木馬(旧)

「ここは……どこだ……?」
 目を覚まし、見回すと見知らぬ壁。
「どこ……だ……?」
 改めて自分に問う。
「おれはどうして……ここにいるんだ?」
 少し額に手を当てて思い起こしてみる。
「ちょっと待て、おれは……昨日、何をしていた……?」
 頭にもやがかかったように、思考がはっきりしない。
 しかし、ぼんやりする頭でも何とか周囲の様子はわかる。それによると、おれはどうやらベッドに寝かされていることは間違いなさそうだ。
「昨日……何をしてた……?……昨日?今はいったい何日の何時なんだ?」
 二日酔いとはこんな気分だろうか、何か考えるだけでむかむかする。
「って、ちょっと待て!落ち着けよ、おれ!」
 はたと思い至った一つの事実に、反射的に身体を跳ね起こす。
「つッ!」
 と、頭痛が走る。
 おれは頭を抱えてベッドの上で丸くなった。が、頭痛に気をつけながら慎重に、かつ徐々に背を伸ばしてベッドに腰掛ける形に座り直した。まず、古ぼけた小さな時計と、大きな鏡台が目に入る。視線を巡らせば斜めにかしいだような窓と半分開いた木製のドアの隙間から光が差し込んでくる。外の様子から考えると、そう遅くはない時間、いや、どちらかというとむしろ朝方のようだ。
 全身を包む倦怠感と疲労に困惑しながら、おれは言葉を吐き出す。
「……おれは……いったい……誰なんだ……っ」
 そう。気がつけばおれは、わけもわからぬまま見知らぬベッドの上に寝ていた。
 ぎぎーっとドアがきしむ音におれははっと振り向いた。細めに開いていたドアをきしませながら一人の男が入ってきた。黒いゆったりとした服。言うなれば牧師のそれに近い。そして……どー見ても医者の類には見えない。そして、その上にのっている顔はいまだ若い。おれと同じくらいか、若干上といったところ。
「お気付きですか?」
 とその男はおれに訊ねた。
「あ……ああ」
 おれが曖昧に返事をすると男は「それはそれは」と言いながら部屋から出ていこうとした。
「……すみません。あの……ここはどこなんでしょう?……おれは誰で、どうしてここにいるんでしょう……?」
 訊ねるのにはかなり勇気が要った。こんなことを訊ねる人はなかなかいないだろう。おれも訊ねられたことはないし、訊ねられたところで困惑するのがオチだったろう。だが、男はまったく動じたふうもなく「ここはプリンストン街のウェストストリート35−7番地。ですよ」と意外としっかりした返事を返してきた。
「あなたは居酒屋で酔っ払って喧嘩を起こして2、3人掛かりでぼこぼこに殴られ、川に投げ込まれたんですよ。幸か不幸か川にはほとんど水がなくて、砂州みたいになっているところに引っかかってましてね、その時ちょうど私が通りかかりまして、あなたをマイホームにご招待したわけです。まぁ、招待してから丸二日間、あなたはずっと眠っていたんですがね」
「それは……ええと、どうもありがとうございました。お礼も言わぬままで……失礼しました」
 男は「いえいえ」と手を振って、「それでは食事の用意をいたしましょう」と、またドアをきしませながら扉の向こうに消えていった。そこでおれは始めて、『おれ自身』についてまだ何の情報も得ていないことに気付いた。
「まぁいいさ、まだ訊ねるくらいの時間はいくらでもあるだろうし」
 それに、男はこの手のことに慣れているように見えた。
 ……男は3、40分してから戻ってきた。その頃にはおれの半分寝惚けていたような頭もだんだん冴えてきた。
「……つまり、この頭痛は……二日酔いですかね。それとも……」
「いえ、二日酔いではないと思いますよ」
 湯気の立つお皿を乗せたお盆を持ったまま男がやんわりと否定する。ついでにちょっと持っててもらえますかとお盆をおれに手渡し、部屋の隅から机を寄せてくる。
「第一あなた……記憶がないでしょう?……いえさっき、ここはどこ?私は誰?と言っていたじゃないですか」
