屋上から飛び降りる「どす恋」

「よしの灘さん。残念ですが、あなたの寿命はあと二ヶ月です。これより短くなることも長くなることもありません。残された人生を精一杯生きてください」

 * * *

 地響きがする、と思っていただきたい。
 木々の緑も生い茂……る前に、怒涛のぶちかましによって舞い散ってしまい、日差しも暖かく……なり始めたばかりだというのに春場所に向けて巨体を揺るがす男たちの汗と 熱気によって周囲よりはるかに気温が上昇してしまってる、そんな頃の早朝、一人の関取が鏡の前に立っていた。
 彼の四股名は「よしの灘」(本名、塚原正よし)、普通の関脇。小結や前頭からは「よしの兄貴」、大関や横綱、親方からは「よし」と呼ばれて親しまれている。
 鏡に映ったその顔もいつもと変わらぬ、どことなく愛嬌のある顔だった 。
 一つだけ違うのはあの言葉が頭から離れないこと。
(夢……でごわすか。じゃどん、そんなぼんやりとしたものでなかったでごわす。おいどんの部屋の畳の上で、男の人が……)
 よしの灘(本名、塚原正よし)は思わず、鏡の前で巨体をくねらせた。
 彼は、はっきりと覚えていた。真っ白い白衣を身にまとった青年、背もひょろりと高く顔立ちもよいが、その目つきだけは……どことなくカマキリ のようだった。しかも、生まれたばかりのくすんだ白いカマキリの。思い出すだけで震えそうな感じだった。
 と言うのも、幼い頃、年上の従兄が冬になってどこからかカマキリの卵を見つけてきたのがいけなかったのだ。当然、カマキリの卵が春になって孵り、うじゃうじゃと出てきたカマキリの子供たちを従兄は、よしの灘(本名、塚原正よし)の背中にすくっては乗せ、すくっては乗せ……無数の虫が背中を這い回るその感触と体温を感じてちくちくと噛みついてくる小さな口は、それ以降十数年にわたって トラウマでありつづけていたのだ。
「カマキリ怖い……」
 いや、それもかなり気になったが、と言うより、何よりそれが気になっていたが、とにかくそれより深刻なのは……二ヵ月後の死により、相撲が続けられないという宣告だった。
 もちろん、稽古に出ても上の空。背中にはりついた砂が気になったり、汗をそっと乾かしていく風に敏感になったり、時には生と死について真剣に考えたりもした。
「やっぱり、ちゃんこばかりの食事がいかんのでごわしょうか」
 しかし、そんな付け焼刃な考えも不安をかきたてる材料にしかならなかった。数日後、ついにやりきれなくなり、稽古をサボってしまった。正確に言えば、ぶつかり稽古をサボったのだが。みなが土俵の上で汗を飛び散らせながら全力でぶつかり合っている暑苦しい部屋の外は妙に静まり返り、否応なくよしの灘(本名、……以下略)の罪悪感を煽った。稽古の後の外の静けさとはまた違い、たまに……いや、常に響いてくる突っ張りの「パン!」「パン!」や、ぶちかましの「どん!」「どん!」には恐ろしささえ感じた。よしの灘はこっそり、誰にも見つからないように部屋の屋上……と言っても、ただの物干し台なのだが、そこに足を向けた。
 稽古の時間帯の屋上は思った以上に明るく、気持ちの良いものだった。そこに座り込み、じっと空を見つめる。ただ風が運んでいく雲を見つめていた。よしの灘の中で時間が止まっていた。何分たっても、何時間たっても全然気にならず、何も考えずにいられるこの場所が好きになれたことが嬉しかった。……でもやっぱり寝転がる気には、どうしてもなれなかった。背中の下に無数の虫がいそうで。文句あるか、この野郎!
 次の日もよしの灘は屋上へと足を向けた。しかし、意外なことが起こった。昨日のよしの灘と同じようにただ空を眺めている一人の少女がそこにいたのだ。まあ、少女は 、よしの灘と違って横たわっていたが。
 二人は目が合い、一瞬、時が凍った。先に口を開いたのは少女の方だった。
「あなた……よしの灘さん?あなたみたいな関脇は今ごろまだまだ練習していなきゃいけないんじゃないの?それとも、よ・ゆ・う?」
 ちょっとだけ笑いながら言った。
 よしの灘は笑えなかった。
