屋上から飛び立つ鯉

 その日は、朝から気分が良くなかった。
「あなたの命はあと二ヶ月です。それより長くなることも、短くなることもありません。残された人生を精一杯生きてください」
 夢の中でそう宣言されて目覚めたからだ、というのが一つ。
 毎日セットしていた目覚ましが、今朝に限って遅れていたというのが一つ。
 学校に来る途中に野良犬に追いかけられたというのが一つ。
 その時に転んで怪我をしたというのが一つ。
 ついでに鞄につけていたお気に入りのキーホルダーをどこかに落としてしまったというのが一つ……
 思い出そうとすれば、まだまだ思いつきそうだった。
「……やってらんないわね」
 思わず盛大にため息を漏らす。
 とりあえず学校に来たのはいいものの、結局なにをする気も起きず、屋上に逃避しているわけである。
 フェンスに肘を乗せて空を見上げる。
 意味もなく晴れ渡った空。浮かんでいる雲も能天気だ。
 無性にどうしようもない気分が湧き上がって、もう一度ため息をつく。
「……今日は厄日かしらね」
「なんや、若いモンが昼間っから不っ景気なツラしおって」
「は?」
 誰もいないと思っていた屋上に自分以外の声が響いて、驚きのあまりに動きが止まる。
 次の瞬間に振り返り、隅々にまで目を配る。が、やはり人の気配はない。
「あんた……誰?」
 いや、誰かがいるとは思えなかったのだが、空耳で片付けるにはその声ははっきり聞こえすぎた。
「なんや、なんや。ワイか?」
「そうよ。覗き見とはいい趣味してるじゃない?」
 返事がかえって来たことに少し驚いたが、その驚きを気取らせまいと高飛車に言い放つ。
「そうか、そりゃスマン事をしたな」
「どこにいるのか知らないけど、謝るならまず姿を見せたらどう?」
 そう言うと、相手は驚いたようだった。
「なんや、ワイが見えとらんのか?目の前におるに」
「は?目の前?」
 言っている意味がよくわからず聞き返す。
「そうそう、いや、正確にはさっきの目の前じゃから、あんたの真後ろと言うべきか」
「真後ろ……」
 と言われても、にわかに信じがたい。
 さっきまでフェンスに体重をのせていた。そして、それからまっすぐ振り返ったのだから、真後ろは……空中?
「冗談はやめて、いったいどこにいるのよ。言いなさいよ」
「……だから、真後ろだと言っておるに」
 そこに嘘をついている気配はない。
「……はぁ」
 ため息をついて、だまされているつもりでふり返る。
「……」
「……」
「……ぎゃあ!」
 悲鳴をあげるまでに、たっぷり五秒はかかった。
 当たり前だ。
 こんな事態、想像も出来なかった。
 三階建ての校舎。その屋上の宙空。
 つまり地上から7mくらいの場所に……鯉が浮かんでいた。
 ぴちぴちと跳ねながら。
 口をぱくぱくさせながら。
 とりあえず、十数年間かけて培ってきた常識で目の前の事態を否定しようと全力を傾ける。
「……まず鯉が喋るはずないし」
「おもちゃが喋る映画があるくらいじゃろ」
「……そう。鯉が宙に浮くはずないし」
「自転車ごと人間が空を飛ぶ映画もあるじゃろ」
「……そう。それじゃ夢なんだわ。きっと」
「ヒレではたいてやろうか?」
「そうよ。夢よ。そして、今朝あったいやなことも全部夢で、朝日を浴びて私は目覚めるの」
「おい」
「さあ、お母さん。早く私を起こしてっ。もうこの際だからお父さんでもいいわ。私に彼氏がいたらその人が最高なのかもしれないけど、残念ながらいないし。って、そんなことどうでもいいのっ」
「えい」
 ぺち
「あう」
 ぬれた平手……もとい、ヒレ打ちを頬に受けて我に返る。
 そして、目の前にはやはり鯉が……
「ああっ、お母さん、早く私を」
「もう、ええっちゅうねん」
 呆れたようにため息をつく鯉を見て、私は自分の頬をなでてみた。
「……ぬれてる」
「当たり前じゃ、鯉なんじゃから」
「……やっぱり鯉なのね」
 実は鯉じゃなかったという最後のオチも否定されて、仕方なく事態を受け入れる努力をはじめる。
「あなたは、話せて、宙に浮かべて、さらにエラ呼吸も必要ない鯉なのね」