 聞いていないような振りをしてしっかり聞いている。……と言うか、どこから聞いていたんだろう。
 そうこうしているあいだに男はテーブルに布をかぶせ、おれからお盆を受け取ってその上の皿を机に置く。見る間にトーストとコーンスープ、トマトののったシーチキンサラダが並ぶ。最後にバターのビンとナイフ、スプーンを置きながら口を開く。
「きっと川に投げ込まれたときにぶつけた、それから記憶を失ったことの影響。そういったところでしょう」
「へぇ、わかるんですか」
 そういうと、「そりゃあ、私はコレが商売ですから」と男は苦笑した。
「え?!カウンセラーとか精神科医とかいうヤツですか?」
 重ねて言うと、
「いえ、『記憶掃除屋』もしくは『記憶管理人』『記憶番』などと呼ばれる職業です」
 自信たっぷりに断言され、おれは開いた口が塞がらなかった。
「はい、き・お・く・そ・う・じ・や、です。よろしいですか?ははぁ、信じていらっしゃいませんね、まぁ、身分証明書にもそう書いてあるワケじゃないですし……。かと言って記憶は普通の人の目には見えませんしねぇ」
 ぶつぶつと言い始める。何か変なヤツと関わってしまったらしい。命の恩人らしいんだが、それ自体もよく考えれば定かじゃないわけだし、あまり深入りすべきじゃない……か?
「あ、失礼ですねえ、私は『変なヤツ』じゃないですし、そんなに怪しくないですよ。それから、あなたを川から助け上げたのもそれ以前のいきさつも本当ですよ。酒場のご主人にも確認しましたし。ええと、深入りも何もあなたは記憶が戻るまで当分はここから動けないと思うのでそれは我慢してもらいますけど」
「は?」
 しまった!?気付かないうちに口に出してたんだとしたらかなりの失態だ。
「いえ、あなたは口に出してはいませんよ。私が読み取っただけです」
 ……この人、心を読むのか?それともおれが顔に出やすいのか?
「ごめんなさい。今のは無理でした。思考した瞬間に忘れてしまうような一瞬のものならすぐに読み取れるんですが、熟考されてしまうと頭の中に残ってしまうので瞬時に外で読めないんです。ちなみにさっきまでのが記憶の一部なんですが」
 男は部屋の中をぐるぐると歩き回り始める。
 おれの方はというと自分の考えていたことを言い当てられて半ば呆気にとられていた。傍から見ていた人がいたらさぞかし間抜けな顔が、そして少しこわばった顔が観察できただろう。
「あなたの名前は『マイケル』ですね?」
 おれははっとした。
「そうです!おれは『マイケル=コールストン』です」
 そういった瞬間にするすると記憶が紐解けていく。まるで「マイケル」というキーワードに付属していたように。
「歳は十六!」
 その後を男が続ける。
「誕生日は6月3日」
「血液型はAB型!」
「性格は短気で直情径行」
「むっ」
 なんだかさらっとひどいことをいわれた気がする。
「あ、朝ごはんをはやめに食べちゃってください。冷めるとおいしくなくなるので」
 ……とりあえず、最低限のプロフィールは思い出せたようだ。が、まだ肝心なことは思い出せない。思い出せたのは情報だけで、おれ自身の経歴についてはまったくの闇の中。思い出そうとしても何も出てこない。
「食べてる間に記憶についてもお話しておきましょうか。人間ってモノは、生まれてから全ての物事を覚えてはいられないし、忘れたい記憶というものも確かに存在するんです。そういった忘れられた記憶は人から抜け落ちて、地面に転がっているんですよ。それを回収するのが私の仕事です。集めてきて家で始末するんですよ。始末の仕方は企業秘密……ということで。
 それから、私の仕事はもう一種類ありまして、忘れてはならないはずの記憶を失ってしまった人に記憶を戻すわけです。絶対に忘れてはいけないはずの大切なことを、例えば幼い頃の約束を忘れてしまっている人に、その拾った記憶をこっそり戻してあげるんです。ですから、記憶喪失の人もよくここに運び込まれてきますよ。そう、今回のあなたのようにね。