 彼女は親方の娘さんだった。と言っても少女の方は相撲には関わらず、ちゃんこ鍋を一緒に食べたことすらもほとんどなかった。
「あんたさんは、いや、あなたは……ええっと……下坂……祐子さん……ですよね……あれ?……ちがったっけ……?」
「へえ、覚えててくれたんだぁ」
 よしの灘は非常に立場がなかった。
 そして、祐子の視線が非常に痛かった。……笑ってない。目だけが笑ってないよぉ。
「そんなに目立つようなことしたかな」
 もちろん、二人が言葉を交わしたのはこれが初めてだった。
 けれど、彼女は目立つようなことはたくさんしてきている。
 たとえば、「土俵の下には徳川埋蔵金が埋まっている」と確信した彼女が土建屋を呼んで穴を掘らせたり。
 たとえば、ごくたまにちゃんこを食べに来たと思ったら、鍋の中にチーズを大量にいれてチーズフォンデュを作ってみたり。
 たとえば、外で酒を飲んで酔っ払った力士を川に流して、数日後に石垣島から「下坂部屋」宛てに手紙が来たり。
 嗚呼、今ごろ漁師をやっているはずの兄弟子を思い浮かべ、よしの灘は思わず涙ぐんだりしたのだが。それはともかく。
 思い出されたのは、それもこれも……ろくでもないことばかりだった。
 会話もできず、沈黙の時が流れる。その中で、二人の様子は対照的だった。この空気に耐えきれず、どうしたらよいかわからない……と言うより早くどこかに行ってしまいたいよしの灘に対し、祐子はどことなく楽しそうだった。どことなく?いや、むしろ全身が楽しそうだった。丸ごとすべてが楽しそうだった。まるで新しいおもちゃを見つけた猫といった風で。
 タチが悪い。そして、よしの灘は運が悪い。
 …………。
 別れが近くなった頃、横になったまま祐子は訊いた。
「どうしてここに来たの?戦績も悪くないし、稽古もまじめ、親方とも上手く……くっくっく、そう、上手くやっている。私なんかが考えてもその理由はわからないの。何かあるんでしょう?」
 よしの灘はしばらく黙り、そのまま物干し台から降りて帰ろうとしてしまった。木製の階段に足をかける直前、ついによしの灘は口を開いた。
「それじゃ、あなたはどうしてここに来ているのでごわすか」
「それはね……」
「うわぁひぇ!」
 寝転がったままだと思っていた少女の声がすぐそばで聞こえて、よしの灘は素っ頓狂な声をあげてしまった。
「…………どうしても聞きたい?」
「……はぁ」
「どうしても?聞いた後に、聞かなきゃよかったなんて後悔しても知らないわよ」
「…………」
「他人の秘密を聞くって事は、その秘密を共有するって事よ、それをお墓の中まで持っていく覚悟はあるの?あなたに抱えきれるのかしら」
 そうして浮かべた笑顔は、小悪魔と評するのが一番正しいものだった。
「…………やっぱりいいです」
「その秘密とは!」
「うわぁ!」
 彼女はどこからか取り出した拡声器で、よしの灘の耳元で怒鳴った。
「…………気持ちよかったからよ」
「へ?」
 意外とあっさりと、普通の理由を告げた祐子に、よしの灘は戸惑う。
「聞こえなかったの?」
 その質問に、よしの灘はぶんぶんと首を振って答える。もちろん、横に。
「…………そうですか。おいどんも同じ気持ちでごわす」
「……そう……。ふふふ…………」
 無気味な笑いを浮かべる祐子。
 ちなみに、目線が宙に浮いているので非常に怖い。
 これで、「あなたにも聞こえたのね」とか言われた日には逃げ帰ってしまいたくなるほどだ。
「そ、それじゃ、おいどんはこれで……っ」
 よしの灘は、しゅたっ!と片手をあげて挨拶をし、足早にその場を立ち去った。振り返ることもなく。
 一方、祐子はそんな答えでは満足できなかった。それより、最後のよしの灘の目にはどことなくおびえているような雰囲気があったことが、祐子の心に引っかかっていた。
 確かに、彼女と会った後の人はたいてい多かれ少なかれ、そんな気配を漂わせて去っていく。ところが、彼のそれはなんとなく違うような気がしたのだ。
 それは、はた迷惑な行動と、からかえる人物はとことんからかい倒すような言葉を操る彼女のみが気づけるようなかすかなものだった。

