ジェンダー論は何故噛み合わないのか

 近年、性的マイノリティ(LGBTQQIAAPPO2s)が取り沙汰され、従来の男性性/女性性といった二元論で語られていたジェンダー論が更なる混迷状態となりつつあるように思う。これまでのジェンダー論は概ね下記のような立場で語られ、対立することが多かったのではないだろうか。すなわち――
@ 一方に比べて他方は冷遇されている場面が多いため、その格差を是正する必要がある
A 女性も男性もそれぞれが得意とするものが先天的に異なるのだから、差別ではなく区別と捉えるべきである
 勿論@の立場で語る場合は一方=男性/他方=女性の文脈で語られることが多いというのは事実として捉えてよいだろうが、ここでは一旦それは置いておく。さて、上記のそれぞれの立場はどちらが正しいのであろうか。@で語る性差による差別が本当に存在するのであれば、それは確かに是正されるべきであろう。その一方で、Aの立場も一定の理解が可能であろう。少なくとも『差別と区別の間の線引きはどこなのか』という匙加減の問題はあるにしても。さて、Aの立場で物事が語られた時に常に付き纏う@の立場からの反論として『そう言って決まりきった(あるいは一方の性が一方的に決めた)型に、役割に、他方を当て嵌めようとすることがそもそもの間違いだ』というものがある。では、本当に性差による役割というものは存在してはならないのだろうか。性差による役割分担は一方の性から押し付けられた後天的な、文化的なものなのだろうか。
 まず結論を言うと、性差による役割の分担はその配分はどうあれ、先天的なものと後天的なものの双方が共に存在すると考える方が自然だろう。確かに男性性/女性性、言い換えれば男性らしさ/女性らしさというものは文化的な側面もあり、後天的に構築される部分はあるだろう。それ故に所謂男勝りな女性といった個性は常にこの世にあり続けている。しかし、これがすべて後天的なものかと言えば、そうとも言い切れない。これは、男性は女性に比べて身長体重が大きく、筋肉量が多い、そして女性は男性の持たない子宮や乳房といった器官を持つ、という生物学的事実によって裏打ちされる。いかにプロスポーツ界で女性が努力をしようと、トランスジェンダーの元男性によって表彰台は総なめにされ、しかもその記録は男性のトップアスリートには遠く及ばない、というのが、まぎれもない事実なのである。これはすなわち、男性はその恵まれた体格でもって集落を出て狩猟採集に励み、女性は集落に残って子孫を生み育てるという役割を担う、ということが自然の摂理であることを、恐らくは意味する。であるならば、男性性/女性性、あるいは男性らしさ/女性らしさと表現できる精神性の偏りや、性格傾向はあってもおかしくはない。それが遺伝子によってある程度既定されていても不思議ではない。何故なら、その方が生物として生存に有利だからである。従って、繰り返しになるが、性差による役割分担は生得的な部分と、獲得的な部分とが共にあると考えるのが合理的であると言える。
 では、自然界における男性らしさ/女性らしさと呼べる性質とはいったいどのようなものであろうか。

 自然界における男性らしさ/女性らしさの試論

 議論の前提として、自然界における人類の生活基盤として、上記のような@集落を構成し、A男性はその恵まれた体格で集落を出て狩猟採集に励み、B女性は子孫を生み育てて集落を維持する、というありようをまず想定しよう。
 自然界とはすなわち先の読めない、変化するものである。春夏秋冬で景色は移り変わり、天候によって雲の形や川の流れは刻一刻と姿形を変える。集落を出て狩猟採集に励む『男性』にとってそれは大いなる脅威である。特定の木の芽や草の実が採集できる場所は限られる。獲物となりうる動物の巣穴や徘徊ルートもある程度定まったものがある。そして、それらから集団が生存するための資源を得たところで、集落に持ち帰ることが出来なければ何の役にも立たないのである。すなわち、例えば大雨で川の流れが変わってしまったら。雪が降って大きな岩が埋もれてしまったら。狩猟採集に向かう際、集落へ帰還する際に用いる目印が失われ、目的が果たせなくなってしまう恐れが出てくる。であるが故に、男性は自然を『変化しないもの』『同じもの』であることを前提として、その『共通する部分』を検出する能力に長ける。雨で変わってしまった川の流れ、雪で隠れてしまった岩といった些細な変化に囚われることなく、総合的に『同じ』であるものを見つけることでこそ、男性は生存が可能となるのである。これはそういった環境や役割が後天的に鍛え上げた能力なのかもしれないが、ここまでの議論と同様に、遺伝子的にその素因が男性により強く備わっていることを想定するのは何ら不思議ではないだろう。何故なら、生命体としてそちらの方が生存に有利であり、そういった特性を持つ個体の方が生き延びてきた可能性は高いからである。