 これが、私が記憶掃除屋、記憶番と呼ばれる所以です。
 ……しかし、残念ながら、今手元にはあなたの記憶だと確証のある記憶はありません。記憶は時によっては持ち主を追ってきますから少しずつ記憶も戻るかも知れませんけど。それから、さっきのように何かキーワードがあれば驚くべきスピードで戻ってくることもありますよ。
 ……さて、朝御飯も粗方片づいたようですので、そろそろ片付けて、私は仕事に行ってきますので、後をよろしくお願いしますね」
 そう言ってお盆を持ち去り、おれはそのまま一人でその部屋にぽつんと取り残された。
 はっきり言って、そーとー妙な人だった。性別は男、血液型は見た限りA型っぽい、年齢不肖、性格はお節介で理屈っぽい。そしてよく喋る。……よく考えたら名前、あだ名すら知らない。『記憶掃除屋』と言っていたけど結局どうやってお金を稼いでいるのかは不明。
「ほんっとワケわかんない人だ……」
 怪しいこと限りないが、現状において自分の記憶がないわけで、仮にも記憶掃除屋と名乗るあの男しかあてになる人間はいない。とすると、まずは信用しておくしかなさそうだ。……たとえそれが振りだとしても……。
 などなど、サスペンス気味の考えから今日の夕飯までといったとりとめの無い思考を走らせていたが、気がつくと夕方になっていた。あの男は、昼頃に一度戻って二人分の昼食を作った他はずっと外出していた。一方、おれはずっとベッドから動かなかったわけだから、足して二で割るとちょうどいい一日だったのかもしれない。……って、われながらよくわからないことを考えてるな。
 夕食はおれ達二人だけでいただいた。両親兄弟はおろか、他の同居人もいないようだ。そのわりには家が広い。
「いただきます」
 二人で黙々と食べ続ける時間が十数分。不意に男が口を開いた。
「そういえばあの君が寝てる部屋、一ヶ月ほど掃除した憶えがないので夕食の後片づけましょうか」と。
「あの……ということはおれはひとつき分のゴミの中に寝てたわけですか……?」
「はい」
「あの……病人……っていうか、まあ、人をそんな所に寝かせてたわけですか……?」
「はい」
「あの……いいんですか?そんなことで……?」
「はい」
 きっぱりとうなずかれてしまった。こうなったらもうどうしようもない。良い生活環境を勝ち取るためには、男に泣く泣く同意するしかなかった。
 そして夕食後。
「……いい気なもんだよ。人にいろいろ言いつけやがって。まぁ、命の恩人の言うことだ、手伝ってやらなきゃいけないのはわかってるんだけどさ」
 あの男の人、おれは勝手にミスターと名付けた。ムッシューなんかと同じイメージだ。そのミスターは嬉々として箒を掛け、雑巾を掛けている。夕食の後になんと呼べば良いか訊ねたところ、好きなように呼んでいいですよとあっさりと言われ、ミスターという呼び名は気に入られてしまったのだ。おれにしては、歳はあまり変わらないように見えるのにやけに自立していることへの皮肉のつもりだったのだが……
 一方おれの方は部屋の隅に積み上げられた荷物を一個一個整理しては戸棚にしまっていた。コレが意外と重労働だ。2m近い高さの天井まで1,5m四方の山ができているようなものだ。しかし、嫌がらせのように続いた山も、2時間かければほとんど片づいてきた。コレが最後の大箱だ。と一つ残った1m余りの木箱を引っ張り出し、開けてみた。中には……古ぼけた木馬が一つ。ぽつんと取り残されたように入っていた。
 おれはそのまま動きが凍りついた。時間が止まったようだった。何も言えない。何も言わない。何か言いたいけれど……そして最初に口を衝いて出たのは、
「な……何ですか?コレ……?」
「……?」
 ミスターはゆっくりとこちらに歩いてきた。そしておれが指さしているものを見ると、事も無げに
「……木馬……以外の何に見えます?」
 と逆に尋ねた。