 それからも、二人は何度か屋上で顔を合わせた。しかし、二人は言葉を交わすことはなく、ただ空を眺めていた。一方には、話したいことや聞いてみたいことはたくさんあった。でも、いつもなんとなく言い出しきれずにただ時間だけがすぎていった。
 ある晩、よしの灘は思い切って、こう願った。
「どうか、あの男の人にお引き合わせ願いたいでごわす……」
 その願いは意外とあっさりとかなった。
 みな薄い布団一枚をかけただけで雑魚寝している、暑苦しい部屋。
 うつらうつらしているうちに、よしの灘は夢の世界に迷い込んでいたのだ。そう、彼のいる夢の中に。
 彼を見つけたとたん、よしの灘は思わず怒鳴りつけていた。
「おいどんの寿命があと二ヶ月で、もう相撲ができんとはどういうことでごわすかっ!?」
 カマキリのような彼は、まるで風に吹かれてでもいるようにゆらりゆらりと揺れていたが、ぽつりと口を開いた。
「言葉の通りです。いえ、言葉の通りでごわすと言わないと理解できないんですか?」
 ……ぐさっとキた。
「まぁ、あなたは運がいい方ですよ。なぜなら、普通の人はこんなこと教えてもらえませんから。まぁ、がんばってください……」
 無責任な言葉を残して、カマキリ男爵(命名、よしの灘)は消えた。
 よしの灘は、いつまでも虚空を睨んでいた。
 そして、目が痛くなった。
「痛い……」

 その翌日。
 その日も、よしの灘はいつものように屋上に来ていた。
 そして、いつものように祐子もそこにいた。
 しかし、いつもと違うのは、その空気。
 祐子は、よしの灘の気配がいつもと違うことに気づいていた。
 何かを悩んでいるような、追い詰められているような、そんな余祐のない姿。
 二人はまったく言葉を交わすことなく、空を眺めるだけだった。それだけはいつもと同じなのに、何故だか、何かが張り詰めていて、今にも切れ落ちそうな危うい平衡を保っているような雰囲気があった。
 いつしか、時刻は昼を回り、日中の最高気温を記録する二時になった。
 その時になってはじめて、祐子が口を開いた。
「……暑っ苦しいわね。何をうじうじ悩んでるのか知らないけど、大きな図体をしてみすぼらしい真似してるんじゃないわよ」
「…………」
 ただ、呆然とするよしの灘に、彼女は高飛車に言い放った。
「いい?私が気分転換をさせてあげるわ。夕方の……そう、六時にここの前の道路で待ってるから」
 そして、ばちんとウィンクして見せた。
「リヤカーを忘れないこと。ね?」
 すたすたと歩いていく祐子を見送って、よしの灘はあっけにとられたままだった。
 強引なその誘いにびっくりして、呆れて、腹が立って……
 でも、六時になると律儀に約束の場所に立つよしの灘の姿があった。
「よし、来てたわね」
 祐子は大きくうなずくと、
「じゃあ、出発!」
 と、リヤカーに乗り込んだ。
「私の言うとおりに行くのよ」
 よしの灘が、それをひくことに決まっているらしい。
 よしの灘はため息をつきながらリヤカーをひき始めた。