 それに対して、集落の中というのは比較的安定した環境である。言うまでもないことだが、集落を構成するメンバーは徐々に入れ替わっていく。新しい者が生まれ、老いた者が去り行くのが自然の摂理である。しかしそうであるとしても、その変化はゆっくりである。いやむしろ変わらないことの方が、集落においてはより重要であるとも言える。集落内において全員が価値観を共有し、協力し、一つの共同体として機能することこそが集落の存続においては有利だからである。勿論個々の個体を見れば勿論完全に同じであるなどということはあり得ない。しかしその差異を擦り合わせて一つの共同体を作り上げることで、集落の維持という目的を果たすことが、女性に求められる機能なのである。翻って言えば、女性は集団を『差異のあるもの』や『変化があるもの』であることを前提として、その『異なっている部分』を検出する能力に長ける。例えばある家の女性が昨日と違って今日に限って顔色が悪かったとする。それを誰一人検出できなければ疫病が集落の中に蔓延し、壊滅的なダメージを負うかもしれないのである。またある家の女性だけがその集落において何となく雰囲気が違っていたとする。そういった異分子を誰一人検出できなければ、男たちが狩猟採集に出ている間に、その異分子の手引きで隣の集落に攻め込まれてしまうかもしれないのである。従って、変化のない部分に塗りつぶされず、差異を見つけることでこそ女性は生存が可能となると言える。これもまた、先天的な要素と後天的な要素がともに混在する、として良いと考えられる。
 上記2つの立場を明らかにしたところで、一つの疑問が生まれる。すなわち、これらはどちらが正しいのか、自然というのは(ひいては人類の集団というものは)『共通』を前提とすべきかあるいは『差異』を前提とすべきか、という疑問である。と言っても、これは便宜的に疑問と呼んだが、実際は疑問とすら呼ぶことすら憚られるだろう。上記の『共通』も『差異』も同じ自然の一側面に過ぎず、自然は同じでいて変わるもの、変わりゆくが同じものなのである。同様にヒトという種も、みな同じでいて差異のあるもの、それぞれ差異がありながら同種のものの集団なのである。そしてそのどちらに視点を置くか、という主観だけがこの違いを生むのである。
 ここで『共通』を前提とした男性にとって、女性の言う『差異』がどのような意味を持つかを考えてみると、更に不思議なことに気付く。狩猟採集においての『差異』、すなわち昨日まではなかった動物の足跡や、大雨の後の地響き、その情報は特別な価値を持つ。あるいは、背が低くて身軽な者と、体格が大きく鈍重な者の差異は、それぞれにそれぞれの特別な役割を与える。他者にはできぬ自分にしかない役割が男性にとっての誇りとなる。従って、男性は『共通』を前提として、自身の身を立てるのにその『差異』を利用するのである。
 また反対に『差異』を前提とした女性にとって、男性の言う『共通』がどのような意味を持つかを考えてみると、まるで男性での状況を裏返したような、それでいて同じようなことが起こる。集団の中で良くも悪くも目立つ者、違っている者を、その集団は排除しようとしがちである。排除しないまでも、恐れて遠巻きに眺めて近付かぬようになる。反対に集落においての『共通』、すなわち同じ価値観を持ち、連れ立って同じように行動すること、ないしはそれができるということが、集落内における自身の価値を与える。同じものを見て、同じ話を聞いて、同じように感じる均質な集団の中に在ることが、自身の居場所を保証する。従って、女性は『差異』を前提として、集団内での自身の価値を示すのにその『共通』を利用するのである。
 これらの『共通』を前提として『差異』に価値を見出す指向性と、『差異』を前提として『共通』に価値を見出す指向性の、どちらかに優劣があるわけでもなければ、どちらかに正当性があるわけでもない。強いて言えば、それぞれの発揮されるべきタイミングが異なる程度である。生後間もない乳幼児は自らの身を守ることはおろか、自身の欲求を明確に表出することすら不可能である。従ってそういった乳幼児に必要となる対象、必要となる保護者像とは、『差異』を前提として『共通』に価値を見出す指向性である。すなわち、乳幼児は自分とは異なるが、その内面を推し量り、思い図り、同一化しようとする指向性である。それは文字通り自身の体内で胎児を育て、自身の身を削った母乳を乳児の血肉に栄養として与える、渾然一体となって溶け合う母子関係と相同なものであると言っても過言ではなかろう。