「……いや、木馬ですよ木馬。誰が見ても誰に訊いても木馬だと言うでしょうよ。だけどっ、おれが言いたいのは……そうじゃなくて……」
 おれがうまく言えずに口ごもっているとミスターはからかい半分の笑みを浮かべて
「そりゃあ生まれたばかりの赤ん坊や『木馬』という単語を知らない人でもない限り木馬だと言うでしょうね。
 いや、わかっていますよ。つまり、コレが何となく君の過去に関係がありそうな気がする、と言っているわけでしょう?」
「……っそう、その通りです」
「じゃあ、今日はこの木馬はここに出したままでいいことにしておきます。もう大体片付きましたよね?それじゃ最後に箒で掃いて、今日は遅いからここらへんで寝ることにしましょう。箒もちり取りもゴミ箱も部屋の端です。それでは後をよろしく、お休みなさい」
「……は、はぁ。あの……お休みなさい」
 ミスターは終始マイペースでおれにひらひらと手を振って、あくびをしながら部屋から出ていった。
 おれはその晩ベッドからろうそくの火でその木馬をずーっと眺めていた。気がつくと何かを思い出しそうな感じがしていて、気がつくことでそれが逃げてしまったような感じを繰り返し……いつしかおれは眠っていた。

 そうこうするうちに数日過ぎた。おれはいまだに記憶が戻らないまま、ただただぶらぶらしていた。しかし、なんといってもずっとミスターに迷惑をかけ続けるわけにはいかない。何か手伝えるようなことはないものか思ったおれは、ある日の朝、ミスターが出掛ける前に仕事の手伝いを申し出た。ミスターの返事はこうだった。
「……あぁ、そうですか?それは助かります。なんといいましてもウチは零細企業なもので深刻な人手不足に困っていたんです」
 そういってくすっと笑う。彼なりの冗談だったのか。
「そ・れ・で・は・ですねぇ、『記憶の復活』を手伝っていただけますか?」
「『記憶の復活』ですか?」
「そう。きおくのふっかつ。『記憶の復活』とはですねぇ、要するに落っこちていた記憶を仕分けする作業の一つで、捨ててしまってかまわない記憶か、捨ててはならなかったはずの記憶かを判別する仕事です。
 記憶というものは元来『人の中に在って初めて記憶として作動するもの』なのでして、『人の中にない状態』では表層意識の部分や表面の部分の事しか読み取れないわけです。かといってほかの人に無理矢理押し込んで深層部分や背景まで読み取ろうとはできませんし、第一ほかの人にその記憶を押し込むことで記憶が圧迫されたり、その人が何かを忘れてしまったりしてしまっては本末転倒ですからね。そこいくとあなた、マイケルさんは元々の記憶がないわけですからまぁ、打って付けというわけです」
 そういうとミスターはくすくすと笑い始めた。と、ふっと真顔に戻って、
「しかしですね、コレだけはくれぐれも忘れないでください。復活させた記憶とあなた自身の甦ってきた記憶とをごっちゃにしないように。記憶はいつも落ち着きたがる性質のものです。ですから過去の事実と現在の記憶とが食い違ったり、他人の記憶を自分の記憶のように感じてしまったりということが起こるわけです。この点には十・分・に・注意してください」
 と言った。
「さて、最初に面倒を見てもらう記憶は……フルネーム『マイケル=コールストン』さん十六歳ですね。ざっと過去10年分ほどの記憶のようです」
 おれはバナナの皮を踏んでもこうまでは……と思うほど綺麗にずっこけた。
「記憶を無くした理由はおそらく、酒場でケンカをして袋叩きにされて川に投げ込まれたときのショック」
 追い討ちをかけるように言うミスターの言葉が、おれを立ち上がらせないほど足をへなへなにした。
「おれじゃないですかっ!!」
 どうにかこうにか立ち上がって叫ぶとミスターはちっちっちと指を振った。