「なんや、あっさり受け入れたな」
 非常に意外そうな声音で鯉が言う。鯉の表情など読み取れるはずがないから、その辺から判断するしかなかったのだ。
 本音としては、そんなものはすでに鯉とは呼ばないような気がしたが、とりあえずうなずいてみせる。
「それで、どうしてここにいるの?」
「ワイはなぁ、目的があるねん」
「鯉が何の目的もなくて宙に浮いてたら世界中で大騒ぎよ」
 半眼で突っ込むが、鯉はまったく気にした様子もない。
「で、その目的ってのは何?」
「ん?ヒミツ」
 鯉こくにして喰らってやろうか、こいつ。と思ったのも一瞬のこと。次の瞬間には、
「だって、ワイは鯉の世界のナンバーワンスターじゃから、ヒミツの一つや二つはあるねん」
 犬のえさに格下げされた。
「……ブッ殺すわよ?」
「……それでも、ヒミツやねん」
 鯉のプライドにかけて、話せないらしい。
 そのまま、しばし睨みあう。
 先に折れたのは私のほうだった。
「まあ、いいわ」
「そうかい」
 そして、今度は緊張感のなくなった沈黙が満ちた。
「……ところで、なんや若いモンがため息ばかりついとったらあかんでぇ」
「大きなお世話よ。人間にはね、鯉にはわからない事情がいろいろあるの」
「良かったら、お兄さんに話してみぃへんか?」
「お兄さん……」
 思わず絶句する。
「あんたって、この学校の裏庭の池の鯉よね?」
「せやな」
「あんたが私より年上だとは思えないんだけど?」
「鯉の寿命を知らんのか?たかだか数年やで数年。つまりは、人間の数倍の濃度の人生をおくっとるンや。人間の長さで測らんといてや」
「それは、しつれいしましたね」
「なんや、棒読みやな」
 釈然としないらしく、ぶつぶつとしばらく言っていたが、どうしても好奇心に勝てなかったらしく、もういちど聞いてくる。
「で、何を悩んどるンや?」
 残念ながら、参考になりそうな意見が聞けるとは思えなかった。
 が、ぬいぐるみにでも話してみたらすっきりするという話は良くある。
「じゃあ、話してみるわ」
 私がそう言うと、鯉は神妙にうなずいて見せた。
「ぬいぐるみと違って、返事だけは期待できそうだし」
「だれがぬいぐるみやっ」
「だからぬいぐるみより高尚だって」
「なんや、納得いかんなぁ」
「じゃあ、話さない」
「うそうそ。話してみぃ」
 ご機嫌をとろうとピコピコ動く鯉を見て私はふっと息をついた。
 話す覚悟を決めたのだ。
「まず、私は今朝の寝覚めがよくなかったのよ」
「そりゃまた、どうして?」
「夢見が悪かったから。今朝の夢が最悪だったのよ」
「どんな?」
「男の人がでて来たのよ。全身黒ずくめで、見た目は悪くないのに目つきだけがやたらと悪かったわ。
 そして、私にこう言うの。
 『あなたの命はあと二ヶ月です。それより長くなることも、短くなることもありません。残された人生を精一杯生きてください』
 って。
 たとえ夢とは言え、死の宣告を受けたら誰でも気分は良くないとおもうわよ」
「せやな」
 鯉も、目の前で同意して見せた。

 朝っぱらからいやな夢を見て、やたら不快な気分でベッドから起き上がった。
 まだぼーっとした目で枕もとの目覚ましを見てみる。
「なぁんだ。まだ余裕じゃない」
 つぶやいてぐるっと部屋を見回す。
 まず最初に目に入ったのはいつものクローゼット。
 それから机。
 机の上の本の山と、教科書、鞄。
 机の隣には、この部屋唯一、と言っても非常に大きな窓。
「あれ?」
 なんだかいつもより入ってくる光の量が多いような気がする。
「……もしかして」
 いやな予感がして目覚し時計を確認すると、
「秒針、止まってるじゃない」
 マジ?と自分につぶやいてから、大慌てで居間に飛び出す。
 そこで時計を確認すると、
「もう遅刻するじゃないっ」
 もちろん、朝食なんてとってる暇はない。すぐに着替えて家を飛び出した。
「このまま学校まで走れば、何とか」
 そうつぶやいた瞬間、視界の端で何かが動いた。
「な……」
 『に』を言うことは出来なかった。次の瞬間、足元で何かを蹴飛ばす感触。
 暖かさを足の先に感じる。
 そして、
 きゃうん!
