気付き/学びは何故求められるのか

 最近の世の人(あるいはその一部)によって、『気付き』や『学び』といった言葉が好き好んで使われるのを目にする機会が多々ある。「これをよき『学び』の場と致しましょう」とか「素晴らしい『気付き』が得られるとかと思います」とか言うアレである。私は常々あの言葉、あの表現を目にするたび、どうしようもない『気持ち悪さ』を感じてきた。
 今回、思うところあって、その『気付き/学び』について分析し、論説しようと思い立ち、この文をしたためることにした。それと同時に、あの言葉を好んで使う人を揶揄した『意識高い系』という呼称および、昨今の小説、特にライトノベル市場についても合わせて簡単に論述したい。

気持ち悪さ@『動詞の名詞化の弊害<1>』

 『気付き』や『学び』という言葉は、元来『気付く』や『学ぶ』という動詞があって、それを強引に名詞化したものだと考えられる。と言うと、『なにを当たり前のことを』と思われるだろう。しかし、この当たり前のことを真っ先に断ったのには理由がある。というのも、『おそらく、元々の日本語にこういう単語はない』ということを明確にしたかったからである。もちろん俗語として「なにで来たの?」「歩き」のような動詞の名詞化はかなり古くから行われてきたし、「動詞の連用形の名詞化」という一研究分野が国語学には存在する。つまり『気付く/学ぶ』という動詞が『気付き/学び』と名詞化することに不思議はないとも言える。とは言っても、名詞化した動詞の連用形についての研究の中で言えば、『一般に名詞化しやすい動詞としにくい動詞があり、名詞化しているのは約 40パーセントほどである』とされており、『気付き』や『学び』はおそらく最近になって市民権を得た(人口に膾炙するようになったのはここ数年)連用形名詞に分類できるものと思われるのだ。
 では、動詞が名詞化するとはどういうことなのだろうか。
 動詞とはその名の通り、『動き』を表す『詞(ことば)』である。「走る」と表現しただけで、何者かあるいは何物かが目の前をかなりの勢いで駆け抜けるイメージが湧くことだと思う。人によっては熱く弾む呼吸や、立ち上る砂埃、巻き起こる風などまでありありと想像できるかもしれない。しかし、これを「走り」と表現してしまうとどうだろうか。とたんにその勢いは削がれ、躍動する動画は一枚の静画へと切り取られてしまう。「彼は良い『走り』をしているね」と言った場合、それは目の前を走り過ぎた『彼』のフォームという一画面を切り取るか、あるいは過ぎ去った彼の背中を見送って、彼が走った全景を一風景として捉え、いずれにせよ静物として評している形になってしまうことだろう。
 『走り』ならばそれでも良いのである。
 『走る』という行為を『走り』と切り取ることは、走った人物における、走った後にある目的や走る意図などとは無関係に、その『走る』という行為それ自体を評する対象とするということになる。これは、『走る』こと自体を目的とする事象(徒競走やマラソンなど)が存在するのであるから、その条件下においてはなんら問題のないことなのである。翻って言えば、例えば走った後のことに主眼を置く、走る目的こそを語りたい、『走れメロス』において、メロスの『走り』が素晴らしい等と評することは、通常はないものと思われるし、あったところで的外れな、不適当なことであると言って良いだろう。
 これが、『気付き』や『学び』になると何が変わってくるのか。
 『気付き/学び』の元となる単語『気付く/学ぶ』ついて言えば、それ自体を目的とした行為というものは存在しないのである。『気付く/学ぶ』ことは、『気付いて/学んで』その先に何をなすかこそが重要なのであり、『気付く/学ぶ』ことを静画として切り取ることは、それ自体不条理なことなのである。
 これが、動詞を無作為に名詞化してしまうことの第一の弊害であると言える。

気持ち悪さA『動詞の名詞化の弊害<2>』

 行為を静画として切り取ったことで生じる問題についてより深く思考を進めよう。
 動詞が名詞化されると『行為』から『動き』が削ぎ取られてしまい、動作そのものが一つの静物として評価の対象になってしまうということは先述した。それは、『素晴らしき気付き』や『良き学び』といった表現が多用されることより容易く了解されるだろう。
 これはすなわち、『気付く/学ぶ』ことそれ自体が評価の対象となり、その先になにをなすかが評価されないということを意味する。つまりここでは、かつて存在した『気付く/学ぶ』ことの意義(その先に何をするのか)が消失してしまっているのだ。本来は『気付く/学ぶ』ことが手段で、その先にあるものこそを『結果』として評価の対象に据えていたはずなのに、である。こうなってしまうと最早、『気付く/学ぶ』という手段の目的化がここで起きてしまっていると表現するしかなくなる。
 それの意味するところは大きい。『気付く/学ぶ』ことをこそ目的としてしまえば、その先にあるはずの『己のなす行動』その『達成目標』、言い換えれば『その後に重ね続けなければならない努力』に対する責任を放棄できるのである。逆に言えば、継続的に努力することを求められない分、会やセミナーに参加するためのハードルが大いに下がるのである。これを良いことと解するべきか、悪いことと解するべきかは意見が分かれるだろう。しかしいずれにせよ、継続的努力に思慮が向きにくくなるのは、事実である。
 これが第一の弊害に付随して発生する第二の弊害である。