「そうとは限りません。この街の電話帳に載っているだけで『コールストン』という苗字の人は138人もいます。そのうち男性は87人。そのうち『マイケル』という名を持つ人は何と24人もいるのですよ。そして酒場で喧嘩して川に投げ込まれた経験のある人は4人です。更にですね、電話帳に名前を載せていない人であるとか、この町を通りすがっただけの人であるとか、この町の親戚を訪ねてきただけの人であるとか、過去にそういったことがありすでに亡くなっている人であるとか……といった諸々のことを考えるとですねぇ、まぁ、コレがあなた自身の記憶である可能性のほうが低いわけです。解かりました?」
「……解かりました」
「よろしい」
 ……何がよいのやら、ミスターは一人でうなずくと隣の部屋から何か見えないものを大事そうに持ってくると、おれの脊髄に添わせるようにそっと後頭部からおれの頭の中に『入れた』。おれは、意識すらしなかったおれの中の空洞が埋まってしまったような感じがして、久しぶりにえもいわれぬ安心感と安らぎを得て、その晩、今までとは微妙に異なる心地よい眠りに身を任せて眠ることができた。
 ……それにしてもあの人は電話帳の中身を全部暗記しているとでも言うんだろうか。ミスターが出掛けた後、何もすることがなく、暇でしょうがなかったので電話帳をめくって確認したところ、すべてミスターが言った通りだった。川に投げ込まれた経験の有無はだけは不明だったわけだが……
 それからというもの、夕食の度にミスターはおれに記憶について訊ねるようになった。何か新たに思い出したことはないか。今までの記憶で正したいところはないか。そして、あなたはいったい誰なのか……と。おれはそのたびに思い出したこと、思うことをすべて話した。
 ただ、問題は、おれが話している最中に人称が変わってしまう事が増えてきたことだ。「彼」ではなく、「おれ」と言ってしまうたびにミスターはいちいち訂正してくれたが、そのたびにおれはなんとも形容しがたい不安と恐怖を感じた。
 記憶がおれの中で定着しようとしている。それはある意味、とても恐ろしい考えだった。おれがおれじゃない誰かになってしまう。……しかしおれはこうも考えた。ちょっと待て、じゃあ、今までのおれっていったい誰なんだ?と。今までのおれは、記憶としてのおれはまだ戻ってこない。つまり、ある意味今までのおれは消滅してしまっている。そして、今おれの中に新たにおれが生まれようとしている。おれって一体何なんだ……?
 そう考えると、落ちたら助からない高さまで上ったのに今までの足場が不意にがらがらと音を立てて崩れたような、そんな新たな不安感がおれを襲った。
 おれ とは いったい……
 おれ とは なんなんだ……
 この おれ の そんざい とはいったい……
 おれはいつしか不安を紛らすために酒を飲み、荒れるようになった。酒を飲んで自分というものを意識しなくなる瞬間だけを楽しみにするようになった。
 ミスターは、そんなおれを哀れむような目で見ては、記憶を抜き取ろうとおれに何度も申し出た。だが、ただでさえ不安であったおれがそんなことをさせようはずがなかった。この記憶までとられてしまっては、おれは生きていけないかもしれない。そう言うとミスターは悲しそうな、何かを後悔するような顔を見せた。おれにはその理由がよくわからなかったが。
 ある晩、おれは例のごとく酒場で酔っ払っていた。どうしてそうなったのか、詳しくは思い出せない。確かおれがそいつらに『音痴でうるせェ』とでも言ったのが始まりだったと思う。とにかく、ひどく酔っ払っていたそいつら二人組はおれを酒場から引き摺りだし、路地裏に引っ張り込んだ。
 一人の拳がおれの腹にめり込んだ。
 おれは身体を二つに折って地面に倒れた。
 胃液が逆流する。
 口の中にすっぱい味が広がり、つばのつもりで吐き出した液体は黄色かった。
 そんなおれの上から足が降ってきた。二人が両側からおれを蹴り、踏みつけているのだ。
 背中と、石畳にぶつかってこすれる両肘、両膝が痛む。