 蹴飛ばしたのは、野良犬だった。
 宙に駆け上る野良犬(茶色・♂)。
 私は、あんな綺麗な放物線なんて初めて見た。
 野良犬は口の端からよだれを撒き散らしながら宙を舞った。そのよだれで虹が出来るかと思ったくらい綺麗だった。
 そして一瞬おいて、野良犬は見事に頭から路面にぶつかった。
 が、野良犬も負けてはいなかった。すぐに起きて私に吠え掛かって飛びついた。
「八つ当たりはみっともないわよっ」
 私は、飛びついてきたのが怖くて、鞄の角で脳天を殴りつけた。
 べしゃ
 と、野良犬は地面と仲良くなった。
 きゅうぅぅん
 ところが、そのときだ。最後の力を振り絞って鳴き声を上げた野良犬の呼び声に答えて、五六匹の仲間がわらわらと集まってきたのだ。
 最初の野良犬はそいつらにくんくんと事情を話してたみたいだったが、ばたっと力尽きた。と、同時に仲間が私に襲い掛かった。
 すでに逃げられる体勢を作っていた私は、もう無我夢中で逃げの一手。
 でも、やっぱり犬と人間じゃ犬のほうが早い。
「ひきょうものっ」
 だって、犬は四本も足があるんだもの。
「私も真似して四足で走ってみようかしら。でも、慣れない事をしても余計遅いだけよね」
 私は、賢明な私自身をなでてあげたくなった。
 でもいくら賢明でも、足じゃ犬には勝てない。
 すぐに追いつかれそうになって、私は焦った。
 焦ったせいで走りのテンポが狂って、私は足がもつれ、そのままの勢いですてーんっと転んだ。
「いったぁーいっ」
 じんじんとするひざを見ると、すりむいて血が出ていた。
 わんわんっ
 追いついた野良犬たちが私を取り囲んで吠え立てた。
「痛い……あとでお薬つけなきゃ」
 わんわんっ
「ばい菌とか入ってないといいけど」
 わんわんっ
「うるさいっ」
 私は近くにいた野良犬の鼻面を蹴り上げた。
 それから、痛む足を踏ん張って立ち上がると、それでも近づこうとする野良犬の顔面に蹴りを打ち込んで、慌てて逃げ出した。
 けれど、犬たちの追撃は執拗だった。
 私はとうとう学校の近くの橋の上で力尽きてこれ以上は走れなくなった。
 正確には、野良犬を振り切るのは無理と悟って、まだ体力のあるうちになんとか勝負を決めてしまおうと考えたのだ。
 野良犬たちは私を囲んでいつでも飛びかかれるように身構えた。
 私も必死で息を整えると鞄を持ち直して身構えた。
「さあ、かかってきなさい。私は負けないんだから」
 わんっ
 私は、飛び掛ってきた一匹目を鞄で迎撃して、地を這った野良犬の尻尾を掴んで振り回した。
 いつのまにか集まってきた野次馬が歓声を上げる。
 これで私の武器は二つ。
 相手はまだ五匹だけど、二匹は手負い。(私が鼻面を蹴り上げたやつと、蹴りを入れたやつ)
 これで対等な戦いになるかと思った矢先、振り回していた野良犬の遠心力で私の体勢がぐらっと崩れた。
 ギャラリーがわっと沸く。
 私は、卑劣な野良犬の遠心力攻撃で崩れた体勢のまま橋の欄干を乗り越えた。
 ギャラリーから悲鳴が上がる。
「わあああぁあぁあ!」
 どぼーん
「ぷはっ」
 幸い橋はあまり高くなく、川もおぼれるほど深くなかったので私はびしょぬれになりながらも何とか道に這い上がった。
 ギャラリーはすでに解散していて、ついでに犬も姿を消していた。
 私は、やってられない気分で自分の腕時計を見た。
「……止まってる」
 防水仕様になってなかったのが致命的だったらしい。
 とりあえず、自分の怪我を確認する。
 ひざに擦り傷が一つ。
 ……以上。
 意外と無事だった。
 私は喜んで、落としたものはないかと確認してみた。
 鞄はすっかりぬれていて、教科書のたぐいは当分使い物になりそうにない。
 でも、そんなことよりショックだったのは、
「ああっ!キーホルダーを落としたっ!」
 これは大きかった。
「もう二度と手に入らないと思ってたのに……」
