人は何故枝葉末節に拘るのか

 『発言の真意、本意こそを問題とすべきで、言葉尻や枝葉末節に拘るべきではない』という一見真っ当且つ非の打ち所の無い意見に対して、ここで真っ向から異論を唱えることを試みたい。
 昔の人は言った。『細部にこそ神は宿る』と。
 これは一般的には「目立たない細かい部分までも手を抜かず、妥協せずに完璧に仕上げてこそ、全体の完成度が決まる」といった意味合いとして理解されている。
 あるいは「大きなことというのは小さなことの積み重ねであり、その小さなことを誠実に積み重ねることこそが真に偉大なものに通じるのであって、最初から大きなものに目を向けるのではなく、小さなことの繰り返しに自覚的であれ」という意味合いで用いる人もいるだろう。
 さて、この言葉の出典は(厳密には諸説あるものの)1800年代から1900年代の建築家、あるいは美術評論家の「普通は美術であれ、あるいは音楽や文学であれ、あらゆる芸術で優先されるのはいつでも作品『全体』の価値である。だから、たとえ『神は細部に宿る』ことがあったとしても、その『細部』は最終的には『全体』に統合されなくてはならない」という言葉の一部の引用であるとされるようである。
 つまり『この言葉』の真に意味するところは実は「細部にこだわる事にこそ価値がある」のではなく、その真逆で、「芸術作品において細部の精緻さこそが神の御業『であるとしても』、真に価値があるのはそれが統合された総体・全体である」という主張に他ならないようである。
 となると、「ほら見ろ、やはり細部に拘るのではなく、その本当に表現したいものにこそ目を向けねばならぬのではないか」「昔から一貫してそう言われていたのではないか」「言葉面ではなくその描かれない真意をちゃんと読み解いているではないか」と言いたくもなろう。
 ――ここからが、本題である。
 細部に宿る『神』とは何なのかについて、まず一度考えておこう。
 本当に、芸術作品の極々小さな一部分に『神』が宿っているというのだろうか。
 シャーマンか、寄り坐し的に。
 交神し、降神している、と。
 違うのである。
 神が宿っているのは言うまでもなく『芸術作品の作り手』に、『制作者の腕』に、であり、その神の御業が顕われるのが細部である、とそういう意味なのである。この点は、おそらく誰も異論はあるまい。つまり、細部に宿るのは『神そのもの』と言うよりは、『神の意志や啓示』であると理解するべきであろう。
 では次に、かの言葉において、「たとえ『神は細部に宿る』ことがあったとしても、その『細部』は最終的には『全体』に統合されなくてはならない」と敢えて明言せねばならなかったその理由についても考えてみよう。
 と言ってもこれも明白な話で、すなわち、反対に言えば「『神の宿る細部』は『全体』に統合されず、矛盾や不安定さを孕んで作品は完成することが多々ある」からなのであると自ずと理解されよう。
 今の見解をまとめるとこのようになる。
 すなわち、「『細部に宿った神の意志や啓示(あるいは神の力を借りた作り手の意図や意志)』は『全体』の調和を裏切り、統合を乱すことが往々にして存在する」ということになるのである。
 さて、当初の話に戻ろう。
 本当に『発言の真意、本意こそを問題とすべきで、言葉尻や枝葉末節に拘るべきではない』のだろうか。全体から見て矛盾した、あるいは不調和な表現は、切り捨て、無視し、目を瞑るべきなのだろうか。
 いや、もっと踏み込んで言おう。
 あなたが『発言の真意、本意』だと思っている内容は、『本当に発言者が発しようとしていたこと』なのだろうか。それを誰が保証してくれようか。
 もしかすると、『言葉尻』や『枝葉末節』にこそ、それこそ発言者自身が意識すらしなかった無意識からの『神意/真意』が宿ったものなのかもしれない、とは考えられないだろうか。細部にこそ、神は宿るのだから。
 ここまで来ると、前出の原典の言葉の意味も完全に反転する。
 一般的な見解として言えば、「細部は全体に統合されなくてはならない」との言葉は、「なるほど、細部は全体と矛盾してはならず、細部にまで調和をもたらすよう手を加えて統合しなければならないのだな」と理解したくなる。それは全く以って諒解しやすい話である。
 しかし、実際は正反対の解釈も成り立つのである。
 すなわち「細部は全体に統合されなくてはならない」という言葉の真の意味するところは、とりもなおさず「細部に宿る神意に自覚的になることで、『全体の方こそを』自身の真意と調和をもたらすよう作り上げなければならない」と理解するべきなのかもしれないのである。
 助詞の使い方一つ、語尾の選び方一つで、その人の発言しようとした内容や伝わる意図は大きく変化する。
 インプロビゼーション(即興演劇)というジャンルがある。少し古い映画だが、グッド・ウィル・ハンティングというアカデミー脚本賞を受賞した映画があり、これは実は、インプロビゼーションによって作られた映画なのである。賞をとった脚本は、存在しなかった。インプロビゼーションの中に『間違い』は無いと言う。すべてのその場で生まれてくる表現を肯定し、繋ぎ合わせることで、素晴らしい脚本だと言われたこの作品は生み出されていったのだ。
 細部にこそ神は宿る。
 それは、『表面的には全体を裏切る細部』に目を瞑り、『そこに込められた真意や感情』にこそ目を向けよ、というのではなく、『全体を裏切る細部』にこそ目を配り、『裏切ったからにはそこに裏切ったなりの理由があるに違いない』と目を見開け、ということなのではないだろうか。また発言者自身も『全体を裏切る細部に宿る真意』に自覚的になることで『自己を全体として統合していく』ことに意識を向けることを目指す(あるいは目指さずとも、少なくともそれを知っておく)ことが重要なのではないだろうか。これこそが自己表現、自己実現の第一歩であり、最終到達点であろうと、私は確信する。
 なお、この文章は冒頭に述べたように『発言の真意、本意こそを問題とすべきで、言葉尻や枝葉末節に拘るべきではない』という一見真っ当且つ非の打ち所の無い意見に対して、重箱の隅を突いて反論を試みた、言葉尻や枝葉末節に拘った文章であることは改めて念を押しておくものである。


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