 時間感覚があいまいになっていてよくわからなかったが、何時間続いたのか、それとも何秒間だったのか、背中の衝撃が去り、最後に脇腹に一発食らわして二人は去ったようだった。
 蹴り飛ばされたおれは、壁に背中からぶつかった状態でうめく。
 起き上がろうとした瞬間、背骨を激痛が駆け抜けた。
 おれは立ち上がることもできず、ごみごみした裏道の道端に再び倒れた。何もできないまま薄れる視界の中で、目の前にかじりかけのリンゴが間抜けに転がっているのが見えた。両側は黒いゴミ袋が山のように積まれているのも判った。
『なんだか前にこんなことがあったような……』
 それがおれの記憶だろうがおれじゃない誰かの記憶だろうがそんなことはもうどうでも良かった。
『ああ、明日は燃えるゴミの日だっけ……』
 そうとりとめのないことを考えながらオレの視界はブラックアウトしていった……

「うん……ここは……どこだ……?」
「おれは……だれだ……?」
「……おれは……いったい……何者なんだ……?」
「なぁ……教えてくれよ……誰か……」
 気がつけばおれは、見知らぬベッドの上に寝ていた。とりあえず身を起こしてみた。と、全身に痛みが走る。
「つッ!」
 おれはベッドの上で丸くなった。が、痛みに気をつけながら慎重に、かつ徐々に背を伸ばしてベッドの背もたれに身を持たせ掛けた。まず、最新型の小さな時計と、小振りの鏡が目に入る。視線を巡らせば真四角のアルミ製の窓とスティール製のドアのガラスから光が差し込んでくる。外の様子から考えると、あまり遅くない時間、日が暮れるか暮れないかという夕刻だろう。
 痛みとともに覚醒してきた頭でとりあえず自分が何者か――つまり、ここ数ヶ月間の出来事と『マイケル=コールストン』というおれの名前と――を思い出した。
 きーっとドアがきしむ音におれははっと振り向いた。ドアをきしませながら一人の男が入ってきた。……白衣の胸に聴診器。どー見ても医者だ。ベテランと呼ばれる歳のように思える。若くはない。
「おや、お気付きですか?」
 とその男はおれに訊ねた。
「あ……はい」
 おれが返事をすると男は「そうですか、それでは少々お待ちを」と言いながら部屋から出ていこうとした。
「……すみません。あの……ここはどこなんでしょう?……おれは、どうしてここにいるんでしょう……?」
 数週間前とまったく同じ質問を重ねる自分に苦笑しながら、おれはこう訊ねた。まったくわれながら芸がない。しかし、そんなことを知るはずもなく、「プリンストン市立病院の外科病棟。ですよ」と医者は断言してくれた。
「あなたは居酒屋で酔っ払って喧嘩を起こして、路地裏で袋叩きにあったのです。人が倒れていると通報がありまして、あなたがこの病院に担ぎ込まれたわけです。まぁ、担ぎ込まれてから丸一日たっていますが。そうそう、全身の打撲のほかは、骨にもまったく異常はありません」
「それは……どうもありがとうございました。お世話になりました」
 また同じセリフ。つくづく芸のない自分に嫌気がさす。
 男は「いえいえ、これが仕事ですから」と手を振って、「それではお連れ様お呼びいたしましょう」と、またドアをきしませながら扉の向こうに消えていった。ほどなく……
「マイケル……?」
 再びドアをきしませて現れたのはミスターだった。
「いやぁ、大事でしたねぇ。いつのまにか私は君の連れにされてしまいましたよ、君には不本意かもしれませんけど」
「ミ、ミスター?」
「うん、いや、何より生きてて良かった」
「……?」
「『記憶掃除人』をやっていながら自分で自分が情けなくなりましたよ。まったくこんなことになるなんて。もっと君が記憶に振り回される前になんとかしておけば良かったと悔やんでも悔やみ切れない」
 ミスターは「すまないっ」と深々と頭を下げた。迷惑をかけたのはこちらのほうだというのに……
「ということで、今さらながら君の記憶の混乱かつ不安のモトを取り除くことにしましょうか」