 でも、誰かに拾われてしまったのは確実だ。あんなアイテム、友達には
「いやぁ、インパクトは十分だわ」
 と評され、先生にも
「学校につけてくるのは……まぁいいか」
 といわれた曰くつきの一品なのだから。
 涙をのんで諦めることにした。
「ああ、マシューちゃん」
 名前も付けていたのに。
「でも、仕方ないわね。いい人に拾われていてね、干し首のマシューちゃん」
 私はマシューちゃん、本名、マシュレック=ベルベル3世ちゃんの幸せを祈った。
 見上げた空に浮かぶ雲が、ふとマシューちゃんの顔に見えた。
 マシューちゃんは、笑っていた。
 にっこりと。
 私は、再び歩き出した。
「もう、学校に遅刻しているのは確実ね……」
 かと言って、諦めてしまうのもどうかと思う。
 こんなときほど全力を尽くすべきなんじゃないかという気持ちが頭をもたげてくる。
 そして、
 私は再び走り出した。
 学校は、もう目の前のはず。
 私は学校に続く最後の曲がり角を、大急ぎで曲がった。

「……それから……」
 そこで言葉を切った私のほうを不思議そうに鯉が見つめた。
「それから、どないしたんや?」
「それから……」
 どうしたのだろう、それからのことが、思い出せない。
 どうしたというのだろう、それからなにがあったのか、私は覚えていない。
「……ふぅ」
 鯉はため息をついた。
「なんや、あんたは結局、夢のことをずっと気にしとったんやな」
 私は返事が出来なかった。
「せやろ?せやから、あんたは朝からずっといらいらしとったんや。せやなかったら野良犬と喧嘩になることもあれへん。教科書をダメにすることもあれへん。キーホルダー……」
「マシューちゃん」
「……その、マシューちゃんをなくすこともあれへんかったんやろ?」
 私は、返事が出来なかった。
「不安やったねんやろ、せやけどな、大丈夫や。ぜ〜んぶ夢や。夢であんたが二ヵ月後に死ぬ言われたかて、死ぬとはかぎらへんのや。なーんも、不安に思うことなんてあれへんて」
「……違う」
「ちゃう?」
「違うよ、鯉さん」
「なにがちゃうんや?」
「私……ずっと、そう言ってもらいたかったのかもしれない。けど、もう、いいんだよ」
「いいって、何が?」
「私は、学校の前の曲がり角を飛び出した瞬間」
「……」
「左右を確認しなかったせいで、車にはねられたんだ」
「……」
「それで、私は……もう死んでるんだよね」
「……」
「うん。だから、普通に鯉とも話が出来るんだ」
「……なんや、気づいてしもうたんか」
「うん」
「……せやな。あんたはもう死んどる」
「うん」
「学校に行けへんで、心残りやったんか?」
「……うん」
「もういっぺん、学校に行きたかったんやな」
「……うんっ」
「友達と話して、お昼ごはんを食べて、つまらない授業を受けて、一緒に帰って。そんな学校生活がやりたかったんやな」
「……うんっ」
「せやけどな、もう、終いや」
「うん」
「……もう、ええな?」
「うん」
 私がうなずいた瞬間に、私の身体は光に包まれていた。
 ゆっくりと、体が浮き上がる。
 空の上を目指して。
 雲間を抜けて。
 彼方へ。
 そして、目の前に光が広がった……

 屋上の中空に一人……もとい、一匹たたずむ鯉。
 ぽつんと取り残されて、誰に言うでもなく、一人つぶやく。
「ワイは、この学校が好きやったんや。たまにパンを落としてくれる生徒も、ワイをここに連れてきてくれた校長先生も、みんなみんな好きやったんや。せやからなぁ……」
 そこでふとため息をついた。
「この学校がのうなってしもうても、ここにおった人はみんな幸せになってほしいんや……」
 そして……
 掻き消すように、姿を隠した。
 最後に残ったのは、荒れ果てた廃校が一つ……

 
[了]


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