気持ち悪さB『動詞の名詞化の弊害<3>』

 動詞の名詞化について、<1>では『気付く/学ぶ』という動詞を名詞化することの意義を、<2>では名詞化してしまったが故にその後に生じる影響を検討した。<3>では、名詞化したことによって今度は時系列的に『それ以前』に波及する影響について考えてみたい。
 名詞化することにより『行為』から『動き』が削ぎ取られてしまう、ということは、とりもなおさず行為の目的や意義が削ぎ取られてしまうということと同義であるとは前述した通りである(走れメロスの例)。では、行為の目的や意義、言い換えるならば動機が削ぎ取られてしまうとどのようなことになるのだろう。
 『気付く/学ぶ』ということは、何か必要を感じて行う、言い換えれば、その先の目標や目的を見据えて行う、主体的かつ能動的な行為である。従って、その動機を削ぎ取ってしまうこと、それは行為者の主体性・能動性の喪失に他ならない。いや、さらに拡大して言えば、『気付く/学ぶ』場を提供する、『気付かせる/学ばせる』側の主体性をも、この動詞の名詞化は剥奪してしまうのだ。
 これは『気付く/学ぶ』という行為そのものを殺すことに他ならない。
 これが第三の弊害である。

気持ち悪さC『名詞化された動詞の孕む問題<1>』

 ここまでは『動詞を名詞化すること』で生じる気持ち悪さについて語ってきた。
 ここからは、『名詞化されてしまった動詞』が持つ問題点について検討したい。
 行為から動きを削ぎ落とした静画を評価の対象と据えてしまうということ、すなわちこの場合は『気付く/学ぶ』ことを評価の対象と据えることは、『気付く/学ぶ』という行為そのものを俯瞰しているということになる。これは実に由々しき問題を孕んでいる。
 『気付く/学ぶ』という行為は主体的かつ能動的になされる行為であるとは前述した。しかし俯瞰の位置に立ってしまうと、その主体となるべき自分自身が、その『気付く/学ぶ』という行為から乖離し、評価者として存在することになってしまうのである。『気付く/学ぶ』という行為に主体的に向き合い、耽溺し、全身全霊を注ぐのではなく、それを高みから批評し、良い悪いを論じるという姿勢は、その実、一切『気付いて/学んで』いないのである。

気持ち悪さD『名詞化された動詞の孕む問題<2>』

 また、動詞が名詞化されてしまうと、それは物の名前であるのだから、『存在する』ことが前提となる。「彼は良い『走り』をしているね」という前出の文例を取り上げてみよう。これはもちろん、目の前で彼が『実際に走った』が故に、『走り』という表現が可能になったものであり、その『走り』は存在する。しかし、よく考えてみれば分かることなのだが、どのような素晴らしい勉強会やセミナーがあったところで、そこに参加していたところで、始めから最後まで眠りこけていたのでは『気付く/学ぶ』ことはできない。これまでに語った通り『気付く/学ぶ』というのは主体的・能動的な行為だからである。
 しかしこれを『気付き/学び』と名詞化してしまうと、あたかもそういう物がそこに存在するかのような錯覚を生じせしめるのである。つまり、参加者は自ら主体的・能動的に『気付く/学ぶ』行為を行わずとも、そこに在る(と思い込んだ)『気付き/学び』が得られると考えて会やセミナーに参加するのである。いや、『気付き/学び』という『物』をセミナー主催者が『与えてくれるもの』と考え、『気付く/学ぶ』という行為に本来必要な主体性・能動性どころか、真逆の消極性・受動性のみをもってその場に参加することすら、ありえるのである。
 そして、この錯覚は主催者側も同じなのである。自身で勝手に名付けただけの『気付き/学び』がそこに存在するものと自己暗示をかけてしまい、『気付かせる/学ばせる』努力をしないことにも疑問を抱かなくなってしまうのである。また、もし仮に参加者が『気付き/学び』を得られなかったとしても、それは提供者側の努力不足ではなく、参加者側の問題だと言い張ることができてしまう。何故なら、提供する努力をせずとも、あるはずなのだから。『気付き/学び』は。
 そしてそこに『気付き/学び』があるのならば、参加者は手に入れることができるはずなのである。
 お互いに暗黙の了解となってしまっている『それ』が、実際には存在しなかったとしても。