 手近にあったパイプ椅子を引き寄せて座るとミスターはそう言った。
「……はぁ」
「まず、目を閉じて」
「……」
「では今から私の質問に真摯に答えてくださいね。……あなたは誰ですか?」
 その質問は余りにも唐突で、しかも難しくて、おれはどう答えていいものか悩んだ。
「……おれは……マイケル=コールストン」
 なんとか答えたおれの言葉にミスターは即座に切り返す。
「その名前はあなた自身を表わしていると言えますか?」
「……いいえ」
「では、あなたは一体誰ですか?」
「おれは……」
「誰なんです?」
 ミスターの声に少し力がこもった。
「おれは……」
「さぁ答えてください」
 ミスターの声は半ば脅迫のように迫力を秘めておれを打った。
「おれは……おれは……おれは……おれはおれはおれは」
「誰だと言うんですかっ?」
「おれはおれだっ」
 ミスターの声に後押しされるようにおれは一気に言葉を吐き出していた。
「その通りです。あなたはあなた。今までがどうであろうと、コレからがどうであろうと、今存在するあなたをあなた自身をありのままに受け入れてやれないと、受け入れてやらないと、いつか自分が信じられなくなるんです。あなたはあなた。ほかの誰にどう言われようとあなたはただあなたであり、あなたがただあなたであることが最も大切なのです。
 記憶とは、あなた自身の鏡でもあるのですよ。過去におけるあなたの願望を映して曲がってしまうこともあり、また、自分が信じられなくなり、自分を見失うと、記憶もまた信じられない、見えないモノになってしまうのです。さぁ、目を開けてください」
「……」
「少しは気分が楽になったのではないですか?」
「……そうかもしれない」
「そう……それでいいんです」
 ミスターはそこで一呼吸置いた。おれが不審気にベッドからミスターの顔を覗き込むと、ミスターは意を決したようにおれの顔を見返すと、立ち上がって病室の外から何かを引っ張り込んだ。
「そしておそらく、あなたがなぜ二度にわたって居酒屋で喧嘩をするような羽目に陥ったのか、何故そんなに荒れた生活を送っていたのかの答えがここにあります」
 ミスターが引っ張り込んだもの。それはミスターの家で見つかった木馬であった。
「これ……ですか?どういうことですか?」
 訊ねるが、ミスターはそれには答えなかった。逆に質問を返してくる。
「あなたは、もしかして幼いころの記憶がないのではないですか?」
「えっ?」
 そう言われても、記憶がない今のおれには答えようがない。答えられることいえば、
「……確かに、今思い出せることは何もないけど」
「何一つですか?」
 そう言われて記憶を掘り起こすけど、やっぱり何も引っかからない。
「何一つ」
「そうでしょうね。それではなぜ、あなたは幼いころの記憶が無いのだと思いますか?」
「なぜって、それは記憶喪失で……」
「なぜ記憶喪失に?」
「それは、酒場で喧嘩して川に投げ込まれたときにってミスターが……」
「では、過去の記憶がないはずのあなたが、なぜ、木馬に引っかかったんですか?」
「えっ?」
 えっ?ちょっとまってくれ。ミスターが何を言いたいのかよくわからない。……よく理解できない。
「私は最初、楽観視していたんですよ。あなたは部屋を片付けているときに木馬というキーワードに引っかかってくれた。これは記憶を、過去を取り戻すのも近いかと。しかし、あなたはなかなかあなたの過去を取り戻してくれなかった。つまり、あなたが過去を取り戻すのに必要なキーワードは『木馬』ではなかったことになる。正確には、取り戻したかったはずの『川に投げ込まれたときに失った記憶』のキーワードは」
 あの部屋の片付けから仕組まれたものだった?……でも、今はそんなことはどうでもいい。『木馬』がおれのキーワードじゃなかった?それならあのときに感じたあの感覚は嘘だったとでも言うのか?なぜミスターは『川に投げ込まれたときに失った記憶』なんて持って回った言い方をする?
