がっているのが見えた。両側は黒いゴミ袋が山のように積まれているのも判った。
『なんだか前にこんなことがあったような……』
 そこまで考えたところで、ここ一ヶ月以上続いていた緊張がプツリと切れたんだろう、オレの視界はブラックアウトしていった……

 ◇

『……ここは……どこだ……?』
『おれは……だれだ……?』
『……おれは……いったい……何者なんだ……?』
『なぁ……教えてくれよ……誰か……』
 気がつけばおれは、見知らぬベッドの上に寝ていた。とりあえず身を起こしてみた。と、全身に痛みが走る。
「痛ッ!」
 おれはベッドの上で丸くなった。が、痛みに気をつけながら慎重に、かつ徐々に背を伸ばしてベッドの背もたれに身を持たせ掛けた。まず、最新型の小さな時計と、小振りの鏡と洗面台が目に入る。視線を巡らせば真四角のアルミ製の窓とスティール製のドアのガラスから光が差し込んでくる。外の様子から考えると、あまり遅くない時間、それでも日が暮れるか暮れないかという夕刻だろう。
 痛みとともに覚醒してきた頭でとりあえず自分が何者か――つまり、ここ数ヶ月間の出来事と“マイケル=コールストン”というおれの名前と――を思い出した。
 きーっとドアがきしむ音におれははっと振り向いた。ドアをきしませながら一人の男が入ってきた。白衣の胸に聴診器。どう見ても医者だ。周りの様子から考えても、ここが病院であることは間違いないらしい。
「お気付きですかな」
 とその男はおれに訊ねた。
「あ……はい」
 おれが返事をすると男は「そうですか、それでは少々お待ちを」と言いながら部屋から出ていこうとした。
「……すみません。あの……ここはどこなんでしょう?……おれは、どうしてここにいるんでしょう……?」
 三ヶ月前と同じような質問を重ねる自分に苦笑しながら、おれはこう訊ねた。まったくわれながら芸がない。しかし、そんなことを知るはずもなく、「プリンストン市立病院の外科病棟ですよ」と医者はこともなげに言った。
「あなたは居酒屋から出てきた酔っ払いと揉めて、路地裏で袋叩きにあったのです。人が倒れていると通報がありましてね、まぁ、向かわせた救急車であなたがこの病院に担ぎ込まれたわけです。担ぎ込まれてからほぼ丸一日経っていますな。そうそう、全身の打撲のほかは、骨にもまったく異常はありません」
「それは……どうもありがとうございました。お世話になりました」
 また同じセリフ。つくづく芸のない自分に嫌気がさす。
 男は「いえいえ、これが仕事ですから」と手を振って、「それではお連れ様お呼びいたしましょう」と、またドアをきしませながら扉の向こうに消えていった。ほどなく――
「マイケル……?」
 再びドアをきしませて現れたのはミスターだった。
「いやあ、おおごとでしたねぇ。いつのまにか私は君の連れにされてしまいましたよ、君には不本意かもしれませんけど」
「ミ、ミスター?」
「うん、いや、何より生きてて良かった」
「……?」
「“記憶掃除屋”をやっていながら、なんとも自分で自分が情けなくなりましたよ。まさかこんなことになるなんて予想もしてませんでした。いや、失態です」
 ミスターは「本当にすみませんね」と深々と頭を下げた。迷惑をかけたのはこちらのほうだというのに……
「ということで、今さらながら君の記憶の混乱かつ不安のモトを取り除くことにしましょう」
 手近にあったパイプ椅子を引き寄せて座るとミスターはそう言った。
「……はぁ」
 おれは曖昧に頷く。というか、そんなことが出来るのならさっさとやってほしかったというのが正直なところだったりする。
「まず、整理しましょうか」
 ミスターは穏やかな笑顔でそう言う。
「マイケル、あなたは三ヶ月より前の記憶が一切ない、間違いないですね」
「間違いないです」
「言語や基本的な生活習慣、常識が欠落していないのはよくある話なので置いときます。それでマイケル、あなたは、木馬に、強烈な執着がある、間違いないですね」