そしてその乳幼児が青少年にまで成長し、集落を出て独立した自己を確立しようとした時に必要となる対象、必要となる保護者像とは、先程とは反対に『共通』を前提として『差異』に価値を見出す指向性である。すなわち、青少年は壮年の自分と基本的に同じではあるが、その得意とするもの、その進む道は別のものであると知り、独立独歩を促す指向性である。そういう状況を生むのは、集落を出て自分の道を歩む父親に手を引かれて、であることが多いであろうから、これが父子関係と相同なものであると言うのも、また過言ではあるまい。繰り返すようだが、これが順序として『そう』在るから、文化として生み出されたそれぞれの指向性である可能性は、否定できるものではない。しかし、単純に文化として形成されただけのものとするのはあまりに狭量な考えであり、先天的に既定されうる面もまた同時に否定できないものとした方が良いように思う。
 さて、現代社会においてはやや趣が異なってくる。今や狩猟採集の時代ではなく、また、集落のような共同体での生活スタイルからもかけ離れてきている。従って上記の『男性らしさ』を男性以上に持つ女性もある、またはあって良いし、逆もまた然りである。そのため、ここまでは便宜的に男性らしさ/女性らしさとして表現してきた上記の様式もまた、違う表現に改めるべきであろう。そこで、『共通』を前提として『差異』に価値を見出す指向性を、個々の独立した個体が密集して集団を作るフジツボのような生態に擬えて『集合体指向』、『差異』を前提として『共通』に価値を見出す指向性を、世代の違う個体同士が融合した状態で生息するサンゴ(あるいは、生物学的には正確ではないがイメージしやすいのはヒドラであろうか)のような生態に擬えて『群体指向』と呼ぶことにしよう。

 ジェンダー論を再考する

 当初のジェンダー論に話を戻す。
 ジェンダー論争は下記の2つの立場の対立として表出されることが多いと上述した。
@ 一方に比べて他方は冷遇されている場面が多いため、その格差を是正する必要がある
A 女性も男性もそれぞれが得意とするものが先天的に異なるのだから、差別ではなく区別と捉えるべきである
 これまでの議論に則って言えば、前者の立場は『差異』を前提として『共通』に価値を見出す『群体指向』の立場をとっており、後者の立場は『共通』を前提として『差異』に価値を見出す『集合体指向』の立場をとっていると言い換えることができるだろう。フロイトを筆頭とした精神分析を含む古典的心理学の世界においては、前者の立場を男根一元論と呼び、後者の立場を差異論と呼んだ。すなわち、極論すれば『女性は男根を持っていないのだから男根を持たせるべきである』という立場と、『女性は男根を持たないが子宮や乳房を持つのだから良いのではないか』という立場に還元できるという議論である。しかし、ここまで語って来たように、どちらかに優劣があり、どちらかが正当である、というのではないのである。いやむしろこう言っても良いだろう。そもそもこれらは同じものの両面を見ているに過ぎず、本来対立する立場ではない筈なのである。では何故、この立場の対立が起きてしまうのであろうか。それは恐らく、『群体指向』と『集合体指向』のそれぞれが同じ言葉を違う意味で使用しているからなのである。例を出そう。差別の撤廃を求める理想は『群体指向』であっても『集合体指向』であっても、恐らく共通している。では差別の撤廃とはどういった状況を指すのかと言えば、端的には『全員が貶められたり賤しめられたりすることなく、ありのままの姿でいることができる理想の状態』と表現して差し支えないだろうか。
さて、ここで、ありのまま、とはどういうことなのかを考える必要がある。『群体指向』とはすなわち『差異』があることを前提として『共通』に価値を見出す指向性である。翻って言えば、群体指向におけるありのままの姿とは、『差異がある状態』を指すのである。また反対に『集合体指向』とはすなわち『共通』であることを前提として『差異』に価値を見出す指向性であるのだから、『集合体指向』におけるありのままの姿とは、『共通している状態』を指すのである。フィクションの一見バカバカしいような例を出して恐縮だが、ラブストーリー、ラブコメディのよくある筋書きでは、富豪の御曹司が庶民の娘と出会い、これまでは富豪の御曹司という役割でしか見られていなかったのに、特別扱いせず他の一般男性と同じように扱われたことで娘に好意を抱き、また反対に庶民の娘は仲間内でこれまでされていたように粗雑には扱わず自分だけを特別扱いしてくれたことで御曹司に好意を抱くようになるというものがある。これこそが『群体指向』と『集合体指向』の典型例と言っても良いかもしれない。すなわち『共通』を前提として『差異』に価値を見出す『集合体指向』の御曹司は、その前提となっていたありのままの自分、『共通した(ありふれた)』自分を認めてくれた相手を伴侶として選び、また、『差異』を前提として『共通』に価値を見出す『群体指向』の娘は、その前提となっていたありのままの自分、『差異のある(特別な)』自分を認めてくれた相手を伴侶として選んだのである。このように、両者の立場において意味する『ありのまま』の姿は完全に相容れず、矛盾してしまうのである。何たる喜劇であろうか。