気持ち悪さE『物を得たという錯覚』

 努力もせずに、存在しない『気付き/学び』の場に足を運び、そしてそこに耽溺することもなく俯瞰して評価し、『得たつもり』になること、それ自体がその後に大きな問題を引き起こす。
 本来、『気付く/学ぶ』という行為は努力と主体性が求められる行為であり、それをやりおおせたならば自身は成長しているはずであり、そして、次に何かの変革を起こしうるはずなのである。もちろん、変革を起こすにはいまだ継続的な努力が必要ではあるが、それは、おそらく間違いないと言って良いだろう。
 対して、『気付き/学び』の場に『居ただけ』の人間にそのようなことはもちろん不可能である。しかし、自身は『気付き/学び』を得たと錯覚しており、その先にも必要な努力に思い至ることもなく自分にはそれ相応のことができる、またできる自分を周囲は評価すべきと考えるようになる。ここに大きな乖離、大きな齟齬が生じるのである。
 結果、過大なる自己評価と、それに見合わぬ自身の実力と周囲の評価の狭間で苦しむはめになるのである。もしここで『気付いた/学んだ』と思っていたのは勘違いであったと『気付ければ』まだよい。しかしそれは望むべくもないことなのである。何故なら当人にとっては『気付き/学び』を得た、すなわち『気付いた/学んだ』ことは事実なのだから。錯覚なのだが。
 これこそが、『意識高い系』と評される所以であると考えられる。
 本当に意識の高い人物ならば、努力と主体性により『気付く/学ぶ』行為を積み上げているはずである。それを怠り、『気付いた/学んだ』つもりになっているだけの聴衆、『気付かせる/学ばせる』場を提供したつもりになっているだけの主催者であるから、意識高い『系』なのである。残念ながら『系』=『それに類するもの』であるだけで、本当に意識が高いわけでは、ない。
 しかし、『気付き/学び』という言葉を使う人は後を絶たない。何故ならばここまで述べてきた通り、この言葉を使いさえすれば、実際は『気付く/学ぶ』ために必要な、また『その先になす』ために必要なものを丸ごと無視して、容易に『成長した』『何かを得た』という錯覚が得られるからである。そしてその快感を再び得たいがために、同様の名称の会、セミナーを繰り返すのである。

 以上六点から『気付き/学び』の気持ち悪さについて考察した。
 最後に、冒頭でも少しだけ触れた現在の人気の小説について少々触れておきたい。
 角川文庫やカドカワノベルスを擁する角川社長の川上氏によると、現在、よく売れているライトノベルの設定は概して以下の法則の通りなのだそうである。
・努力しない主人公
・都合の良いヒロイン
・勝手に身についている能力
 ここには、これまで述べてきた『気付き/学び』と同じ構造があることに『お気付き』だろうか。分かりやすく少々書き換えてみよう。
・努力しない聴衆
・都合の良いセミナー(主人公に対して何か、例えば愛情を与えてくれるという意味でヒロインに似る)
・勝手に身についている『気付き/学び』
 昨今のライトノベルでは何故上記のような設定が好まれるのだろうか。川上氏は続けて分析する。主人公が努力をしては、読者が気後れして自分を投影できなくなる・感情移入できなくなるから、努力をさせない。そして、主人公に都合の良い物語を求める指向が今の読者層にはあるため、ヒロインは向こうからやって来るし、超能力などの能力はいつの間にか勝手に身についている、のだそうである。努力をしない、したくない自分に、都合よく機会が与えられ、そして都合よく最良の結果が身につくことを夢想するという観点に立てば、現代日本人が共通して抱える病巣の一端が垣間見えては来ないだろうか。そしてそのような人々を慰撫するためのものとして、ライトノベルが、意識高い系セミナーが今、存在しているのではないだろうか。私にはそう思えてならない。

 私はなにも、『気付き/学び』という表現をする人々を一概に否定するものではない。私が穿った考え方をしているだけなのかもしれないし、そういった表現をする人のほとんどは根底にある意識は動詞のままに、純粋に名詞化して使用しているだけなのかもしれない。しかし、『気付き/学び』という表現の裏にあるこういった気持ち悪さ、意識のズレを認識することは決して悪いことではないと思う。『気付き/学び』という言葉を用いる人は、一度立ち止まって、何故その表現を使うのか、使わなければならないのかを考え直してみても良いのではないだろうか。
 なお、ひねくれ者の私が、『気付き/学び』という表現をする人が増えてきたこと自体に迎合したくなくて、気持ち悪いと言っているだけの可能性には気付きたくないという思いも大いにあることを最後に申し添えて、この文の締め括りとしたい。


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