 どれくらい歩いただろうか。
 祐子は、行き先を決めてはいるらしく、的確に指示を出す。
 気づくと、いつのまにか田舎道に入り込み、でこぼこの舗装もされていない道でリヤカーをひくよしの灘の姿があった。
「……止まって」
 いきなりの祐子の台詞に、よしの灘は慌てて立ち止った。
「さあ、左を見なさい」
 その言葉につられてそっちに顔を向けたよしの灘の正面には、大きな、真っ赤な夕日があった。
 それは、茜色としか表現できない、独特の色合いで、よしの灘はこれまで、これほどきれいで、大きなな夕日を見たことがなかった。
 言葉もなく立ち尽くすよしの灘の肩を、いつのまにかリヤカーから降りた祐子がぽんと叩いた。
「これで終わりじゃないわ」
「……?」
 わけがわからず首をかしげるよしの灘に、祐子は笑いかけた。
「さあ、川に下りるわよ」

 田んぼの間を縫うように進み、周囲の田畑に水を供給する川のほとりによしの灘はつれてこられた。
 もうあたりは暗くなってきており、足元はよく見えない。
 ずりっ
「うひゃぁっ!」
 大きな石を踏んでこけそうになったよしの灘。そのまま体勢を崩し、けんけんとすすんだあと、
 ばっしゃぁあああん!
 川に飛び込んでしまった。
「ぷはぁっ……ぬわっ!水がつめたいっス!おぼれるっス!」
「おぼれないわよ。落ち着いたらどう?それに、脂肪の塊は浮くのよ」
「だめっス!だめっスぅ!」
「……おぼれさせるわよ」
 冷ややかに言い放つ祐子の声に、はっと我に帰ると、転んだよしの灘のお尻がちょうど水につかるくらいの深さしかなかった。
「はぁ……」
 安堵のため息を漏らすよしの灘に、
「しっ」
 祐子は静かにしろと合図した。
 思わず両手で口を押えたよしの灘。そうした瞬間に、両耳から虫の声や、木々のざわめきや、川のせせらぎが流れ込んできた。
 はっとして、みみをすましてみる。
 遠くに聞こえる、人々の生活音。そして、
「舟ーが出ーるぞーっ!」
「だぁっ!」
 川の真ん中で思わずこけるよしの灘。
 そのよしの灘の周りから、空に向かって光の粒が舞い上がった。
 息をのむよしの灘。
 それは、ほたるだった。
 正確にはゲンジボタル。
 ヘイケボタルとはどこが違うのかというと……そんな違いなどどうでもいいことだ。
 よしの灘を取り囲むように、くるくると光の輪舞。
 その幻想的な光景に、よしの灘は時間を忘れて酔いしれた。

 そのせいで、よしの灘は風邪をひいてしまうのだが、それは関係のない話として。

 祐子と一緒にほたるを見にいってから、よしの灘は何かが吹っ切れたようだった。
 稽古にも再び出るようになったし、ちゃんこも、元通りとは行かないまでも、よく食べるようになった。
 変わったことと言えば、毎日のように、稽古が終わると屋上で祐子と話していたということだけ。
 そして、いつしか、約束された二ヶ月が過ぎようとしていた。

 カマキリ男爵に告げられた最期の日の前日。
 その日も稽古に出て、それから屋上で祐子と話していた。
 が、どうしても身が入らない。
 稽古のときからそうだったのだが、明日のことがどうしても気にかかるのだ。
 それは、祐子にも伝わったのだろう。いぶかしげな視線を何度もよしの灘に送ってくる。
 意を決して、よしの灘は口を開いた。
「明日から、おいどんはここには来れないでごわす」
「そう……」
 祐子は興味なさそうに答えた。
「おいどんは、この二ヶ月間、祐子どんと話せて楽しかったでごわす」
「そう?」
「それでは、さよならでごわす」
 そう言って、くるりと背を向けた。
 一歩ごとにぎしぎしと物干し台が揺れる。
「……死ぬの?」
 ふいに後ろから届いた言葉。
 決して意識したくはなかった事実。
 明日、おいどんは死んでしまうでごわす。
 返事も出来ないまま、よしの灘は物干し台を後にした。