「木馬というキーワードは、あなたに記憶の判別をお願いする前にあなたから得られたものです。つまりはあなた自身の根源に関わるものです。あなたが『木馬』以降の記憶をすべてなくしたことでやっと表に出てくることができたあなた自身の過去。それが何を意味するのか」
 『木馬』以降の過去を失うことではじめて表に出てきた過去?『川に投げ込まれたときに失った』のではない記憶?それが意味する所はただ一つ……
 ああ、やっと理解できた……
「おそらく、あなたは、今回で二度目の記憶喪失体験なのでしょう。あなたの中には」
 おれの中には
「忘れてしまったことすら忘れられた過去が」
 失くしてしまったことにも気付けなかった記憶が
「あったのです」
 あったはずなのか。
「人というものは弱い生き物です。ですからこそ、人間として生まれたときの根本となる記憶。つまり幼い頃の思い出は、忘れてしまったように思えても記憶の奥底にはちゃんと残っているものなのですよ。ですから、幼い頃の思い出に包まれて暮らしてきた人は成長するときにその思い出を根本として人格を形成していくのです。
 逆に幼い頃の思い出を、何らかの事故によって失ってしまった人は、人格の形成が不完全で、漠然とした不安感にいつもつきまとわれ、自分を見失った人になってしまいがちなのです。
 つまり、今までのあなたがコレです。おそらくは……」
 ミスターの喋りは淀みなく、おれはミスターは真実を告げていると信じた。
「しかしあなたの場合は、『木馬』が大きなキーポイントとなっていた。たぶん父親の手作りであったりしたのでしょう。そこで、です。ここに一つの記憶があります。コレは幼い頃、両親の愛情をたっぷり受けて木馬で遊んだ少年の記憶です。名前は『マイケル=コールストン』。木馬で遊んだマイケル=コールストン少年はかなり多いはずです。こちらのほうが、居酒屋の件の記憶の持ち主の場合よりもあなたの記憶ではない可能性が大きくなります。が、あなたがコレを受け入れる覚悟があるのなら。そして、周りの誰が受け入れてくれなくてもあなた自身が誇りを持って暮らせると言うのならば。この記憶をあなたに差し上げたいと思うのですが。いかがですか?」
 おれは返事ができなかった。恐かったからだ。自分の記憶ではない(かも知れない)記憶を持ち、それにしたがって行動して、それが受け入れてもらえないかも知れないのだ。しかもそれが自分では理解できないという状況。おれはそうなっても自分は自分だということができるだろうか。
 しかし、おれが本当に迷ったのはほんの数秒だった。逆に言えば、ほんの数秒で答えは出ていた。
「……おれは、初めて自分と言うものを知った気がする。自分は自分だと言えるというだけのことがこんなにすばらしい事だとは知らなかった。おれは、周りにとっては偽りでも構わない。おれは、おれ自身のためにおれの真実がほしい。だからミスター、その記憶をおれは必要としている」
「わかりました」
 ミスターは静かにそう言うとおれの背後に回った。
「……最後に一つだけ、もしも、その記憶の持ち主がおれじゃなかったとしたら。本当の持ち主が現れたときにどうするんですか?」
「……何とかしますよ。そのために私がいるんですからね」
 背中の方にいるはずなのに、おれはなぜかミスターの笑顔がはっきりと見えた。
「もうお会いすることはないと思いますが、お元気で。お体を大切に。さようなら……」
 おれはミスターの声が遠のいていくのを感じながら眠りに落ちていった。ミスターと、おれの十六年間の生活と、両親と、そして何よりおれ自身に対して感謝と祝福を送りながら……
 ……結局ミスターは、オレにとって『かなり謎な人物』のままで終わってしまった。

 それから九ヶ月ほどの後、おれはある家の玄関の前に立っていた。ここはプリンストン街じゃない。プリンストン街を発つ前にミスターの家を訪ねてみたが、そこには、人の気配すらないただの空き家があるだけだった。
 おれの名前はマイケル=コールストン。二歳の誕生日に木馬を作ってくれた親父と、いつもおれを見守ってくれていた優しくも強いおふくろとともに、十六年間をこの家で暮らしてきた。十六になった年の春に町に働きに出て、歓迎会の呑み会で行った先の居酒屋で喧嘩の仲裁に入った結果、巻き込まれて川に投げ込まれた。それから『ミスター』と呼ばれる精神科医もどきに助けられて看病してもらい、それから何とか働いて……今に至る。
『一年ぶりの帰宅だ』
 おれはそう心の中で呟くと、意気込んで、さっとノッキングベルに手を伸ばした……

 
[了]


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