 次いで、理想の状態とはどういうことなのかを考えてみると、まるで真逆のことが起きる。『群体指向』とは『差異』があることを前提として『共通』に価値を見出す指向性であるのだから、『群体指向』にとって理想の姿というのは均質化された一様の状態を指す。対して『集合体指向』とは『共通』であることを前提として『差異』に価値を見出す指向性であるのだから、『集合体指向』にとっての理想の姿というのはそれぞれの持つ特性、特異性を存分に発揮できる状態を指す。このように両者の立場において意味する『理想の状態』も完全に相容れず、矛盾してしまう。そして、両者の抱く『ありのまま』と『理想の状態』もまた、相容れず矛盾するのである。
 事態を、輪をかけて複雑化させているのが、誤解を恐れずに言えば『群体指向』を持つ者たちである。群体指向の理想は共通であることであり、その観点から言えば、LGBTQQIAAPPO2sといった性的マイノリティを一つ一つ個別化し、別物であるとして扱うこと自体が、理想とは掛け離れた、矛盾した行為であるように見えるが、実はそうではない。何故ならば、共通化させていくためには、まずは前提となる『差異』がなければならないからである。それ故に、『群体指向』を持つ者たちが抱く理想の姿を実現していくためには、集団内に無くすべき差異を無理矢理にでも見出し、作り出していく必要があるのである。しかし『集合体指向』を持つ者たちにはそれが理解できない。何故ならば集合体指向を持つ者たちにしてみれば共通していること自体が前提であるが故に、そういった差異はむしろ価値であり、わざわざ消滅させるためだけにあげつらうには値しないからである。そのため集合体指向を持つ者たちにとってみれば、群体指向を持つ者たちがわざわざ差別を生み出しているようにすら見えてしまうのである。

 群体指向と集合体指向の混在と対立

 以上のように、群体指向と集合体指向とが対立する理由を概観してみたが、この時点でもう一つの疑問が浮かぶ。群体指向と集合体指向とが、同じものを裏と表から見ている以上は相容れないのはやむを得ない。しかし、それでもかつては現在のような対立そのものが生じてはいなかったはずである。それは何故なのか。これまで抑圧されていた意見を表出することができるようになり、対立が生じるようになったのであろうか。無用な対立を煽るような元凶があり、結果対立するようになってしまったのであろうか。あるいは、特にこれといった強制力はなく自然な流れでこの対立が出現してきたのであろうか。
 現時点ではっきりと示すことができるだけの根拠はないが、この変化は社会構造の変化によるものなのではないか、すなわち、3番目の理由で対立は出現してきたのではないか、と推測する。以下に推論を示そう。
 前述したように、現代の社会は集落(共同体)を作り、狩猟採集を行うという原始的な生活からは遠く離れた、全く異なる社会構造である。共同体は解体され、核家族化が進み、不安定な狩猟採集から第三次産業、すなわちサービス業へと職業の主体が変化した。このことこそが、現在の群体指向と集合体指向との摩擦を生むようになったのではないかと考えられるのだ。
 まずはかつての群体指向の観点から論じよう。群体指向とは、繰り返すが『差異』があることを前提として『共通』に価値を見出す指向性であるのだが、それは共同体の中に在っては問題なく機能していた。すなわち同種の集団を形成することで、その指向性は満たされていたのである。しかし残念ながら、前述したようにその共同体(集落)は失われてしまった。するとどうなるか。群体指向は差異を見つけ出し、それを埋めて共通を求める。その対象が、今度はより小さな共同体、すなわち、家庭内へと向けられる。かくして、夫婦という男女間の性差を埋めようという指向性が発生する。これは群体指向と集合体指向の差を埋めようとする動きに他ならず、そしてそれは前述したように同じものの裏表であるのだから、決して埋まることはないのである。しかしそれでも無理にその差を埋めようとしたならば、今度は群体指向を持つ人々の中に集合体指向の要素を取り込む、あるいはその逆、ということになる。