 そして迎えた翌日。
 さすがに、この日ばかりは、何もする気になれなかった。
 ぼんやりと、その時を待つ。
 朝が終わり、昼が過ぎ、夕方がやってきた。
 つい、うとうととしてしまっていたよしの灘がはっとすると、カマキリ男爵が横にいた。
「私には理解しかねます」
 と、開口一番にカマキリ男爵は言った。
「あなたは、私に死を告げられてから二ヶ月間、ほとんどを普通に過ごしていた。それで、心残りはないんですか?」
「おいどんにとって、その普通こそが一番大切だったのでごわす。カマキリ男爵」
「私はそんな名前ではないっ!」
 怒られた。
「しかし、本当に心残りはないのですか?」
「ないでごわす」
「本当に?」
「……向こうの世界でも、相撲はあるでごわすか?」
 カマキリ男爵はため息をついた。
「あります。死後の世界というものは、あなた方が想像しているようなものとはまったく違いますけど、確かに天国も地獄もあるんです」
 そう言ってから、もう一度よしの灘を見つめた。
「屋上に行かなくていいんですか?」
「……!」
「あなたの死亡時刻は、日没直後です。今からなら、まだ間に合うんじゃないですか?」
「…………っ」
 よしの灘は、何も言わずに飛び出した。
 めざすのは、いつもの物干し台。
「お願いでごわす。もう少しだけ時間を……」
 どたどたと階段を駆け上がる。その勢いで上坂部屋全体が、まるで嵐の中の小船のように揺れる。
 床板を踏み抜かんばかりの勢いで階段を上り詰めたよしの灘。
 そして、物干し台に通じる扉を
「どすこーいっ!!」
 と、弾き飛ばした。
 そこには、いつもの見慣れた風景。
 上坂祐子が寝転がっている。
 よしの灘の声と振動に驚いたのか、身を起こそうとした体勢で。
 はっと西の空を見ると、すでに太陽は地平線の下に。
 よしの灘は最後の力を振り絞って、手を伸ばした。
 そのとき、吹き飛んだ扉の向こうから親方が顔を出した。
「よぉ、よし!お前の大関昇進が決まったぞ。よろこべ!」
「は?」
 突然に何を言うのかと驚くよしの灘。思わずふり返る。
 顔を前に戻して、もう一度驚いた。
 祐子がいない!
 だが、勢いは止まらない。
 たたらを踏んでよしの灘は、物干し台の柵に突っ込んだ。
「どすこーいっ!!」
 怒涛のぶちかましで、もろくも柵ははじけ飛んだ。
「これを機に四股名も改めよう。よし錦ってのはどうだ?」
 後ろから飛んでくる、親方の言葉。
 それはどんどんと上に上っていく。
 いや、よしの灘が落ちているのだ。
 見る見るうちに地面が近くなる。
「うわあああ!」
 思わず悲鳴をあげて目を閉じた。
 そして、全身を貫く衝撃。
 意識を手放す寸前に、カマキリ男爵がまぶたの裏で笑っているのが見えた気がした。

「よし!?よしっ!?生きてるか!!?」
「うー……ん。親方?」
「おお、目を覚ましたか、よし。ケガはないか?」
「え、ええと……」
 驚いたことに、擦り傷がいくつかある程度で、ほとんどが無傷だった。
 厚い脂肪と筋肉のおかげだと思う。
 力士でよかった。
「大丈夫のようでごわす。親方」
 そう言うと、親方はそうか、といって振り向いた。
「こいつが“よしの灘”ですわ。大関昇進審議会会長殿」
 親方の後ろから姿をあらわしたのは……
「カ、カマキリ男爵っ!」
「よし!なんて失礼なことを!こちらは、お前の大関昇進を認めてくださった、大関昇進審議会会長殿だぞ」
「は、はぁ……」
 よしの灘が、納得いかないような顔をしながらも恐縮していると、会長殿が良い良い、と言ってくれた。
 そして、よしの灘の近くに寄ってくると、耳元でこう囁いた。
「だから、よしの灘の寿命は二ヶ月だと言ったろ。どうだい?ここは、あんたにとって天国かい?それとも、地獄かい?」

[了]


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