「間違い、ないです」
 肯定するおれに、ミスターは満足げな笑みを浮かべた。
「では、ご自分で、それは何故だと思いますか?」
「え、それは……」
 言いかけて、気付く。
「理由なんて、分かりませんよね。だって、憶えてないんですから」
「推測で十分ですよ。なんでだと“思い”ますか?」
「それは、えっと、たぶん……」
 自信はないが、一つの予想を口にする。
「小さい頃に木馬でよく遊んでいて、だから、じゃないんですか」
「じゃない、と、私は思っています」
 ミスターはきっぱりと言い切った。
「私はね、最初は結構楽観視してたんですよ。今だから包み隠さず言いますが、最初にやってもらった部屋の掃除、あれはわざとです。あの部屋には何かの記憶に結びつく可能性の高い日用品や調度品が、考え得る限り、手に入り得る限り、ありとあらゆる種類取り揃えて置いてあります。ですから、あなたが木馬というキーワードに引っかかってくれた時、これは記憶を、過去を取り戻すのも近いかと私は思ったのです。ですが、あなたはなかなかあなたの過去を取り戻してくれなかった。つまり、あなたが過去を取り戻すのに必要なキーワードは“木馬”ではなかったことになる」
「……え?」
 いきなりそんなことを言われても、ついていけない。あの片付けからが全て仕込みだった?木馬はおれの人生に関係ない?そんな馬鹿な。
「誤解なきように言っておきますが、木馬はあなたの人生において非常に重要な鍵だと思っています」
「はい?」
 言っていることが全く理解できない。首を捻るおれに、ミスターは、すみません混乱させましたね、と素直に謝った。
「もう一つ訊きたいのですが、マイケルは過去、木馬についてそんなに執着していましたか?」
「え、いや、だから記憶にないですよ」
「ですから、推測でいいんです。どう“思い”ます?」
「じゃ、じゃあ、やっぱり、そうだったんじゃないんですか」
「じゃない、と、私は思っているんですよ」
 そうでないと説明がつかないんです、とミスターは言った。
「マイケルは三ヶ月前に酒場で喧嘩をして、川に投げ込まれて、記憶を失った。それは間違いありません。ですが、その当時のマイケルはおそらく、木馬にはさほど興味がなかっただろうと想像できます」
「どうして、ですか」
「根拠はマイケルの木馬への執着です」
 ミスターの説明はさっきから回りくどくておれにはちっとも理解できない。
「『いつも手元に置いておきたい』『他の人が触ることが許せない』『思い通りにならないと癇癪を起こす』『受け止めきれなくなると逃避する』、マイケルへの木馬への反応は全て、あまりに理性の働いていない、幼児のようなものに限られる。その他の社会生活はまともに送れているというのに、です。つまり、反対なんです」
「反対……っていうと」
「私の家にいてもマイケルの記憶が戻る気配は一向になかった。毎日、キーワードとなる木馬と触れ合っていたにも関わらず、です。ですから、私は喫茶店での仕事を斡旋したんですよ。そうして他人と触れ合うことでなにか切っ掛けが掴めるかもしれない。あるいは木馬と相乗効果で何かが好転するかもしれない、そんな風に考えて。でも、それがどういう結果になったかは、マイケルが一番よく分かっているはずです。ですから、もう一度考え直したんです。もしかしたら“木馬”に執着すること、それ自体が記憶の回復を阻んでいるんじゃないかと」
「そ……んな……」
「“木馬”はもっと幼い頃に形成されたキーワード、心の奥底に封じ込めて隠し止めていた鍵、そしてそれがおそらく、川に投げ込まれた時に失った“理性とともにあった過去”の蓋が外れることで、“それ以降に形成された記憶”を失うことで、ようやく表に出て来れた、いえ、出て来てしまったのではないか、私は今はそう考えています」
 “木馬”以降の過去を失うことではじめて表に出てきた過去?“川に投げ込まれたときに失った”のではない記憶?