 また次に集合体指向の観点からも論じよう。集合体指向とは、『共通』であることを前提として『差異』に価値を見出す指向性であるのだが、その差異は狩猟採集といった種々の特性がその場その場で適切に活かされるべき場面でこそ機能する。しかし残念ながら、現代における仕事とは概ねサービス業であり、個々の特性よりは一定の品質の担保されたサービスこそが要求され、むしろ出る杭は打たれるようになってしまった。その結果、集合体指向を持つ人々に最終的に要求されることは、群体指向の要素である、ということになる。
 以上のように、現代社会においては、本来はそれぞれが別の場面で適切に発揮されていたはずの群体指向と集合体指向とが、互いに接近し、ぶつかり合い、入り交じり、そしてそれらがそもそも相容れないものであるが故に、摩擦を生み出すようになってしまったと考えられるのである。
 では現代の混迷を極めるジェンダー論界隈において、どのような態度をとることが望ましいのであろうか。群体指向や集合体指向のどちらか一方に偏ってしまっては意味がない。どちらの立場を採るにしても、物事の本質を掴み切れていない感覚や、妙に縛られたような不自由さが拭い切れない。だからと言って、互いに相矛盾する観点を同時並列に存在させることや、絶え間なく行き来することは困難を極める。そうかと言ってこれら裏表にある二つの観点を融合させることができるかと言われればそれも不可能である。では、どうすれば良いのか。ここで導入すべきは、恐らく第三の観点である。
 当初に掲げた@一方に比べて他方は冷遇されている場面が多いため、その格差を是正する必要がある、という論は男根一元論と呼称し、これは第一者性の論建てである。つまり、男根を持つ男性がまずあり、女性はそれを持たない者として定義される(逆に豊かな乳房や、子を抱く子宮を持つ女性がまずあり、それを持たない男性を定義しても良い)。それに対してA女性も男性もそれぞれが得意とするものが先天的に異なるのだから、差別ではなく区別と捉えるべきである、という論は差異論と呼称し、第二者性の論建てである。つまり男性は男根を持ち、女性は乳房や子宮を持つ、という定義である。しかし現代における性別はこのような遺伝子で既定された身体的な枠組みを超え、より大きな、精神性まで含めた概念となっている。いや勿論、その当時も身体的な枠組みだけではなく精神性も評価されていたのではあるが、現代では精神性の占める割合がより大きくなっていることも確かなのである。LGBTQQIAAPPO2sの基盤は身体的な性別ではなく、性自認であるということからもそれは明らかと言える。そして人の精神性はそもそも相矛盾したものの集合体であり、加えて、現代社会においては上述したように社会的な要請もあって、個々人の中に群体指向と集合体指向とが混在しているのがむしろ普通である。となると、男根一元論=第一者性理論=群体指向の立場でも、差異論=第二者性理論=集合体指向の立場でもない、それらを俯瞰する第三者の立場こそが、我々の採るべき態度なのではないだろうか。具体例を挙げると、子宮と乳房を持つ女性にしか妊娠や出産、授乳はできない。これは厳然たる事実であり、この男性との差異を埋めようというのはあまり現実的ではない(第二者性理論=集合体指向性)。しかし乳児の養育において、何も中核を成すのは女性だけである必要はない。母親が育児疲れで眠っている時には父親が母親と同じように乳児に一体化して愛情を注ぎ、冷蔵してある母乳ないしは人工乳を人肌に温めて母親がするように乳児に与えて良いのである(第一者性理論=群体指向)。これらは一人の価値観の中に併存して良いし、矛盾はしない。つまり我々が採るべき態度とは、その場面場面において、自分自身あるいは他者の中に群体指向や集合体指向が存在することを認め、それぞれの場面においてどちらの態度を選択するのがより適切かを俯瞰して考える、という態度なのではないかと考えられるのである。より一般的な表現をすれば、自分自身の中に群体指向的なところと集合体指向的なところとがあり、この部分は群体指向的だが、この部分に関しては集団志向的である、ということが自分で理解でき、また他者のそういうところを理解することができれば、それぞれが持つジェンダー論ないしはジェンダー観が、現在の混迷状態ほど噛み合わないということはなくなるのではないかと推測されるのである。
 さて、ここまでジェンダー論は何故噛み合わないのか、ということについて長々と論考してきたが、今更言うことではないかもしれないが、この論考は引用文献や参考文献を挙げていないように、ただの机上の空論である。従って、この論考すらも、世間一般のジェンダー論とは噛み合わない可能性について言及した上で、筆を置きたい。


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