 ああ、ミスターが言いたいのは、もしかして……
「おそらく、あなたは、今回で二度目の“記憶喪失”体験なのでしょう」
 そうミスターは言い切る。
「あなたの中には」
 おれの中には
「理性で封じ込め、在ったことすら忘れ去られた記憶が」
 押し殺して、失くしてしまったことにも気付けなかった記憶が
「あったのです」
 あったはずなのか。
「マイケル、木馬が、欲しかったのですね?」
「……そう、だと思う」
 しばらくの沈黙を置いて、そう、肯定する。して初めて、そうだったのだと、ようやく分かる。
「でも、家が貧しかったか、何かの理由で手に入れることができなかった」
「そう、そうなんだ。でも、でも……」
 堰を切ったように次から次へと感情が溢れてくる。
「欲しかったんですね。だけど、それを口に出すこともできなかった」
「だって、おれ、いちばん年上だから、そんなワガママ言っちゃいけなくて、だから……」
「忘れようとしたんですね。木馬なんて要らないんだって、そう自分に言い聞かせて」
「でも欲しかった、欲しかったんだよおっ」
 叫んで、涙がこぼれていることに気がついた。次から次へと流れ出して、布団を濡らす。
 みっともない、なさけないけど、だけど止まらない。
 ああ、ようやく分かった。
 あんなに木馬に執着したのは、それは、おれが“持ってなかった”からなのか。
 それを、おれが“ようやく手に入れることができた”からなのか。
「もう、心配は要りませんね」
 ミスターは笑顔でそう言った。
「私の仕事はここまでです」
「え、だって、おれの記憶は……」
「もう、戻ってますよ」
 ここに、そう言って、ミスターは何かを床から拾い上げる。
「あなたはきちんと思い出せた、きちんと受け止められた、だから、あなたの記憶はあなたと繋がって、今、きちんとここまで戻って来ました」
 ハンドボールぐらいのサイズの、おれには視えないそれを、ミスターは優しくおれの前に突き出した。
「これをあなたに返して、それでお終いです。それではちょっと失礼して」
 そう言って立ち上がると、ミスターはすすすっとおれの背後に回った。
「もうお会いすることはないと思いますが、お元気で。お体を大切に。それでは……」
 後頭部にふわりと温かいものを感じる。それはじんわりとおれの頭を包み込む。何となく気持ちよくなって、まぶたが落ちる。体の力が抜けて、ベッドの上にゆっくりと倒れ込む。
「そうそう、喫茶店の方は大丈夫です。気にしないで下さいね」
 なんていたずらっぽい声が段々遠くなっていく。
 ……結局、ミスターはオレにとって“かなり謎な人物”のままで終わってしまった。

 それから九ヶ月ほどの後、おれはある家の玄関の前に立っていた。ここはプリンストン街じゃない。プリンストン街を発つ前にミスターの家と喫茶店を訪ねてはみたが、ミスターの家があるはずの住所には人の気配すらないただの空き家があるだけだったし、喫茶店の方は従業員も誰一人知らない顔で、ミスターなんか知らないと不審者を見るような目で見られるはめになった。
 おれの名前はマイケル=コールストン。無骨で口下手だけど頼れる親父と、いつもおれを見守ってくれていた優しいお袋と、四人もの明るく騒がしくも可愛い弟や妹に囲まれて、ちょっぴり貧しくも楽しく元気に十六年間をこの家で暮らしてきた。十六になった年の春に町に働きに出て、目をかけてくれた工場長に連れられて行った歓迎会の呑み屋で喧嘩の仲裁に入った結果、巻き込まれて川に投げ込まれた。それから“ミスター”と呼ばれる妙な人物に助けられて看病してもらい、事情を知った工場長にもう一度雇ってもらうことができて、何とか働いて……今に至る。
『一年ぶりの帰宅だ』
 おれはそう心の中で呟くと、意気込んで、さっとノッキングベルに手を伸ばした。

 
[了]


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